真夜中の2分前

時事評論ブログ
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香港の商店主

2015-04-26 21:14:42 | 政治・経済
 前回の記事ではアベノミクスがうまくいっていないのではないかということを書いたのだが、今回は、また別の観点から書く。もし仮にアベノミクスが成功しているのだとしても、それでも私は安倍政権を支持することはできない。その理由についてである。
 本ブログでは、かねてから安倍政権の諸政策が世の中を不自由にしていくのではないかという懸念を表明してきたが、それに対して、たとえ少し世の中が不自由になっても、いまは経済のほうが大事なんじゃないか――といった立場から安倍政権を支持している人がいるとしたら、本当にそれでいいのかとあらためて問いたい。
 アベノミクスによって景気はよくなっているが、社会的な自由は損なわれつつある――という前提に立つなら、経済的発展と社会的自由とはどちらが優先されるべきかということが問題になる。
 この議論で私が思い出すのは、昨年香港で起きた民主化デモだ。
 あのデモの際に、デモ隊が占拠していた繁華街にある商店の店主が、座り込みを続ける学生たちを非難した。通りをバリケードで封鎖されては客が来ず、これでは商売あがったりだというのである。
 なるほど、商店主の主張は理解できる。民主化や普通選挙といった抽象的な議論よりも、いまの生活のほうが大事だという考え方はありうるだろう。
 だが、外側から客観的に見たときに、そのような姿勢はどう見えるだろうか。いまの中国の社会を考えたときに、あのような強権的・抑圧的な社会を受け入れてでも経済を重視するべきなのだろうか。そう問われれば、おそらく多くの人がノーと答えるだろう。
 たしかに、自分の生活を守るために、今の景気は重要だろう。その立場に立てば、学生のデモなど厄介なだけだろう。だが、その商店主は、いずれ後悔することになるかもしれない。あのとき学生達を支援していればよかった……と。だが、おそらくそんなふうに後悔するような事態になったときには、すでに手遅れである。もはや声をあげる手段さえ残されていないだろう。ただ、監視され、統制され、言論は封殺される社会が横たわっているばかりだ。
 かのアドルフ・ヒトラーも、就任当初はドイツの経済を発展させた。だが、最終的にはそのヒトラーのもとでドイツは破滅をむかえた。経済が発展すればそれでいいというものではないのだ。ときには、今日明日のパンのことよりも五年後、十年後の社会のことを考えなければならない場合もある。そのような観点で政治を見ていく必要があるのではないだろうか。


追記:社会が息苦しくなっているということを客観的に把握するのは難しい。数値化することはなお困難だ。だが、最近昔のニュースを見返していて、ひとつの気になる数字を発見したので、ここに書いておきたい。
 それは、「報道の自由度ランキング」というものだ。これは「国境なき記者団」というNGOが各国のジャーナリズムの置かれている状況を調査し、毎年発表しているランキングである。このランキングにおいて、2011年には日本の順位は11位だったのだが、今年は180カ国中61位だった。4年の間に、50位もランクを下げたことになる。私もすべての順位を把握しているわけではないのだが、61位というのは、少なくとも私の知るかぎりでは最低の順位だ。このランキングの推移は、もしかすると日本の社会が暗闇に覆われつつあることを示しているのかもしれない。

BPOは一蹴すべし

2015-04-18 20:26:25 | 政治・経済
 最近、政治家とメディアの関係が問題となっている。
 たとえば、昨年の衆院解散の際に安倍首相がTBSの報道番組に出演した際に、街頭インタビューの内容に偏りがあるとして「おかしいじゃないですか」などと発言したことが問題視された。今年になって衆院の予算委でこれについて批判されると、安倍首相は自分には言論の自由があるのだといった。
 私は、この発言に対して強い違和感をぬぐえない。
 先の発言に対して民主党の岡田代表は、憲法は権力を縛るものであり、「憲法の言論の自由があるから縛られない」というのは憲法観が根本から間違っている、と批判している(※)。私も、そのとおりだと思う。
 政治家になれば、言ってはならないこと、やってはならないことがいくつもある。権力というのは大きな虎のようなもので、好き勝手に振舞えば、周りにいる小動物を怯えさせたり、あるいは押しつぶしてしまったりするかもしれない。虎が寝返りを打ってたまたまそこにいたネズミが押しつぶされて死んでしまったとしたら、自分にそんなつもりはなかったといっても通用しない。そんなことにならないように、権力は幾重にも縛りをかけたうえで、さらに権力を持つ者は慎重な言動を要求される。すなわち、公人は、言論の自由も制限されるのが当然なのだ。安倍首相(とその仲間たち)はそこを履き違え、国民には義務を押し付けようとしながら、自分たちは声高に権利を主張している。
 そもそもが逆だと私は考える。一般国民は権利を主張していいし、その権利は極力制限されるべきではないが、政治家は権利を制限されてしかるべきであり、自分たちの権利を主張するべきではない。政治家は義務の存在であり、一般国民は権利の存在なのだ。
 自民党は昨日、テレビ朝日とNHKの幹部を呼び出し、聴取するという暴挙に出た。報道されるところによれば、BPO(放送倫理・番組向上機構)への申し立ても検討しているという。この一連の動きも、私にはたちの悪いジョークとしか思えない。これには、読売新聞も今日の朝刊の社説で疑念を呈しているが、何につけ政権よりの見解を示すことの多い読売新聞の社説でさえそういうことを書かざるを得ないほど、自民党の行動は常軌を逸しているのだ。
 そもそもBPOは、一般人の権利を保障するために作られたものである。テレビによって民間人の人権が侵害されるような場合にその救済をはかるためのものであり、政治家の権利のために存在するものではない。
 政治家がいそいそとBPOに申し立てをする姿は、お前ら何を勘違いしてるんだという話で、醜悪以外の何ものでもない。もし本当に申し立てがなされた場合、BPOは、甘ったれたことをいってんじゃねえと一蹴するべきである。


※3月13日の記者会見での発言。朝日新聞(電子版)より。同じ記事では、民主党側からの批判に対する菅官房長官の反論も報じられている。それによれば、「総理大臣の地位にある者についても表現の自由は保障される。(首相は)裏ではなくその場で放映された映像について、偽らざる強い違和感を吐露した。問題視するのはおかしい」ということである。
 官房長官が総理大臣を擁護するのは当然といえば当然なのかもしれないが、それにしても菅官房長官の木で鼻をくくったような態度はいかがなものか。先日も、辺野古の基地移設について沖縄県側が出した作業停止指示を林農水相が無効としたことについて「公平・中立な立場から審査をした」と評したが、誰がどう考えても出来レースであるこの判断について「公平・中立」といってのける姿勢に、まるで北朝鮮のような気持ち悪さを感じるのは私だけだろうか。

アベノミクスはいま

2015-04-12 20:23:21 | 政治・経済
 安倍政権の発足から二年あまりが経過し、株価は二万円台をうかがうところまできている。この数字に菅官房長官は「よくここまできた」と評価したが、果たして本当にアベノミクスは成功しているといえるのか。それを考えてみたい。
 まず、数値目標を達成できているかということを考えよう。政権発足当初、安倍首相は数値目標として物価上昇率2年で2%という数字を掲げた。その目標は達成できただろうか?
 答はノーである。この目標は達成できていない。これは、すでに確定した事実である。2%どころか、消費税増税による上昇を差し引けば実質ゼロともいわれる。単に達成できなかったというだけでなく、惜しいといえるような数値でさえないのだ。
 そのいっぽうで、実質賃金は22ヶ月にわたって下がり続けている。物価の上昇が抑えられているということは実質賃金という観点からはプラス要素であるはずだが、消費税増税ぶんがあるためにそれも下落しているのだ。すなわち、“異次元の緩和”にはじまる諸政策は、物価上昇という目的を達成できていないうえに、その失敗と引き換えに本来ならえられるはずの恩恵(実質賃金の好転)さえも得られていない。これ以上ないぐらいに見事な失敗に陥っているといえる。
 そしてこの状況で、株価だけが上昇しているわけだが、果たしてこれはよいことなのか。
 私はかねてから、この株価上昇はバブルにすぎないのではないかという疑いをぬぐえずにいるが、最近になってその懸念を深めるような動きも出てきている。カネがだぶついている状況が当然行き着く先として、過大なリスクをとる傾向が広まりつつあるという指摘がなされているのだ。
 そもそも、マネーを大量に市場に供給しても、それを貸し出す優良な相手はかぎられている。カネを貸したら元本利息耳をそろえて返してくれる「よい貸出先」が存在するかどうかは、カネの供給量によって保証されるというわけにはいかないからだ。そして、よい貸出先が存在しないなら、供給されたマネーの行く先は、二つに一つ――金融派生商品などのマネーゲームに投じられるか、「よくない貸出先」に貸すかのどちらかである。後者は、かつての日本のバブル崩壊やアメリカのサブプライムショックにいたる過程で起きたことだ。カネはあまっているが、よい貸出先がない。仕方がないから、融資の審査基準を甘くしてちょっと危ない相手にも貸し出す……金融機関がこういうことをやりはじめたら、それはバブルの一丁目とみていい。一度そのような事態に足を踏み入れると、次第にエスカレートしていき、審査書類の捏造などといった明白な不正行為がおきるようになる。その結果、どう考えても返済能力のない相手に金が貸され、必然的にデフォルトということになる。やがて焦げ付き不良債権化する時限爆弾をあちこちに埋め込んでいるようなものだ。
 金融機関がそのような動きをみせるのは、金融市場でのバブルが実体経済に波及し、実体経済にもバブルを引き起こす前兆のように私には見える。ということは、仮に今後景気が上向くことがあったとしても、それはただの泡――いつ弾けてもおかしくない、時限爆弾つきの好景気ということになる。
 以上のことから導き出される結論は、アベノミクスは当初の目的を達成できておらず、株価上昇も手放しでは喜べない、ということだ。
 かつて民主党政権は、具体的な数値目標を掲げたもののそれをまったく達成できずに、信頼を失って下野したが、安倍自民党政権の側も実態はさほど変わらない。やるといったことができていないのに、特定秘密保護法、集団的自衛権など、おおかたの有権者にとってはどうでもいいことに血道をあげている。その強引、傲慢、拙速、独善という点では、むしろ民主党政権よりもはるかに悪質だろう。民主党政権の失政を許せないという有権者は、同様に自民党政権も許すべきではない。

ふたたび、辺野古移設作業強行について

2015-04-06 20:01:25 | 政治・経済
 菅官房長官が、沖縄県の翁長知事と会談した。
 会談は結局平行線のまま終ったが、菅官房長官は、今後は「粛々と」という言葉は使わないとした。
 辺野古への移設について、安倍政権ははじめ沖縄がなにをいおうといっさい無視し問答無用で押し切ろうとしていた。だが、それはかなわなかった。さすがにこのようなことを続けていれば世間の反発が尋常でないレベルに達してしまうと考え、妥協せざるをえなかったのだ。つまり、安倍政権は沖縄側との我慢比べに負けたといえる。
 これは、ある意味で当然のことである。
 基地問題の解決手段として辺野古移設しか方法がないという彼らの主張を仮に認めるとしても、知事が上京しても会わずに追い返す、沖縄の振興予算を削減するなどという暴挙はとうてい容認されえない。自分に反対するものには露骨な嫌がらせという小学生なみの振る舞いをこれ以上続けていれば、沖縄ばかりでなく世論の反発も大きくなり、政権へのダメージは避けられない。統一地方選への影響なども考慮すれば、ごり押しは続けられなかったということだ。
 今回の一件が示したのは、いかに強権的な政権であっても、猛反発にあえば強硬姿勢を貫けなくなるということだ。たとえいま十分な議席を確保できているとしても、次の選挙でそれを失うリスクが増すために、世論の反発を受けるようなことはできなくなるのである。
 このことを、ブロガーたちは重視するべきであろう。
 たとえば集団的自衛権の問題にしても、反対の声をあげ続けることは決して無駄にはならない。ある程度以上にそれが大きくなれば、彼らは少しずつ妥協せざるをえなくなる。それがわかっているがゆえに、彼らは表面上「聞く耳持たぬ」というふうに強がっているのであり、内心では反発が広がることをおそれているのだ。
 このことを踏まえ、安倍政権の横暴を許せないと思う諸氏は、大いに反対の声をあげ続けていこう。それがやがて奔流となって、この無力感に蝕まれた政治状況に風穴を開けるかもしれない。