新潟県知事選において、原発再稼働慎重派の米山隆一氏が当選した。
反原発を掲げる社民・自由・共産(と民進)の野党共闘によって、自公の推す候補が敗れた。明確に反原発の民意が示された形である。
そこで今回は、当ブログ再開第一弾の原発関連記事を書く。
今回のテーマは、原発の「非民主性」だ。
原発に関する意思決定には、とかく非民主的なうさんくさいものがある。この点について、いくつかの事例を紹介しよう。
■民意無視
たとえば、今回の新潟県知事選で注目された柏崎刈羽原発である。
この原発では、プルサーマルの是非をめぐって立地自治体である刈羽村での住民投票があったのだが、そこにいたる過程において、原発の非民主性がフルに発揮された。
住民が署名を集めて請求したのを議会が否決したり、村長が事実上の拒否権を行使するなどして、住民投票が実施されるまでにはかなりの年数を要した。さらに、住民投票で反対多数という結果が出てからも、村は東電とともにそれを骨抜きにしようとさまざまな工作を行っていたといわれる。結局、プルサーマルの受け入れが取り消されたのは、東電の不祥事隠しが発覚してからのことだった。
このように原発においては非民主的なプロセスが日常茶飯事になっている。まるで、原発に関しては民意など一切無視してかまわないというような態度がまかりとおっているのだ。
今年は鹿児島でも原発に厳しい姿勢を打ち出した三反園訓氏が知事に当選しているわけだが、このように、現地の民意では反対が示されているにもかかわらず、電力会社側がそれを無視して原発を稼働し続けているというのが実態なのである。
おそらく、原発推進派は、民意など聞く必要はないというだろう。
原発ムラの住民はきっとこういう。「民衆は愚かだから、まともな判断はできない。あいつらは科学的な知識ももたずにただ情緒的に反原発といってるだけさ。だから、そんな愚かな民衆に代わって俺たちが正しい判断をしてやるんだ」と。
しかし、そんな彼らの判断の末にあったのが福島の事故であり、その後始末に莫大な費用がかかっているという現実がいま目の前にあることを忘れてはならない。
福島第一原発の事故は、発生から五年以上が経ついまも収束のめどがたたず、頼みの凍土壁も空振りに終わり、日ごとに膨大な量の汚染水が溜まり続けている。メルトダウンを起こした原子炉に関しては、いまだ核燃料がどういう状態になっているのかさえわかっておらず、当然それを取り出す手立てもまったく見えていない。
また、賠償や廃炉の費用は最終的に10兆円を超える可能性が高く、東電だけではそれをまかないきれないために、その費用を新電力にも負担させようという意見が最近出てきている。そのぶんのコストを新電力に負担させれば、結局それは電気料金に転嫁され、国民負担となるだろう。さんざん原発は安全で低コストだと宣伝しておきながら、大事故を起こしたすえにその後始末の費用を原発を使わないことを選んだ人たちにまで負担させようというのだから、開いた口がふさがらない。
■隠蔽体質
非民主性ということでいうと、原発業界の隠蔽体質も問題である。
これに関しての実例はもう枚挙にいとまがないわけだが、やはり刈羽原発の例でいうと、たとえば断層の問題がある。
刈羽原発の沖合いにある断層について、東京電力が2007年に「20キロの活断層の可能性がある」という見方を発表したのだが、じつは東電は2003年にすでにこのことを把握していたという。しかしそれを公表せず、表向きには「活断層ではない」といい続けていたのである。そして、そのことを公表したのと同じ日に、東電は新潟県に30億円を寄付すると発表しているのだが、この二つの発表が同じ日に重なった点について東電は「偶然」としている。
また、同じ2007年には、新潟で中越沖地震というのがあった。この地震によって刈羽原発では放射能漏れ事故が起きたのだが、このとき放射能の測定値が実際よりも低かったことがあきらかにされている。この点について、東電は「間違って低く測定してしまった」といっている。さらには、この件についてIAEAが調査を打診したのを、日本政府は拒否している(その後、当時の泉田知事が要請して調査は行われた。ちなみに、IAEAの調査を日本政府が拒否したそのときの首相は安倍晋三現総理だった)。
刈羽原発以外の例もみれば、原発やその関連施設に隠蔽体質が染み付いていることはいっそうはっきりする。
もんじゅでナトリウム漏れ事故が起きたときには大した事故ではないかのようにみせかけようと偽造写真が公表されたし、北陸電力は志賀原発で起きた臨界事故を8年にわたって隠蔽していた。また、東海村で火災事故が起きたときには、嘘の通報をして、現場に駆けつけた消防士を被曝させたりもしている。
■司法をも蹂躙
そして、原発の非民主性は、立法、行政だけでなく司法にまで及びかねない。
今年の7月、関西電力の前会長で関西経済連合会の会長である森詳介氏が、原発の運転差し止めを求める仮処分の申し立てを起こさせないようにする法改正を政府に求めていくという考えを示した。
電力会社にしてみれば、稼働差し止めの訴訟を起こされてそのたびに原子炉停止に追い込まれたのではたまらない。そこで、司法も原発には手出しできないようにしようというのである。これが実現する見通しは低い(と思いたい)が、こんなことを堂々と主張するということがそもそもおかしい。彼らはまるで、自分達が司法も立法も行政も超越した絶対権力であるかのように振舞おうとしている。これは、そうでもしないと原発は推進できないということであり、逆にいえば、原発そのものが根本から民主主義と相容れないということなのだ。
■学問の自由までも侵害
さらには、原発の非民主性は学問の領域にまで及ぶ。
福島第一原発の事故が起きたときに、SPEEDIによる放射性物質の拡散予測がすぐに公表されなかったという問題があった。これも、情報をすぐに公開しない隠蔽体質の一環ととれるが、これにからんで日本気象学会が会員の研究者らに研究成果の自粛をもとめたというのも問題になった。
あの事故が起きたとき、多くの研究者らが、放射性物質がどのように大気中に拡散するかを独自に研究していた。それにたいして、気象学会はそのような研究の結果の公表を自粛するよう会員らに求めたのである。そういうデータが公表されると国民の間に動揺が広がるなど影響が大きいから……ということなのだろうが、これには学問の自由を侵害するものと批判が相次いぎ、「みずから情報統制するのは学会の自殺行為」という声もあったという。
ふつうに考えれば、研究の成果を公表しないように学会が研究者にもとめることなど考えられない。ところが、原発に関してはそういうことがおきてしまうのである。
このように、原発というのはそれ自体が民主主義と根本的に相容れない。
多数決を無視し、司法を踏みにじり、学問の自由を封殺しなければ成立しないのが原子力発電なのだ。逆にいえば、原子力発電を続けていくということは、そのような非民主的な社会システムを温存していくということになる。真に民主的な社会であるためには、原発と訣別しなければならないのだ。
反原発を掲げる社民・自由・共産(と民進)の野党共闘によって、自公の推す候補が敗れた。明確に反原発の民意が示された形である。
そこで今回は、当ブログ再開第一弾の原発関連記事を書く。
今回のテーマは、原発の「非民主性」だ。
原発に関する意思決定には、とかく非民主的なうさんくさいものがある。この点について、いくつかの事例を紹介しよう。
■民意無視
たとえば、今回の新潟県知事選で注目された柏崎刈羽原発である。
この原発では、プルサーマルの是非をめぐって立地自治体である刈羽村での住民投票があったのだが、そこにいたる過程において、原発の非民主性がフルに発揮された。
住民が署名を集めて請求したのを議会が否決したり、村長が事実上の拒否権を行使するなどして、住民投票が実施されるまでにはかなりの年数を要した。さらに、住民投票で反対多数という結果が出てからも、村は東電とともにそれを骨抜きにしようとさまざまな工作を行っていたといわれる。結局、プルサーマルの受け入れが取り消されたのは、東電の不祥事隠しが発覚してからのことだった。
このように原発においては非民主的なプロセスが日常茶飯事になっている。まるで、原発に関しては民意など一切無視してかまわないというような態度がまかりとおっているのだ。
今年は鹿児島でも原発に厳しい姿勢を打ち出した三反園訓氏が知事に当選しているわけだが、このように、現地の民意では反対が示されているにもかかわらず、電力会社側がそれを無視して原発を稼働し続けているというのが実態なのである。
おそらく、原発推進派は、民意など聞く必要はないというだろう。
原発ムラの住民はきっとこういう。「民衆は愚かだから、まともな判断はできない。あいつらは科学的な知識ももたずにただ情緒的に反原発といってるだけさ。だから、そんな愚かな民衆に代わって俺たちが正しい判断をしてやるんだ」と。
しかし、そんな彼らの判断の末にあったのが福島の事故であり、その後始末に莫大な費用がかかっているという現実がいま目の前にあることを忘れてはならない。
福島第一原発の事故は、発生から五年以上が経ついまも収束のめどがたたず、頼みの凍土壁も空振りに終わり、日ごとに膨大な量の汚染水が溜まり続けている。メルトダウンを起こした原子炉に関しては、いまだ核燃料がどういう状態になっているのかさえわかっておらず、当然それを取り出す手立てもまったく見えていない。
また、賠償や廃炉の費用は最終的に10兆円を超える可能性が高く、東電だけではそれをまかないきれないために、その費用を新電力にも負担させようという意見が最近出てきている。そのぶんのコストを新電力に負担させれば、結局それは電気料金に転嫁され、国民負担となるだろう。さんざん原発は安全で低コストだと宣伝しておきながら、大事故を起こしたすえにその後始末の費用を原発を使わないことを選んだ人たちにまで負担させようというのだから、開いた口がふさがらない。
■隠蔽体質
非民主性ということでいうと、原発業界の隠蔽体質も問題である。
これに関しての実例はもう枚挙にいとまがないわけだが、やはり刈羽原発の例でいうと、たとえば断層の問題がある。
刈羽原発の沖合いにある断層について、東京電力が2007年に「20キロの活断層の可能性がある」という見方を発表したのだが、じつは東電は2003年にすでにこのことを把握していたという。しかしそれを公表せず、表向きには「活断層ではない」といい続けていたのである。そして、そのことを公表したのと同じ日に、東電は新潟県に30億円を寄付すると発表しているのだが、この二つの発表が同じ日に重なった点について東電は「偶然」としている。
また、同じ2007年には、新潟で中越沖地震というのがあった。この地震によって刈羽原発では放射能漏れ事故が起きたのだが、このとき放射能の測定値が実際よりも低かったことがあきらかにされている。この点について、東電は「間違って低く測定してしまった」といっている。さらには、この件についてIAEAが調査を打診したのを、日本政府は拒否している(その後、当時の泉田知事が要請して調査は行われた。ちなみに、IAEAの調査を日本政府が拒否したそのときの首相は安倍晋三現総理だった)。
刈羽原発以外の例もみれば、原発やその関連施設に隠蔽体質が染み付いていることはいっそうはっきりする。
もんじゅでナトリウム漏れ事故が起きたときには大した事故ではないかのようにみせかけようと偽造写真が公表されたし、北陸電力は志賀原発で起きた臨界事故を8年にわたって隠蔽していた。また、東海村で火災事故が起きたときには、嘘の通報をして、現場に駆けつけた消防士を被曝させたりもしている。
■司法をも蹂躙
そして、原発の非民主性は、立法、行政だけでなく司法にまで及びかねない。
今年の7月、関西電力の前会長で関西経済連合会の会長である森詳介氏が、原発の運転差し止めを求める仮処分の申し立てを起こさせないようにする法改正を政府に求めていくという考えを示した。
電力会社にしてみれば、稼働差し止めの訴訟を起こされてそのたびに原子炉停止に追い込まれたのではたまらない。そこで、司法も原発には手出しできないようにしようというのである。これが実現する見通しは低い(と思いたい)が、こんなことを堂々と主張するということがそもそもおかしい。彼らはまるで、自分達が司法も立法も行政も超越した絶対権力であるかのように振舞おうとしている。これは、そうでもしないと原発は推進できないということであり、逆にいえば、原発そのものが根本から民主主義と相容れないということなのだ。
■学問の自由までも侵害
さらには、原発の非民主性は学問の領域にまで及ぶ。
福島第一原発の事故が起きたときに、SPEEDIによる放射性物質の拡散予測がすぐに公表されなかったという問題があった。これも、情報をすぐに公開しない隠蔽体質の一環ととれるが、これにからんで日本気象学会が会員の研究者らに研究成果の自粛をもとめたというのも問題になった。
あの事故が起きたとき、多くの研究者らが、放射性物質がどのように大気中に拡散するかを独自に研究していた。それにたいして、気象学会はそのような研究の結果の公表を自粛するよう会員らに求めたのである。そういうデータが公表されると国民の間に動揺が広がるなど影響が大きいから……ということなのだろうが、これには学問の自由を侵害するものと批判が相次いぎ、「みずから情報統制するのは学会の自殺行為」という声もあったという。
ふつうに考えれば、研究の成果を公表しないように学会が研究者にもとめることなど考えられない。ところが、原発に関してはそういうことがおきてしまうのである。
このように、原発というのはそれ自体が民主主義と根本的に相容れない。
多数決を無視し、司法を踏みにじり、学問の自由を封殺しなければ成立しないのが原子力発電なのだ。逆にいえば、原子力発電を続けていくということは、そのような非民主的な社会システムを温存していくということになる。真に民主的な社会であるためには、原発と訣別しなければならないのだ。