真夜中の2分前

時事評論ブログ
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小林節氏、きたる!

2016-04-29 20:42:51 | 日本を守るためのアクション 2016


 本日4月29日、福岡県の宗像というところで、小林節氏の講演会があった。
 その模様を、今回は報告する。



 会場となったのは宗像ユリックス。宗像は“都会”とはいいがたいところで、会場もあまり交通の便のよいところではなかったが、立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。



 小林節氏といえば、昨年の参考人として呼ばれた国会で安保法を「違憲」と断じたことで一躍名を知られるようになった憲法学者であるが、全国各地を行脚しており、その一環として福岡にもやってきたのだった。

 小林氏は、もともと改憲派であり、本人も語るとおり、“自民党サイド”にいた憲法学者である。
 そういったこともあって、改憲派論壇の内情にも結構くわしい。そういった立場から語られる安倍政権批判には強い説得力がある。そういったこともあってか、最近では地上波のテレビ番組には呼ばれなくなり、あるテレビ局の幹部が漏らしたところでは、「使ってはいけない言論人」リストの2番目に名前が載っているということである。

 安保法制への批判は、たとえばその根拠のいい加減さというところに向けられる。
 安倍総理は、はじめは「アメリカの艦船に載って朝鮮半島から逃れてくる日本人母子」というような例を挙げ、またあるときは、ホルムズ海峡の機雷掃海という例を挙げた。いずれも、実際にはありえないということが指摘されたわけだが(米軍の行動計画に「朝鮮半島から艦船で日本人を救出する」などというシナリオはないし、ホルムズ海峡のもっとも狭い部分には公海がないため、他国の領域に入らずに機雷掃海はできない。それに、そのルートが使えなくとも日本に原油を輸送する代替ルートはある……など。前者については、昨年の国会審議の過程で、政府側も結局「日本人が乗っているかどうかは関係ない」と答弁している)、そうすると政権側は別の理由を持ち出してきた。はじめは「考えていない」といっていた南シナ海での行動などを言い始めた。これがおかしいわけである。根拠となる事柄が否定されたのなら、法案を取り下げればいいだけの話だ。ところが、そこに別の理由を持ち出してきて「だから安保法制が必要なんだ」とあくまでも言い張る。この一事だけとっても、あきらかにおかしい。
 結局こうした疑問に安倍政権がまともに答えることはなかった。問題点は解決されておらず、「時間がたったからいいなどとはいわせない」と小林氏はいう。

 また、小林氏の批判は、安保法制にとどまらず、表現の自由への抑圧、アベノミクスなどにも及ぶ。
 国家の仕事は国民の幸福を追求する権利を保障することであり、そのためには、自由、経済的豊かさ、平和が保障されなければならないが、安倍政権は、言論への抑圧、アベノミクスという経済的失政、安保法制によって、その三つすべてを国民から奪っている――と、鋭く批判する。

 そんな小林氏が訴えるのは、国民が「主権者としての自覚」をもつこと。
 大日本帝国憲法にせよ、現行の日本国憲法にせよ、日本ではこれまで「上から与えられる」という形でしか憲法がもたらされなかった。そのことが、立憲主義の危機に対するどこか「他人事」のような姿勢につながっている、と小林氏は指摘する。そうではなくて、安倍政権という最悪の政権を「選挙で落とす」という方法で引きずりおろすことによって、みずから勝ちとる――そのことで、「自分たちで勝ちとった立憲主義」という自覚をもつことができる。そのための野党共闘なのである。これを、小林氏は「心の独立戦争」と呼ぶ。もちろん、戦争といっても銃など持つ必要はない。「紙切れ一枚、投票箱に入れるだけでいい」のである。その「独立戦争」に「ぜひ勝ってください」という言葉で、講演はしめくくられた。
 最後に、小林氏が講演のなかでその一部を引用していたアメリカ独立宣言の冒頭部分を引用しよう。

 われわれは、以下の事柄を自明の真理とみなす。
 人はみな平等に作られており、みな、侵されることのない権利を付与されている。その権利は、生存、自由、幸福を追求することが含まれる。これらの権利を保障するために、国民の合意によって権力をもつ政府が組織される。いかなる政府であれ、それらの権利を破壊するようなときには、その政府を変え、あるいは廃止し、そうした原則に基盤をおき、そうした方式でその権力を組織し、安全と幸福にもっとも資する政府を組織するのは、人民の権利である。

衆院補選北海道5区 圧倒的に与党側が有利な条件化での接戦で、野党共闘の威力を見せつける

2016-04-25 23:19:49 | 日本を守るためのアクション 2016
 4月24日、京都3区、北海道5区の二つの衆院補選があった。
 参院選の前哨戦とも目され野党統一候補にとっては初陣となったこの補選で、野党側は京都では勝利したものの、北海道では残念ながら与党側候補の勝利を許してしまった。
 しかし、これは決して悲観するべきことではない。
 結果として敗れはしたものの、かなりの僅差である。そもそも、ここは町村氏という自民党でも超がつく大物議員が地盤にしていたところで、しかも町村氏の弔い合戦という、自民党側にとって圧倒的に有利な状況があった。そういうところでこれだけの接線にもちこめたということが重要だ。これだけ自民党に有利な条件があるなかで野党候補が勝利したということは、その他の選挙区でも勝てる可能性はかなり高い。北海道5区も、野党共闘が相当な威力を発揮しふつうの選挙区であれば野党側が圧勝していたところを、与党側に有利な条件がいくつもあったためになんとか僅差で逃げ切れたというのが実態ではないだろうか。京都のほうでは勝利しているということもあって、私は昨日の補選の結果にむしろかなり勇気付けられている。

 また、報道機関の出口調査では、無党派層の7割近くが野党候補に投票したという心強いデータもある。各種メディアの世論調査などをみていると、自民党以外の党に対する支持率は軒並み低調だが、こうした世論調査などでは「支持政党なし」と答える人たちが、選挙になるとかなりの率で野党統一候補の側に投票するという可能性が示されたのだ。世論調査の数字をもとにして、参院選の際に野党統一候補が民進、共産、社民、生活の各党の支持プラス無党派層の7割を獲得するとしたら、これは相当な破壊力をもちうる。

 先日岡山でも野党統一候補擁立がかたまり、現時点ですでに参院の全選挙区の半数以上で野党共闘が成立しているという。この動きを進めていけば、参院選はかなり勝負になるだろう。今回北海道5区では惜しくも敗れることになったが、池田氏を支援していた方々は、気を落とすことなく、また参院選にむけて邁進していただきたい。これだけ善戦したのだから、参院選ではきっと勝てますよ。

オスプレイは本当に震災支援に必要なのか?

2016-04-24 21:07:12 | 政治
 熊本地震での災害対応で、米軍のオスプレイが動員された。
 周知のとおり、オスプレイは、事故が相次いで報告されたことから安全性に強い懸念がもたれていた。それがいま、救援物資などの輸送にあたっているわけだが、これは震災の政治利用ではないかという批判が出ている。
 たとえば、4月18日付朝日新聞電子版の記事によれば、自衛隊にも約60人乗りの大型輸送ヘリCH47が約70機あり、約30人乗りのオスプレイが本当に必要なのかという疑問が示されている。そもそもオスプレイの利点は、「航続距離が長い」とか「ふつうのヘリよりもスピードが速い」というようなことだと思うが、日本国内の拠点から被災地に救援物資を運ぶときにそうした点がどれほど重要なのか。むしろ、積載量がそれほどではないというデメリットのほうが大きいのではないか。しかも、そのために沖縄からわざわざ岩国基地を経由して熊本にやってきて、熊本県内を往復するだけなのである。
 にもかかわらずオスプレイが登場したということで、なにか別の意図があるのではないかという疑念がもたれることになるわけである。その疑惑を裏書するように、先の朝日新聞の記事では、「オスプレイの支援は必ずしも必要ではないが、政治的な効果が期待できるからだ」という防衛省関係者の発言も紹介されている。

 その「政治的な効果」とは、いうまでもなく「オスプレイ慣らし」である。
 救助にきてくれるというのを相手に批判がましいことはいえない。そこにつけこんで、オスプレイが「災害救助にあたった」という既成事実を作ろうというわけである。それによって、今後オスプレイ配備に対して反対しにくい空気を作る――災害という弱みにつけこむ卑劣なやり方だ。

 この一件に、私は東日本大震災のときの出来事を思い出した。
 その少し前にアメリカ国務省で日本部長を務めていたケビン・メアという人がいて、この人が沖縄県民は「ごまかし、ゆすりの名人」、「怠惰でゴーヤも育てられない」などと沖縄を侮辱するような発言をしたことが問題になって更迭された。その直後に、東日本大震災が発生する。そして、アメリカはその震災対応にあたるタスクフォースのメンバーにこのメア氏を起用したのである。それを問題視する意見は当然あったものの、あの大震災のときのことだから、救援にくるというアメリカ側にあれこれ文句をつけることもできず、結局その人事となった。
 このケビン・メア氏の件も、災害時という弱みにつけこんで不祥事で更迭された人間の復権をはかったのではないかという疑念がぬぐえない。そして、そのように考えると、今回熊本地震でオスプレイが投入されたのにも同じ構図があると考えられるのではないか。先に紹介した防衛省関係者の証言は、その証拠といえる。そういうことだとしたら、この大震災さえ政治利用しようとする冷酷な所業といわなければならない。

報道の自由度72位の衝撃――「日本の報道の独立は重大な脅威に直面している」

2016-04-21 19:15:22 | 政治・経済
「国境なき記者団」による最新の「報道の自由度ランキング」が公表され、72位という順位に衝撃が広がっている。
 同時に、日本の「表現の自由」について調査していた国連の特別報告者デヴィッド・ケイ氏が日本の状況に深い懸念を表明した。これを報じる朝日新聞の記事によると、ケイ氏は「日本の報道の独立は重大な脅威に直面している」として、ジャーナリストからの聴き取り調査で「政治家からの間接的圧力で仕事を外され、沈黙を強いられた」という訴えがあったことをあかし、特定秘密保護法の危険にも触れた。

 これらは、この一年のことを考えれば、まったく驚くべきことではない。
 自民党がNHKやテレ朝の幹部を呼びつけた件や、「マスコミを懲らしめる」発言で問題になった文化芸術懇話会、そして高市総務大臣の電波停止発言、鋭く政権を批判するキャスターらが一斉に降板……といったことがあった。なるべくしてなった順位、落ちるべくして落ちた72位なのである。

 当ブログではこれまでにも何度かこの「報道の自由度ランキング」を取り上げてきたが、つい5年ほど前には日本は11位だったということももう一度指摘しておきたい。それが、60位以上もダウンしてしまった。民主党政権時代に東日本大震災で原発に関する取材・報道が自由になされない状況があって下がったということもあるにはあるのだが、それにしても、安倍政権のメディアに対する抑圧的な姿勢が報道の自由度を押し下げていることは否定し得ない。
 先のケイ氏の発言にあったように、「間接的圧力」によってジャーナリスト沈黙を強いられたということが現におきているわけである。以前からささやかれていたことが、はっきりしたのだ。
 圧力をかけた側はそのことを認めないが、圧力をかけられた側も、圧力に屈した場合にはそのことを認めない。双方の当事者が「圧力はなかった」と主張するから、これまでは「圧力」は疑惑としてささやかれるだけだった。だが、海外の記者や国連の報告者という立場であれば、日本の権力者による圧力から完全にフリーなので、「圧力があった」と堂々ということができる。それで、今回はっきり圧力の存在が示されたのだ。
 ネット上では、このランキングやケイ氏の発言自体に難癖をつける言説が出ているようだが、こういうことを書いている人たちには、さすがにいい加減にしろといいたい。いったい、どこまで安倍政権を擁護し続けるつもりなのか。ネット工作員ならカネをもらって仕事でやっているのだからしょうがないのかもしれないが、そうでない一般人がそういう書き込みをしているのであれば、あまりに無責任な態度である。
 この国の表現の自由は、いま深刻な危機に瀕している。それを、国際機関がはっきりと認定しているのだ。これだけ警報が鳴り響いているのに、それを無視するのは、愚かである。当ブログで以前一度書いたが、見ないふりをするのはもうやめよう。異常事態であることをしっかりと認識しさえすれば、「選挙で投票に行く」というなんの危険も伴わないまったく合法的な方法で現状を変えることはできるのだ。その受け皿を作るべく、野党共闘も進んでいる。この国の有権者が、有権者として適切な行動をとってくれることを切に望む。

日本民主化運動

2016-04-19 22:58:30 | 日本を守るためのアクション 2016
14日と16日、九州地方は、大きな地震に見舞われた。マグニチュード7.3という阪神淡路大震災級の地震で、その後も余震が続いている。
 佐賀、福岡といった熊本に隣接する各県でも震度5強が観測されている。私の住んでいるところでも、震度4ほどの揺れが観測された。もちろん震源地である熊本に比べれば揺れは大きくないが、それでも、ひっきりなしに襲ってくる余震は、不安をかきたてずにはいなかった。このように余震が続いている状況では、なかなかほかの問題についての記事を書こうという気にもなれずにいたのだが、このあたりはどうにか落ち着いてきたので、このあたりでブログを再開したい。被災地ではまだ厳しい状況が続いているが、政府の震災への対応にもいろいろと疑問符のつくところがあり、そういったところも今後書いていこうと思う。

 さて、今日は19日である。
 当ブログでは、毎月19日には安倍政権への抗議行動について書いているが、今回もその例にならいたい。

 先日報じられたところでは、高校生の団体T-ns Sowl が、毎週金曜日に国会前で抗議行動を行うということである。心強い動きだ。
 このブログでは、熊本、宮崎、長崎、島根・鳥取合区などの野党共闘をとりあげてきたが、それ以外にも、新潟、青森、茨城などで野党統一候補の動きが進んでいるという。こうした動きを市民運動が後押しているというのは周知のとおりだが、とりわけ、SEALsやT-ns Sowl をはじめとする若者を中心とした団体が大きな力になっている。

 この現象は、世界的な潮流の一環としてとらえることができる。

 たとえば、香港では「デモシスト」という運動が最近起きているそうだ。
 これは、2014年に香港行政長官選挙の民主化を訴えて学生たちが起こした「雨傘運動」の流れを汲むもので、実際に政党を立ち上げて政治の世界に入っていこうというものである。
 このデモシストは、台湾で立法院を占拠したひまわり学生運動、アメリカの“オキュパイ・ウォールストリート”ムーヴメントやサンダース旋風、スペインのポデモスといった運動につらなるものがある。
 いずれも、特権階級にある一部の人間だけが一般市民の意見を黙殺して政治を動かすのではなく、一般市民が主体的に政治に関与しようという運動であり、若い人たちがその主体になっているということも共通している。そして、日本で去年勃興した運動も、その延長線上にあると私はみる。
 先進諸国では、経済的な豊かさから一般市民が政治に無関心になり、それが何十年と続くうちに、政治家が国民から遊離したところで「聞く耳もたぬ」という態度で政治をやるようになった。そういう状況に対して、これはおかしい、このままではいけない、という考えが若い世代を中心にして広がってきた。それが、先述した各種の行動になって表れている。これらの運動は、決してラディカルではなく、ゆるやかな社会民主主義を志向している場合が多く、その意味で間口が広く、一般的にも受け入れられやすいものになっているというのが特徴だろう。
 そしてその日本における表出が、去年から今年にかけて次々に誕生した市民団体なのだ。経済的な繁栄を謳歌しているうちに、いつしか民主主義がさび付きかけていた。野党共闘は、それを元に戻そうという民主化運動といえる。そしてそれは、いまの日本はもう「民主化」をしなければならないレベルにまで政治が劣化してしまっているということでもある。

 しかし、そういう危機感が広く共有されているとはいいがたいようだ。
 たとえば世論調査をみると、安保法もいまなお反対が多く、アベノミクスももう「失敗」とする人が圧倒的多数になっている。なのに、なぜだか安倍政権の支持率ということになると支持のほうが多く、参院選の投票先ということになると自民党が圧倒的に多くなっている。
 おかしいでしょう、といいたくなるわけである。
 それが「野党に魅力がない」からだということは百も承知だが、それにしても歯がゆくてしかたない。安倍政権の政策がうまくいっていないと考えるなら、すぱっと安倍政権そのものにノーといったらいいじゃないかと思うわけである。
 たしかに、民進党に魅力はないかもしれないが、このまま安倍政権が続くよりははるかにマシだ。そういう、「どっちがよりマシか」という基準で考えてもらいたいのだ。
「あるのは悪い政府ともっと悪い政府だけだ」とブコウスキーはいったそうだが、これは慧眼である。
 政治に過大な幻想を抱くべきではない。「よい政府」などというものはありえないのであって、われわれは、「悪い政府」と「もっと悪い政府」のどちらかのうちから、いくらかでも悪の度合いが少ない政府を選ぶぐらいのことしかできないのだ。
 そういう比較の観点でいえば、安倍政権というのは最悪のチョイスである。
 もし民進党と共産党の合同がマイナス20であるとしたら、安倍自公政権は日本にとってマイナス100ぐらいの存在なのであり、これをのさばらせておくよりは、マイナス20とか30ぐらいのほうにするべきなのだ。安倍政権に問題があると考えるなら、惰性で自公政権を継続させるよりも、きっぱりノーの意思表示をするべきだ。このことを、何度でも訴えておきたい。