時間が経つのは早いもので、もう年末がやってきた。この2014年という年の終わりにあたって、もう一度、経済について考えてみたい。
テーマは、効率や合理性を追及する経済は、本当に人を幸福にするのか、ということである。いわゆる“新自由主義”、あるいは“市場原理主義”は、本当に社会を豊かにするのか。
まず簡単なおさらいをしておきたい。新自由主義とは、古典経済学と呼ばれる経済学を現代に甦らせたものである。ひらたくいえば、政府が余計な介入をせずに自由に動くままにまかせておくほうが経済はうまいくという考え方だ。そのような考え方は“自由放任経済”(レッセフェール)として19世紀にはかなり広く共有されていたが、20世紀に入るとだんだん衰退していった。それが、1970年代ぐらいになって再び注目されるようになった。アメリカのレーガン大統領やイギリスのサッチャー首相などがこの考え方を導入し、日本でも、同時代の中曽根首相がやはりこの流れに乗った。その後の小泉首相なども基本的にこの立場に立っていて、「規制緩和」や「民営化」によって経済がよくなるという発想はその延長線上にある。これまでに本ブログで何度か問題視してきた金融自由化も、同じベクトルを共有しているとみていいだろう。
もっとも、新自由主義批判は、いまではそれほど珍しくない。それらがはらむ問題点も次第にあきらかになってきて、最近では無条件に新自由主義を肯定する人は少なくなっていると思う。だが、それでも規制緩和や民営化は基本的によいことで進むべき方向であるという考え方は根強く残っているようにみえる。それがたとえば、多くの世論調査においてTPP賛成のほうが多いというようなところにもつながってくる。「格差の拡大」や「貧困」が問題となっても、依然として世間では、規制緩和・民営化を推進して「小さな政府」を目指すべきという考えが主流らしい。私は、その点に異議を唱えたい。
その一環として、新自由主義の旗手と目すべき経済学者ミルトン・フリードマンに関する一つの逸話を紹介しよう。これはたしか、今年亡くなった経済学者の宇沢弘文が語っていた話だと記憶する。
あるときフリードマンは、近々イギリスのポンドが切り下げられるという噂を聞きつけた。そしてどうやら、それは確かな話らしかった。ということは、ここでポンドを空売りしておけば大金が儲けられる。そう考えたフリードマンは、シカゴの銀行に行ってポンドの空売りを申し込んだ。ところが、銀行側はそれを断った。「われわれはジェントルマンだからそのようなことはしない」というのである。この対応に、フリードマンは激怒した……
この話を紹介したのは、なにもフリードマンの人となりを非難したいからではない。このエピソードに、新自由主義というもののはらむ胡散臭さがにじみ出ていると考えるからだ。
私の考えるところでは、新自由主義は人間性を蝕んでゆく。人間を“ジェントルマン”でなくしていくのである。たとえば、2008年いわゆるリーマンショックが起きたときに、穀物の価格が暴騰したことがあった。これは、株や金融商品の市場がフリーズしてしまい、行き場を失った大量のマネーが商品市場に流れ込んだためだと考えられている。穀物が狙われたのは、一つにはバイオエタノールの原料ということで注目されていたということもあるが、もっと根本的にはそれが生活必需品だからだろう。これがたとえばダイヤモンドのようなものだったら、価格が異常に上昇すれば誰も買わなくなるだけのことである。だが、穀物なら買わないわけにはいかない。そこで、穀物をターゲットにするというわけだ。穀物価格の暴騰は、当然ながら世界中に――とりわけ途上国に――大きな混乱を引き起こしたが、マネーゲームのプレーヤーたちはそんなことにはおかまいなしである。生きていくために穀物を買わなければならないことにつけこんで、莫大な利益をむさぼるのだ。これと似たような事例は、東日本大震災の後にもみられた。あの震災の直後、円高が進むのではないか(阪神大震災の後に円高が起きたという過去の事例からそう予測された)という見方から円が暴騰した。また、復興のための資材に投機的なマネーが流れ込んで資材価格を押し上げているという指摘もあった。いずれも結果として復興の妨げとなっており、これによって利益を得た投資家は――厳しい表現だが――未曾有の大災害をだしにしてカネを儲けていると批判されてもやむをえまい。このような取引に対して、もし先のシカゴの銀行員が窓口にいたら「われわれはジェントルマンだからそのようなことはしない」というのではないだろうか。市場原理主義のもとでは、紳士が町からいなくなるのだ。
さて……なんともすさんだ話になってきたので、ここでもう一つ、別の物語をとりあげることにしよう。
それは、タイトルにもなっている“賢者の贈り物”だ。「賢者の贈り物」とは、ご存知の方も多いと思うが、O.ヘンリの名作短編である。やや時期を逸した感もあるが、心温まるクリスマスストーリーということで本稿のタイトルにした。
この短編に登場する男と女は、相手にクリスマスプレゼントを贈りたいと思っているが、そのためのお金がない。そこで男は、ひそかに腕時計を売り、その金でクシを買う。そして女は、これまたひそかに自分の長い髪の毛を切ってそれを売り、腕時計のためのバンドを買う。その結果は滑稽なすれ違いとなってしまうわけだが、それによって二人は、なににも代えがたい“賢者の贈り物”を手にする――というストーリーだ。
で、経済の話に戻る。ミルトン・フリードマンは、その代表的著書『選択の自由』のなかで「もっとも効率的なプレゼントは現金を贈ることだ」というようなことをいっているのだが、「賢者の贈り物」を読んだうえでこの言葉を聞くと、なんとばかげたことをいっているのだろうと思わずにはいられないのだ。クリスマスプレゼントに現金をやりとりするというのは、なにかとても大切なことがないがしろにされているような気がする。そんなふうに考えるのは、決して私ひとりではあるまい。
もちろん、フリードマンもある種の極論としてそんなふうにいっているのではあるだろう。しかし、私が思うには、たとえ誇張された表現だとしても、これは一面の真理を突いている。つまるところ、効率を重視するというのはそういうことなのだ。クリスマスプレゼントに現金を贈っていたら、われわれは“賢者の贈り物”を手にすることはない。合理性を追求することは、必ずしも人間を幸福にしない――「もっとも効率的なプレゼントは現金を贈ることだ」という言葉によって、それが背理法的にあぶりだされているように私には思えるのだ。
効率を重視することは、じつはあらゆるものの価値をその土台から掘り崩していく。あらゆる価値を相対化し、ひとしなみにし、最終的には無化してしまう。あくまでも合理的な見方に徹するとしたなら、12月25日という日は11月25日や1月25日といったいなにが違うのだろう? なんのためにお金を手に入れようとするの? プレゼントを買うため? なんのため? たとえば高級な腕時計を持っていたとして、それになんの意味があるの? 時間を知りたいなら百均の腕時計でいいんじゃないの? そもそも、人間が生きていることに意味があるの? どうせ、あと百年かそこらで死ぬとわかっているのに……といった具合だ。
私が思うに、人間が生きるということは、その根底にこれ以上ない不合理を秘めている。逆にいうと、人間がそのために生きる価値があると考えるものは、ほとんどが合理的でない。合理性を追求していくことは、やがてはその生の根底にある不合理にまで疑念を投げかける。「それはほんとうに意味があるのか?」と。そして、そのような問いかけをされれば、合理的に意味があるという回答はたぶん出てこない(あなたは、自分がいま生きていることに価値があると論理的に証明できるだろうか?)。ゆえに、生の根底が掘り崩されるのである。
この年の終わりに、もう一度問いたい。われわれは、かぎりのある資源を欲望のおもむくままに大量消費しながら本当にいまの経済を続けていくべきなのか。それとも、大きく舵を切って、新しい経済を模索するのか。いま、世界はその選択に直面している。
テーマは、効率や合理性を追及する経済は、本当に人を幸福にするのか、ということである。いわゆる“新自由主義”、あるいは“市場原理主義”は、本当に社会を豊かにするのか。
まず簡単なおさらいをしておきたい。新自由主義とは、古典経済学と呼ばれる経済学を現代に甦らせたものである。ひらたくいえば、政府が余計な介入をせずに自由に動くままにまかせておくほうが経済はうまいくという考え方だ。そのような考え方は“自由放任経済”(レッセフェール)として19世紀にはかなり広く共有されていたが、20世紀に入るとだんだん衰退していった。それが、1970年代ぐらいになって再び注目されるようになった。アメリカのレーガン大統領やイギリスのサッチャー首相などがこの考え方を導入し、日本でも、同時代の中曽根首相がやはりこの流れに乗った。その後の小泉首相なども基本的にこの立場に立っていて、「規制緩和」や「民営化」によって経済がよくなるという発想はその延長線上にある。これまでに本ブログで何度か問題視してきた金融自由化も、同じベクトルを共有しているとみていいだろう。
もっとも、新自由主義批判は、いまではそれほど珍しくない。それらがはらむ問題点も次第にあきらかになってきて、最近では無条件に新自由主義を肯定する人は少なくなっていると思う。だが、それでも規制緩和や民営化は基本的によいことで進むべき方向であるという考え方は根強く残っているようにみえる。それがたとえば、多くの世論調査においてTPP賛成のほうが多いというようなところにもつながってくる。「格差の拡大」や「貧困」が問題となっても、依然として世間では、規制緩和・民営化を推進して「小さな政府」を目指すべきという考えが主流らしい。私は、その点に異議を唱えたい。
その一環として、新自由主義の旗手と目すべき経済学者ミルトン・フリードマンに関する一つの逸話を紹介しよう。これはたしか、今年亡くなった経済学者の宇沢弘文が語っていた話だと記憶する。
あるときフリードマンは、近々イギリスのポンドが切り下げられるという噂を聞きつけた。そしてどうやら、それは確かな話らしかった。ということは、ここでポンドを空売りしておけば大金が儲けられる。そう考えたフリードマンは、シカゴの銀行に行ってポンドの空売りを申し込んだ。ところが、銀行側はそれを断った。「われわれはジェントルマンだからそのようなことはしない」というのである。この対応に、フリードマンは激怒した……
この話を紹介したのは、なにもフリードマンの人となりを非難したいからではない。このエピソードに、新自由主義というもののはらむ胡散臭さがにじみ出ていると考えるからだ。
私の考えるところでは、新自由主義は人間性を蝕んでゆく。人間を“ジェントルマン”でなくしていくのである。たとえば、2008年いわゆるリーマンショックが起きたときに、穀物の価格が暴騰したことがあった。これは、株や金融商品の市場がフリーズしてしまい、行き場を失った大量のマネーが商品市場に流れ込んだためだと考えられている。穀物が狙われたのは、一つにはバイオエタノールの原料ということで注目されていたということもあるが、もっと根本的にはそれが生活必需品だからだろう。これがたとえばダイヤモンドのようなものだったら、価格が異常に上昇すれば誰も買わなくなるだけのことである。だが、穀物なら買わないわけにはいかない。そこで、穀物をターゲットにするというわけだ。穀物価格の暴騰は、当然ながら世界中に――とりわけ途上国に――大きな混乱を引き起こしたが、マネーゲームのプレーヤーたちはそんなことにはおかまいなしである。生きていくために穀物を買わなければならないことにつけこんで、莫大な利益をむさぼるのだ。これと似たような事例は、東日本大震災の後にもみられた。あの震災の直後、円高が進むのではないか(阪神大震災の後に円高が起きたという過去の事例からそう予測された)という見方から円が暴騰した。また、復興のための資材に投機的なマネーが流れ込んで資材価格を押し上げているという指摘もあった。いずれも結果として復興の妨げとなっており、これによって利益を得た投資家は――厳しい表現だが――未曾有の大災害をだしにしてカネを儲けていると批判されてもやむをえまい。このような取引に対して、もし先のシカゴの銀行員が窓口にいたら「われわれはジェントルマンだからそのようなことはしない」というのではないだろうか。市場原理主義のもとでは、紳士が町からいなくなるのだ。
さて……なんともすさんだ話になってきたので、ここでもう一つ、別の物語をとりあげることにしよう。
それは、タイトルにもなっている“賢者の贈り物”だ。「賢者の贈り物」とは、ご存知の方も多いと思うが、O.ヘンリの名作短編である。やや時期を逸した感もあるが、心温まるクリスマスストーリーということで本稿のタイトルにした。
この短編に登場する男と女は、相手にクリスマスプレゼントを贈りたいと思っているが、そのためのお金がない。そこで男は、ひそかに腕時計を売り、その金でクシを買う。そして女は、これまたひそかに自分の長い髪の毛を切ってそれを売り、腕時計のためのバンドを買う。その結果は滑稽なすれ違いとなってしまうわけだが、それによって二人は、なににも代えがたい“賢者の贈り物”を手にする――というストーリーだ。
で、経済の話に戻る。ミルトン・フリードマンは、その代表的著書『選択の自由』のなかで「もっとも効率的なプレゼントは現金を贈ることだ」というようなことをいっているのだが、「賢者の贈り物」を読んだうえでこの言葉を聞くと、なんとばかげたことをいっているのだろうと思わずにはいられないのだ。クリスマスプレゼントに現金をやりとりするというのは、なにかとても大切なことがないがしろにされているような気がする。そんなふうに考えるのは、決して私ひとりではあるまい。
もちろん、フリードマンもある種の極論としてそんなふうにいっているのではあるだろう。しかし、私が思うには、たとえ誇張された表現だとしても、これは一面の真理を突いている。つまるところ、効率を重視するというのはそういうことなのだ。クリスマスプレゼントに現金を贈っていたら、われわれは“賢者の贈り物”を手にすることはない。合理性を追求することは、必ずしも人間を幸福にしない――「もっとも効率的なプレゼントは現金を贈ることだ」という言葉によって、それが背理法的にあぶりだされているように私には思えるのだ。
効率を重視することは、じつはあらゆるものの価値をその土台から掘り崩していく。あらゆる価値を相対化し、ひとしなみにし、最終的には無化してしまう。あくまでも合理的な見方に徹するとしたなら、12月25日という日は11月25日や1月25日といったいなにが違うのだろう? なんのためにお金を手に入れようとするの? プレゼントを買うため? なんのため? たとえば高級な腕時計を持っていたとして、それになんの意味があるの? 時間を知りたいなら百均の腕時計でいいんじゃないの? そもそも、人間が生きていることに意味があるの? どうせ、あと百年かそこらで死ぬとわかっているのに……といった具合だ。
私が思うに、人間が生きるということは、その根底にこれ以上ない不合理を秘めている。逆にいうと、人間がそのために生きる価値があると考えるものは、ほとんどが合理的でない。合理性を追求していくことは、やがてはその生の根底にある不合理にまで疑念を投げかける。「それはほんとうに意味があるのか?」と。そして、そのような問いかけをされれば、合理的に意味があるという回答はたぶん出てこない(あなたは、自分がいま生きていることに価値があると論理的に証明できるだろうか?)。ゆえに、生の根底が掘り崩されるのである。
この年の終わりに、もう一度問いたい。われわれは、かぎりのある資源を欲望のおもむくままに大量消費しながら本当にいまの経済を続けていくべきなのか。それとも、大きく舵を切って、新しい経済を模索するのか。いま、世界はその選択に直面している。