集団的自衛権に関する記事の第6回である。
今回は、これまでとは少し視点を変えて、手続き的な部分をとりあげたい。内閣の決定によって憲法の解釈を変え、これまで憲法に反しているとされてきたものを容認するということが果たして認められてよいのか――集団的自衛権の行使容認について、その内容と並んで問題視された点である。
これに関してまず何より重要なのは、そもそも政府は憲法に拘束される存在だということだ。
憲法の99条には憲法遵守義務というものが規定されていて、政治家や官僚といった連中は憲法を守らなければならないと書かれている。評論家の佐高信氏はこれを“ブラックリスト”といい、歴史的にみてこられの人々こそが憲法をないがしろにしてきたから、あえて名指しでお前ら憲法を守れと書いてあるのだと指摘している。政治家も、役人も憲法に従わなければならないし、憲法に反した法や制度はあってはならないというのが、立憲主義の基本である。そういう意味からすると、“解釈改憲”というのは、あたかも内閣が憲法よりも上位にあるかのような振る舞いであり、まずその点が問題だ。“解釈改憲”とは、たとえていえば、サッカーの試合でプレイヤーが自分に都合のいいようにルールを読み変えて、「手を使っちゃいけないのはこれまでどおりだけど、肩から肘までは“手”じゃないことにしよう」というようなものであり、そんなことがまかりとおるならルール自体の意味がなくなる。そもそも、プレイヤーにそのような権限は与えられていないし、与えられるべきでもない。中身の問題以前に、“解釈改憲”という手法自体に大きな問題があるのだ。
この点について、憲法学者も憂慮を示している。昨年内閣が集団的自衛権の行使容認を閣議決定したときには、憲法学者らからによって構成される「立憲デモクラシーの会」は、「立憲主義を根本から否定し、国民主権と民主主義に対する根本的な挑戦だ」と批判する抗議声明を発表した。以下、これを伝える朝日新聞の記事を引用する。
国会内で会見した共同代表の山口二郎・法政大教授は「(安倍政権にとって)集団的自衛権の行使は問題解決の手段ではなく、最初から目的になっている」と批判。共同代表の奥平康弘・東大名誉教授は「70年近く、戦争をしない国でやってきたのに、もと来た道に戻ってしまう」と懸念を示した。
さらに、自民党内からも批判の声はあがった。自民党の村上誠一郎衆院議員は、この解釈改憲という手法を「立憲主義を否定することになる」と批判している。村上氏は、憲法解釈は究極的には司法が担うものであることを指摘したうえで、内閣やその国会における与党が自らの解釈で法を作ることは“八百長”以上のものだとまでいっている。身内である自民党員でさえもこのようなことをいわなければならないぐらい、安倍政権の行動は常軌を逸しているのだ。
ここで、「フランス人は正しいか」というタイトルの意味についても触れておこう。
このシリーズはずっと「○○人は正しいか」というタイトルでやってきたのである種こじつけ的な部分もあるのだが、一応本稿のタイトルは三権分立の提唱者として知られるモンテスキューを念頭に置いている。立法、司法、行政の三権はそれぞれに独立しており、互いに掣肘しあうような関係にある。これは、一つの強大な権力が暴走しないようにするためだ。ただ一つの機関を最上位におくと暴走する危険があるために、相互監視という形をとってそれを防ぐのである。こんなことは、中学校の社会科で習うことなのだが、安倍政権は臆面もなくその中学生レベルの基礎を無視しようとしている。
しかも、もっと問題なのは、それがきわめて感情的な動機に基づいているようにみえることだ。先に引用した記事で、山口教授は集団的自衛権の行使容認が手段ではなく目的になっていると批判しているが、この指摘は重要だ。安倍首相が集団的自衛権にこだわるのは、いわゆる“サヨク”に対するなかば子どもじみた嫌悪感によるものと私には思えてならない。
安倍首相は根っからの“サヨク”嫌いであり、それは言動のはしばしににじみ出ている。たとえば、‘14年の広島、長崎における平和記念式典でのあいさつの冒頭部分が前年のコピペだったとされる疑惑とか、NHK経営陣の人事、また、最近問題になった日教組ヤジの件などにもそれはあらわれている。彼は“サヨク”が気に食わなくて、どうも時々それを言動に表さずにはいられないようなのだ。別に“サヨク”が嫌いだというのは個人の嗜好であって勝手にしていればいい話だが、それを言動に表すのは問題がある。インターネットの掲示板レベルのいい加減な思い込みにもとづいたヤジ(実際には、日教組は政治献金をしていないし補助金も受け取っていない。このことは安倍首相自身も後に認めて、ヤジに関する一連の発言を訂正している)を飛ばすその心性は、勝手な思い込みに基づいて聞くに堪えないヘイトスピーチを繰り返す在特会と同根ではあるまいか。しかもそれを首相という立場でやるのだから、なおとんでもない。
そして私には、首相のいうところの“戦後レジームからの脱却”というのも、つまりは“ボク、サヨクが嫌いです”という生理的な嫌悪感に発しているものとしか見えない。それが、祖父である岸信介が左派から猛烈な批判を受けるのを幼年時代に目の当たりにしたことからくるトラウマによるものなのかは知る由もないが、このような感情的な動機で国の礎である憲法をいじろうというのは、危なっかしくてしかたがない。ヤジを飛ばすぐらいならまだ実害はないのかもしれないが、先の日教組ヤジのようなレベルの認識で安全保障問題を考えているとしたら、それはこの国に害悪しかもたらさないだろう。
私には、首相の一連の“右傾化”政策が、自分の嫌いなものを踏みにじることで自己満足を得る幼児的な振る舞いに思えてならない。そのような人物があやまって権力の座についてしまったときにその暴走を抑えるために憲法というものがあり、それを保障するために三権分立があると私は考えるが、どうだろうか。
今回は、これまでとは少し視点を変えて、手続き的な部分をとりあげたい。内閣の決定によって憲法の解釈を変え、これまで憲法に反しているとされてきたものを容認するということが果たして認められてよいのか――集団的自衛権の行使容認について、その内容と並んで問題視された点である。
これに関してまず何より重要なのは、そもそも政府は憲法に拘束される存在だということだ。
憲法の99条には憲法遵守義務というものが規定されていて、政治家や官僚といった連中は憲法を守らなければならないと書かれている。評論家の佐高信氏はこれを“ブラックリスト”といい、歴史的にみてこられの人々こそが憲法をないがしろにしてきたから、あえて名指しでお前ら憲法を守れと書いてあるのだと指摘している。政治家も、役人も憲法に従わなければならないし、憲法に反した法や制度はあってはならないというのが、立憲主義の基本である。そういう意味からすると、“解釈改憲”というのは、あたかも内閣が憲法よりも上位にあるかのような振る舞いであり、まずその点が問題だ。“解釈改憲”とは、たとえていえば、サッカーの試合でプレイヤーが自分に都合のいいようにルールを読み変えて、「手を使っちゃいけないのはこれまでどおりだけど、肩から肘までは“手”じゃないことにしよう」というようなものであり、そんなことがまかりとおるならルール自体の意味がなくなる。そもそも、プレイヤーにそのような権限は与えられていないし、与えられるべきでもない。中身の問題以前に、“解釈改憲”という手法自体に大きな問題があるのだ。
この点について、憲法学者も憂慮を示している。昨年内閣が集団的自衛権の行使容認を閣議決定したときには、憲法学者らからによって構成される「立憲デモクラシーの会」は、「立憲主義を根本から否定し、国民主権と民主主義に対する根本的な挑戦だ」と批判する抗議声明を発表した。以下、これを伝える朝日新聞の記事を引用する。
国会内で会見した共同代表の山口二郎・法政大教授は「(安倍政権にとって)集団的自衛権の行使は問題解決の手段ではなく、最初から目的になっている」と批判。共同代表の奥平康弘・東大名誉教授は「70年近く、戦争をしない国でやってきたのに、もと来た道に戻ってしまう」と懸念を示した。
さらに、自民党内からも批判の声はあがった。自民党の村上誠一郎衆院議員は、この解釈改憲という手法を「立憲主義を否定することになる」と批判している。村上氏は、憲法解釈は究極的には司法が担うものであることを指摘したうえで、内閣やその国会における与党が自らの解釈で法を作ることは“八百長”以上のものだとまでいっている。身内である自民党員でさえもこのようなことをいわなければならないぐらい、安倍政権の行動は常軌を逸しているのだ。
ここで、「フランス人は正しいか」というタイトルの意味についても触れておこう。
このシリーズはずっと「○○人は正しいか」というタイトルでやってきたのである種こじつけ的な部分もあるのだが、一応本稿のタイトルは三権分立の提唱者として知られるモンテスキューを念頭に置いている。立法、司法、行政の三権はそれぞれに独立しており、互いに掣肘しあうような関係にある。これは、一つの強大な権力が暴走しないようにするためだ。ただ一つの機関を最上位におくと暴走する危険があるために、相互監視という形をとってそれを防ぐのである。こんなことは、中学校の社会科で習うことなのだが、安倍政権は臆面もなくその中学生レベルの基礎を無視しようとしている。
しかも、もっと問題なのは、それがきわめて感情的な動機に基づいているようにみえることだ。先に引用した記事で、山口教授は集団的自衛権の行使容認が手段ではなく目的になっていると批判しているが、この指摘は重要だ。安倍首相が集団的自衛権にこだわるのは、いわゆる“サヨク”に対するなかば子どもじみた嫌悪感によるものと私には思えてならない。
安倍首相は根っからの“サヨク”嫌いであり、それは言動のはしばしににじみ出ている。たとえば、‘14年の広島、長崎における平和記念式典でのあいさつの冒頭部分が前年のコピペだったとされる疑惑とか、NHK経営陣の人事、また、最近問題になった日教組ヤジの件などにもそれはあらわれている。彼は“サヨク”が気に食わなくて、どうも時々それを言動に表さずにはいられないようなのだ。別に“サヨク”が嫌いだというのは個人の嗜好であって勝手にしていればいい話だが、それを言動に表すのは問題がある。インターネットの掲示板レベルのいい加減な思い込みにもとづいたヤジ(実際には、日教組は政治献金をしていないし補助金も受け取っていない。このことは安倍首相自身も後に認めて、ヤジに関する一連の発言を訂正している)を飛ばすその心性は、勝手な思い込みに基づいて聞くに堪えないヘイトスピーチを繰り返す在特会と同根ではあるまいか。しかもそれを首相という立場でやるのだから、なおとんでもない。
そして私には、首相のいうところの“戦後レジームからの脱却”というのも、つまりは“ボク、サヨクが嫌いです”という生理的な嫌悪感に発しているものとしか見えない。それが、祖父である岸信介が左派から猛烈な批判を受けるのを幼年時代に目の当たりにしたことからくるトラウマによるものなのかは知る由もないが、このような感情的な動機で国の礎である憲法をいじろうというのは、危なっかしくてしかたがない。ヤジを飛ばすぐらいならまだ実害はないのかもしれないが、先の日教組ヤジのようなレベルの認識で安全保障問題を考えているとしたら、それはこの国に害悪しかもたらさないだろう。
私には、首相の一連の“右傾化”政策が、自分の嫌いなものを踏みにじることで自己満足を得る幼児的な振る舞いに思えてならない。そのような人物があやまって権力の座についてしまったときにその暴走を抑えるために憲法というものがあり、それを保障するために三権分立があると私は考えるが、どうだろうか。