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原発は民主主義と相いれない―—新潟県知事選によせて

2016-10-19 19:49:41 | エネルギー問題
 新潟県知事選において、原発再稼働慎重派の米山隆一氏が当選した。
 反原発を掲げる社民・自由・共産(と民進)の野党共闘によって、自公の推す候補が敗れた。明確に反原発の民意が示された形である。
 そこで今回は、当ブログ再開第一弾の原発関連記事を書く。

 今回のテーマは、原発の「非民主性」だ。

 原発に関する意思決定には、とかく非民主的なうさんくさいものがある。この点について、いくつかの事例を紹介しよう。

■民意無視
 たとえば、今回の新潟県知事選で注目された柏崎刈羽原発である。
 この原発では、プルサーマルの是非をめぐって立地自治体である刈羽村での住民投票があったのだが、そこにいたる過程において、原発の非民主性がフルに発揮された。
 住民が署名を集めて請求したのを議会が否決したり、村長が事実上の拒否権を行使するなどして、住民投票が実施されるまでにはかなりの年数を要した。さらに、住民投票で反対多数という結果が出てからも、村は東電とともにそれを骨抜きにしようとさまざまな工作を行っていたといわれる。結局、プルサーマルの受け入れが取り消されたのは、東電の不祥事隠しが発覚してからのことだった。
 このように原発においては非民主的なプロセスが日常茶飯事になっている。まるで、原発に関しては民意など一切無視してかまわないというような態度がまかりとおっているのだ。
 今年は鹿児島でも原発に厳しい姿勢を打ち出した三反園訓氏が知事に当選しているわけだが、このように、現地の民意では反対が示されているにもかかわらず、電力会社側がそれを無視して原発を稼働し続けているというのが実態なのである。

 おそらく、原発推進派は、民意など聞く必要はないというだろう。
 原発ムラの住民はきっとこういう。「民衆は愚かだから、まともな判断はできない。あいつらは科学的な知識ももたずにただ情緒的に反原発といってるだけさ。だから、そんな愚かな民衆に代わって俺たちが正しい判断をしてやるんだ」と。
 しかし、そんな彼らの判断の末にあったのが福島の事故であり、その後始末に莫大な費用がかかっているという現実がいま目の前にあることを忘れてはならない。
 福島第一原発の事故は、発生から五年以上が経ついまも収束のめどがたたず、頼みの凍土壁も空振りに終わり、日ごとに膨大な量の汚染水が溜まり続けている。メルトダウンを起こした原子炉に関しては、いまだ核燃料がどういう状態になっているのかさえわかっておらず、当然それを取り出す手立てもまったく見えていない。
 また、賠償や廃炉の費用は最終的に10兆円を超える可能性が高く、東電だけではそれをまかないきれないために、その費用を新電力にも負担させようという意見が最近出てきている。そのぶんのコストを新電力に負担させれば、結局それは電気料金に転嫁され、国民負担となるだろう。さんざん原発は安全で低コストだと宣伝しておきながら、大事故を起こしたすえにその後始末の費用を原発を使わないことを選んだ人たちにまで負担させようというのだから、開いた口がふさがらない。

■隠蔽体質
 非民主性ということでいうと、原発業界の隠蔽体質も問題である。
 これに関しての実例はもう枚挙にいとまがないわけだが、やはり刈羽原発の例でいうと、たとえば断層の問題がある。
 刈羽原発の沖合いにある断層について、東京電力が2007年に「20キロの活断層の可能性がある」という見方を発表したのだが、じつは東電は2003年にすでにこのことを把握していたという。しかしそれを公表せず、表向きには「活断層ではない」といい続けていたのである。そして、そのことを公表したのと同じ日に、東電は新潟県に30億円を寄付すると発表しているのだが、この二つの発表が同じ日に重なった点について東電は「偶然」としている。
 また、同じ2007年には、新潟で中越沖地震というのがあった。この地震によって刈羽原発では放射能漏れ事故が起きたのだが、このとき放射能の測定値が実際よりも低かったことがあきらかにされている。この点について、東電は「間違って低く測定してしまった」といっている。さらには、この件についてIAEAが調査を打診したのを、日本政府は拒否している(その後、当時の泉田知事が要請して調査は行われた。ちなみに、IAEAの調査を日本政府が拒否したそのときの首相は安倍晋三現総理だった)。
 刈羽原発以外の例もみれば、原発やその関連施設に隠蔽体質が染み付いていることはいっそうはっきりする。
 もんじゅでナトリウム漏れ事故が起きたときには大した事故ではないかのようにみせかけようと偽造写真が公表されたし、北陸電力は志賀原発で起きた臨界事故を8年にわたって隠蔽していた。また、東海村で火災事故が起きたときには、嘘の通報をして、現場に駆けつけた消防士を被曝させたりもしている。


■司法をも蹂躙
 そして、原発の非民主性は、立法、行政だけでなく司法にまで及びかねない。
  今年の7月、関西電力の前会長で関西経済連合会の会長である森詳介氏が、原発の運転差し止めを求める仮処分の申し立てを起こさせないようにする法改正を政府に求めていくという考えを示した。
 電力会社にしてみれば、稼働差し止めの訴訟を起こされてそのたびに原子炉停止に追い込まれたのではたまらない。そこで、司法も原発には手出しできないようにしようというのである。これが実現する見通しは低い(と思いたい)が、こんなことを堂々と主張するということがそもそもおかしい。彼らはまるで、自分達が司法も立法も行政も超越した絶対権力であるかのように振舞おうとしている。これは、そうでもしないと原発は推進できないということであり、逆にいえば、原発そのものが根本から民主主義と相容れないということなのだ。

■学問の自由までも侵害
 さらには、原発の非民主性は学問の領域にまで及ぶ。
 福島第一原発の事故が起きたときに、SPEEDIによる放射性物質の拡散予測がすぐに公表されなかったという問題があった。これも、情報をすぐに公開しない隠蔽体質の一環ととれるが、これにからんで日本気象学会が会員の研究者らに研究成果の自粛をもとめたというのも問題になった。
 あの事故が起きたとき、多くの研究者らが、放射性物質がどのように大気中に拡散するかを独自に研究していた。それにたいして、気象学会はそのような研究の結果の公表を自粛するよう会員らに求めたのである。そういうデータが公表されると国民の間に動揺が広がるなど影響が大きいから……ということなのだろうが、これには学問の自由を侵害するものと批判が相次いぎ、「みずから情報統制するのは学会の自殺行為」という声もあったという。
 ふつうに考えれば、研究の成果を公表しないように学会が研究者にもとめることなど考えられない。ところが、原発に関してはそういうことがおきてしまうのである。 

 このように、原発というのはそれ自体が民主主義と根本的に相容れない。
 多数決を無視し、司法を踏みにじり、学問の自由を封殺しなければ成立しないのが原子力発電なのだ。逆にいえば、原子力発電を続けていくということは、そのような非民主的な社会システムを温存していくということになる。真に民主的な社会であるためには、原発と訣別しなければならないのだ。

原発は本当に経済的?

2016-06-22 19:39:25 | エネルギー問題
 原発のコストは、決して安いとはいえない。一方、自然エネルギーのコストは劇的に下がってきている。


 高浜原発の核燃料が、いったん3,4号機から取り出されるという。
 大津地裁で運転差し止めの判断が出され、関電はその執行停止を求ていたがそれも却下され、しばらくの間は運転できなくなるためである。
 これでもまだ、関電は高浜3,4号機の再稼動をあきらめてはいないようで、再稼動できれば電気料金を上げるというアメとムチのようなことをいっている。

 自民党の議員なんかも、電気代のことを理由にして、原発再稼動を主張している。
 たとえば、山東昭子・元参院副議長。「これから本当に世の中の景気を良くしようとか、中小企業もこれから発展させていくために、電力やエネルギー問題を本格的に議論を、将来的なことも含めてうんぬんしなければならない時に、もちろん訴訟の詳細を熟知しているわけではないけれども、これから夏に向けて、電力料金の値上がりにつながらないだろうかと危惧している」ということである(朝日新聞電子版より)。

 しかしこれも、よく考えてみればおかしな話だ。
 アベノミクスの「期待インフレ率を上げる」という観点からすれば、電気料金が下がるのだって別にいいことではない、というかむしろよくないことという話になるはずで、実際、原油価格の下落なんかもその文脈では物価上昇を妨げる望ましくないことととされている。だったらむしろ、自民党の議員らは電気料金が上がることを歓迎するべきではないか。


 まあ、それはさておくとして、やはり一般的には電気料金は下がったほうがいいということになる。
 では、果たして原発が本当に経済的なのかということが問われなければならない。そこで、久々の原発関連記事として、今回は原子力発電の経済性について書く。

 まず、再処理にかかるコストについて。
 昨年11月に東京で「原発と核」というシンポジウムが開かれた。米国原子力規制委員会の元委員や、ホワイトハウスの元科学技術政策局次長なども参加したというが、このシンポジウムにおいて、再処理は乾式貯蔵の7倍のコストがかかるという試算が出された。ゆえに、再処理よりも乾式貯蔵のほうが安上がりで、核燃料サイクル自体をもう断念すべきだというのである。

 では、その具体的な額は、いったいどれぐらいなのか。
 再処理はフランスに委託されるなどしていて、契約に関わることとして電力会社はその金額を公表していない。しかし、一応の推算は可能である。朝日新聞がそれを試みているのだが(今年2月28日付の記事)、貿易総額などから産出したところによれば、MOX燃料一本あたりの値段は、高浜原発の場合で9億円にもなるという。決して安価といえるものではない。このことを報じる朝日の記事では、立命館大の大島堅一教授(環境経済学)の「安価になるからリサイクルするはずなのに、MOX燃料は逆に高価で、経済的におかしい。国は商業的にも技術的にも破綻(はたん)している政策を続けており、負担は国民に回ってくる」というコメントが紹介されている。

  また、原発が事故を起こした場合の賠償や廃炉などの費用も考えなければならない。そうした費用を考慮して計算すれば、原発のコストは火力などよりも割高になるという見方もある。原発が安価だという話も、かなりあやしいのだ。

 さて、再処理のコストが割高だという話をしてきたが、ではコストの問題で再処理をしないとなると、今度は核燃料が枯渇するかもしれないという問題が出てくる。原発の燃料として使える放射性物質はそんなに大量に存在するわけではなく、今後中国やインドなどが本格的に原発を使い始めれば、枯渇の危機も現実味を帯びてくるし、枯渇とまでいかずとも、燃料価格の高騰は避けられないのではないか。いずれにせよ、経済的コストという点だけ見ても、原発の未来はそう明るくないといわざるをえない。


 その一方で、自然エネルギーのコストはどんどん下がってきている。
 風力や太陽光の発電コストは、火力発電のレベルに近づいてきているし、まだ下げしろはある。国際再生可能エネルギー機関(IRENA)が今月発表した報告によれば、太陽光発電のコストは2010年から2015年までに58%下がり、今後10年でさらに59%下げられるという。風力発電についても、今後10年で陸上風力発電で26%、洋上風力発電で35%のコスト削減ができると見込まれている。風力発電は、発電量においても今後十数年で原発の発電量を超えると予想されていて、確実にエネルギーの転換は進んでいるのだ。
 日本があくまでも原発にこだわり続ければ、新たなエネルギー開発の潮流に乗り遅れてしまうことにもなりかねない。
 高浜原発の話に戻ると、3、4号機は停止し続けているものの、1、2号機については稼動期間を20年間延長するという話になっている。わざわざ進んで時代の流れに取り残されようとしているのである。もういい加減、原発再稼動路線と訣別して再生可能エネルギーのほうに舵を切るべきだろう。

高浜差し止めは当然 ~原子力発電と自然災害のリスクについて

2016-03-11 18:00:36 | エネルギー問題
 大津地裁が、高浜原発3、4号機の稼働を差し止める仮処分を決定した。
 これによって、稼働中の3号機は停止した。

 今回の判決はかなり踏み込んだもので、安全性を証明する責任が電力会社の側にあるとし、新規制基準自体にも疑念を呈した。福井地裁で同様の判断が示されたときには、「もともと反原発派の判事がくだした判断」と批判する声もあがっていたが、ここで大津地裁でも差し止めの仮処分が出されたことは大きい。原発の再稼動差し止めは、一部の判事が出すレアな判断ではないということが示されたわけで、しかも「新規制基準自体が信用ならない」、「電力会社の側に安全を証明する責任」があるという基準が一般的なものとなれば、今後も原発再稼動に関する訴訟で似たような判断が出てくる可能性がある。そういう意味で、今回の大津地裁の判断は、原発再稼働路線自体にもブレーキをかけるものになりうる。
 そこに危機を感じ取ってか、関西電力の側はこの判決に強く反発しているのだが、そもそも彼らは反発などできる立場にないだろう。高浜原発の4号機は、差し止められるまでもなくすでに停止状態にあるわけだが、周知のとおり、これは再稼動直後にトラブルが発生したために停止せざるをえなかったのである。そんな状況で、どの面さげて「承服できない」などといえるのか。

 さて、当ブログで原発ネタを扱うのは3回目になる。
 一回目は原子力発電の安全性、二回目はその安定性について書いた。今回は、原発の自然災害に対する安全性について書きたい。

 最近、かの甘利前経済再生担当相が、テレ東に対して「スラップ訴訟」(政治家や企業が、自分に不都合な報道を封殺する目的でメディアなどを威嚇するために起こす訴訟)を起こしていたという話があって、ここgoo ブログでもそれに関する記事が多数投稿されているが、その訴訟の発端となったのは、原発の津波対策である。
 これは昨夜のNEWS23のスペシャルでも扱っていたし、これまでにも各種報道で出てきている話だが、実際には福島第一原発が大津波に襲われる可能性は、2008年の段階で指摘されていた。しかし、東電側はその対策は必要ないとして津波への備えを怠ってきたのである。
 つまり、福島の事故は「想定できなかった」のではなく、東電や自民党の政治家、経済産業省の役人らが「想定しなかった」のである。理由は単純で、それを想定すれば、原発を稼働し続けられなくなるから。
 ここが、原発のリスク管理における最大の問題だ。稼働することありきで動いていて、その閾値におさまるようにリスクが計算されているのだ。
 本来なら、リスクの計算が先にあって、そのリスクが一定のラインを超えていたら原発を稼働させるべきではない――となるはずなのに、この国の原発行政ではそれが逆になっている。原発は稼働しなければならない。だから、リスクは一定のライン以下でなければならない。もし一定のラインを超えるリスクがありそうだったら、それを隠すか、見なかったことにするか、数値を改竄する。そして、大丈夫であることにする……これが、原発ムラの論理である。
 それが、実際に、各種の改竄や隠蔽となってあらわれるし、またそもそものリスク想定の甘さにもつながってくる。
 先の津波の話もそうだし、ほぼ同じ時期のもうひとつの例として、2006年に制定された耐震指針もあげられるだろう。
 福島県のいわき市に「湯ノ岳断層」という断層があるのだが、2006の新耐震指針にしたがって、東電はこの断層を「地震を起こす可能性がない断層」とし、当時の原子力安全・保安院など規制当局もその判断を追認していた。ところが、東日本大震災から一ヵ月後の余震で、この断層が活動した跡がみつかったのである。この事例においても、結果としては活動する可能性のある活断層が見過ごされていたことになるわけで、国や電力会社の想定の甘さを露呈するものといえる。

 また、断層の問題でいうと、最近石川県の志賀原発でも、原子炉の直下にある断層が活断層である可能性が指摘されている。この「S-1」断層も、その存在が以前から知られていながら北陸電力が「活断層ではない」と言い張ってきたものなのだが、今回その審査にあたった専門家からは「よくこんなものが審査をとおったものだ」と呆れる意見も出たそうだ。
 こうした経緯をみてくれば、原発を推進する側の論理で作られた新規制基準など信用できないのは当然である。


 さて――ここまでは、原発を推進する側がみずからの都合で「想定しない」という問題について書いてきたが、もちろん実際に「想定できない」リスクもある。そして、意図的に「想定しない」リスクにくわえて「想定できない」リスクもあるのだから、さらに原発の安全性は確保しがたいということになる。
 原発のリスクは、「雷が落ちる可能性」とか「地震が起きる可能性」とかいった事故につながりうるケースをリストアップし、それぞれの確率を計算して算出する。しかしこのやり方は、想定しえた事象の確率しかふくんでいないので、あきらかに不完全である。そして、想定し得ない事態は想定し得ないのだから、その確率など計算のしようがない。つまり、原発のリスクは、電力会社が想定している値より大きいことは確実であり、しかもどれだけ大きいかはわからないのだ。
 たとえば、あり得ないような想定の例としてよく持ち出される「隕石の落下」などというものも、それが起きる可能性はたしかにおそろしく低いだろうが、だからといってそのような事象全てを無視してリスクを評価してよいのか。たとえば「10年以内のおきる可能性が1千万分の1」という事象が1万個あれば、10年以内にそのどれかがおきる可能性は1千分の1となり、無視できないものになってくる。もしかしたら、重大事故につながるような自然災害に見舞われる可能性は、電力会社が試算する数字よりずっと大きいかもしれないのである。

 最後に、自然災害などのリスク計算がいかに難しくラフなものでしかないかということを示す数字を紹介しよう。
 それは、炉心損傷が起きるような事故に関する東電の試算である。東電は、そのような重大事故が起きる可能性について、福島第一原発の事故が起きる前には「1千万年に1回」と試算していた。ところが、わずか40年で3基がメルトダウンを起こす。そして事故後の試算では、同じような事故が起きる可能性は1基あたり「5千年に1回」となった……
 この数字一つとっても、こうしたリスク計算がいい加減なものであることがわかるだろう。この試算に関しては、東電の計算がいい加減だとなじるつもりはない。事故前のリスク評価が甘すぎという側面はあるにせよ、どのみち自然災害のような予測困難なリスクについては、この程度の大雑把な計算しか成り立たないのだ。自然の事象に対する原発のリスク管理はそういうあやふやな土台の上に組み立てられているのであり、新たな規制基準が「世界最高」などという言辞をそのまま鵜呑みにすることはとうていできないのである。

希望の風、日の光――自然エネルギーはいま

2016-01-01 16:36:45 | エネルギー問題




 世界の風力発電の発電能力が、原発のそれを上回ったという。
 12月29日付の朝日新聞電子版の記事によれば、世界の風力発電の発電能力は今年4億キロワットを超え、3億8千万キロワットあまりの原発をはじめて抜いた。
 といってももちろん、これはいくつか注釈が必要な数字である。
 一つには、この数値はあくまでも“発電能力”であって“発電量”ではない。風力発電は風が吹いていなければ発電できないので稼働率が低く、数字上の発電能力のうち実際の発電量は30%ぐらいだという。一方原発の場合は稼働率が80%ほどで、そのため発電量ではまだ原発のほうが上だ。だが、この記事によると、風力発電は飛躍的に増加しており、2030年には20億キロワットを見込んでいるといい、発電量でみても、やがて原発を抜く可能性がある。また、技術革新と大規模化によって、コストも火力発電と同じくらいのレベルにまで下がってきている。

 一方、太陽光発電のほうはどうか。
 自然エネルギーといえば風力がメインで太陽光はあくまでもサブと考えられているが、その太陽光も、九州ではかなり広がっているようだ。土地の価格が安いということと、日照時間が長いという地の利がそれを後押ししている。
 太陽光もまた太陽が出ていなければ十分に発電できないという弱点があるわけだが、しかし夏場のピークには大きな戦力となっている。じつは、夏場の電力消費量と太陽光発電の量は、うまい具合に自動調整のようなかたちになっているのである。
 夏に電力消費が大きくなるのはエアコンを使うからだが、もちろんそれは、暑いからだ。そして、暑いときにはたいてい太陽がギンギンに照っている。ゆえに、太陽光発電の発電量も増える。つまり、夏の電力消費が多いときには、太陽光発電の量も必然的に多くなるのである。
 結果、今年の夏でいうと、九州電力管内では夏場のピーク時(8月6日の昼)においてじつに発電量の25%が太陽光によるものだったという。全国で見ても、同じ日に太陽光が全体の電力の一割ほどを占めたそうで、この発電量は、原発十数基ぶんに相当するということだ。太陽光発電は、09年からの五年あまりで10倍近くに増加していて、これだけ戦力になるところまできているのである。

 それでももちろん天候に左右されるということからくる非効率性は残るわけだが、しかし、では原発が本当に効率的なのかというと、そういえない部分もあるのではないかと私は思っている。

 原発というのは、火力とちがって細かい調整がきかないらしい。
「いまは電力使用量が少ないからちょっと出力を下げよう」とか「使用量が増えてきたから出力を上げよう」といったようなこまめの調整ができないのだという。たとえば、実際の使用量が3000メガワットであるにもかかわらず、8000メガワットの出力を続けなければならないとしたら、それは無駄な燃料を消費しているといえる。そのように考えれば、原発というのはじつは無駄の多い発電方法なのではないだろうか。
 そのような無駄があるとしても、燃料となる放射性物質が無尽蔵に存在するのならそれでいいかもしれない。だが、実際にはそうではない。核燃料として使える放射性物質の埋蔵量はそんなに多くはない(ものの本によれば、世界のすべての電力を原子力でまかなうとしたら7年ぐらいで枯渇してしまうそうだ)し、核燃料サイクルも先が見えない状況だ。そういったことを考えれば、原発も決して“効率的”とはいえないのではないだろうか。太陽光や風力は、「発電能力を常にフルに発揮できない」という意味で非効率的だが、原発は逆に、「必要でないときにもフルに発電して無駄に燃料を消費する」という非効率があるのだ。

 そして、そうだとすれば、先の見えない原発よりも、事実上無限といってもいい風力や太陽光のほうが将来のエネルギーとしてよほど“現実的”である。
 土地の制約を問題にする人もいるようだが、しかし、太陽光や風力は洋上にフロートを浮かべるといったかたちでも可能である。陸地だけでなく洋上も使えるということを計算に入れれば、潜在的な発電能力は相当に大きいといえる。さらに、太陽光に関しては、宇宙空間に太陽光パネルを設置して発電するという技術も研究されている。これなら、天候や昼夜に関係なくいつでも発電できることになる。実現はまだ遠そうだが、しかしマイクロ波による送電についてはすでに実験に成功しているようである。
 冒頭に紹介した朝日の記事によると、日本の風力発電の増加はほかの国に比べて桁違いに少ない。これは、政府があくまでも原発にこだわっているためだろう。行き詰まりを見せている原発にこだわらずに、風力、太陽光といった再生可能エネルギーを増やしていくことこそ日本の生きる道だと思うが、どうだろうか。

川内原発再稼働――亡国の総理、再三の暴挙

2015-08-12 20:58:05 | エネルギー問題
 昨日、鹿児島県の川内原発が再稼働した。
 またしても、圧倒的大多数の反対意見を無視した強行である。与党側は、事業者の判断を強調しているが、安倍政権が積極的に原発再稼働を推進してきたのは周知の事実であり、この再稼動もまた、安倍政権の民意無視の一つとして記憶されるべきものだろう。
 このブログでは最近ほとんど安保関連法案のみをとりあげてきたが、この機会に原発問題についても書いておきたい。いいたいことは山ほどあるが、とりあえず、特に重要だと思える2、3の点について述べる。
 私は、原発の安全は保障できないと考えている。もとよりゼロリスクがありえないのは当たり前で、規制委の田中委員長なども「絶対安全とはいえない」といっているわけだが、私は原発の安全はそういう以前のレベルで見るべきだと思う。

 原発推進派は、「ゼロリスクを求めるのは非現実的だ」という。リスクはあるが、それはごくわずかなものであり、原発を稼働させるメリットのほうが大きいと主張する。
 それについては、まず「避難の過程で死者が出たり、生活難に陥って自殺する人が出たり、故郷に帰れない多数の避難者を出しても、賠償にかかる費用のほうが安いからかまわない」といえるのか、というサンデル教授的な問いを発したくもなるが、しかし、私がここで問いたいのは、本当に原発が事故を起こすリスクは“ごくわずか”なのかということである。私には、そうは思えない。というのも、これまでの原発、あるいはその関連施設でおきた事故を見ていると、原子力関連施設で事故が起きるリスクは、計算上もとめられる数値よりもかなり高いようにみえるのだ。つまり、事故が発生する危険は、原発推進派が主張するほど低くはないのではないか――という疑念がぬぐえないのである。

 原発には、安全を確保するためのいくつもの措置が施されている。それはそのとおりだろう。それらがすべて決められたとおりに機能していれば、事故が発生するリスクは無視できる程度に小さくなるかもしれない。だが、それはあくまでも、「すべて決められたとおりに機能していれば」の話である。安全のために設置された機器が正常に機能していなかったり、作業員がマニュアルで定められた手順を守らなかったりしたら、リスクは上昇することになる。原発にたずさわっている事業者は、そういったところをきちんと守っているのだろうか? 今後も守っていくのだろうか? それははなはだ疑問である。機器の点検がおろそかになったり、マニュアルを無視したりといったことが積み重なれば、計算上のリスクが100万分の1だったとしても、実際のリスクは1000分の1ぐらいになっているかもしれない。

 実際に起きた事故として、1999年に東海村で発生した臨界事故を考えてみよう。この事故は原発ではなく燃料の加工工場で起きたものだが、死者も出した臨界事故という重大事象であるし、原発を運用する以上、加工工場も不可欠の施設であるから、広い意味で“原子力発電”の問題ととらえていいだろう。
 東海村の事故では、件の加工工場に“裏マニュアル”が存在したことが知られている。現場の作業員が、定められた手順をそのとおりに守っていなかったのである。なぜそのようなことになったかというところに、原子力産業が抱える構造的な問題がある。それはすなわち、「安全のために必要なコストをかけると、おそろしく非効率的になってしまう」ということである。
 ここでいうコストとは、必ずしもカネのことではない。
 東海村の工場には燃料加工のための機械があったわけだが、それで一度に大量の燃料を処理しようとすると、臨界事故を起こす危険がある。そのため、絶対に臨界を起こさないためには機械に投入する量を少なくする必要がある。規定に従えば、一回の操業で6リットルぐらいしか燃料を製造できないのだという。工場の巨大な機械群を一回動かして、わずか数リットル――非常に非効率的である。このような、ばかばかしいとも思えるような非効率が随所にみられ、現場の作業員が勝手に自分たちの判断で作業工程を変更したりした。ここで、まず安全の措置がスルーされた。それでも、高度な知識や技術を持った人たちがその作業にあたっているうちは、まだそれほど問題ではなかった。おかしな言い方だが、専門的な知識を持っている技術者は、「どこまでルールを破っても大丈夫か」がある程度わかっていたのである。彼らは、「本当に踏み越えたらまずい一線」をわかっていて、そのぎりぎりのところで作業をしていた。
 しかし、その後状況が変わる。リストラが行われ、それほど専門的な技術を持たない人たちが燃料処理に携わるようになる。彼らは、どこまでが大丈夫でどこからが本当に危険なのかがまったくわかっていなかった。そして、現場には効率を優先してマニュアルを無視する慣行が残されていた――こうして、事故は起こるべくして起きたのである。

 “事故”というのは、いくつもの不運な偶然が重なっておきるものだろう。
 それを防ぐために、フェールセーフという考え方がある。5つの安全弁をつけておけば、そのうちの2つ3つが機能しなくなっても、安全は保たれる。そんなふうに、“冗長性”――つまり、余裕を持たせておくことで、いくつかの不運な偶然が重なっても大丈夫なようにするわけだ。ところが、原発業界では、この“冗長性”をムダなものとして無視する姿勢が横行しているようにみえる。報道されているだけでも、機器の点検を何十年もしていなかったとかいう話は、枚挙にいとまがない。報道されていないところでは、もっとそういう例があると考えるのは自然なことだろう。これは、先ほどのたとえでいうと「安全弁が5つもあると作業に支障が出るから、2つ外してしまおう」といっているようなものだ。そうなると、「不運な偶然」が2つ3つ重なっただけで危険な状態に陥ることになる。日本の原発業界はそういう状況になっているように私には見える。
 そもそも、リスクというのは目に見えない。だから、一つの工程を無視しても、それでどれだけ危険が増したかは誰にもわからない。そうして、気づかないうちに、リスクが高まっている――そういう愚を日本の原子力ムラは犯しているのではないか。
 東電は、福島の事故が起きる前には「炉心が損傷するような事故が起きる可能性は1千万年に1回」と試算していたそうだが、実際には運転開始からわずか40年で3基がメルトダウンを起こした。この一事からも、彼らのリスク計算がいかに甘く、あてにならないかがわかる。リスクとそれを低減するためのコストのバランスという根本的な問題を解決しないままの原発再稼働は、安倍政権がいかに国民の安全など考えていないかということの証明である。