真夜中の2分前

時事評論ブログ
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法治主義とはなにか――辺野古移設作業強行について

2015-03-24 02:29:29 | 政治・経済
 沖縄にある米軍普天間基地の移設をめぐり、辺野古沖でのボーリング調査が進められている。
 昨年の衆院選で沖縄では辺野古への移設反対を主張する候補者がすべての小選挙区で勝利し、また沖縄県知事選でも反対派の翁長氏が勝利するなど、明確に反対の民意が示されているにもかかわらず、政府はごり押しをやめようとしない。
 これに関して質問された菅官房長官は、「法に則ってやっていることだからまったく間違っているとは思わない。粛々と工事を進める」としている。
 法治国家なのだから、法に則って粛々と進める――
 ある人は当然のことと思われるかもしれない。またある人は、疑問はあるがやむをえないことと思うかもしれない。だが――ここで一つ、法治主義ということについて、立ち止まって考えてみたい。
 そもそも、法治主義とはなにか。もし手元に高校の「現代社会」の授業で使う資料集のようなものがあったら、そこで「法治主義」という言葉についてどう書いてあるかをみてもらいたい。おそらくどの資料集でも、その危険性を指摘してあることと思う。「法治主義」は、その法の内容を問わない場合、「悪法もまた法なり」ということで抑圧的な政治体制を正当化する危険をはらんでいる……といったようなことが書かれているはずだ。そしておそらく、その例としてナチスドイツが紹介されているだろう。ナチスの時代においては、ユダヤ人を迫害することが法に従うことだったが、「中身がどんなものであろうととにかく法には従わなければならない」という考え方は、ナチスのような無茶苦茶な政権でも容認することにつながりかねないのである。資料集の種類によっては、「法の支配(rule of law)」と「法治主義(rule by law)」を明確に区別し、後者はあまりよろしくないものとして書かれている場合もある。
 あえて挑発的な言い方をすれば、法がすべてではない。
 法律は、間違っているかもしれない。その可能性はつねに考慮されていなければならない。
 たとえば、自民党は憲法を変えようとしている。なぜ変えるのか? それは、彼らが現行の憲法が間違っているか、控えめにいっても不十分だと考えているからだろう。だから、憲法を変えようと主張しているわけだ。つまり、「法律が間違っている」→「だから変えよう」という発想であり、それは「法の中身を問わずに法に従うべき」という意味での「法治主義」に反するものである。
 それと反対に、もし法律がすべてでそこに書かれていることを“粛々と”実行しなければならないというのなら、その人は憲法を変えようなどとゆめ思うべきではない。ただ“粛々と”憲法を遵守すべきである。菅官房長官が「法治国家だから法に則って粛々と政治を行うべきだ」と思っているのなら、彼は憲法を変えようと考えてはならない。憲法の中身がどうであろうと、ぐだぐだ文句をいわずに“粛々と”従え、という話だ。逆にした話を元に戻すと、憲法が間違っていてそれを変えようと運動をするのならば、同様に、現在の法や制度に瑕疵があると考えそれに反対する人々の意見にも耳を傾けるべきである。いまの法律は間違っているかもしれないのだから。菅官房長官(と自民党の改憲派)が憲法を改正すべきだと思うのなら、それはすなわち、「法の中身を問わずに法に従う」という考え方を否定する立場に立つということであり、「法に則って粛々と進める」などというべきではない。
 では、法律が間違っているかもしれないとしたら、どのような行動をとるべきだろうか。
 一つの方法は、それがいかに誤っているかを世間に知らしめることだ。マハトマ・ガンジーが提唱しキング牧師が継承した“不服従”の運動は、まさにそうした運動だった。人種差別的な制度によって黒人が入ってはならないとされている場所に、あえて黒人が入っていく。ただ黒人であるというだけで、迫害を受ける。そうすることで、「これはおかしくないか?」「この法・制度は本当に正しいのか?」という問いを投げかけるのである。キング牧師の公民権運動においては、結果として、そのような制度を多くの人がおかしいと考えた。それによって、“誤っている”とみなされた法のほうが変わらなければならなかったのである。
 いま沖縄では、かつてないほどの強硬さで移設への作業が進められている。
 辺野古の基地移設予定地の海域には、ブイが設置され海保の船がひしめている。陸地では、抗議運動をしている反対派が警察によって強制的に排除され、反対運動のリーダーが米軍に身柄を拘束されるという事態も起きた。それらの一つ一つが、われわれに対する問いかけである。法律で決まったことだから……と切り捨ててしまうのではなく、考えなければならない。それは本当に正しいのか。人種差別的な制度を容認するようなことになってはいないか。ナチスのユダヤ人迫害に手を貸すようなことになってはいないか。もしわれわれの多数がそれを誤っていると考えるのなら、変わらなければならないのは法と制度の側だ。沖縄にばかり負担を集中させてよいのかというのも問題だが、実際のところ、これは沖縄だけの問題でもない。もし沖縄でこのようなことが許されるのなら、自分の住んでいる町にもやがて同じようなことが降りかかってくるかもしれない。そうしたことも踏まえたうえで、安倍政権の高圧的な振る舞いを容認すべきかどうか、判断しよう。

二国間の対立は防げるか

2015-03-22 12:14:55 | 政治・経済
 先日コメントをいただいたので、そのことについて少し書きたい。
 「日本人は正しいか」という記事に関するコメントである。その記事で私は、二人の人間の対立というたとえ話を書いたのだが、では、はじめの二人の対立をどうやって防ぐかと――そこが重要だという意見である。
 たしかに、これは重要だ。そして、たいへんな難問でもある。対立というのは、相手があってのことだ。こちらがいくら敵意を持っていなくとも、むこうは言いがかりをつけてくるかもしれない。たとえば中国が尖閣諸島を自分たちのものだと言い募ることなどはその最たるものだろう。中国や北朝鮮という厄介な隣人を持ってしまっている以上、そして国を動かすことができない以上、このようなことは避けられないと私には思われる。できることは、なるべく対立を緩和することぐらいではないだろうか。
 そして、では対立を激化させないためにはどうしたらよいかという話になると、やはり安倍政権が進めている安全保障政策は逆効果でしかない。
 前回道徳の教科化には意味がないということを書いたが、それと同様に、今回与党が合意したという安全保障政策も見当違いであると私は考える。アメリカの構想するいわゆる「リバランス」という考え方はきわめて危険だ。中国の軍事的台頭に対応して力の均衡を再構築するというのだが、こちらが軍事力を増強すれば、むこうもそれに対抗して軍備増強してくるのは自明である。それを互いに続けていけば、冷戦時代の米ソの不毛な軍拡競争の再現となる。バランスをとるのはきわめて困難だし、仮にとれたとしても(そもそも「バランスがとれている」ということを客観的に評価する術もないのだが)それは瞬間的なものに過ぎず、どちらかがさらに軍備を増強すればたちまち均衡は崩れ去る。そして、もう一度バランスをとるために他方も軍備を増強し……以下繰り返しで、結局のところは、不安定な緊張状態が漫然と続いていくことになるだろう。
 そもそも、先述の尖閣諸島の問題に関しても、中国の巡視船や航空機が頻繁に領海・領空侵犯を繰り返すようになったのは、尖閣諸島を国有化したことがきっかけだった。ろくでもない発言ばかりしてきた石原慎太郎元都知事の最後っ屁のような尖閣国有化という愚策(実際に国有化したのは野田政権だが、石原都知事が尖閣を手にしたら何をしでかすかわらからないので、それを防ぐために国が乗り出したといわれている)が中国を刺激し、さらに一線を踏み越える行動を誘発したのだ。ここから得られる教訓はただ一つ、安全保障を真剣に考えるなら、余計なちょっかいは出さないということに尽きる。特に、中国や北朝鮮のような面倒な相手に対してこそそうだ。
 また、ここにロシアをくわえてもいいかもしれない。2012年、米軍が日本にオスプレイを配備した直後に、ロシアの電子偵察機「IL20」がオスプレイの訓練飛行域の周辺に頻繁に飛来するようになったという話がある。IL20は電子戦機で、電波情報を収集するなどの機能を持っており、オスプレイという最新の輸送機が配備されたことを受けて、その情報を収集するためにやってきたという見方が濃厚だ。ここでもまた、最新の兵器を配備したことが、相手の一歩踏み込んだリアクションを引き起こしているのである。
 以前にも書いたことだが、こちらが軍備を増強したからといって、むこうは引き下がってはくれないのだ。特に、国民の生命よりも自分の面子のほうが大事というような輩では、絶望的といっていい。そういった相手に対しては、とにかく余計な刺激をしないにかぎる。その点からしても、安倍政権が進めている安保法制は百害あって一利なしなのだ。

“道徳”を語るなら

2015-03-15 20:45:34 | 政治・経済
 “道徳”が学校の正式な科目になるのだという。
 道徳が教科でないために道徳の授業が形骸化している、ということで、正式な科目にしようということらしい。
 私は、その効果にはっきりいって懐疑的である。まず、道徳というものを数値で評価することが適切なのかどうかという点も問題だが、それ以前に、「教科でないから形骸化している」というのははっきりと間違っていると思う。
 これは、ほかの教科のことを考えてみるとよくわかるが、なかでも英語が一番分かりやすいだろう。日本人は中学高校で六年間英語を学習するが、いっこうに英語が使えるようにはならない。これは、定期テストや受験で点数を稼ぐことが目標であるために文法偏重になっていることが原因と考えられる。そこで、「本当に英語が使えるようにしたかったら、受験科目から英語をはずせ」というような逆説さえいわれる。すなわち、正式な教科であるからこそ英語の授業は“形骸化”し、英語で意志の疎通ができるという本来そうであるべき学習の目的(英語を学ぶのにそれ以外の目的がありうるだろうか?)から果てしなくはずれたことをやっているのが実態なのだ。
 道徳も、正式な科目にすれば、程度の差はあれ同じことが起きると思う。「道徳を理解している」ふりをすることが目的となり、生徒たちは先生が望む答えを推測して答えるようになるだけで、道徳の授業はそれこそ“形骸化”してしまうだろう。

 ――以上は、前置きである。
 今回のメインテーマは、道徳を科目にすることの是非そのものではない。そのこととは別に、モラルを口にする人たちに本当にその資質があるのかということを今回は問題にしたい。というのも、そこに疑問を持たずにいられない事態が最近相次いでいるのだ。
 たとえば、政治資金規正法の問題が真っ先に挙げられるだろう。
 西川前農水相の問題などカネにまつわる疑惑が噴出している安倍政権だが、ここではとくに、下村博文文科大臣が暴力団と関係のある人物から献金を受けていたとされる問題をとりあげたい。冒頭に述べた“道徳”を学校の科目として導入するというのは当然文科省がそれをやるわけだが、そのトップにいる下村氏にカネにまつわる疑惑が浮上しているのだ。しかも、このことを国会で質問された下村文科相は、一度それを明確に否定しておきながら、後に一転して認めている。これらの疑惑に関して報じるテレビのニュースでは、「あいつにだけは道徳を語ってほしくない」という知人の言葉が紹介されていたが、もっともな意見であろう。本人の弁によれば、急な質問だったためにメモを見て答えたが、そのメモが間違っていたのだという。なるほど、そうなのかもしれない。だが、子どもに“道徳”を教えてやろうというほどの人物が、そんなことでいいのだろうか。「過失ではあるが、閣僚という立場での国会答弁で、自身にかけられた疑惑に関して結果として事実でないことをいってしまったのだから、その責任はとる」といって辞任するぐらいが“道徳的”な振る舞いというものだろう。
 また、安倍内閣の閣僚では、カネの疑惑とは別の問題もあった。たとえば、松島みどり前法相の“うちわ”問題である。この問題では、配られたうちわには、すみっこに「これは討議資料です」というようなことが書かれてあり、前法相自身、違法性を問われかねないことを知ってのうえで“アリバイ作り”をしていた疑いが濃厚である。さらにこの人は「これはうちわですよね?」と質問されると「うちわのようにも見える」というようなことをいっている。「違法スレスレ」は「違法」ではない、という言い方もできるかもしれないが、法務大臣がそのような言い逃れをするのはやはり「道徳的」な振る舞いとはいえないだろう。問題が発覚した次の日にでも、「私はうちわだとは思わないが、結果としてうちわのように見えるから責任をとる」と辞任するべきだった。
 そして、これもカネの問題とは別の話になるが、やはり自民党の中川郁子氏の“不適切”な行為も波紋を広げた。
 別に不倫そのものに関してとやかくいうつもりはない。男女のことをあれこれいうのも野暮な話だし、その相手が妻子のある身であったとしても、つまるところは当事者同士の問題だ。だがしかし――そのような人たちが道徳を振りかざしてくるとなったら、話は別である。それはちょっと待ってくれよ、といいたくなるのが人情というものだろう。
 そして、この点に関しては、船田元氏の名前も挙げておきたい。
 また古い話を……と思われるかもしれないが、この人はいまから15年ほど前に、女性スキャンダルを起こしている。既婚でありながら女子アナ(という呼び方が適切かどうかわからないが)と密会しているところをフライデーされ、当時はやっていた不倫をテーマにするドラマにひっかけて“政界失楽園”などと呼ばれたのだった。ちなみに、本人は不倫関係を否定したものの、後に離婚してこの女子アナと再婚している。
 ここでこの話を持ち出したのは、なにも個人攻撃をしたいからではない。そうではなくて、彼がもっとも高い倫理性を求められるであろう立場にいるからだ。知っている人は知っているだろうが、ほかならぬその船田氏が、自民党の憲法改正推進本部長として改憲の旗振り役をしているのである。自民党の改憲草案は、なにかにつけて「公益及び公の秩序」なるものを持ち出し、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」(第12条)などと書いてあるのだが、船田氏や上にあげたその他の人々の言動はそれに見合ったものなのか。また、第24条には「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」とあるが、船田氏の“失楽園”的行動はこの条文に照らしてどうなのか。
 聞くところによれば、彼は青少年に有害な図書を見せないために漫画などを規制するべきだというふうに考えてもいるらしいが、私には、これはブラックジョークとしか聞こえない。人に道徳を押し付けようというのなら、まずその本人にこそ道徳的な言動が求められる。そうでなければ説得力がない。その点からして、いまの政府与党にその資格があるのか、私にははなはだ疑問である。

内閣法制局の役割と“砂川判決”に関する見解

2015-03-08 21:29:56 | 政治・経済
 先日本ブログにコメントをいただいたので、それについて書きたい。
 「フランス人は正しいか」という記事についてのものである。私の理解するところでは、コメントの要旨は大きく二点。ひとつは、「集団的自衛権を保有してはいるが行使はできない」というのは内閣法制局という内閣のなかの一機関の解釈に過ぎず、それが内閣の判断を拘束するのはおかしい、ということ。もうひとつは、集団的自衛権の行使はすでに最高裁によって認められている、というものである。
 一点目に関しては、もっともな指摘である。たしかに、内閣法制局の解釈は、三権分立という話と直接の関係はない。その点に関しては、筆が滑ったというほかはない。少し言い訳をさせてもらえれば、そもそも「○○人は正しいか」というタイトルにするために「フランス人」-「モンテスキュー」-「三権分立」とやや無理なこじつけをしたためである。この思いつきに迂闊にも飛びついてしまったことは反省もしよう。
 しかしながら、ここで反論もしておきたい。
 行政と司法との関係でこそないかもしれないが、件の記事で書いた問題の本質は変わらないと考える。
 内閣法制局というのは、内閣の行うことと憲法との整合性をチェックする機関である。なぜそのようなものが存在するかといえば、それは内閣が憲法に違反したことをしないためである。内閣は憲法に従わなければならないのだから、それを制度として担保するためのシステムが当然必要である。法制局は、その一つだ。いうなれば、「憲法」が内閣の内部に作っている監視用の出張所のようなものなのだ。ならば、その判断が内閣の行動をある程度拘束するのは当然であり、そこで数十年にわたって継承されてきた解釈は一定の重みを持つと考えるべきだ。そうでないのなら、法制局はなんのために存在しているのかという話にもなってくる。内閣法制局は、行政が暴走しないよう行政機構内部に作られたブレーキであって、それをもって“行政の暴走”というのはあたらない。

 二点目は、「最高裁が集団的自衛権の行使を認めている」という点についてである。
 私自身も書いたとおり、内閣の振る舞いが憲法に違反しているかどうかの判断は究極的には最高裁判所にゆだねられている。最高裁が認めていることを内閣法制局が否定しているのだとしたら、それはたしかに問題があるといえる。以下、この点についても考えてみたい。
 件のコメントには「最高裁判所 田中耕太郎」の次のような意見が引用されている。

今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従つて自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである

 これは、いわゆる“砂川判決”(1959年)に付された補足意見である。
 自民党の高村正彦副総裁が、この判決をもって集団的事件の行使は憲法上も認めらているという論拠にしている、ということで脚光を浴びたものだが、はたして本当にこれで集団的自衛権の行使が容認されているといえるのだろうか。
 結論からいえば、もちろんそのように主張する人もいるが、否定的な意見を述べる人もいる、ということになるだろう。
 そもそも、この判決に関しては、当時の最高裁判所長官である田中耕太郎が判決前に米国側と密かに接触していたなど、裁判自体の公正性を疑問視する声もあるのだが、仮にその点を度外視するとしても、やはりこの補足意見をもって集団的自衛権の行使が認められているとすることには無理があるとの意見も多い。このあたりは、ネット上でちょっとググってみればいくらでもそうした意見を目にすることができるだろう。たとえば、昨年4月この問題に関して共同通信が配信した記事では(砂川判決は)「素直に読めば個別的自衛権の話と分かる。判決から集団的自衛権の行使が基礎付けられるとする学者は、知る限りではいない」という長谷部恭男東大教授(当時)の日本記者クラブでのコメントが紹介されている。
 私個人の見解としても、この文章で「最高裁判所は集団的自衛権の行使を認めている」とするのは相当な論理の飛躍であるように思える。
 また、田中耕太郎が米国側と密かに接触していたというのは近年米国での公文書公開によってあきらかになったことだそうだが、この司法判断の正当性を根底から覆しかねないような事実が発覚した現在でもその意見が有効性を持ちうるものなのか――という疑問もぬぐえない。また、この裁判は地裁から一足飛びに最高裁に跳躍上告されるという異例の展開をみせ、さらに、いわゆる“統治行為論”で一部憲法判断を回避しているなど、きわめて“政治的”なにおいがするものになっている。これらのことからして、“砂川判決”によって集団的自衛権の行使が容認されている、という論には、素直に肯くことはできない。
 以上が、先日よせられたコメントに対する私の見解である。

「古きよき時代」という虚構について

2015-03-01 21:47:33 | 政治・経済
 川崎の事件で少年3人が逮捕されたことを受けて、自民党の稲田朋美政調会長が少年法改正の必要性に言及したという。報道されるところによると、加害少年の実名が報道されないことや、成人の場合とは扱いが違うことを指摘し、犯罪が凶悪化しているために、予防の観点から現在の少年法でよいのかと疑問を呈したそうだ。
 この話を聞いて、どう思うだろうか。
 知っている人は知っていると思うが、「少年犯罪が凶悪化しているか」というのは、90年代末から2000年代にかけて、ちょっとした議論になっていた。神戸のいわゆる“酒鬼薔薇”事件以降の少年法改正論議と並行して、前田雅英氏のように少年犯罪の凶悪化を主張する論者とそれに反対する論者の間で論争があった。そしてその結果は――「少年犯罪は凶悪化していない」であった。
 少年による凶悪事件は、増加もしていないし凶悪化もしていない。むしろ、60年代ごろに比べれば相当に改善されているというのが、統計の示す事実である。本当かと思う人は、ネット上で少し検索してみれば少年による殺人事件の推移を示すグラフを見つけることができるだろう。グラフからは、60年代ごろから現在にかけて少年による殺人事件が激減といっていいぐらい減少しているのがわかる。
 以下、よくある反論に対してあらかじめ反論しておく。
 まず、検挙率が低下しているからじゃないのかという反論があるかもしれないが、犯罪の種類別にみたときに、殺人に関しては検挙率は低下しておらず、90%以上の高水準を維持しているので、それはあたらない。殺人件数の推移は、実際の数をある程度正確に反映しているとみていい。
 また、少子化で子どもが減っているからじゃないのかという人がいるかもしれないが、それもちがう。少年の殺人事件はもっとも多かった60年代頃に比べると現在は五分の一以下ぐらいに減っている。その間、少子化が進んだといっても、子どもの数は半分にもなってはいない。数でみても、率でみても、少年の殺人事件は大幅に減少しているのだ。
 第三に、数ではなく、質を問題にする人もいるかもしれない。数は減っているが、一つ一つの事件が凶悪化しているのではないか、と。この点に関しては、事件の凶悪性というのはたぶんに主観によるものでもあり比較は難しいが、私はそれもちがうと思う。そもそも凶悪でない殺人事件というものがあるのかという問題があるし、個別のケースをみてもそれほど違いがあるとは思えない。ためしに、いくつかの例をあげてみよう。

 1948年、高校二年生の少年が一家三人を殺害。福岡で中二の女子が家族7人の毒殺を図り、うち二人が死亡。
 1951年、中二少年が小学五年生とけんかして相手を刺殺。
 1952年、16歳少年が仕事で注意した叔母を絞殺。
 1955年、17歳少年が小2女児を暴行のうえ殺害。
 1957年。18歳少年が一家七人を殴殺、放火……

 以上は、嶋崎政男氏の『少年殺人事件 その原因と今後の対応』(学事出版)という本から採ったものだが、これはごく一部である。この本には、小学生や中学生による殺人というのも、いくつも紹介されている。2004年に長崎で小学生の女児が同級生を殺害するという事件が起きたときこれは前代未聞だというふうに騒がれたのだが、実際には、記録をたどれば過去にそういう事件は複数の例がある。
 以上のことからして、少年犯罪が凶悪化しているというのは事実ではない。むしろ、全体の傾向としては昔に比べて現代の少年ははるかに人を殺さなくなっている。したがって、「昔の子供はけんかするときにもちゃんと手加減を知っていた」「昔は叱ってくれる大人が周りにいた。そういう共同体がなくなったことで少年犯罪が凶悪化している」といった類の言説は、はっきりいってすべて間違いである。先日テレビのニュースを観ていたらコメンテーターがそのようなことをいっていたが、少年事件に関してはこのような統計的事実を無視した言説がいまだに流布している。
 ここではじめの話に戻るが、当然ながら稲田朋美自民党政調会長の発言も、まったく事実に基づかないものである。ちなみにこの事情は戦前にさかのぼっても変わらない。10年ほど前に少年法改正論議が起こったときには、戦前の修身教育を受けた世代はしっかりした道徳心を持っていたというようなことをいう人もいたが、これも事実に照らして間違いである。これに関しては、「少年犯罪データベース」というサイトを参照してもらえればよくわかるだろう。

 今回この話題をとりあげたのは、世の中にいかに根拠のないいい加減な思い込みが流布しているかということを示すためである。
 稲田氏のような保守派の人たちは、「戦前の日本の社会は道徳的にすぐれていた」というようなまったく根拠のない思い込みを持っていて、それをもとにして戦前回帰的な主張を唱えている。ところが実際には、戦前の社会のほうが現代よりもはるかにモラルは荒廃していた。凶悪事件はいまより多かったし、いまでいう“チーマー”のようなグループがいくつも存在し、現代からすると信じられないような蛮行を繰り広げていた。保守派の論客は、そういった事実を知りもせずに、小説や映画によって作り上げられた「古きよき昔」という虚構のイメージを現実と混同しているにすぎない。今回の川崎の事件に関する稲田氏の発言は、彼らが現実を知らないということをあきらかにしている。そして、このような思い込みをもとにして社会を考えていることが大いに問題なのだ。
 これは、単に少年法の問題にとどまらない。事実に反した思い込みで戦前のような社会を復活させれば、とんでもない荒廃が引き起こされる可能性が高いと私は考える。せめて、政治家には事実に基づいた思考をしてもらいたいものである。