前回の記事ではアベノミクスがうまくいっていないのではないかということを書いたのだが、今回は、また別の観点から書く。もし仮にアベノミクスが成功しているのだとしても、それでも私は安倍政権を支持することはできない。その理由についてである。
本ブログでは、かねてから安倍政権の諸政策が世の中を不自由にしていくのではないかという懸念を表明してきたが、それに対して、たとえ少し世の中が不自由になっても、いまは経済のほうが大事なんじゃないか――といった立場から安倍政権を支持している人がいるとしたら、本当にそれでいいのかとあらためて問いたい。
アベノミクスによって景気はよくなっているが、社会的な自由は損なわれつつある――という前提に立つなら、経済的発展と社会的自由とはどちらが優先されるべきかということが問題になる。
この議論で私が思い出すのは、昨年香港で起きた民主化デモだ。
あのデモの際に、デモ隊が占拠していた繁華街にある商店の店主が、座り込みを続ける学生たちを非難した。通りをバリケードで封鎖されては客が来ず、これでは商売あがったりだというのである。
なるほど、商店主の主張は理解できる。民主化や普通選挙といった抽象的な議論よりも、いまの生活のほうが大事だという考え方はありうるだろう。
だが、外側から客観的に見たときに、そのような姿勢はどう見えるだろうか。いまの中国の社会を考えたときに、あのような強権的・抑圧的な社会を受け入れてでも経済を重視するべきなのだろうか。そう問われれば、おそらく多くの人がノーと答えるだろう。
たしかに、自分の生活を守るために、今の景気は重要だろう。その立場に立てば、学生のデモなど厄介なだけだろう。だが、その商店主は、いずれ後悔することになるかもしれない。あのとき学生達を支援していればよかった……と。だが、おそらくそんなふうに後悔するような事態になったときには、すでに手遅れである。もはや声をあげる手段さえ残されていないだろう。ただ、監視され、統制され、言論は封殺される社会が横たわっているばかりだ。
かのアドルフ・ヒトラーも、就任当初はドイツの経済を発展させた。だが、最終的にはそのヒトラーのもとでドイツは破滅をむかえた。経済が発展すればそれでいいというものではないのだ。ときには、今日明日のパンのことよりも五年後、十年後の社会のことを考えなければならない場合もある。そのような観点で政治を見ていく必要があるのではないだろうか。
追記:社会が息苦しくなっているということを客観的に把握するのは難しい。数値化することはなお困難だ。だが、最近昔のニュースを見返していて、ひとつの気になる数字を発見したので、ここに書いておきたい。
それは、「報道の自由度ランキング」というものだ。これは「国境なき記者団」というNGOが各国のジャーナリズムの置かれている状況を調査し、毎年発表しているランキングである。このランキングにおいて、2011年には日本の順位は11位だったのだが、今年は180カ国中61位だった。4年の間に、50位もランクを下げたことになる。私もすべての順位を把握しているわけではないのだが、61位というのは、少なくとも私の知るかぎりでは最低の順位だ。このランキングの推移は、もしかすると日本の社会が暗闇に覆われつつあることを示しているのかもしれない。
本ブログでは、かねてから安倍政権の諸政策が世の中を不自由にしていくのではないかという懸念を表明してきたが、それに対して、たとえ少し世の中が不自由になっても、いまは経済のほうが大事なんじゃないか――といった立場から安倍政権を支持している人がいるとしたら、本当にそれでいいのかとあらためて問いたい。
アベノミクスによって景気はよくなっているが、社会的な自由は損なわれつつある――という前提に立つなら、経済的発展と社会的自由とはどちらが優先されるべきかということが問題になる。
この議論で私が思い出すのは、昨年香港で起きた民主化デモだ。
あのデモの際に、デモ隊が占拠していた繁華街にある商店の店主が、座り込みを続ける学生たちを非難した。通りをバリケードで封鎖されては客が来ず、これでは商売あがったりだというのである。
なるほど、商店主の主張は理解できる。民主化や普通選挙といった抽象的な議論よりも、いまの生活のほうが大事だという考え方はありうるだろう。
だが、外側から客観的に見たときに、そのような姿勢はどう見えるだろうか。いまの中国の社会を考えたときに、あのような強権的・抑圧的な社会を受け入れてでも経済を重視するべきなのだろうか。そう問われれば、おそらく多くの人がノーと答えるだろう。
たしかに、自分の生活を守るために、今の景気は重要だろう。その立場に立てば、学生のデモなど厄介なだけだろう。だが、その商店主は、いずれ後悔することになるかもしれない。あのとき学生達を支援していればよかった……と。だが、おそらくそんなふうに後悔するような事態になったときには、すでに手遅れである。もはや声をあげる手段さえ残されていないだろう。ただ、監視され、統制され、言論は封殺される社会が横たわっているばかりだ。
かのアドルフ・ヒトラーも、就任当初はドイツの経済を発展させた。だが、最終的にはそのヒトラーのもとでドイツは破滅をむかえた。経済が発展すればそれでいいというものではないのだ。ときには、今日明日のパンのことよりも五年後、十年後の社会のことを考えなければならない場合もある。そのような観点で政治を見ていく必要があるのではないだろうか。
追記:社会が息苦しくなっているということを客観的に把握するのは難しい。数値化することはなお困難だ。だが、最近昔のニュースを見返していて、ひとつの気になる数字を発見したので、ここに書いておきたい。
それは、「報道の自由度ランキング」というものだ。これは「国境なき記者団」というNGOが各国のジャーナリズムの置かれている状況を調査し、毎年発表しているランキングである。このランキングにおいて、2011年には日本の順位は11位だったのだが、今年は180カ国中61位だった。4年の間に、50位もランクを下げたことになる。私もすべての順位を把握しているわけではないのだが、61位というのは、少なくとも私の知るかぎりでは最低の順位だ。このランキングの推移は、もしかすると日本の社会が暗闇に覆われつつあることを示しているのかもしれない。