真夜中の2分前

時事評論ブログ
「真夜中の5分前」→「3分前」→「2分前」に

Body and Soul ――SPEED今井絵理子氏、自民党から立候補……それだけはやめておけ!

2016-02-10 21:00:56 | 音楽と社会
 SPEEDの今井絵理子氏が、今夏の参院選に自民党から出馬するという。
 シングルマザーとして聴覚障害をもつ息子を育てながら音楽活動を続けていることが、安倍政権の掲げる「一億総活躍社会」にあっているのだそうだ。

 寝言は寝て言え、という話である。
 今井氏には、今からでも遅くないからやめておけといいたい。なぜなら、安倍自民党の目指す国家は、障害をもっている人たちにとって生きづらいものにちがいないからだ。以下、その理由を説明しよう。

 このブログでは以前書いたが、戦争は、もっとも障害者の権利が抑圧される状況である。
 戦時中の社会にいる人々は、障害をもっている人を「国の資源を食いつぶすだけで何も役に立たない」存在とみなすようになるからだ。実際、戦前の日本にはそういう傾向があったと指摘される。
 たとえば、次のような歌がある。

  足萎えの子を持つ母はかなしかり だんじりの音 家にいて聞く

 これは、戦時中の障害者に対する差別を歌ったものである(うろ覚えの記憶に頼って引用しているので、細かいところに違いがあるかもしれないが、ご容赦いただきたい)。
 “足萎え”というのは――いまだと差別的な言葉ということになってしまうかもしれないが――足が不自由な人のことだ。この詠み人の子どもは、足に障害を持っている。本当は祭りが好きなのでだんじりを見に行きたいのだが、表に出ると「ゴク潰し」として白眼視される。だから、家にいてそれを聞いているしかない――という状況だ。このように、軍事を優先する社会は、軍事に貢献することのできない人間を差別するようになるのである。
 そして、おそらくそうした風潮は戦時中にかぎらない。たとえ実際に戦争が起きていなくとも、軍事を重視する国は必然的にそうなる。これは、ナチスドイツが行っていた障害者に対する虐殺を思い起こしてもらえればわかる。自民党が目指すような国家のもとでは、障害者は肩身のせまい思いをさせられるに違いないのだ。

 自民党の目指す国家とは、「国民のために国家がある」のではなく、「国家のために国民がある」という、そういう国家である。
 そして、「国民が国のために奉仕する」という発想に立つ以上、障害者は“国に奉仕することのできない存在”として“ゴク潰し”扱いされることになる。政権にいる人たちがどういいつくろったところで、“世間の目”がそうなるのである。“障害者やその家族は非国民だ”と。
 「障害者家族9条の会」という組織があり、安倍政権に抗議する活動を行っていることからもそれはわかる。彼らは、いまの日本が、ハンディキャップを抱える人間にとってやさしくない社会にむかいつつあることを肌で感じているのだ。
 自民党中心の政権が進んでいけば、そうした傾向がますます強まっていくことは疑いようがない。今井絵理子氏も、それに手を貸すような愚を犯すべきではない。

 それから、さらにつけくわえておくと、芸能人から政治家になると、芸能人時代には問題にされなかったことや、芸能人なら触れずにいてもらえたような過去の言動が掘り返されたりする。某女子ゴルフ選手のパパのように、それでこれまでに築き上げたものをすべて失ってしまうというリスクもある。
 また、SPEEDの面々は沖縄の出身であるわけだが、そうすると、自民党が沖縄に対してやっていることをどう考えるのかという問題も出てくる。そのへんのところをいい加減にしていると、あとあと大変なことにもなりかねない。野党から追及されてしどろもどろになりながらわけのわからないことをいう姿が想像できて、いまから残念である。結局のところ、自民党の参院対策用“客寄せパンダ”として利用されるだけ利用され、選挙が終わったら用済み、一期のみで政界を去り、政治家時代についたぬぐいがたいマイナスイメージをその後ずっと背負い続ける――ということになる可能性が非常に高いと思うのだが。

 ちなみに、記事タイトルにある Body and Soul というのは、今となっては懐かしい、SPEEDのデビュー曲である。障害についての話題なので、“心身”に障害をもつ人たちの権利を本当に保障できるのか――といったようなやや強引なこじつけでひっぱりだしてきた次第である。
 私は彼女らのデビュー当時をリアルタイムでみていた世代だが、たとえば White Love のメロディなど、今でも懐かしく思い出すことができる。スキャンダルやらなにやらで、SPEEDの歌が苦々しく思い出されるような事態は、どうか避けてもらいたいものだ。

うたは自由をめざす

2015-12-09 21:01:37 | 音楽と社会
  ゲットーから うたは自由をめざす
  戦場から うたは自由をめざす
                        ソウル・フラワー・ユニオン‘うたは自由をめざす’


 少し前の話になるが、先月14日、SEALDsが中心となって、新宿で辺野古の基地建設に反対する抗議活動が行われた。そこに、ソウル・フラワー・ユニオンのボーカル中川敬氏も登壇したという。そこで今回は、音楽ネタとして、このソウル・フラワー・ユニオンをとりあげたい。
 ソウル・フラワー・ユニオンといえば、政治的なメッセージを前面に出した歌詞と、沖縄をはじめとした民謡や、レゲエ、ソウルなど世界中のさまざまなビートをごった煮にした音楽で知られる。音楽、歌詞ともに非常にラディカルで、日本のメジャーシーンで活動するアーティストとしてはかなり異色の存在である。
 そんな彼らの歌のなかから、まずは「うたは自由をめざす」。


  ちらばって うたは自由をめざす
  混ざり合って うたは自由をめざす
  傷つけあって うたは自由をめざす
  手をとりあって うたは自由をめざす


 この一曲を聴いてもわかるのは、彼らの「ごった煮的」な音楽を構成している要素というのは、徹底して周辺的な音楽であるということだ。クラシックのような正統の音楽ではなく、かつて漂流民がやっていたような周辺的で大衆的な音楽を彼らは志向している。それはまた、権威的なものに対する反抗ということの音楽的な表現でもあり、それこそロックのルーツにあるものなのだ。
 また、彼らは、このブログで以前紹介したカーティス・メイフィールドの People Get Ready を日本語にしてカバーしたりもしている。
 
  旅立とう 思いのまま
  集まろう あの場所へ
  無意味な日々にさよなら
  誰もが同じ祝福を

  旅立とう 祈りをこめ
  集まろう あの場所へ
  涙は海へとそそぎ
  誰もが同じ星を見る

  ピープル・ゲット・レディ 汽車がくるよ
  手ぶらで乗り込もう
  心とディーゼルのハミング
  無賃乗車の 永遠(とわ)の道


 そして、いま私がもっともオススメしたいのが、「極東戦線異状なし!?」。


  のどかな光 さわやかな風
  ああ 極東戦線異状なしって感じやね
  この惑星じゃ 今も子供らが
  ああ 虫けらみたいにママと叫んで死んでいく

  この戦争をやめさせろ
  その戦争を
  あのブッシュ、シャロンみたいな類のごろつきは
  世界のあまたの歌が首根っこをおさえるぜ
  
  あの嘘と欺瞞とカネにまみれた連中は
  世界のあまたの歌が首根っこをおさえるぜ


 
 一応説明しておくと、ブッシュというのはアメリカのジョージ・ブッシュ前大統領で、シャロンというのはその当時イスラエルの首相だったアリエル・シャロンのことである。イラク戦争の張本人であるブッシュ大統領と、インティファーダを引き起こしたシャロン首相を、こうして批判しているわけである。
 これらの歌からは、彼らソウル・フラワー・ユニオンの音楽に対する信念が伝わってくる。
 彼らは、音楽の力を信じている。それが、自由を目指すものであり、世界を闇に引きずり込もうとする力に抗うものだと考えているのだろう。だから、いまの日本の絶望的な状況にこそ、彼らの歌が深くこころに響いてくる。

My Personal Revenge

2015-12-04 16:22:46 | 音楽と社会
 前回ニカラグアの内戦について書いた。
 今回は、そのスピンオフ的な内容として、ジャクソン・ブラウンの My Personal Revenge という歌を紹介したい。
 ジャクソン・ブラウンといえば、アメリカのウェストコーストを代表するアーティストの一人で、社会的なメッセージを強く打ち出した歌詞で知られる。私がとりわけ強くリスペクトするミュージシャンの一人でもあるが、そんな彼が89年に発表したアルバム World in Motion にこの曲は収録されている。
 ジャクソン・ブラウンの歌――といったのだが、じつは厳密にはそうではない。この歌は、もともとはニカラグアのアーティストによるもので、それを英語に訳して歌っているのだ。残念ながら私はいまだその原曲に触れることができずにいるのでジャクソン・ブラウンの歌として紹介しているのだが、まさに前回の記事で書いたような状況にあるニカラグアで書かれた歌だということを頭に入れたうえで、その言葉に触れてほしい。


  私の個人的な復讐は おはようということ
  飢えも貧しさもない通りで
  あなたを牢獄に追いやるのではなく
  あなたを盲目にする悲しみを振り払うように語りかけるときに
  そして拷問に手を貸したあなたが顔をあげることができずにいるときに

  私の個人的な復讐は あなたに手を差し出すこと
  あなたに傷つけられながら
  それでもやさしさを奪い去ることのできなかった手を


 暴力に対して暴力で応えるのではなく、赦しで応じる――それこそが、“個人的な復讐”だというのだ。それはもちろん、特定の“敵”に対する復讐ではなく、暴力そのものへの復讐である。

 これは、先のパリ同時多発テロでアントワーヌ・レリス氏がフェイスブックでテロリストたちにむけて発した「君たちに憎しみはあげない」というメッセージに通じるところがあるかもしれない。
 ご存知の方も多いと思うが、あのテロで妻の命を奪われたレリス氏は、「君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ」といっている。
 そんなレリス氏について日本の朝日新聞が記事を書いているのだが、そのインタビューのなかで彼はこういっている。「テロリストは、私たちの自由を煩わしく思い、恐れ、攻撃する。その自由とは、考える自由であり、楽しむ自由、愛しあう自由、テラスのあるバーに行く自由、単純に人生を楽しむ自由です。それなら、私たちはこうした自由をもっと満喫することで応じようと考えるのです。」そして、イスラム教徒からも多くの共感のメッセージが寄せられたことを紹介し、イスラム教とテロリズムとの間に直接の関係がないことを強調したうえで、テロリストが宗教を利用して憎悪を煽り立てていることについて、「そんな盲目的な憎しみに、私たちは盲目的な愛で答えましょう」という。

 あるいは、マララ・ユスフザイの国連での演説も思い出される。
 女子教育の重要性を訴えるマララは、それを否定するタリバンの兵士に銃撃されて瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に回復を遂げる。その後、彼女の誕生日である7月12日が“マララ・デー”と呼ばれることになり、2013年のその日に国連で演説を行った。あの「一人の子どもが、一人の教師が、一本のペンが、一冊の本が、世界を変えることができるのです」というフレーズで有名になったスピーチだが、そのなかで彼女はこういっている。


 《私は、誰とも対立しません。個人的な復讐について語るためにここにいるのでもありません。タリバンや、ほかのいかなるテロリストに対しても。私は、すべての子どもの教育を受ける権利について語るためにここにいるのです。私は、すべての過激主義者、とりわけタリバンの子供たちにこそ、教育を受けてもらいたいと思います。
 私は、私を撃ったタリバン兵を憎んでさえいません。いまもし私の手に銃があって、目の前に彼が立っているとしても、私は彼を撃ちません。それが、私が慈悲の預言者ムハンマドや、イエス・キリストやブッダから学んだ慈しみの心です。それが、私がキング牧師やネルソン・マンデラやジンナーから受け継いだ変化の遺産です。それが、私がガンジーやバシャ・カーンやマザー・テレサから学んだ非暴力の哲学です。それが、私が父と母から学んだ赦しです。それが、私の心が私に告げる言葉です。平和を愛し、すべての人を愛しなさいと》


 このスピーチのなかでも「個人的復讐」という言葉が出てくるが、やはり、そこで語られるのは“赦し”である。
 このような文章を読んで、“お花畑”だと批判する人もいるだろう。だが、凄惨な暴力のなかにあっても、このように復讐ではなく赦しを語る言葉が語られてきたし、それが多くの人の胸を打ってきたというのもまた事実だ。そして、暴力による復讐がなんの解決にもならず、むしろ事態を悪化させてきたということも歴史的な事実だろう。
 以前このブログで9.11のことを書いたときにもマララの言葉を引用したが、じつはあの「私たちは暗闇のなかでこそ光の重要さを知り、沈黙のなかでこそ声の重要さを知る」というフレーズもこのスピーチの一部で、先に引用した部分の直後に出てくる。そして、あの記事で書いたとおり、暴力に対して暴力で応酬することは、際限のない憎悪の連鎖をもたらし続けているというのが現実だ。
 いま欧州では、ロシア、フランスに次いでイギリスやドイツも武力行使に踏み切ろうとしており、中東から北アフリカにかけての広い地域でIS系の組織によるテロが発生している。このような状況だからこそ、報復ではなく赦しを語る言葉が私には輝いて聞こえる。お花畑のほうが、砂漠よりずっといいではないか。
 さて、マララのスピーチでガンジーの名前が出てきたので、最後に、そのガンジーの言葉を引用してこの記事をしめくくろう。

  An eye for an eye will make us all blind.
       ――「目には目を」は、すべての人を盲目にする。

Carry It On

2015-11-11 18:36:36 | 音楽と社会
 当ブログは、日ごろは政治系のジャンルを中心に投稿しているのだが、ときどき音楽ネタも扱っている。
 それならいっそということで、今回は、音楽ジャンルに投稿してみることにした。なるべく多くの人に現在の政治状況に関する議論にくわわってもらいたいという思いからだ。なにかのきっかけでこの記事を見てくださった方が、政治について考えるよすがとなればさいわいである。

 さて、今回は Joan Baez の Carry It On という歌について書きたい。

 この曲は、ドキュメンタリー映画のテーマ曲として知られる。
 舞台は、公民権運動も盛んな1960年代のアメリカ。フォークシンガーであるジョーン・バエズの夫デヴィッド・ハリスは、徴兵を拒否したことで、連邦警察に逮捕され、有罪判決を受けて収監されてしまう。その解放のために、ジョーン・バエズは敢然と立ち上がる。その活動を描いた映画“心の旅”のテーマ曲である(ちなみに、この映画の原題はそのまま“Carry It On”)。
 オリジナルはカントリーふうのアレンジで、それはそれでよいのだが、私のおすすめは68年ニューポートフェスティバルのようなギター一本の弾き語り。そのサウンドには、神々しささえ漂っている。
 歌詞はこんな感じ。


  私のそばを 歩く人がいる
  私のうちで 語る声がある
  私のうちで 語りかける声がある
  歩き続けて
  歩き続けて

  彼らは空疎な物語を語るだろう
  猟犬をけしかけ
  私たちを牢獄におしこめるだろう
  だけど
  歩き続けて
  歩き続けて

  もうこれ以上歩けないというときは
  兄弟たちの手をとって
  ひとつの勝利は
  新たな勝利を生み出す
  歩き続けて
  歩き続けて


 この歌は、あたかも、沖縄で反基地闘争を続けている人たちにむけて歌われているように私には感じられる。
 “抑止力”という空疎な物語を語り、機動隊を送り込み、反対運動の参加者を逮捕するなど弾圧を繰り返すこの国の政府――ベトナム戦争当時のアメリカとなんら変わらない強権的な政府に、多くの人たちが抵抗している。Carry It On は、半世紀の時を超えて、まさにそんな人たちへのエールのように響いてくるのだ。

パンティー泥棒の唄

2015-11-04 21:30:23 | 音楽と社会
  パンティー泥棒 自転車で走る
  3時間経ったら元に戻す
  パンティー泥棒 自転車で走る
                        ――モーモールルギャバン,‘パンティー泥棒の唄’


 前回に引き続き、今回も音楽ネタでいきたい。
 前回はレイジというかなりゴリゴリのところをいったので、今回はもう少し気軽なところを扱おう……ということで、モーモールルギャバンである。ズバリ、「パンティー泥棒の唄」。これを記事のタイトルにするのは正直やや躊躇もあったのだが、音楽ネタで書くときはいつも歌のタイトルをそのまま記事タイトルにしてきたので、今回もそれを踏襲する。
 この曲は、そのタイトルが示すとおりパンティー泥棒を題材にしている。歌詞は、次のような感じだ。


  君のブラジャーは嫌い でも君のパンティは好き
  俺はパンティーが好き 君もそうだろう
 
  逃げるパンティーに 追うおいら
  おいらはパンティー界のルパン
  次元も五右衛門も必要ない
  俺は一匹狼

  黒はいやだ 白が好きだ 水色もピンクも好きだ
  ベージュはいやだ 青が好きだ 赤も黄色も好きだ


 ――で、高木復興大臣である。
 数日前、このお騒がせ大臣に新たな疑惑が浮上した。2011年から13年にかけて、選挙区内の住民の香典などを少なくとも17万円ほど支出していたというのである。公職選挙法では選挙区内の住民に対する慶弔費の支出を禁じていて、資金管理団体から香典を出したとすると、これに抵触する可能性がある。報道によれば、高木大臣側も支出の事実を認めているという。
 パンティー泥棒疑惑に続いてこの新たな疑惑発覚でもはや辞任は不可避という見方も出ているそうだが、しかしそれにしてもこの疑惑のしみったれ具合はどうだろう。パンティー泥棒と香典である。べつに大きい悪事をやればいいという話ではないが、この悪のしょぼさにも、いまの自民党の底知れぬ劣化ぶりが見てとれる。このような人たちの集団が権力をふりかざしているのだから、いまの日本は危険で仕方がないのである。