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日韓GSOMIAは安全保障に寄与するのか?

2016-11-27 20:37:24 | 安全保障
 ついに日韓とのGSOMIA(軍事情報包括保護協定)が、締結・発効にいたった。
 韓国のパク・クネ政権は、国内の反対を押し切って締結に踏み切り、これによって防衛に関する情報などが日韓の間で共有・管理されることになる。
 この動きをアメリカも歓迎しているというが、果たしてこれが本当に北朝鮮の脅威に対する正しい対処法なのだろうか。私には疑問である。

 だいたいいまのパク・クネ政権の悲惨な状況をみていると、彼らに軍事的な機密情報を知らせてほんとに大丈夫なのかと思うが、たとえこの状況がなかったとしても、私はこの日韓GSOMIAというものに批判的だ。

 そもそも日韓の関係というのは、どうにもぎくしゃくする。
 日本の自衛隊の艦船が韓国に行くと、旭日旗がどうとか船の名前がどうとかいうことでひと悶着起きる。また、有事の際に日本が在韓邦人を救出するのに必要な情報を、韓国側は渡さないといっているなど、歴史認識問題や領土問題などを背景にした対立が解消しない状況が続いている。これではGSOMIAを締結したことが本当に日本にとってプラスになるのか疑問ではないか。

 そして、もっと根本的な問題として、当ブログのかねてからの主張である「軍事的な同盟関係を結ぶことが抑止力になることなどない」ということもあらためていっておきたい。

 だいたい、これまでの経緯を考えれば、これで朝鮮半島の情勢が改善するとはとうてい考えられない。
 北朝鮮の核・ミサイル開発は、日米韓がプレッシャーをかけていることに対する反応として起きていることであって、ここで日韓がさらに協力体制を強化すれば、北はむしろこれまで以上に核やミサイル開発をハイペースで進めようとすることになるのは疑いようがない。
 “抑止力”という同じ理論をもったままで逆の立場に立って考えてみれば、これは簡単に分かることだ。今回の動きは、北朝鮮からすれば「日本と韓国が結束してわれわれに軍事的圧力をかけようとしている。それならこっちは、国を守るためにもっと抑止力を強化しなければ」ということになる。それが北をさらなるミサイル発射や核実験に駆り立てる――ということのほうがよほどありそうだ。


 そして中国も、さっそく日韓GSOMIA締結に反発している。これが「地域の安定を損なう」というのである。
 少し前に「核の傘」に関して書いた記事とも関わってくるが、中国は彼らの「核抑止」理論に基づいて、核抑止体制を崩すものとして、日米韓が進めるミサイル防衛に強く反発している。ゆえに、先日アメリカが韓国へのTHAAD配備を決定したことも、批判している。
 これが単に文句をいうだけなら別にいいのだが、残念ながらそういうわけにもいかない。なぜなら、北朝鮮問題の鍵を握っているのは中国だからだ。
 北朝鮮の暴走を抑えるためには中国の力が必要だといわれるが、日米韓が協調してミサイル防衛を進めると、中国がそれに反発して対北包囲網の足並みが乱れるという問題がある。実際に、それがあるために北朝鮮に一致して圧力を加えるということができないという状況は現にあるのだ。日韓GSOMIAが、そういは、その足並みの乱れをさらに深刻なものにしかねない。そして、北朝鮮はその乱れをすかさずついてくるだろう。こういった点からしても、日米韓が軍事的な協力を深めることが日本にとってプラスであるとは思えない。むしろ安全保障環境をより悪化させるおそれさえあるのではないか。

「核の傘」という概念について(コメントへの回答)

2016-11-20 20:50:14 | 安全保障
 先日コメントをいただいたので、今回はそれに対する回答を書く。
 核抑止力に関する記事に対して sica さんという方からよせられたものである。当該コメントは、以下のとおり。


《勘違いしていますが、 核武装は敵からの核攻撃を抑止するためのものであり、もとより通常戦力での戦争を抑止することを目的としたものではありません》


 当該記事で私は、核抑止力によって戦争を抑止することができていないということを書いたのだが、それに対して、そもそも核抑止力は通常戦力での戦争を抑止することが目的ではない――つまり、話の出発点がそもそも間違っている、という指摘である。

 もしかしたらとんでもない考え違いをしていたのかと思って、私もあらためていろいろ調べてみた。
 その結果としては、「核抑止」という言葉は通常兵器の戦争を抑止するという意味でも使われている、というのが私の得た結論である。
 核抑止という言葉は、

 (1)核をもつことで核による攻撃を抑止する
 (2)核をもつことで戦争そのものを抑止する

 という二通りの意味をもっているのではないか。
 もっとも手軽に確認できる例としては、ウィキペディアではこの二通りの意味が掲載されている。ウィキの解説では、「核抑止は2つの意味を持つ。ひとつは国家間の戦争を抑止するというものであり、もうひとつは核兵器の使用を抑止するというものである」としていて、はっきりと2通りの用法があると明記している。
 ウィキ情報ではいい加減だと思われるかもしれないのでもう少しちゃんとした(※1)ものでいうと、たとえば私の手元にある講談社の『日本語大辞典』という辞典には「核抑止論」という見出し語があって「核軍事力の均衡が戦争を防止し、世界の平和維持に役立つという主張」という説明がついている。ここでは、(1)のように限定した意味ではとらえられていない。「戦争を防止し、世界の平和維持に役立つ」というのだから、その有効範囲に通常戦力もふくまれていると解釈して無理はあるまい。
 あるいは、高校の現代社会の副教材である東京書籍の『ダイナミックワイド現代社会』では、重要用語として「核抑止政策」という言葉が載っていて、「核兵器を保有し核兵器による報復力を持つことによって,対立する相手国に攻撃を思いとどまらせ,自国の安全を保持しようという政策(理論)」とある。ほかに、ネット上で閲覧できる例としてコトバンクに載っている『知恵蔵2015』の解説があるが、そこでは「攻撃を受けた場合には核兵器による反撃を行って耐えがたい損害を及ぼす意思と能力があることを、あらかじめ潜在的攻撃者に伝達することによって、攻撃を未然に思いとどまらせようとする考え方」と書かれている。いずれも、特に「核による攻撃」という限定はしておらず、(2)の意味であるように読める。

 たしかに辞典類で(1)の意味だけを紹介しているものもあり、ひょっとするとそちらの狭い意味での捉え方が学術的には主流なのかもしれない。しかし、核抑止力という考え方の源流をたどっていくと、そもそもは(2)のほうだろう。

 私の手元に、講談社の『クロニック世界全史』という本があるのだが、そこに「核の時代」とする文章が載っている。
 中山茂・神奈川大学教授の筆になるその文章には、以下のように書かれている。

 《「核兵器がある権力に独占されると,その権力は圧倒的な軍事力をもつことになり,その権力に抗する紛争はもはや不可能となる。核によって脅迫されれば,物理的にそれに抗する力はなく,服従を余儀なくされる。そして核の脅威・平和のもとに,未来永劫地球上に平和が保たれる」。これが核抑止の理論である。》

 これは、核がある一つの権力にのみ独占されている前提なのだから、あきらかに「核によって核攻撃を抑止する」という意味ではない。(2)の意味にしか解釈しようがない。
 もちろん、核保有国が複数存在している現状にこの理論はあてはまらないだろう。
 しかし、たとえば1950年代のアメリカでアイゼンハワー大統領が打ち出した「ニュールック戦略」は、核戦力を充実させて、むしろ通常戦力は削減しようとしていた。これは、「核によって通常戦力での攻撃も抑止できる」という考え方にもとづくものだろう。

 また、ネット上のさまざまな記事などをみても(2)の意味で使っている例はかなりある。
 そういう状況で私が(2)の意味で「核抑止」という言葉を使ったからといって「勘違いしていますが」ときめつけるのはいかがなものだろうか。
 先に引用した中山教授の定義にしたがえば、「核抑止論では、核抑止力は通常兵器による攻撃にも作用するとされているらしい」と考えるのはごく自然だろうし、「未来永劫地球上に」とまではいかずとも、核を保有した国はその圧倒的な軍事力のゆえにいかなる形であれ攻撃されることはない、ということになるはずだ。ほかにも上述したようなさまざまな議論を踏まえれば、「核武装は敵からの核攻撃を抑止するためのものであり、もとより通常戦力での戦争を抑止することを目的としたものではありません」というのはいささか一面的な捉え方ではないか(※2)。


 また、(1)の意味に限定しても、やはり核抑止力の効果は疑わしい。
 (1)の概念――ここでは仮に「狭義の核抑止理論」と呼ぶことにするが――その「狭義の核抑止理論」も、成立しないと私は考える。
 もとの記事でも書いたが、核兵器は「使えない兵器」なのである。そもそも使えないのだから、抑止する必要もない。実際に、第二次大戦後、核保有国が非核保有国と戦争した例はあるが、そういうときでも核兵器は使われなかった。核兵器は使えないからである。ゆえに、核抑止力というのは意味がないのだ。

 ついでにもうひとつ、今回いろいろ調べるうちに知った「核の傘」理論に対する重大な疑念について書いておきたい。
 それは、「拡大抑止」についての疑問である。
 「拡大抑止」というのは、「核保有国同士でなくとも、核をもつ国と同盟していれば核保有国と同じように抑止力が働いて核攻撃を受けない」という理論である。
 これがまさに、狭義の「核の傘」理論の核心だろう。この理屈でいくと、「日本は核兵器を持っていないが、日本が核攻撃を受けたら同盟国であるアメリカが核で報復するから、日本が核攻撃を受けることはない」ということになる。 
 この拡大抑止という考え方も、非常に疑わしい。
 なぜなら、相互確証破壊の考え方でいけば、アメリカが核保有国に攻撃をくわえた場合、自国が核で報復されるリスクを負うことになるからだ。自分が攻撃されたわけではないのだから、何もしなければ核で報復されることはない。なのに、わざわざ報復されるリスクを負って(というか、相互確証破壊の考え方にしたがえば100%報復を受ける前提になるはず)核攻撃をするのか、という疑問がある。そうなったときに現実にアメリカがどうするかはわからないが、問題は、攻撃する側はアメリカの行動を予想し、その予想に基づいてしか行動しえないということである。アメリカの本当の考えがどうであれ、攻撃する側は前述したような理屈に基づいて「アメリカが核で報復してくることはない」と判断するかもしれない。そうなると、「核の傘」は機能しないことになる。このような観点からみても、「核の傘」という考え方はきわめて胡散臭いのだ。


 せっかくなのでもう少し「核抑止」という言葉の定義の問題について書いておく。
 そもそも「核抑止」とか「核の傘」とかいう言葉を使っている人たちも、その厳密な意味までは考えず、漠然と使っているように私には思える。
 もちろん、専門家の間では、その理論的根拠とされる論考が存在しており、その具体的な中身についてさまざまな理論があるだろう(※3)。しかし、一般的にそういう詳細な議論まで把握して「核の傘」を口にしている人はそういないのではないか。
 辞典類の解説にもそれが表れているように思える。
 私はこの記事を書くにあたって、「核抑止」という言葉を説明する辞典や解説書の類をいくつか参照してみたのだが、その多くに、どうもいまひとつはっきりとしない印象をもった。複数の解説をあたってみても、核攻撃に限定しているのかいないのか、それともどちらの用法もあるのか、すっきりと明言していないのだ。こっちはそこを知りたいのに、細かく読み込んでもそこがはっきりしてこない。そういう意味では、最初に紹介したウィキの説明は例外的なものである。
 邪推かもしれないが、じつはこれらの解説を書いた人たちも、この点についてはっきりといいきるだけの根拠と自信をもっていなかったのではないだろうか。解説を書くにあたって「核抑止というのは核攻撃だけに限定された概念なのか?」という疑問をもち、いくら調べてもそれがはっきりしないので、注意深く言葉を選んでどちらにもとれるようなあいまいな書き方をしているのではないか――そんなふうにさえ感じられた。


 世の中では、そういうふうに、なんとなくそれらしい言葉が意味がはっきりしないままになんとなく使われるということがある。安全保障の分野では、特にその傾向が顕著であるようにも思える。

 たとえば、「民族浄化」という言葉がある。
 1990年代にユーゴ紛争で用いられて有名になった言葉だ。民族浄化――そう聞くと、なにかとてつもなく残虐で非人道的なことが行われているらしいという感じはする。しかし、具体的にどのような行為が民族浄化にあたるのかということを正確に説明できる人がいるだろうか。
 じつは、「民族浄化」という言葉は、そもそも明確な定義があるわけではないという。
 高木勝氏の著書『戦争広告代理店』で、「民族浄化」という言葉はユーゴ紛争におけるPR戦略のなかでセルビア勢力の残虐性を強調するためにPR会社が持ち出してきたという経緯が紹介されている。セルビア側を「悪」の存在に仕立て上げるために、なるべくおそろしいイメージをかもし出す言葉が“キャッチフレーズ”として引っ張り出され、大々的に宣伝された。そうして「民族浄化」という言葉が広く流布するようになり、それが具体的に何を指すのかよくわからないままになんとなく使われているのである。
 ネット上の辞典などで調べると、「民族浄化」という言葉にはいくつもの意味が紹介されている。
 もともと漠然としたとらえどころのない言葉なので、受け手の一人ひとりが「こういうことを指すのだろう」とさまざまに想像し、もともと明確な定義がないからその一つ一つが「そういう意味もあるのだろう」と受容され、結果としてさまざまな意味をもつようになったと考えられる(※4)。

 ここでもとの話に戻ると、「核の傘」というのも、実はそういうものなのではないか。
 核を手放したくない一部の大国が、「私たちの核によって平和が守られてるんですよ。だから私たちが核をもつことは許されるんですよ」とPRするために作り出した虚構の概念にすぎないのではないか。そうだとすれば、それが具体的に指す内容にブレが生じるのも理解できる。虚構の概念であり、そもそも漠然としていて中身がないから、各人が勝手な解釈をする。その結果、人によって解釈の違いが出てくる――そのように理解すれば、意味の混乱が生じていることも説明がつく。すなわち、その指し示す内容があいまいであるということそれ自体が、「核の傘」なるものが虚構の概念でしかないことの証拠といえるのではないか。



※1……私は今ではウィキペディアもそれなりにちゃんとした辞典だと思うが、世の中には「ウィキなんて信用できない」という人も多数いると思われるので


※2……いくつかの説明を読むと、「核保有が戦争を抑止する」というのも、核兵器がダイレクトに通常戦力の抑止となるわけではなくて、「核兵器が核の使用を抑止する→核戦争につながるような全面戦争はできない→全面戦争のような戦争は抑止される」というように解釈する場合もあるらしい。つまり、「核保有によって核攻撃が抑止される」という抑止力が連鎖的にもっと低レベルの戦争にまで波及していって、結果としては通常兵器での戦争も抑止されるというわけである。この考え方でも、間接的にせよ「核武装によって通常兵器での戦争を抑止できる」ということになるはずだ。


※3……今回調べるなかでそうした議論にも出くわしたが、それによれば、安全保障論のなかでも核抑止に懐疑的な見方は少なくないらしい。
 核抑止論を否定する立場の論者は、「ミサイル防衛」の重要性を説く。彼らの議論においては「ミサイル防衛」は核抑止と対立する考え方とみなされていて、ミサイル防衛を推進するということは、「核をもつことによって核攻撃を防ぐ」という狭義の核抑止論を――少なくとも部分的に――否定することになる。
 というのは、核抑止が機能しないからミサイル防衛が必要だと考えるわけだし、また、ミサイル防衛システムが高度に構築されていけば、「相互確証破壊」という狭義の核抑止理論の前提が崩れてしまうからだ(あくまでも核抑止論者から見て)。つまり、「核抑止」と「ミサイル防衛」は相互補完しあうものではなく、ある面では矛盾する思想なのである。
 にもかかわらず、日米安保信奉者は核抑止とミサイル防衛の両方を支持する人が少なくないようにみえる。このあたりからも、核抑止論のいい加減さ、合理性を欠いた“なんとなく”感が見えてくる。


※4……一応ことわっておくが、「民族浄化」と呼ばれている残虐行為を矮小化しようという意図はまったくない。どういう言葉で呼ばれようと、そのような残虐行為が許されないのはいうまでもないことである。

自衛隊に「駆けつけ警護」の新任務付与

2016-11-16 20:55:59 | 安全保障
 いよいよ自衛隊に「駆けつけ警護」という新たな任務を付与することが閣議決定された。
 戦後の自衛隊のあり方が大きく変化するきっかけとなりうる事態である。今回は、この件について書きたい。

 先にことわっておくと、私は「駆けつけ警護」という行動それ自体については必ずしも全否定しない。準戦場ともいうべき著しく治安の悪い場所で、武装勢力が攻撃してくるというときには、武力で対抗しなければならない場合は当然あるだろうからだ。
 だが、いまの状態で自衛隊がそれをやるというのは相当に問題があると思う。交戦権の放棄をうたう憲法9条があるなかでそれをやるのは、取り繕いがたい矛盾が生じるおそれがある。この矛盾に目をつぶって無理やり強行すれば、その矛盾は現地で活動している自衛隊にのしかかってくることになるだろう。

 現行憲法では日本は武力はもたないことになっており、あらゆる制度がその前提のうえに組み立てられている。その憲法のもとで軍事的な行動をとれば、さまざまな問題が生じるのは当然だ。
 たとえば、よく指摘されることとして、日本では軍法会議が設置できないという問題がある。それは、憲法によって特別法廷を作ってはならないとされているからだ。そもそも軍隊が存在しない前提なのだから、軍法会議も存在しない。存在する必要もない――そういう話である。そうすると、自衛隊がもし他国で戦闘行為のようなことになって好ましくない結果を招いた場合に、それをどう裁くのかという問題が出てくる。結局のところ矛盾のしわよせが自衛官個人のところにきて、与えられた任務を遂行したのが望ましくない結果に終わったというだけで、「個人が起こした問題行動」として犯罪者にされてしまう危険がある。

 生きるか死ぬか、殺すか殺されるかという任務にいくのだから、そのあたりのことは完全にクリアにしてから派遣するべきだろう。
 にもかかわらず、既成事実づくりに熱心な安倍政権はもう結論ありきで話を進め、とうとう駆けつけ警護の任務付与をきめてしまった。
 稲田防衛相は、「もし南スーダンの政府軍と交戦するような事態に陥ったらどうするのか」と問われて「そのような事態は想定されない」と答えているが、これはきわめて無責任な態度である。
 繰り返すが、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの世界である。
 最悪の事態を想定してそのときどうするかを考えておくのは、危険を伴う任務に自衛隊を送り出す側の最低限の責任だろう。「都合の悪い事態は想定しない」というのは、かつての日本を破滅的な戦争に導いた指導者たちと同じ姿勢であり、安全神話にあぐらをかいて原発事故を引き起こした原発ムラと同じ論理である。

 そもそもここにいたる法整備自体、集団的自衛権に関連する各種法案とともに“安保関連法”としてひとくくりにされ、細かいところが十分に議論されなかったという問題がある。その根底にあるのは、とにかく、結論ありき、既成事実化でものごとを進める安倍政権の姿勢だ。こんないい加減なやり方で危険な任務を与えられたのでは、自衛隊員もたまったものではない。

“核の傘”など本当に存在するのか

2016-11-01 23:21:45 | 安全保障
 少し前の話しになるが、国連で核兵器禁止条約の交渉開始にむけた決議が採択された。
 しかし、米ロ英仏の核保有国などがこれに反対し、日本も反対にまわったことが批判されている。核保有国である中国さえ棄権だったなかで、唯一の被爆国である日本が核廃絶にむけた動きに反対する――というこの恥ずべき事態を、当ブログでも強く批判しておきたい。

 さて、そうすると、保守派は「これが現実路線だ」というだろう。「日本の安全保障のためには“核の傘”が必要だ」というおなじみの理屈を持ち出して。
 そこで今回は、そもそも核抑止力なるものが本当に存在するのか、という根本的な問いを投げかけておきたい。
 それはすなわち、「核兵器をもっていれば攻撃されない」といえるのか、という問題である。
 アメリカを中心とする核保有国は核抑止力というものを信じて疑っていないようだが、私はどうも「核をもっていれば攻撃されない」などということはないのではないかという気がしてならないのだ。


■核をもっていれば攻撃されない?
 たとえば、アメリカは核兵器をもっているが、攻撃されたことはないのだろうか。
 答えはノーだろう。
 ベトナム戦争の発端とされるトンキン湾事件では、哨戒作戦に従事していたアメリカの艦船に対して北ベトナムが攻撃してきた。アメリカの挑発行動という側面がたぶんにあるにせよ、核抑止力というものがもし本当に存在するのなら北ベトナムは米艦船への攻撃を思いとどまるはずだし、ベトナム戦争もあそこまで拡大することはなかったはずではないのか。
 さらに、2001年の同時多発テロはどうなのか。
 あれがタリバン政権下のアフガニスタンによる攻撃だとするなら、やはりここでも核抑止力は働かなかったことになる。
 さらにアメリカ以外の国のことでいえば、イスラエルは核兵器をもっているが、武装勢力から攻撃を受けている。インドとパキスタンは核兵器をもっているが、それでもときどき武力衝突を起こしている。中国と旧ソ連は、核保有国同士であるが軍事衝突したことがある……このような例をみていれば、「核抑止力」という発想が私にはきわめて疑わしく思えてくるのである。

 最初にあげたベトナム戦争の例は、特に重要だと思うのでもう少し詳しく書いておく。
 「日本が“核の傘”に守られている」というのは、「日本自体は核保有国ではないが、アメリカという核保有国が後ろ盾についているから核抑止力が機能している」という意味だろう。
 しかし、その理屈はベトナム戦争という史実を考えれば成り立たない。
 その理屈が正しいのなら、「南ベトナム自体は核保有国ではないが、アメリカという後ろ盾がついているから核抑止力が機能している」、それゆえに、安全が保障される……ということになるはずである。ところが実際には、南ベトナムは北ベトナムとの激しい戦争のすえに敗戦し、事実上北に吸収されて消滅した。

■核が抑止力にならない理由
 では、核という強大な力が抑止にならないとしたら、それはなぜか。
 一つの理由として考えられるのは、核兵器は基本的に「使えない兵器」であるということだ。
 広島・長崎の経験から、核兵器を使用すれば悲惨な事態が生じることは知られている。そこまでの経緯がどうであれ、核を使用した時点で「非人道的な大量破壊兵器を使用した」として歴史に悪名を刻むことになるのは間違いない。だから、実際に核兵器を使うことにはみな二の足を踏む。
 その状況が続くと、「核兵器は実際には使えない」という認識が一般的なものになる。朝鮮戦争のような激しい戦争であっても、核兵器は使われなかった。あれだけの戦争でも、核は使えない。ということは、「たとえ核保有国を攻撃しても核で報復してくることはまずありえない」という見通しが立つことになる。ゆえに、核は抑止力として機能しなくなる。

 それ以前に、もっと根本的な問題として、そもそも核にかぎらず「抑止力」というもの自体の存在が疑わしいということもある。
 当ブログでは、軍事的な力が抑止力として働くという考え方自体に疑念を呈してきた。それは、核に関してもあてはまるのではないだろうか。
 世間には、「第二次大戦後は、核兵器が抑止力となっていたために大戦争が起きなかった」というような言説があるようだが、私にはそうは思えない。先述したように、核保有国が攻撃されたり戦争に関与している例はあるのだ。以前書いたことの繰り返しになるが、第二次大戦後の世界で大きな戦争が起きなくなったのは政治的・経済的な理由が大きいと私は考えている。


■核開発は安全保障上のリスクを高める
 さらに、核保有は抑止力どころか攻撃を受けるリスクを高める理由にさえなりうる。
 すでに核を保有している国はともかく、非核保有国が核兵器を持とうとすれば、それ自体が攻撃されるリスクを呼び込むことにもなるのだ。

 たとえば北朝鮮が核開発をするとなれば、周辺国はそれを脅威ととらえる。そこで、「核を開発する前に先制攻撃してしまおう」という発想が出てくることになる。実際、北朝鮮の核開発に対して、アメリカは先制攻撃も一つのオプションとして検討していた。
 これは結局断念したが、そのような先制攻撃が実際に行われた例はある。
 1981年にイスラエルがイラクに対して行ったいわゆる、“オシラク・オプション”がそれだ。
 このとき、イスラエルはイラクのバグダッド近郊にあるオシラク原子炉を攻撃した。イスラエル空軍のF16がイラク領空に侵入し、原子炉に不意打ちの爆撃をくわえたのだ。これは核兵器を保有しようとしたことが実際に攻撃される事態につながった例である。核開発を進めるイランに対してもイスラエルは同じことをやろうと計画しているという話があった。イランは自国の安全保障のためといって核開発を進めていたわけだが、むしろそれにって攻撃を受けるリスクを高めていたのである。
 このように、核開発はそれ自体が攻撃されるリスクを高めることになる。保守派のなかには北朝鮮の核開発に対して日本も核開発するべきだという声があるようだが、核開発によるリスクを考えれば、それはまったくの愚行である。


■“核の傘”より“非核の傘”を
 このように、核抑止力という考え方は、よくよく考えてみれば非常に疑わしい。
 核保有国が後ろ盾についているから安全が保障されるなどということはないし、ではみずから核を保有しようとすればそれ自体が攻撃を受けるリスクを高めることになりかねない。現実に起きた事例を考えれば、実際に核を保有したとしてもそれで攻撃されないという保障はない。

 ある地域の国々が合意して非核地帯を作る“非核の傘”という考え方があるが、“核の傘”よりも、この“非核の傘”のほうが、より現実的で確実な安全保障であるように私には思える。唯一の被爆国として、日本はその動きをこそ主導していくべきではないか。

軍事同盟で抑止力が高まるなどということはない

2016-07-03 16:01:35 | 安全保障
 以前当ブログでは、「抑止力は幻想に過ぎない」という記事を掲載した。
 ameba のほうでやっているブログやこのgoo のブログに対するコメントに対して書いた記事だったが、今回はその続編としてameba に投稿した記事を転載する。軍事同盟が抑止力になることもないというという内容である。


■軍事同盟で戦争を防ぐことなどできないのは、歴史上あきらか
 ここでも、机の上の理論や記号を用いたシミュレーションなどではなく、歴史上の実例に基づいて考えます。
 歴史上の実例をみてみれば、軍事同盟がまったく戦争の抑止にならないことがはっきりとわかります。

 まず、第一次世界大戦のことを考えてみましょう。
 第一次世界大戦は、1914年にセルビアとオーストリアの間ではじまりましたが、このときセルビアはイギリスと同盟していました。
 当時のイギリスは、世界屈指の大国です。ややその力に翳りが見えはじめていたとはいえ、まだ世界中に多くの植民地を持ち、“大英帝国”の面影を残してはいました。しかし、その大英帝国との同盟が抑止力になってはいないのです。

 次に、第二次世界大戦について。
 第二次大戦は、1939年にドイツがポーランドに攻め込んだことではじまりましたが、このときポーランドはイギリスと同盟していました。デジャヴです。ここでもやはり、イギリスとの同盟はドイツの侵攻を食い止める抑止力になっていません。

 セルビアはイギリスと同盟していたし、ポーランドもイギリスと同盟していた。
 しかし結局、抑止力が働くことはなく、世界大戦が起きた。しかも30年ほどの間に二度も。軍事同盟など、なんのあてにもならないということがわかります。ひとたび戦争が起きるような状況が生じれば、いくら軍備を増強しようが、同盟を結ぼうが、そんなことでは止められないのです。

 ついでにいうと、二度の世界大戦どちらのケースにおいても、イギリスは開戦当初は同盟相手であるセルビアやポーランドを積極的に救援しようとはしませんでした。自国が巻き込まれるのが不可避な状況になってから、ようやく本格的に動き出しています。特に第二次大戦ではその姿勢が顕著で、結局のところ開戦初期の段階でポーランドは全土を制圧されています。

 次に、イギリスつながりで、今度は日英同盟について考えてみましょう。
 20世紀のはじめごろ、およそ20年間にわたって、この条約は存在していました。では、それによって、日本やイギリスは戦争をせずにすんだでしょうか?
 明らかにノーです。
 この同盟の存続期間中に、日本もイギリスも戦争をしています。しかも、小競り合い程度のものではなく、日露戦争、第一次世界大戦という大戦争です。
 軍事同盟は、たかだか20年間戦争を防ぐ役割さえ果たしていないのです。

 ついでに第二次大戦と日本のかかわりで言えば、その当時の日本はドイツやイタリアと同盟していたわけです。ではこの三カ国が三国同盟のおかげで戦争をせずにすんだのか、ということになってきます。ここでも、同盟によって戦争が防がれることにならないのは明白でしょう。

 こんなふうに書いてくると、いやそれは昔の話じゃないか、という反論があるかもしれません。
 昔はそうだったろうけれど、いまのアメリカと同盟を結んでいれば抑止力になるじゃないか、という人がいるかもしれません。
 では、アメリカと同盟していれば戦争は起きないのか。
 それも、ベトナム戦争という史実によって否定されます。
 南ベトナムはこれ以上ないぐらいアメリカと一体化していましたが、そのアメリカとの一体化は抑止力にならず、北ベトナムとの泥沼の戦争の末に南ベトナムは敗戦し、消滅しました。また、ついでにいっておくと、ベトナム戦争はいわゆる「核抑止力」を否定する史実でもあります。

 もっとわかりやすい例は、9.11テロでしょう。
 世界最大の軍事力をもつアメリカが、NATOという強力な軍事同盟に加わっているのですから、もし抑止力というものがあるとしたら、これ以上ないぐらい強い抑止力が働いているはずです。しかし、そのアメリカが、タリバン政権下のアフガニスタンというとるに足らない小国から攻撃を受けているのです。

 これらの歴史的事実から、軍事同盟によって戦争が防がれるという考えもはっきり否定されます。
 軍事同盟によって抑止力が発生することなどないのです。


■「共通の敵がいるから結束する」という理屈も成り立たない
 また、「第二次大戦後に西欧諸国が戦争をしなくなったのは、ソ連という強大な敵がいたためにそれに対抗する必要から結束していたためだ」という意見がありますが、これも私は成り立たないと考えます。
 なぜなら、勢力均衡の考え方においては、同盟関係は常に流動的なものであり、「共通の敵がいるから」といって結束し続けられるものではないからです。

 歴史上の実例として、たとえば19世紀後半のフランス包囲網のことを考えればわかります。

 普仏戦争の後、ドイツ、オーストリア、ロシアが三帝協商というものを形成していました。
 これは、フランスを孤立させるために、“鉄血宰相”と呼ばれたドイツのビスマルクが主導したものです。
 しかし、フランス包囲網に加わった諸国が一致結束していられたのは、ほんの10数年ほどでしかありませんでした。ロシアとオーストリアがバルカン半島進出をめぐって対立したことからこの包囲網は瓦解し、三帝協商から離脱したロシアは、それまで敵だったフランスと手を組んだのです。

 歴史をみれば、こんなふうに敵が味方に、味方が敵に、という例はいくらでも見出せます。
 「共通の敵がいるから結束する」というのは、一面では正しいでしょう。
 しかし、もしその同盟内部で対立が生じたら、その同盟を離脱してそれまで敵だった側と手を組むという選択肢もあります。実際、そういうことは勢力均衡の考え方のもとではしょっちゅう行われてきました。

 したがって、もし英独仏といったかつての列強諸国が第二次大戦後もパワーバランス的な外交を続けていたとしたら、たとえばドイツがフランスと対立したら、フランスと手を切ってソ連と手を組むということだってできたわけです。
 このとき、イデオロギーの違いは問題になりません。
 実際、第二次大戦のときには戦略上の必要から資本主義諸国がソ連と手を組んでいるのであり、パワーバランスという発想のもとでは、イデオロギーの違いなど二の次となるのです。
 このように考えてくれば、西欧諸国が互いに対立しなかったのは、ソ連という敵がいたからだとはいえません。

 また、「ソ連という共通の敵がいたから戦後の西欧諸国は結束していた」というのは、一面ではあきらかに事実に反しています。
 というのも、フランスが、独自外交路線をとってNATOに加盟していなかった時期があるからです。西側諸国が、NATOという軍事同盟のもとで常に東側に対して結束していたわけではないのです。
 そんなのたかだかフランス一国のことじゃないかと思うかもしれませんが、そうともいえません。フランスは安保理常任理事国であり、かつての列強であり、第二次大戦以前はヨーロッパにおける戦争の常連でした。そのフランスがNATOに加盟していない状態は、「西欧諸国が結束しているとはいえない」というのに十分です。

 ついでにいっておくと、西欧諸国同士での“戦争”は生じていませんが、東側陣営では陣営内部での衝突が結構起きています。
 ソ連がハンガリー、ルーマニア、アフガニスタンなどに軍事干渉した例があります。この点からも、「同じ陣営内にいるから対立が起きない」とはいえません。やはり、英独仏西といったかつての列強諸国が戦争をしなくなったのは「同じ陣営内にいて、共通の敵がいるから」ではないのです。むしろ事態は逆で、西欧諸国同士での対立がなくなったためにイデオロギーによる東西の対立が固定化されたとさえ私は考えています。「共通の敵に対して同盟しているから対立しなかった」のではなくて、「対立が生じないから同盟が長期にわたって存続し、結果として共通の敵が共通の敵であり続けた」ということです。


■なにが本当に戦争を抑止するのか
 おそらく、抑止力論者の次なる反論は「ではなぜ日本や西欧諸国は戦争をせずにすんでいるのか」というものでしょう。

 私にいわせれば、それが抑止力のおかげだという考え方が根本的に間違っています。
 これは前に書いたこととも重複しますが、第二次大戦後、いわゆる列強諸国が互いに戦争をしなくなったのは、経済的な理由などにくわえて、領土不拡大、民族自決、無賠償・無併合……といった第二次大戦以前には実現することのなかった理念がある程度実現したためです。それまで軍事同盟で戦争を防ぐことなどまったくできていなかったのですから、そう考えたほうがはるかに合理的です。

 具体例として、先ほど出てきたフランス包囲網のことを考えればわかります。
 フランス包囲網を崩壊させたのは、バルカン半島進出をめぐるオーストリアとロシアの対立でした。つまり、植民地獲得競争が背後にあったのです。そしてこの対立が、第一次大戦にまで尾を引いています。もっといえば、イタリア・ドイツと英仏などの対立の根底にも、アフリカや中東の植民地をめぐる争いがありました。植民地獲得競争が第一次世界大戦の大きな原因の一つであることは疑いようがありません。そして、第二次大戦もある程度まではそうでしょう。
 しかし、第二次大戦後には、民族自決、領土不拡大といった理念が次第に認められるようになり、表立って植民地を作ることはできなくなりました。そのため、露骨な植民地獲得競争もなくなります。つまり、「植民地獲得競争」という、戦争を引き起こす大きな原因のひとつがなくなった。そのために、列強諸国が戦争をする理由がなくなったので、戦争が起こりにくくなった……そう考えるのが合理的です。もちろんそれがすべてではありませんが、一つの大きな要因であるのは間違いないと私は考えます。


■安保法など何の意味もない
 以上のように考えてくれば、「軍事同盟で抑止力が高まる」という発想はまったくナンセンスであることがわかります。
 たとえば、現在の中国や北朝鮮の行動がその証拠です。
 日本がいかにアメリカとの同盟を深化させるなどといったところで、それで相手が怯んで行動を抑制するなどということはまず考えられません。実際に、日・米・韓などでいくら合同軍事演習などしても、北朝鮮や中国の行動はいっこうに抑制されていません。むしろ、エスカレートしています。当ブログでは何度もいってきたことですが、日本近海での中国艦船の行動や北朝鮮のミサイル発射は、軍事同盟で抑止力が発生することなどないという証拠なのです。過去の歴史をみてもそうだったし、現代でもそうです。
 「日米同盟を深化させて抑止力を高める」などといって安保法が出てきたわけですが、その安保法が施行されても、中国の公船は尖閣周辺の領海侵犯を繰り返していますし、軍艦が接続水域に近づくなどしています。しかも、尖閣だけでなく大東島などでも中国軍艦が接続水域を航行するということがありました。そして、北朝鮮は北朝鮮で、相も変わらずミサイル発射を繰り返しています。「あれ? 抑止力は……?」という話になってくるわけです。軍事同盟を強化したところで抑止力になどならないという実例を、私たちはまさにいま目の当たりにしているのです。