SPEEDの今井絵理子氏が、今夏の参院選に自民党から出馬するという。
シングルマザーとして聴覚障害をもつ息子を育てながら音楽活動を続けていることが、安倍政権の掲げる「一億総活躍社会」にあっているのだそうだ。
寝言は寝て言え、という話である。
今井氏には、今からでも遅くないからやめておけといいたい。なぜなら、安倍自民党の目指す国家は、障害をもっている人たちにとって生きづらいものにちがいないからだ。以下、その理由を説明しよう。
このブログでは以前書いたが、戦争は、もっとも障害者の権利が抑圧される状況である。
戦時中の社会にいる人々は、障害をもっている人を「国の資源を食いつぶすだけで何も役に立たない」存在とみなすようになるからだ。実際、戦前の日本にはそういう傾向があったと指摘される。
たとえば、次のような歌がある。
足萎えの子を持つ母はかなしかり だんじりの音 家にいて聞く
これは、戦時中の障害者に対する差別を歌ったものである(うろ覚えの記憶に頼って引用しているので、細かいところに違いがあるかもしれないが、ご容赦いただきたい)。
“足萎え”というのは――いまだと差別的な言葉ということになってしまうかもしれないが――足が不自由な人のことだ。この詠み人の子どもは、足に障害を持っている。本当は祭りが好きなのでだんじりを見に行きたいのだが、表に出ると「ゴク潰し」として白眼視される。だから、家にいてそれを聞いているしかない――という状況だ。このように、軍事を優先する社会は、軍事に貢献することのできない人間を差別するようになるのである。
そして、おそらくそうした風潮は戦時中にかぎらない。たとえ実際に戦争が起きていなくとも、軍事を重視する国は必然的にそうなる。これは、ナチスドイツが行っていた障害者に対する虐殺を思い起こしてもらえればわかる。自民党が目指すような国家のもとでは、障害者は肩身のせまい思いをさせられるに違いないのだ。
自民党の目指す国家とは、「国民のために国家がある」のではなく、「国家のために国民がある」という、そういう国家である。
そして、「国民が国のために奉仕する」という発想に立つ以上、障害者は“国に奉仕することのできない存在”として“ゴク潰し”扱いされることになる。政権にいる人たちがどういいつくろったところで、“世間の目”がそうなるのである。“障害者やその家族は非国民だ”と。
「障害者家族9条の会」という組織があり、安倍政権に抗議する活動を行っていることからもそれはわかる。彼らは、いまの日本が、ハンディキャップを抱える人間にとってやさしくない社会にむかいつつあることを肌で感じているのだ。
自民党中心の政権が進んでいけば、そうした傾向がますます強まっていくことは疑いようがない。今井絵理子氏も、それに手を貸すような愚を犯すべきではない。
それから、さらにつけくわえておくと、芸能人から政治家になると、芸能人時代には問題にされなかったことや、芸能人なら触れずにいてもらえたような過去の言動が掘り返されたりする。某女子ゴルフ選手のパパのように、それでこれまでに築き上げたものをすべて失ってしまうというリスクもある。
また、SPEEDの面々は沖縄の出身であるわけだが、そうすると、自民党が沖縄に対してやっていることをどう考えるのかという問題も出てくる。そのへんのところをいい加減にしていると、あとあと大変なことにもなりかねない。野党から追及されてしどろもどろになりながらわけのわからないことをいう姿が想像できて、いまから残念である。結局のところ、自民党の参院対策用“客寄せパンダ”として利用されるだけ利用され、選挙が終わったら用済み、一期のみで政界を去り、政治家時代についたぬぐいがたいマイナスイメージをその後ずっと背負い続ける――ということになる可能性が非常に高いと思うのだが。
ちなみに、記事タイトルにある Body and Soul というのは、今となっては懐かしい、SPEEDのデビュー曲である。障害についての話題なので、“心身”に障害をもつ人たちの権利を本当に保障できるのか――といったようなやや強引なこじつけでひっぱりだしてきた次第である。
私は彼女らのデビュー当時をリアルタイムでみていた世代だが、たとえば White Love のメロディなど、今でも懐かしく思い出すことができる。スキャンダルやらなにやらで、SPEEDの歌が苦々しく思い出されるような事態は、どうか避けてもらいたいものだ。
シングルマザーとして聴覚障害をもつ息子を育てながら音楽活動を続けていることが、安倍政権の掲げる「一億総活躍社会」にあっているのだそうだ。
寝言は寝て言え、という話である。
今井氏には、今からでも遅くないからやめておけといいたい。なぜなら、安倍自民党の目指す国家は、障害をもっている人たちにとって生きづらいものにちがいないからだ。以下、その理由を説明しよう。
このブログでは以前書いたが、戦争は、もっとも障害者の権利が抑圧される状況である。
戦時中の社会にいる人々は、障害をもっている人を「国の資源を食いつぶすだけで何も役に立たない」存在とみなすようになるからだ。実際、戦前の日本にはそういう傾向があったと指摘される。
たとえば、次のような歌がある。
足萎えの子を持つ母はかなしかり だんじりの音 家にいて聞く
これは、戦時中の障害者に対する差別を歌ったものである(うろ覚えの記憶に頼って引用しているので、細かいところに違いがあるかもしれないが、ご容赦いただきたい)。
“足萎え”というのは――いまだと差別的な言葉ということになってしまうかもしれないが――足が不自由な人のことだ。この詠み人の子どもは、足に障害を持っている。本当は祭りが好きなのでだんじりを見に行きたいのだが、表に出ると「ゴク潰し」として白眼視される。だから、家にいてそれを聞いているしかない――という状況だ。このように、軍事を優先する社会は、軍事に貢献することのできない人間を差別するようになるのである。
そして、おそらくそうした風潮は戦時中にかぎらない。たとえ実際に戦争が起きていなくとも、軍事を重視する国は必然的にそうなる。これは、ナチスドイツが行っていた障害者に対する虐殺を思い起こしてもらえればわかる。自民党が目指すような国家のもとでは、障害者は肩身のせまい思いをさせられるに違いないのだ。
自民党の目指す国家とは、「国民のために国家がある」のではなく、「国家のために国民がある」という、そういう国家である。
そして、「国民が国のために奉仕する」という発想に立つ以上、障害者は“国に奉仕することのできない存在”として“ゴク潰し”扱いされることになる。政権にいる人たちがどういいつくろったところで、“世間の目”がそうなるのである。“障害者やその家族は非国民だ”と。
「障害者家族9条の会」という組織があり、安倍政権に抗議する活動を行っていることからもそれはわかる。彼らは、いまの日本が、ハンディキャップを抱える人間にとってやさしくない社会にむかいつつあることを肌で感じているのだ。
自民党中心の政権が進んでいけば、そうした傾向がますます強まっていくことは疑いようがない。今井絵理子氏も、それに手を貸すような愚を犯すべきではない。
それから、さらにつけくわえておくと、芸能人から政治家になると、芸能人時代には問題にされなかったことや、芸能人なら触れずにいてもらえたような過去の言動が掘り返されたりする。某女子ゴルフ選手のパパのように、それでこれまでに築き上げたものをすべて失ってしまうというリスクもある。
また、SPEEDの面々は沖縄の出身であるわけだが、そうすると、自民党が沖縄に対してやっていることをどう考えるのかという問題も出てくる。そのへんのところをいい加減にしていると、あとあと大変なことにもなりかねない。野党から追及されてしどろもどろになりながらわけのわからないことをいう姿が想像できて、いまから残念である。結局のところ、自民党の参院対策用“客寄せパンダ”として利用されるだけ利用され、選挙が終わったら用済み、一期のみで政界を去り、政治家時代についたぬぐいがたいマイナスイメージをその後ずっと背負い続ける――ということになる可能性が非常に高いと思うのだが。
ちなみに、記事タイトルにある Body and Soul というのは、今となっては懐かしい、SPEEDのデビュー曲である。障害についての話題なので、“心身”に障害をもつ人たちの権利を本当に保障できるのか――といったようなやや強引なこじつけでひっぱりだしてきた次第である。
私は彼女らのデビュー当時をリアルタイムでみていた世代だが、たとえば White Love のメロディなど、今でも懐かしく思い出すことができる。スキャンダルやらなにやらで、SPEEDの歌が苦々しく思い出されるような事態は、どうか避けてもらいたいものだ。