真夜中の2分前

時事評論ブログ
「真夜中の5分前」→「3分前」→「2分前」に

パンドラの箱――集団的自衛権行使事例を検証する(NATOによるアフガン侵攻)

2016-07-06 18:11:02 | 集団的自衛権行使事例を検証する
【集団的自衛権は、世界を平和にも安全にもしない。泥沼の紛争を引き起こし、テロや難民といった難題を生じさせるだけだ。アフガニスタンは、その象徴的な例である】


 集団的自衛権行使事例として、今回は2001年のNATOによるアフガン侵攻を取り上げる。
 アフガニスタンについては、旧ソ連が侵攻した例もあるが、それについてはすでに書いたので、今回はNATOのケースを中心に扱う。


■もっともわかりやすい失敗例
 このケースについては、あらためて経緯を説明するまでもあるまい。
 2001年、アメリカで同時多発テロが発生した。これを、タリバンが支配するアフガニスタンによる攻撃と断定したアメリカは、アフガニスタンへの報復攻撃を決定。それを手助けするかたちで、NATOも攻撃に加わった。これが、集団的自衛権の行使として報告されている。

 コンゴ紛争の例などに比べれば、これは本来の集団的自衛権に近いといえるだろう。

 集団的自衛権は、しばしば「Aという国がBという国から攻撃された際にCという第三国が、自分が攻撃されたとみなしてBに対して反撃すること」というふうに説明される。
 実際にはそのような形で行使されることはほとんどなかったわけだが、このアフガンのケースは一応そういう構図になっている。そういう意味では、この事例は「集団的自衛権」というものの本来のあり方といえる。

 しかし、ここであきらかになるのは、本来の“正しい”使われ方をしても、やはり集団的自衛権は害悪しかもたらしていないということだ。

 NATOがアフガンを攻撃したことによって、世界は安全になっただろうか?
 イエスだといえる人はいないだろう。
 むしろ、こうして中東を攻撃したことが、ヨーロッパでイスラム過激派によるテロを引き起こす一つの理由となっているし、難民問題にもつながっている。難民問題はイギリスのEU離脱の原因の一つともいわれている。集団的自衛権を行使したことは、NATO諸国を危険にし、不安定にしただけである。


■ドイツの失敗
 アフガン侵攻は、NATOがその結成以来はじめて集団的自衛権を行使した事例だが、ドイツにとっては戦後はじめての域外派兵でもあった。
 それまでのドイツは、憲法にあたる基本法で域外派兵を禁じていたのだが、解釈変更によってそれを可能にした。
 これは、日本が憲法の解釈変更によって集団的自衛権行使を可能にしたのと似ている。そのため、ドイツのアフガン派兵は、日本の今後を占う先例ともみられている。
 
 そういう観点からみれば、日本が集団的自衛権行使を容認したということは、大きな過ちとしか考えられない。
 ドイツは、後方支援や治安維持活動などに限定してアフガンに軍を派遣したが、結局は戦闘に巻き込まれる例も起こり、結果として55人の犠牲者を出した。“後方支援”に限定したはずが、実際には6割が戦闘に巻き込まれての“戦死”だったという。

 そもそも、アフガニスタンに対する「報復」という不毛な戦争である。
 その不毛な戦争に派兵し、少なからぬ死者を出し、結果として自国をテロや難民流入のリスクにさらすことになった。これを失敗といわずしてなにを失敗というのか。
 日本がもし集団的自衛権を行使したなら、ドイツと同じように泥沼に足を踏み込むことになりかねないのである。


■集団的的自衛権は、それに関与したすべての国に害悪をもたらす
 集団的自衛権には、最低でも三つの当事者が存在する。
「Aという国がBという国から攻撃された際にCという第三国が、自分が攻撃されたとみなしてBに対して反撃すること」というときの、A、B、Cの三つである。今回のケースでいえば、Aがアメリカ、Bがタリバン政権、CがNATOということになる。
 そのうち、NATOとアフガニスタンについて書いてきたが、ではアメリカはどうか。
 アメリカは、NATOによっていわば助太刀してもらったかたちだが、ではそれでアメリカはアフガン戦争によってなにかいいことがあったのか。
 これも、そんなことはないだろう。
 アメリカは、アフガンという泥沼に足を突っ込んで、今でもそこから抜け出せずにいる。
 オバマ大統領はアフガン戦争の終結を公約にかかげていたが、結局のところ任期中にアフガンから米軍を撤退させることは断念した。アメリカは、アフガンが無秩序の混沌に陥らないために、今なお軍を駐留させざるをえないのである。それがアメリカに大きな負担を強いていることはいうまでもない。


■集団的自衛権は紛争を拡大・泥沼化させる
 「最低でも三つの当事者が存在する」と書いたが、それはあくまで「最低でも」である。
 実際には、もっと多くの当事者が関与する場合がある。
 つまり、「Aという国がBという国から攻撃された際にCという第三国が、自分が攻撃されたとみなしてBに対して反撃する」ということをした場合、さらに「D」という四番目の当事者が、かなりの高確率で現れる。AにCが助太刀をすれば、それに対抗してBの側にもDという助太刀が入る。こうなることによって、当事者が増え、紛争は長期化・泥沼化していく。これは、これまでにみてきた実際の事例で頻繁に見られたことだった。

 今回のアフガニスタンのケースでも、変則的な形ながら、それは起きた。
 イスラム過激派勢力が、アフガニスタンの外から流入してきて、NATO軍に対抗し始めたのである。
 それによって、やはりこの戦争も泥沼化した。
 NATO側は、多いときには十万人以上の兵を駐留させていた。それにたいしてアフガンのゲリラは、多くても3、4万人ほどといわれている。数の上でも、装備の質においても、NATO軍はゲリラを圧倒していた(当たり前だが)。にもかかわらず、ゲリラを殲滅することはできず、アフガニスタンは、もう手の施しようもないぐらいきわめて不安定な状態に陥ってしまった。

 私が考えるに、「集団的自衛権によって安全が保障される」という主張が見落としているのはここだ。
 集団的自衛権を論ずる本では、ここで書いたような「A国、B国、C国……」というようなシミュレーションがよく出てくるのだが、彼らのシミュレーションは、たいていの場合Cまでで終わってしまっている。D以降が出てくるとしても、それは「Bから攻撃されたA以外の国」としてである。Bの側に助太刀が入るという可能性が見落とされているのだ。
 だから、彼らの集団的自衛権容認論は、現実に起きていることからかけ離れたものになる。
 実際には、集団的自衛権が行使されれば、かなりの確率でDという第四の当事者が介入してくる。ベトナム、チャド、アンゴラ、コンゴ、タジキスタン、そしてアフガニスタンなどで、そういう現象が見られた。こうして当事者が増えることで、紛争は拡大・泥沼化し、収拾のつかない状態に陥る――それが、歴史上の実例からみえてくる集団的自衛権の現実である。


■パンドラの箱
 アフガニスタンは、二度にわたって集団的自衛権行使の舞台となった。
 一度目のソ連による侵攻では、それによってはじまった十年以上にわたる泥沼の戦争の末に、タリバン政権というイスラム過激派政権が誕生するという結果に終わった。
 そのタリバン政権がアメリカを攻撃したことによって二度目の戦争が起きたが、ここでもやはり、勝者なき泥沼の戦いに陥った。それに関与した国を平和にも安全にもすることなく、多くの死者を出しただけである。
 そういう意味では、アフガニスタンという国は、集団的自衛権がいかに危険で無益なものかということの象徴といっていい。
 集団的自衛権とは、泥沼の紛争と、その結果としてのテロや難民といったさまざまな問題が飛び出すパンドラの箱を開く鍵でしかないのである。

アフリカの世界大戦――集団的自衛権行使事例を検証する(コンゴ紛争)

2016-06-29 21:09:23 | 集団的自衛権行使事例を検証する
 集団的自衛権の行使事例を検証するシリーズとして、今回はアフリカのコンゴ紛争をとりあげる。

 コンゴ紛争は、その規模の大きさから「アフリカの世界大戦」「アフリカ大戦」などとも呼ばれる。単一の内戦としては第二次大戦後最悪とされ、死者はおよそ540万人ともいう。集団的自衛権行使の全事例のなかで、確実に最大規模のものである。

 その舞台となったのは、コンゴ民主共和国。
 かつてはザイールとも名乗っていた、アフリカの中央に位置する大きな国だ。ここを中心にして、20世紀末から21世紀にかけて周辺諸国を巻き込んだ大戦争が起きた。
 ちなみに、「コンゴ共和国」というよく似た名前の国があるが、これはコンゴ民主共和国とは別の国である。当記事のなかでは、単に「コンゴ」といった場合には「コンゴ民主共和国」のことを指している。

■コンゴの歴史
 コンゴ民主共和国は、19世紀にベルギーの植民地となったが、“アフリカの年”と呼ばれた1960年に独立した。
 しかし、ベルギーはなんの準備もない状態で植民地を独立させたため、その当初から大きな混乱が生じることになった。
 コンゴ動乱と呼ばれるこの紛争の結果、初代首相パトリス・ルムンバは、職を逐われたすえに虐殺される。そしてやがて、軍人のモブツ・セセ・セコがクーデターで政権を掌握し、国名をザイールとした。
 モブツは独裁者として知られる人物で、世界第三位の汚職者ともいわれ、汚職の額はアフリカで最大という状況をもたらした。そのモブツの30年あまりにわたる独裁の末に起きたのが、二度の内戦である。

 この紛争は、あのルワンダの虐殺とも関係がある。
 1994年に、ルワンダで虐殺事件が起きたが、その虐殺の報復をおそれたフツ系過激派のルワンダ人が、難民としてコンゴに逃れ、そこからルワンダに対して越境攻撃をしかけていた。これに対抗するために、ルワンダはモブツ政権打倒を目論んだとされている。
 それ以外にも、複雑な要因がからみあい、やがて、モブツを打倒するための武装勢力の連合軍のようなものが作られる。そのリーダーになったのは、ローラン・カビラ。この連合は、「コンゴ・ザイール解放民主勢力連合」(AFDL)と名乗った。
 1996年、AFDLは、いよいよ武装闘争に踏み切り、モブツ政権を倒す。
 第一次コンゴ紛争と呼ばれるこの戦いで、勝利したカビラが大統領となった。
 しかしカビラは、やがてAFDLを支援していたウガンダやルワンダと対立するようになる。これに怒って、1998年に、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジがコンゴ国内の反政府勢力を支援するという口実で介入していった。これが第二次コンゴ紛争で、この3カ国の介入が「集団的自衛権の行使」として国連に報告されている。

 ここでまず指摘しておかなければならないのは、これがどう考えても「自衛」ではないということだ。
 これまでの事例もすべてそうだといっていいが、集団的自衛権は他国を攻撃する口実として利用されてきた歴史がある。このコンゴ紛争の例もまさにそうで、どこからどうみても「自衛」のためではない。集団的自衛権は、法理上の理論がどうであれ、実際の運用においては攻撃(もっと強い言葉でいえば「侵略」)のための論理なのだ。

■集団的自衛権の行使によって紛争は拡大した
 集団的自衛権は、しばしば紛争を拡大させるということを当ブログでは指摘してきた。
 二つの勢力間の紛争に第三者が介入していくと、さらに別の勢力が介入してくる――これは、ベトナム、アフガン、チャド、アンゴラなど、集団的自衛権が行使されたときに広く見られた現象である。これらの国では、集団的自衛権の行使といって米ソなどが軍事介入した結果、それがまた別の国の介入を誘発し、紛争が泥沼化していった。

 そして、このコンゴ紛争においても、それまでの事例と同様に、集団的自衛権の行使は新たな勢力の介入を引き起こした。
 ルワンダなど三カ国から軍事介入を受けたカビラ政権は、それに対抗するために周辺国に支援を要請した。そして、その要請に応じて、アンゴラ、ジンバブエ、ナミビア、チャド、スーダンが介入している。集団的自衛権が行使されたことによって、8つの隣国が介入する大戦争となったのである。このうちチャドとスーダンの介入は短期間の限定的なものだったようだが、それにしても、ここでもまた集団的自衛権は、紛争を拡大・泥沼化させる役割を果たしたのだ。

 また、上述の8カ国は直接軍事的な介入をした国だが、間接的なものも含めれば、アメリカなど欧米諸国も含めて19カ国が関与しているという。それらすべてが集団的自衛権行使の結果とはいえないかもしれないが、少なくとも、集団的自衛権によって紛争が解決の方向に向かうなどということはないのである。

■“メルシィ・コンゴ”
 もう一つ指摘しておかなければならないのは、このコンゴ紛争においては、資源の略奪がみられたということだ。

 コンゴ東部は、さまざまな地下資源が存在することで知られ、その地下資源の存在がコンゴ独立以来紛争の火種になってきた歴史がある。コンゴ紛争において介入した国々が、これらの鉱産資源を収奪していたとされる。
 小川真吾氏の『ぼくらのアフリカに戦争がなくならないのはなぜ?』(合同出版)という本によると、コンゴ紛争がはじまってから、ウガンダの金の輸出量は50倍となり、ダイヤモンドは13倍、コルタンは27倍以上となっている。
 この“コルタン”という物質は、特に希少性が高い。
 タンタルとも呼ばれるこの金属は、いわゆるレアメタルで、世界の埋蔵量の8割がコンゴにあるとされる。
 このコルタンの収奪で、ルワンダもまた利益を得ていた。その莫大な利益で、ルワンダの首都キガリには豊かな町ができた。その町を、現地の人々は皮肉をこめて「メルシイ・コンゴ(ありがとう、コンゴ)」と呼んだという。

 集団的自衛権の名の下に、このような収奪が行われていたのだ。
 コルタンは携帯電話やゲーム機などに使われる金属であり、この件は遠く離れた日本人にとっても他人事ではない。われわれは、こうして紛争によって収奪されたコルタンを、そうとは知らずに消費している可能性が高いのである。

 また、“資源目当て”というのは、カビラの要請に応じて介入した側も同様で、アンゴラは石油、ナミビアはダイアモンドなどの利権を狙って介入したといわれている。
 そもそも、かつてのモブツ政権をアメリカなどは支援していたのだが、それも資源が目当てといわれる。銅やコバルトなどの資源を確保するために、モブツ政権に資金や武器を援助していた。
 この事例にかぎらず、アフリカの紛争にはそういう問題がつきまとっていて、そうした背景を踏まえると、「独裁者を倒すための正義の戦い」というしばしば持ち出される“大義”も疑わしくなってくる。

■終わらない混沌
 コンゴ紛争自体は、2002年に和平合意が結ばれている。
 そのことは、ひとまずは歓迎すべき出来事だろう。しかし、それ以降も戦闘は散発的に起きているといわれ、コンゴという国はいまでも政情が安定しているとはいえない。紛争の過程で多くの難民や国内避難民が生まれ、複雑な民族問題などもからんで、簡単には解決できない根深い問題が残っているのだ。
 これまで見てきた事例でも、集団的自衛権が行使された国は、多くの場合そんなふうになっていた。集団的自衛権は紛争を泥沼化させるばかりでなく、その地域を長期にわたって不安定化させる。その一般則をここでも見出すことができる。

 結局のところ、コンゴ紛争においても、これまでにみてきた事例と同様に、集団的自衛権は、事態をなんらよい方向に導かず、紛争を激化、泥沼化させる役割しか果たさなかった。むしろ、集団的自衛権の行使によって紛争は周辺諸国を巻き込み、「世界大戦」とまで呼ばれる状況を作り出した。そしてその背後には、「資源の略奪」という問題も見え隠れしている。
 このコンゴ紛争の例をみれば、「集団的自衛権によって安全が守られる」などという言説がいかに欺瞞に満ちたものかがわかるだろう。集団的自衛権は、その性質上、他国侵略のための口実にすぎず、平和にも安全にも寄与せず、火に油を注ぐだけの代物なのだ。

最後のサムライ――集団的自衛権行使事例を検証する(ロシアによるタジキスタン介入)

2016-06-08 20:03:42 | 集団的自衛権行使事例を検証する
 長らく中断していたが、当ブログでは集団的自衛権行使事例を検証するシリーズというのをやっている。以前再開するといっておきながらまた中断していたが、今度こそ本格的に再開しようと思う。ということで、今回は90年代のタジキスタンのケースを扱う。

 タジキスタンといわれてもピンとこない人が多いかもしれないが、この国は、いわゆる中央アジア五カ国の一つで、その名前から想像がつくとおりパキスタンやアフガニスタンの近くに位置している。中央アジア五カ国(カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス。だいたい北西のほうからこの順番に並んでいて、頭文字をとって“加藤タキ”と覚えるといい)、は、いずれも、かつてはソビエト連邦を構成する国の一つだった。1991年の旧ソ連崩壊後、その構成国の多くは独立した国家となったが、タジキスタンもまたその一つである。
 それらの国のいくつかは、独立後、潜在的な政情不安を抱えていたが、タジキスタンもそうであった。ソ連邦崩壊後の不安定な情勢のなかで、国内で共産党系勢力とイスラム系勢力の間に対立が生じ、これが内戦に発展した。そこへ、ロシアが集団的自衛権の行使として介入していったのである。

 このケースについては、正直なところ特筆すべきこともあまりないのだが、一応指摘しておくべきなのは、ここでも他の事例と同様の現象が見られたということだろう。
 ベトナム、アフガン、チャド、アンゴラなどの事例でみてきたように、集団的自衛権の行使といって関係ない第三国が介入していくと、それに対抗して別の国――いうなれば“第四国”――が介入してくるということがしばしば見られる。タジキスタンでも、それは起きた。タジキスタンの場合は、ロシアの介入が、イランの介入を招いた。
 ただ、そこから先は、ベトナムやアフガンとは違っていた。
 ベトナムやアフガンでは、第三国の介入に続いて第四国が介入してくることで紛争が泥沼化、長期化していった。それは、東西冷戦という文脈がその背景にあって、第三国と第四国が敵対していたからである。だが、タジキスタン内戦の場合は、ロシアとイランが敵対していたわけではなかった。今でもそうであるように、むしろこの二国は友好関係にある。したがって、その介入が内戦を泥沼化させるというふうにはならなかった。東西冷戦構造が消滅し、複雑に錯綜した対立軸で紛争が起きるようになった時代の先駆的な事例といえるかもしれない。結果として5万人ともいわれる死者を出した内戦ではあるが、ほかの事例と比べれば、タジキスタンの場合は「集団的自衛権が行使されたにしてはあまりひどいことにならなかったケース」なのである。

 ここで、本稿のタイトルについて。
 このタイトルは、有名映画からとったわけではない。内戦期のタジキスタンで活動し、「最後のサムライ」と呼ばれた日本人・秋野豊氏を意識してつけたものである。
 秋野氏は、和平交渉のために、国連職員としてタジキスタンに赴いた。そして、タジキスタン各地に根を張る武装勢力のリーダーたちと粘り強く交渉し、和平を働きかけた。誠実に交渉に臨む彼の姿勢に、はじめは頑なだった武装勢力も次第に耳を傾けるようになり、次第に武装解除に応じるようになっていったという。残念ながら秋野氏は、タジキスタンでの活動中に命を落とすことになったが、彼の活動はいくらかでも和平に寄与していただろう。
 国際貢献とは、このような形で行われるべきである。
 ロシアやイランが介入したことが、タジキスタンにとってよいことであったとは私には思えない。むしろ、秋野氏のように、武力ではない形で和平を働きかけるほうが、よほど効果があるし、尊敬もされるだろう。実際タジキスタンでは、彼の名を冠した大学がつくられるなど、秋野氏は今でも非常に尊敬されているという。
 去年、安倍総理はタジキスタンを訪問し、秋野氏を追悼したというが、本当に秋野氏を悼む気持ちがあるのなら、集団的自衛権などではなく、武力ではない形の国際貢献を模索するべきだ。

嘘と欺瞞にまみれた戦争――集団的自衛権行使事例を検証する(湾岸戦争)

2016-02-28 21:03:04 | 集団的自衛権行使事例を検証する
 ながらく中断していたが、当ブログでは、「集団的自衛権行使事例を検証する」というシリーズをやっていた。
 前半のまとめを書いたところからだいぶ時間が空いたが、このあたりでいよいよ後半をスタートしたいと思う。

 ここからは、90年代に入る。
 前にも書いたが、私見では、この湾岸戦争あたりを境目にして集団的自衛権はやや性質が変わってくる。それまでの事例は、新植民地主義的利権や東西冷戦における陣取り合戦というものが背後にあったが、そうした構図は薄れてくる。さすがに90年代ぐらいにもなるとかつての列強諸国も露骨に植民地主義的な行動はとれなくなるし、冷戦構造が崩壊したことで東西の対立もなくなっていく。そこで、新しい紛争の形が生じることになる。湾岸戦争は、その新しい事例のさきがけといえるだろう。

 ことの発端は、1990年。
 この年の8月2日に、フセイン政権下のイラク軍がクウェートに侵攻する。イラク軍は、またたく間にクウェートを席巻し、わずか6時間で首都のクウェート市を占領。8日にはクウェートを併合すると宣言し、28日にはクウェートを19番目の州とする、とした。
 これに対して、国連は即時無条件撤退を要求。期限までに撤退しない場合には武力行使も辞さないとする国連決議を採択する。
 その撤退の期限とされたのは、1991年の1月15日。結局のところ、その期限までにイラク軍が撤退することはなく、1月17日に、多国籍軍はイラクへの攻撃を開始した。世にいう湾岸戦争のはじまりである。この戦争に敗北し、イラクはクウェートからの撤退を余儀なくされる。

 この経緯だけをみれば、この事例は成功例のようにも思えるかもしれない。
 たしかに、目的が「クウェートをイラクから解放する」ということだとすれば、それには成功している。その意味では、集団的自衛権行使事例のなかでも、小国への弾圧という形以外で当初の目的を果たすことができた数少ない事例の一つではある。国連が本来意図している「集団安全保障」に近いものともいえるだろう。

 だが、いくつか留意しておかなければならない点がある。

 たとえば、そもそもアメリカは、湾岸戦争以前にはフセイン政権を支援していたということ。
 これは、こういった問題に関心をもっている人にとっては常識として知られていることだと思うが、いくらか補足的な説明をしておくと、アメリカによるフセイン支援は、以前ニカラグアの事例で紹介した「イラン・コントラ事件」ともつながっている。
 1970年代末にイラン革命でイランにイスラム体制ができたことで、それを打倒しようとするイラクとの間でイラン・イラク戦争が勃発。欧米諸国は、これを兵器産業にとっての“商機”ととらえ、イラン、イラクの双方に武器を売却して利益を得ていたとされるが、そんななかで起きたのがあのイラン・コントラ事件だった。この“取引”でアメリカがイランに売却した武器はかなりの規模にのぼっていて、それによってイラン側がイラクを圧倒する可能性が出てきた。欧米にしてみれば、イランとイラクがずっと戦争をし続けて武器販売の“お得意さま”でいてくれていることが望ましいのであり、どちらが勝ってしまってはうまみがなくなる。まして、勝つのがイランの側であっては非常に困る――そこでアメリカは、慌ててイラク側を軍事支援し始めた。つまり、アメリカは、自分の勝手な都合でフセイン政権を支援していたのである。このような経緯を考えれば、湾岸戦争について「正義のアメリカが悪のフセイン政権を倒した」などという見方は成り立たないことがわかるだろう。

 そして、危機の発生から開戦にいたる過程においても、いろいろと胡散臭い話がある。たとえば、イラク側は密かにクウェート侵攻についてアメリカに打診していたといわれている。われわれはクウェートに侵攻するつもりでいるが、もしそうした場合、アメリカはなんらかの対抗措置をとるか、と。
 これに対して、アメリカ側は黙認の姿勢をみせた、あるいは、そのようにもとれる発言をした。それを受けて、イラクはクウェートに侵攻したというのである。
 
 また、開戦に先立って“ナイラ証言”というものがあった。
 これは、イラクの侵攻後にクウェートから逃れてきたという少女ナイラが、その壮絶な体験を証言したというものなのだが、その内容は実は虚偽だったことが後にあきらかにされている。実際には、このナイラという少女はクウェートの駐米大使の娘で、イラクの侵攻後に逃れてきたというのはウソだった。アメリカ国民の間に開戦の機運を盛り上げようと、当時のブッシュ政権が画策し、ヒル&ノウルトンというPR会社にでっちあげさせた宣伝工作だったのである。
 にわかには信じがたいような話かもしれないが、アメリカにはこうやって嘘で戦争を始める伝統が昔からある。以前このブログで紹介したベトナム戦争のトンキン湾事件がそうだったし、大量破壊兵器があるといってはじめたイラク戦争もそうだ。この伝統は、古くは今から100年以上前の米西戦争にさかのぼるともいう。その背景には、「たとえきっかけが嘘であったとしても結果がよければ別にかまわない」という考え方があるともいわれる。そして、湾岸戦争もその延長線上にあるのだ。

 このように、湾岸戦争はそこに至るまでの経緯に嘘や欺瞞が散見される。
 こういったことを考えれば、「アメリカを中心とする正義の多国籍軍が悪のイラクをやっつけた」というような単純なものではない。
 そして、湾岸戦争によって生じた状況は、その後のイラク、もちろん現在のイラクにまでつながっている。今のイラクの状況をみれば、湾岸戦争を本当に“成功例”と呼んでいいかどうかも疑わしくなってくるのである。

滅びの呪文――集団的自衛権行使事例を検証する:前半のまとめ

2015-12-16 18:57:34 | 集団的自衛権行使事例を検証する
 先日コメントをいただいたので、それに対する回答を書きたい。
 といっても、すでに一度コメント欄で回答はしている。ふだんは、コメント欄で返事を書いたらそれで終わりにしているのだが、これではいい足りないと思ったので、その続きを書くことにした。

 また、あらためて回答を書くことにしたのは、もうひとつ理由がある。それは、ちょうどこれまでのまとめを書いておくタイミングにあたっているということだ。
 私見では、1990年ごろを境にして、集団的自衛権は性質が変わっていく。そこを境目にして前半、後半にわけるとすると、ちょうどニカラグアやチャドといった80年代のケースまでが前半部分におさまる。区切りがいいところなので、その前半部分のまとめを書いておきたいと思う。

 問題のコメントは、次のようなものである。


《日本の自称平和主義者って何故持論の飛躍に気づかないんだろうか。まあ、自己肯定感の獲得が目的なのだろうから当たり前かもしれませんが。

企業の研修が徴兵だって?
もう失笑レベルです。

あとね、集団的自衛権を否定すればするほど、防衛予算も人員も沢山必要になる事にいい加減気付きなさい。
頼むから省エネで効率的な防衛力を構築する邪魔をしないで欲しいし、それで善人面するのも止めて欲しいな。》


 まず、一つの数字を紹介したい。
 それは、「5分の4」だ。
 第二次大戦以降、地図上から消滅した国は5つほどある。ソビエト連邦、東ドイツ、南ベトナム、南アラビア連邦、ユーゴスラビア(※)だ。そして、この5つのうち、ユーゴスラビアをのぞく4つが、集団的自衛権を行使した、あるいは行使してもらった国である。
 集団的自衛権の行使に関与した国が世界全体でみればごく一部(たぶん一割から二割ぐらい)でしかないことを考えれば、異常に高い割合ではないか。このうち、南ベトナムはダイレクトに集団的自衛権の行使によって起きた戦争に敗れて消滅した。ソ連の場合も、集団的自衛権を行使したことが、国家が崩壊する一因となったと考えられる。私は集団的自衛権のことを“滅びの呪文”と呼んでいるのだが、まさに、集団的自衛権というのは、ひとたびそれを行使すれば、そこに関わった国々に大きな災いをもたらし、場合によっては国家を崩壊に追いやることさえある危険な代物なのだ。

 これまでに当ブログで扱った事例で、それはよくわかる。

 たとえば、ベトナムがどれだけの犠牲をアメリカに強いたか。
 ベトナム戦争は、米兵5万人の死者を出し、莫大な戦費を費やしたうえに、結局は南ベトナムを崩壊させて、ベトナム全土をアメリカの望まない社会主義体制に変える結果に終った戦争だ。

 また、アフガニスタンも、同じようにソ連に膨大なコストを強いた。それが――どの程度の割合でかは議論の余地があるにしても――ソ連邦崩壊の一因となったと考えるのは無理なことではあるまい。そして、ソ連の介入によってはじまった内戦の後に、アフガニスタンにはタリバン政権が誕生し、この地域の不安定要素となった。大きな代償を支払ったすえに、結局は過激な原理主義国家ができただけだったのである。

 ベトナムとアフガンの例は無惨な失敗例としてよく知られるが、それ以外の例もひどいものばかりだ。

 アメリカのニカラグア干渉の場合、それによって追い落としたダニエル・オルテガが20年も経たないうちに政権に復帰している。つまりは、この干渉にほとんど意味はなかった。そして、この干渉の過程でイラン・コントラ事件という一大スキャンダルを引き起こしもした。

 同様に、ソ連が行ったハンガリーやチェコスロヴァキアへの介入も、無意味だった。これらの介入はソ連を中心とした共産主義陣営を守るためといって民主化運動を弾圧したものだが、両国とも民主化運動が完全に潰えてしまうことはなく、二、三十年後に大規模な民主化運動が起こり、これもまたソ連邦崩壊の一因となった。

 無意味という点では、イギリスが集団的自衛権の行使として行った南アラビア連邦への介入もそうだった。その介入から3年後に、南アラビア連邦は体制崩壊に追い込まれ、イギリスの介入は、国際社会から強い非難を浴びただけで、無駄に終った。

 また、アフリカの例もひどいものだった。
 チャドやアンゴラでは、集団的自衛権の行使として他国が干渉してきたことを受けて、さらに別の勢力が介入してきて、内戦は泥沼化し、長期化していった。この両国とも、集団的自衛権行使によって内戦が終わるどころか、二十年、三十年という長期にわたって内戦状態が続くことになった。ここに、集団的自衛権というものに潜む落とし穴があることを私は指摘した。紛争が起きているところに集団的自衛権によって第三国が介入してくると、しばしばさらに新たな勢力――いうなれば“第四国”の介入を招く。それによって、紛争の当事者が増え、当然の結果として内戦は長期化し、泥沼化するのである。これは、ベトナムやアフガニスタンでも見られた構図だ。

  以上が、集団的自衛権が行使された例の実態なのである。
 いったい、これらのどこが「省エネで効率的な防衛力」なのだろうか? 現実には、集団的自衛権の行使は、そのほとんどが

 ①莫大なコストがかかる。
 ②結局、目的を果たせず無意味に終わる。

 のどちらか、あるいは両方にあてはまっていて、「省エネ」でも「効率的」でもない。②については、短期的には目的を果たしたように見えるケースでも、二、三十年ほどで結局だめになっている。どちらにもあてはまらないのは、軍を進駐させただけで実際に軍事衝突は起きなかったヨルダンやレバノンのケースぐらいだ。つまり、集団的自衛権によってもたらされる結果は、ゼロかマイナスのどちらかしかなく、しかもゼロよりもマイナスのほうが圧倒的に多い。
 推進派には推進派の理論もあるだろうが、机上で「構築」した理屈がどうであろうと、歴史上の現実が示すのは、集団的自衛権はそれを行使した国にも行使してもらった国にも大きなコストを強いてきたし、意図していたような効果が得られない例がほとんど――というか、前半にかぎればすべてがそうだといっていい――ということだ。
 日本が集団的自衛権を行使するということになれば、このような泥沼の内戦に足を踏み入れることになりかねない。そして、日本の苦しい財政状況を考えれば、それは国家の破綻に直結する危機をはらんでもいる。世界の武力行使の実例を見ていれば、一度首を突っ込んでしまうと、もうやめます、といってもそう簡単に抜け出せない状態になることは十分に考えられるが、そうなったとき、どんどん膨らんでいく“戦費”をどうやってまかなうのか? 国債を大量に発行するのか? それは、現状でさえ危ぶまれている破綻の引き金になりはしないだろうか?
 そんなふうに考えるからこそ、私は集団的自衛権行使を憲法解釈によって容認した安倍政権を批判しているのである。ひとえに、お国のためというやつである。もちろん、自分の書いていることがすべて正しいと主張するつもりもない。私は、軍事についても海外情勢についても専門家ではないから、事実誤認だってあるだろうし、論理に筋道の通っていないと思えるところだってあるだろう。批判があるなら――政府や自民党の人たちとちがって――謙虚にそれを受け止めて議論をしたいと思う。しかし、批判するならせめて、数字のデータなり、そう考える根拠となる事例なりを提示してもらいたい。そうでなければ、とりあえず嘲笑するようなことを書いて相手を貶めようとするただのイメージ戦略ととられてもやむをえまい。


※……ここでいう“地図上から消滅した”というのは、名称が変わり、国境線が変更された場合をいう。単に名称だけが変わったものや、クーデターなどで体制が変わったようなケースは含まない。二つの国が統合した場合(ドイツとベトナム)は、事実上吸収されたほうを“消滅した”とみなす。また、一つの国が複数に分裂したようなケースは、もとの国名が残っていない場合のみが対象(ソ連とユーゴスラビア)。したがって、国の一部が分離独立したようなケースは除く。たとえば、スーダンから南スーダンが分離独立したからといってスーダンという国が消滅したとはいわないだろう。
 このルールで行くと、チェコスロヴァキアがチェコとスロヴァキアに分かれた例をどう扱うのかというのが問題になるが、やはり、“消滅した”とはいえないと思うのでここでは対象外にする。もしチェコスロヴァキアを含めるとしたら、この国も集団的自衛権を行使された国なので、「地図上から消滅した国家のなかで、集団的自衛権の行使に関与している国の割合」は6分の5になる。