真夜中の2分前

時事評論ブログ
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軍事力で平和は作り出せない

2015-05-24 23:16:57 | 政治・経済
 政府の新たな安全保障法制について、日増しに懸念の声が高まっている。
 本ブログでも、ここであらためて論評をくわえたい。これまでにも繰り返しいってきたことだが、軍事力で平和は作り出せない。そのことを、あらためて書いておく。
 今回は、軍事的なアプローチが完全に失敗している例として、米国の中東政策をとりあげたい。
 今年に入って、イラク政府は米国の支援のもと、本格的にイスラム国の支配地を奪還する軍事作戦に乗り出している。その一環として、3月31日には中部の要衝ティクリートの奪還を宣言した。だが、これは文句なしに喜べるような事態ではなかった。というのも、奪還後に民兵による大規模な略奪が発生したのだ。朝日新聞電子版の記事によれば、少なくとも住宅67件と店舗85件が略奪されたり焼き討ちにあい、殺害や女性に対する暴行もあったという。
 これは、「大都市を攻略するのだから略奪が起きるのはある程度仕方ない」などといって看過できる問題ではない。ここには、戦後のイラクが抱える宗派対立という構造的な問題が潜んでいるのだ。ティクリートを奪還した部隊では、イラク政府の正規軍ではなくシーア派民兵が主力だった。そして、このシーア派民兵が、ティクリートで多数派であるスンニ派住民を略奪の対象としたのである。
 “敵の敵”を自分の味方に引き入れると、どうしてもこういう問題が生じる。共通の敵がいるあいだは結束していられるが、それがなくなると、抑えられていた宗派間・部族間の対立が噴出し、結局昨日までの味方が敵にまわってしまうという事態が往々にして起きるのだ。
 この問題は、アメリカの中東政策に影法師のようにつきまとっている。たとえば、広く知られているとおり、いま中東でテロリストとなっているムジャヒディンたちは、かつて米国が作り出したものだ。アフガンに旧ソ連が侵攻したときに、それを阻止するために米国が支援して作り上げたのが“イスラム聖戦士”たちだった(映画『ランボー3 怒りのアフガン』では、クライマックスでこのイスラム聖戦士たちが現れ、ピンチに陥っていたランボーを助けてくれる)。たしかに彼らはアフガンが旧ソ連の勢力化に陥ることを阻止しはしたが、その後テロリストとなって米国に敵対するようになった。そして、冷戦終結後の新たな脅威となって、今なお米国を悩ませ続けている。
 米国は、単に武器などの物資を供与するだけでなく現地の勢力に軍事訓練を施したりして、反米的な勢力に敵対させるというようなやり方を昔からとっており、いまイラクで行っているのもそういうやり方だ。しかし、その訓練を施されたものたちがムジャヒディンたちと同じように将来テロリストになる可能性は決して低くない。
 ここで、対IS作戦のもう一つのエピソードとして、先日ラマディがISに制圧された件もあげておこう。
 アンバル州の州都であるラマディの陥落はイラク政府にとって大きな痛手となったが、このとき撤退する際に、イラク軍は、米国から供与された武器を置き去りにしたという。結果として、その武器はイスラム国の手にわたることになる。もちろん、だからといってただちにイスラム国の戦力が増すということにはならないだろうが、現地の勢力に武器を供与するということにはそういうリスクもある。現地の勢力を支援して敵と戦わせるという手法は、かなり危うい面を持っているのだ。
 かといって、では現地勢力に頼るのではなくみずからの軍を動員すればよいのかといえば、それもあやしい。たとえ米国が軍を本格的に動員して大規模な地上戦に乗り出しても、ISを制圧できるという保証はない。これまでのイラクやアフガンのことを考えれば、むしろできないと考えるほうが妥当だろう。仮にできたとしても、それは一時的なものにすぎず、軍が撤退すればまた新たな武装勢力が台頭する、あるいはイエメンや北アフリカなどで実際にそうなっているように、統治能力が弱い周辺国に逃れるだけという結果に終るとみたほうがいい。それを追いかけて戦線を際限なく広げていけば、底なしの泥沼に足を突っ込むことになる。
 つまり、現地の勢力を支援するというやり方でもだめ、みずから軍を派遣してもだめ、なのである。そもそも、軍事力で平和を構築するということ自体が不可能なのだ。それが、実際に起きている戦争の事実から導き出される論理的帰結である。
 安倍首相は、「戦争法案」――彼らの言葉でいうところの「平和法案」――に関する演説で、日本人も被害を受けたいくつかのテロ事件にふれ、「これが現実です」といった。そのような現実があるから、彼らの考える安全保障法制が必要だといいたいわけだろう。だが、私にいわせればまったく逆だ。いくら軍事的な行動をくわえても、テロリズムはなくならない。むしろ、強力になりさえしている。それが現実だ。そのような現実があるからこそ、軍事に頼らない、真に実効性のある方策がとられなければならない。そして、安倍政権の安全保障法制は、あきらかにそれとは逆の方向を向いているのである。

戦争は平和なり――1984年は近い

2015-05-17 20:53:17 | 政治・経済
   戦争は平和なり
   自由は隷従なり
   無知は力なり
                 (ジョージ・オーウェル『1984』)

 今回は、安倍政権が閣議決定し今国会中の成立を目指すとしているいわゆる安保法制について書きたい。
 冒頭の引用は、近未来ディストピア小説の古典的名作であるジョージ・オーウェル『1984』からのものである(高橋和久訳・早川書房新訳版。以下、引用は同版による)。この小説の舞台は、“ビッグ・ブラザー”に支配された超・監視統制社会〈イングソック〉。その“真理省”の白い壁に掲げられているスローガンが、冒頭の三行だ。
 このパッセージを見て誰でも想像がつくように、ここで取り上げるのは、先日、社民党の福島瑞穂氏が安保関連法案を「戦争法案」と呼んだことに対して自民党が議事録の修整を要求した件である。
 報道されているところによれば、特定秘密保護法案の審議の際に、“特定秘密”という言葉が不穏なイメージを持っていたために、国民から反対の声があがった――という反省が政府与党にはあり、そのために彼らは言葉遣いに非常に敏感になっているという。それが、新たに提出された一連の法案を「平和安全法制」と名づけるというところにもつながっているわけだ。
 この問題に関しては、よもやオーウェルの世界がこうまで露骨なかたちで現実のものになるとは思っていなかったというのが私の率直な感想だ。
 すでに各方面で指摘されているとおり、今回の安保関連法案は、誰がどう考えても戦争の方向に大きく足を踏み出すものである。それに、政府与党は、「平和」という名をつけている。そのあまりのあからさまな『1984』っぷりは思わず笑ってしまうほどだが、しかしこれはジョークではなく現実だ。そのことに思い至ると、今度は薄ら寒くなってくる。
 オーウェルの描く近未来世界では、「二分間憎悪」によって国民は憎悪をかきたてられ、慢性的な戦争状態にある。戦争などなくてもほとんど事情は変わらないのに、同じような監視統制社会を持つ三つの国が、互いを批判しあいながら戦争を続ける。その恒久的戦争状態こそが、平和だというのである。国民は、この矛盾した内容を合理化する“二重思考”を身につけなければならない。二重思考とは、「――入念に組み立てられた嘘を告げながら、どこまでも真実であると認めること――……(中略)……民主主義は存在し得ないと信じつつ、党は民主主義の守護者であると信ずること――忘れなければいけないことは何であれ忘れ、そのうえで必要になればそれを記憶に引き戻し、そしてまた直ちにそれを忘れること……」である。この原則にしたがって、国民は自国の過去の行動について、“過去を変更”――つまり、都合の悪いことはなかったことにしなければならない。党のスローガンによれば、“過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする”のである(しかも、そうのうえでさらに二重思考の原則にしたがって、過去は変更されたことなどないと信じなければならない)。それを怠ると、思考警察によって逮捕され、収容所に送られることとなる。
 安倍首相は、今年アメリカ議会の調査局が発表した報告書で「歴史修正主義的」と認定されたが、その修正主義的姿勢を批判したドイツの新聞社に外務省が抗議するなど、彼らはどうやら“過去はコントロール”できるものと思っているらしい(そしてまた、二重思考の原則にしたがって、変更などしていないと信じてもいるらしい)。その姿も、『1984』のビッグ・ブラザーに重なって見える。思想のすみまで統制されるイングソックの社会は、もう現実のすぐそばにまで迫ってきているのかもしれない。

“お試し改憲”の欺瞞

2015-05-09 21:11:06 | 政治・経済
 前回に引き続き、今回も改憲問題について書きたい。
 憲法記念日の直後に、いよいよ自民党は、本格的に改憲にむけて動き出した。そのあらわれが、今月7日に開かれた憲法審査会である。この審査会において、自民党はいわゆる「緊急事態条項」にまず取り組もうとしているようだ。
 あちこちで指摘されているように、この緊急事態条項というのは口実にすぎない。自民党の狙いはあくまでも9条であり、その本丸を攻めるために、いわば外堀を埋めにかかったかたちである。いきなり9条に手を出すのは難しいから、まず反対が出にくいところで「憲法が変えられた」という既成事実を作ってしまおうというわけだ。大騒ぎにならないように、少しずつ警戒感を麻痺させながら、強権的国家主義体制を目指す――伊坂幸太郎氏の『魔王』の預言(本ブログ「魔王」参照)が実現しようとしている。これがつまり、麻生太郎氏のいう“ナチス式”というやつなのだろう。
 もっとも、当然というべきか、当の自民党の側はそうした見方を否定している。
 しかし、それが明白な嘘であることは、次の事実からあきらかである。今年の2月21日に改憲にむけた「対話集会」が再開された際に、同じ改憲推進本部の事務局長である礒崎陽輔首相補佐官は、「憲法改正を国民に1回味わってもらう。『憲法改正はそんなに怖いものではない』となったら、2回目以降は難しいことを少しやっていこうと思う」と述べている(朝日新聞電子版)。なんのことはない。自民党側がいくら否定したところで、その改憲推進本部の幹部はすでにそれを認めているのだ。この自民党の改憲推進本部なる組織については、そのトップをつとめる船田氏の資質に疑問があると以前書いた(本ブログ「道徳を語るなら」参照)が、それにしてもあまりにお粗末な頭隠して尻隠さずっぷりである。
 彼らのこうした姑息なやり口は、有権者には見透かされている。
 いくら足音を忍ばせたところで、その足音は聞こえている。その当然の結果として、世論調査などをみてもしだいに改憲反対という意見が増えてきているようだ。NHKの世論調査などは、この一年で賛否が逆転している。しかもこれは9条にかぎらず憲法を変えること自体に賛成か反対かという問いに対する答えである。中身以前に、憲法を変えるということ自体にこれだけ反対の声があがっているというのは、いかに自民党の考える改憲が支持されていないかという証拠といっていいだろう。
 また、改憲反対の声は、映画界や宗教界からもあがっている。その一部として、カトリックの日本司教団が今年の2月に発表したメッセージを引用して、この記事をしめくくろう。

 「戦後70年をへて、過去の戦争の記憶が遠いものとなるにつれ、日本が行った植民地支配や侵略戦争の中での人道に反する罪の歴史を書き換え、否定しようとする動きが顕著になってきています。そして、それは特定秘密保護法や集団的自衛権の行使容認によって事実上、憲法9条を変え、海外で武力行使できるようにする今の政治の流れと連動しています。他方、日本だけでなく、日本の周辺各国の政府の中にもナショナリズム強調の動きがあることにわたしたちは懸念を覚えずにはいられません。周囲の国と国との間に緊張がある中で、自衛権を理由に各国が軍備を増強させるよりも、関係改善のための粘り強い対話と交渉をすることこそが、この地域の安定のために必要なのです。」(カトリック中央協議会のHPより)

北極星――あらためて改憲に反対する

2015-05-04 04:00:47 | 政治・経済
 5月3日は憲法記念日である。日付は変わってしまったが、その記念日にあわせて、あらためて改憲に対する反対――とりわけ、9条の改訂反対を訴えておきたい。
 それにあたって、以前にも紹介した伊坂幸太郎氏の小説『魔王』から、ふたたび一つのエピソードを紹介しよう。この作品の中で、登場人物が改憲について議論する場面である。憲法と現実を合わせるべき、と主張する改憲賛成派の「赤堀君」に対して、反対派の「蜜代っち」はこう反論する。
 「たとえば憲法には、『人は誰でも平等に扱われる』って書いてあるでしょ。でも、現実には男女差別とかあるわけじゃない。その時に、『現実に合わないから、男女差別はあり、って憲法を改正しましょう』なんてならないでしょ」(※)
 それに対して赤堀君は、「意味合いが違いますって。だって、男女差別のほうは、男女雇用機会均等法とか、差別をなくす方向で法律とかできてるじゃないですか。方向としては、憲法と現実は合ってるんですよ」
 そこへ、蜜代っちは「でしょ?」と続ける。「憲法があるから、そうやって、法律ができるんだって。九条も一緒。本当なら九条に合わせないと駄目なのに、勝手に政治家が違う方向にしているだけじゃない。戻さないと。だってさ、勝手に家に他人が上がり込んできて、『現実に私がここに住んでるんですから、いっそのこと、ここを私の家であることに、しちゃいましょうか』って言うの、変でしょ」
 これは、重要な論点だと思う。
 憲法というのは、一種の理想を示したものだろう。そして、理想というのは、北極星のようなものだと私は考える。それは、次のような意味においてだ――磁石もなかったぐらいの昔の船乗りが、もし北にむかって航行しようと思ったらどうするか。北極星を目印にするだろう。北極星は、天の北極にあってほとんど動かないため、そこにむかって進めば、とりあえず北にむかうことができる。だから、北極星にむかって進む。
 ここで重要なのは、いくら船を漕いだところで北極星に着くことはないということだ。どれだけ漕いだところで船は北極星にはたどり着かないし、実際のところ、その必要もない。あくまでも北にむかうための目印なのだから。
 理想というのは、そういうものではないだろうか。
 なにも憲法にかぎらず、“理想”と呼ばれるものは、往々にして実現不可能である。たとえば、生物学において、マウスを使った実験をやるとする。そこで対照実験というものをするわけだが、そのときに、実験のターゲットになっていること以外の条件をすべて完全に等しくすることは現実的には難しいだろう。個体間で遺伝子に違いがあるし、仮にまったく遺伝子が同じ一卵性の個体を準備したとしても、生活環境の違いで体質に違いがある可能性は否定できない。だが、実験をやる以上、科学者は“理想状態”に少しでも近づけるための努力をする。マウスを使うなら、なるべく遺伝情報に違いがないように工夫して交配・飼育した個体を使うのがふつうだ。この場合「どうせ完全に同じにするのが不可能だから」といって、そのへんにいるねずみを適当に捕まえてきて実験をしたら、正確なデータをえられないおそれがある。完全にできないからといってはじめから努力を放棄してしまったら、重大な誤りが生じてしまう危険があるのだ。理想と現実に乖離があるとしても、とにかく理想に近づくための努力は放棄してはならない。まして、現実に合わせて理想のほうを変えるなどというのは、もってのほかである。生物学のアナロジーでいえば、もしそのへんで捕まえたマウスを使って実験をしてもいいということになれば、生物学そのものが危機に瀕するだろう。
 さて、ここで次に問題となるのは、理想そのものの妥当性だ。すなわち、憲法9条が掲げる平和主義というものが理想とするに値するか――ということが問われなければならないわけだが、この点に関しては議論の余地はないだろう。平和と戦争とどちらが人の目指す目的としてふさわしいかというのはあきらかだ。「平和こそが目的だ。どうしても平和を実現したいんだ」という主張はなんらおかしくないが「戦争こそが目的だ。どうしても戦争を実現したいんだ」という主張は、誰がどうみ見てもいかれている。
 ところが、今の自民党の姿勢をみていると、まるで彼らがそのいかれた主張をしているように私には見えてしまうのだ。戦争そのものは目的ではありえないのだから、仮にその必要性を認めるとしても、あくまでも何かの手段としてであるはずなのだが、政府与党(一応、公明党は除いて)の言動は、とにかく戦争そのものを目的として、そのために無理な理屈をひねり出し、反対意見を無視し、既成事実化を進めているように私には感じられる。
 「GHQが一週間で作った憲法」などというあきらかに事実に反した話がプロパガンダとして語られ、政府関係者が、「いきなり9条は変えられないから、まずは環境権といった当たり障りのないことで改憲をやる」といったようなことを堂々といっている。こういう現状に、あらためて危機感を表明しておきたい。


※おそらくこの論は、何かの本からの引用と思われる。作中で蜜代っちは「前に読んだ本の受け売りなんだけれど」と前置きをしているし、私自身も、故・小田実氏が似たようなことをコラムに書いているのを読んだことがある。