真夜中の2分前

時事評論ブログ
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ラブ・ミー・テンダー

2015-06-30 18:58:31 | 音楽と社会
 アイドルグループ・制服向上委員会の自民党を批判するパフォーマンスが物議をかもした。
 いろいろ大きな“事件”があってそちらについて書いていたために後回しになっていたのだが、今回はこの件について書きたい。
 私がテレビで見たところでは、問題視されたパフォーマンスというのは、「大きなのっぽの古時計 おじいさんの時計」という歌詞をもじって「大きな態度の安倍総理 おじいさんと同じ」と歌ったり、「Oh!スザンナ」を「Oh!ズサンナ」として原発政策を批判するなどである。これが政治的中立を損なうとして、大和市はイベント後になって後援を取り消した。さらには、脅迫めいたメールが送られてきたともいう。
 このエピソードに、私は故・忌野清志郎のことを思い出した。
 清志郎が在籍していた伝説的バンド・RCサクセションが1988年に制作したアルバム『COVERS』は、そのなかに反原発をテーマにした曲があったために、東芝EMIから発売することができなかった。それについて、忌野清志郎はのちにタイマーズというバンドで歌っている。

  もしも僕が偉くなったなら 君が歌う歌を止めたりしないさ
  当たり前だろう そんな権利はないさ
  いくら偉い人でも 
  どういうつもりなんだろう どこのどいつなんだろう
  当たり前だろう そんな権利はないさ
  当たり前のことさ よくわからない偉い人
                             「偉人のうた」

 また、「ロックン仁義」という歌ではこんな“語り”がある。

 「冗談のひとつもいえねえ、好きな歌さえ歌えねえ、替え歌の一つにさえいちいち目くじらを立てる、いやな世の中になっちまったもんでござんすねえ。ええ社長、どうなんだい!」

 これは、『COVERS』に収録されている曲がそのタイトルが示すとおりカバー曲であり、原発について歌った「ラブ・ミー・テンダー」がエルヴィス・プレスリーのカバーだったことから「替え歌」といっているわけだが、その“替え歌”の歌詞はこんなものだった。

  なにいってんだ やめときな
  いくら理屈をこねても
  ほんの少し考えりゃ 俺にもわかるさ

  放射能はいらねえ 牛乳を飲みてえ
  なにやってんだ 金かえせ
  目をさましな
  巧みな言葉で一般庶民をだまそうとしても
  ほんの少しばれてる その黒い腹

 この曲が発表されたのは80年代のことだが、このアルバムが発売中止に追い込まれたことからも、その当時から原発ムラの体質が変わっていないことがよくわかる。このような批判的メッセージに対して、封殺し、黙らせるという風土の先にあったのが福島の事故だった。清志郎が原発業界を批判してから二十年以上がたったいま、原発ムラの体質は、変わるどころかむしろ国家レベルに拡大しようとさえしている。今回の制服向上委員会の一件は、この国がまるごと原発ムラになりつつあることをリトマス紙的に示したものではないだろうか。
 「マスコミをこらしめる」発言にも通じることだが、自分たちに批判的な言説を封じ込めるという考え方はロクな結果を生まない。批判を封殺してしまうと、問題点にまともに対処しないために事故や災害に対して脆弱になる――とは、経済学者アマルティア・センが指摘するとおりである。自民党が経団連に働きかけて「マスコミをこらしめ」てしまったら、日本は、安全対策をおろそかにして福島の事故を引き起こした東京電力のような国になってしまうということだ。
 さて――忌野清志郎をとりあげたついでなので、最後に清志郎のソロ活動の一曲を引用して、この記事をしめくくろう。

  世界のど真ん中で ティンパニを鳴らして
  その前を殺人者がパレードしている
  狂気の顔で空は 歌って踊ってる
  でも悲しい嘘ばかり 俺にはきこえる
                           「JUMP」

安倍政権妄言録3

2015-06-29 17:35:37 | 政治・経済
安倍政権関係者の妄言暴言を紹介するシリーズの第三弾である。今回は、満を持して自民党のツートップである安倍総裁・高村副総裁に登場していただこう。高村氏は二度目のエントリーとなるが、相変わらずの強弁っぷりとなっている。

安倍晋三総理・自民党総裁「私的な勉強会で自由闊達(かったつ)な議論がある。言論の自由は民主主義の根幹をなすものだ」

 「マスコミをこらしめる」発言について国会で追及された安部総理が、謝罪を拒否して発言者への処分も否定するなかで出てきた言葉。言論の自由があるから、勉強会での発言を理由に処分することはできない、というわけだ。
 厚顔無恥とはこのことだろう。ネトウヨなどによくみられる、“自分に都合のいいときだけ言論の自由を持ち出す”攻撃で、ネトウヨ総理にはじつにふさわしい発言といえよう。「文化芸術懇話会」の面々はまさにその「民主主義の根幹をなす」言論の自由を破壊しようとわめいていたのだが。
 報道されるところによれば、問題の勉強会は安倍総理の応援団的な組織ということだが、彼らは言論の自由は自分たちだけに認められているとでも思っているのだろうか。彼らの態度には、思い上がりもはなはだしいといわざるをえない。


高村正彦自民党副総裁「デマを流すということは政治家にとってあるまじきことだ」

 もはや狂犬と化した高村副総裁が、NHKの番組での民主党・福山哲郎幹事長代理の発言にかみついた。「政府・自民党内で砂川判決の評価に関する評価がぶれており、そのこと自体が無理な解釈をしている証拠だ」という福山幹事長代理の指摘に対して、自民党本部での記者団の取材で次のように反論した(引用は朝日新聞電子版より)。

「当初から今日まで、そして未来永劫(みらいえいごう)、私が、砂川判決の法理を集団的自衛権の一部容認の根拠とすることはまったく変わらない。私を論破する人が現れれば別だが、(私が)困るような論を、あらゆる憲法学者からもまったく聞いたことがない。」

 そのうえで福山幹事長代理の発言を「デマ」だときめつけ、「デマを流すということは政治家にとってあるまじきことだと思うので、厳しく申しておきたい」というのだ。
 しかし、この発言は、例によって高村氏のただの強がりである。「当初」というのがどの時点を差すのかはっきりしないが、高村氏がかつて集団的自衛権は容認されないという立場をとっていたのは各種報道などですでに明らかにされているとおりだ。「砂川判決によって集団態自衛権が認められる」と昔から考えていたというのはおかしい。
 そうではなくて、「当初」というのがこの第二次安倍政権において集団的自衛権の行使容認の動きが出始めた頃を差すのだとしても、それでもやはり疑義が残る。というのも、去年の閣議決定の段階では、自民党は砂川判決を集団的自衛権の行使容認の論拠とはしていなかった。与党協議のなかで公明党側が難色を示したために、断念したのだ。それからずっと政府与党は砂川判決に言及してこなかったが、最近になって憲法学者たちの“違憲”発言が出てきて安保法制の合憲性が大きくクローズアップされたために、慌てて砂川判決を持ち出しはじめたのである。つまり、去年のいまごろの時点で一度は砂川判決を合憲性の根拠とすることをやめたにもかかわらず、違憲問題で追い詰められてやむなくそれをもちださざるをえなくなったというのが実態で、この経緯をみれば、高村氏の発言こそデマだということがわかる。与党がお蔵入りにしていた砂川判決を持ち出してきたことを、憲法学者の長谷部恭男氏は「わらにもすがる思いで持ち出したのかもしれないが、しょせんわらだ」と一蹴している。
 また、「私を論破する人が現れれば別だが……」というくだりも、笑止である。高村氏の矛盾だらけの屁理屈は、とうに完膚なきまでに論破されている。自分が「困るような論を、あらゆる憲法学者からもまったく聞いたことがない」というのは、都合の悪い言説には耳をふさいでひたすら俺が正しいと吠え立てているからというだけのことだ。 前回もそうだったが、この「僕、負けてないもん」という子どもじみた強がり・負け惜しみには、失笑を禁じえない。

集団思考――盲目的な追従は組織を誤らせる

2015-06-28 17:25:59 | 政治
 前回“フォールス・コンセンサス”という概念を紹介した。
 これは、マッテオ・モッテルリーニ著・泉典子訳『世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ』(紀伊国屋書店)という本からとったものなのだが、この本に紹介されている「集団思考」というのも興味深い。
 「集団思考」というのは、簡単にいえば、集団のなかにおかれると人は客観的で正しい思考ができなくなるということだ。集団全体に一つの流れができてしまうと、これはおかしいんじゃないかと思ってもそれを口に出すことができなくなり、暴走していく。『世界は感情で動く』では、イラク戦争開戦にいたるプロセスもその例としてあげられている。その当時アメリカの国防長官だったラムズフェルドは、最近になって「開戦の構想を聞いたときには、イラクに民主主義体制を作るのは非現実的だと思った」などといっているが、結局は集団の論理に流されてそれに反対することはなかった。その当時のことを思い起こせば、むしろ積極的に推進していたとさえいえる。
 いま問題となっている自民党の「文化芸術懇話会」で起きたのも、そういうことではなかっただろうか。マスコミという“外部の目”を排除したところで、自分たちだけの論理で暴走していく。そうすると、もはやブレーキがきかなくなって、信じられないような暴論が飛び出すようになる……
 問題なのは、いま自民党全体がそれに近い状態に陥っているようにみえることだ。
 自民党は、この勉強会のリーダー格である木原捻青年局長を更迭こそしたが、とうていそれだけで済まされるような話ではない。この勉強会と同じような状態に陥っているからこそ、とんでもない暴言を吐いた議員達への処分が大甘なわけだろう。大した問題じゃないと考えているわけである。どこかかばうようなふうの安倍総理の態度にも、それはあらわれている。
 ここから見えてくる問題は、彼らが“外部の目”をまったく意識していないことだ。内側ばかりに目がむいていて、自分たちの言動が外部からみてどれほど幼稚で異常かがわかっていない。だから、自分たちの論理だけでどこまでも暴走していってしまう。それは結局、イラク戦争に突っ走っていったネオコン政権時代のアメリカと同じ状態になっているということにほかならない。以前このブログで安倍政権とブッシュJr政権の共通点というのを書いたが、やはりこの二つの政権は瓜二つだ。こんな連中の下で集団的自衛権の行使容認というのは、正気の沙汰ではない。

「朝日と毎日が百田さんの言論の自由を奪っている」??――松井大阪府知事、百田発言を擁護の面妖

2015-06-27 17:47:29 | 政治・経済
 自民党の若手勉強会での「マスコミをこらしめる」発言が問題となっている。
 そのさなか、大阪府の松井一郎知事が、この点に関して百田氏を擁護するような発言をした。朝日新聞(電子版)によると、松井知事は「百田さんにも言論の自由はある」として、「ここぞとばかりに復讐だな。朝日と毎日は、百田さんの言論の自由を奪っているのではないか、圧力をかけて」とこの件に関する両紙の報道を批判したという。
 驚くべき牽強付会の構図が、ここでもみられる。報道機関が公党の勉強会で出てきた発言を報道することが、なぜ圧力をかけて言論の自由を奪うことになるのだろうか。公人の発言を報道機関が報じるのは当然だし、社説やコラムなどでそれに論評をくわえるのも当然だ(さすがの読売新聞も、6月27日付朝刊の社説で文化芸術懇の議員らや百田氏の発言を批判している)。それが言論の自由を奪う圧力にあたるというのなら、政治関係の報道はいっさいできないことになる。そしてその理屈が成り立つなら、報道機関を批判した松井知事の発言もまた「言論の自由を奪う圧力」ということになってしまうのではないか。
 もちろん、百田氏に言論の自由はある。だが、それを批判するのも言論の自由だし、その発言に対して「あいつはクズだな」と思うのも自由である。圧力をかけて言論の自由を奪おうといっていたのは、「文化芸術懇話会」の面々であって報道機関ではない。

 むしろ私には、松井知事のこの発言こそ、朝日、毎日に対して「ここぞとばかりに復讐」しているようにみえる。大阪都構想が住民投票で否決されたことを、「メディアの“偏向報道”のせいだ」と勝手に自分のなかで合理化して、腹いせをしているだけではないか。

 心理学に「フォールス・コンセンサス」という概念がある。
 「世の中の大多数の人は自分と同じような考え方で行動している」という錯覚のことだ。相棒の橋下大阪市長がそうであるように、松井知事もものごとを勝ち負けでしか考えることができないのだろう。だから、世の中の多くの人間も自分と同じように勝ち負けでしか世の中をみていないと思い込んでいる。それで、「ここぞとばかりに復讐」という見方になってしまうわけだ。こんな連中が政治家としてまかりとおっているというのは、悲劇というしかない。いや、むしろ喜劇か。


追記:今回は別の記事を書くつもりでいたが、たまたま松井知事の発言を目にしたので、予定を変更した。維新の党はもはや風前のともし火で、松井知事も今後政治家として活動し続けられるかどうか微妙だと思うので、スルーしてもよかったのだが、一応、維新は野党第二の勢力であるし、安保法制では台風の目になる可能性もあるため、とりあげた。

北朝鮮化する日本――自民党若手議員が「経団連に働きかけてマスコミを懲らしめる」と放言

2015-06-26 18:05:52 | 政治・経済
 安倍総理に近い自民党の若手議員が、「文化芸術懇話会」なる勉強会を立ち上げた。安倍政権に近い文化人を通して発信力の強化を目指すのだという。25日にその初会合が開かれたが、37人が参加したこの会合で、驚くべき発言が出てきた。
 「経団連に働きかけてマスコミを懲らしめよう」というのである。彼らによれば、政権に批判的なメディアを「懲らしめる」ためには広告収入を断つのが一番で、そのために経団連に働きかけようというのだ。また、沖縄に関しても、沖縄のメディアは「左翼に乗っ取られている」という発言があり、これに対して講師として出席した「安倍政権に近い文化人」である作家の百田尚樹氏は、「沖縄の二つの新聞社は絶対につぶさなあかん」といったという。
 信じがたい放言である。
 政権与党の国会議員が、堂々とマスコミを弾圧すべきだといっている。開いた口がふさがらないとはこのことだ。例によって党幹部は火消しに躍起になっているが、これは看過しがたい発言だ。
 いまさらあえていうことでもないが、右とか左とかに関係なく、報道機関が存在しなければ民主的な社会は機能しない。私たちがこうしてブログで時事評論などしていられるのも、報道機関が存在しているからである。自分たちに都合が悪いから黙らせようなどというのは言語道断だ。彼らのいうことが実現すれば、日本は北朝鮮のような国になってしまう。安保法制の違憲性を指摘した憲法学者・小林節氏の「キム家と安倍家が一緒になってしまう」という言葉が現実のものとなる。
 以前、特定秘密保護法をめぐる議論の中で、安倍総理は「報道が抑圧されるようなことがあったら、私は責任をとって辞めます」ということをいっていた。最近、政府与党はメディアをけん制するような動きを繰り返してきたが、ここへきて若手議員らのこの暴言である。安倍総理は、約束を守って辞任するべきではないか。

 一方、自民党のハト派系若手議員が作った勉強会「分厚い保守政治の会」では、同じ25日に講師として漫画家の小林よしのり氏を招いて会合を開くことになっていたが、これが中止に追い込まれた。小林よしのり氏は改憲派で、あくまでも改憲すべきという立場から、憲法解釈変更による集団的自衛権行使容認には反対の姿勢をとっている。その小林氏の批判的な発言によってふたたびダメージを受けることをおそれて党執行部が中止させたとのも見方が濃厚だ。いまの自民党は、もやは小林よしのり氏をおそれなければならない状況になっているのだ。“小林”といえば、例の憲法学の小林節氏も本来は改憲派なのだが、自民党の主張に近い学者や知識人からも異論が噴出しているのが今回の安保法制である。メディアを黙らせてしまえ、などという主張がいかに的外れでいかれたものかは推して知るべしというものだろう。

 それにしても、「文化芸術懇話会」での自民党議員らの発言はかえすがえすも重大である。これを看過すれば、まさに日本の北朝鮮化の第一歩ということになるだろう。ここ数年の政治家たちの言動を見ていると、私には、かつてのソ連とナチスドイツの関係が思い起こされる。ソ連とナチスドイツは犬猿の仲で、互いに相反する思想を持ち激しく敵対していたが、どちらも半ば狂気じみた独裁者によって支配され、強権的・抑圧的な国家体制はそっくりだった。北朝鮮憎し、といっているうちに、いつの間にか自分たちの国が北朝鮮そっくりになっていたというのでは、笑えないジョークだ。