真夜中の2分前

時事評論ブログ
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安保法施行――だが、まだこの流れは止められる

2016-03-29 13:20:49 | 政治
 3月29日、安保法がとうとう施行された。
 違憲の疑いを指摘され、肝心の安全保障の点でも無益どころかむしろ有害であると批判されながら、それでもここまでいっさい批判に耳を貸さずに暴走し続けてきた安倍政権には、憤りを禁じえない。ここであらためて、安倍政権を強く批判するとともに、私が考える安保法の問題点を整理しておく。


(1)海外で武力行使することにより、不必要に敵をつくり、攻撃されるリスクが増す。これはいまの欧州で実際に起きている。

(2)集団的自衛権でたとえばアメリカの戦争につきあわされることになるとしたら、それは、これまでの例からしてきわめて独善的・自己中心的なものである可能性が高く、そのような戦争に協力することは日本にとって不名誉にしかならない。

(3)海外に自衛隊が派遣されれば、当然そのぶん日本にいる自衛隊員は減ることになる。つまり、日本の守りは手薄になる。災害救助などの役割にも支障をきたすかもしれない。

(4)(3)の問題点をカバーするために自衛隊の人員や装備を増やすとしたら、防衛費はどんどん膨張していくことになる。それは、ただでさえ危機的な日本の財政を圧迫することになる。

(5)日本が“軍備”を増強すれば、想定される“敵”国もそれに対抗して軍備を増強する。それはむしろ、安全保障上のリスクを高めることになる。


 “戦争法”という批判に対して政府は「戦争しないための法律だ」と言い張ってきたわけだが、NHKニュースの報じるところによると、防衛省の内部資料で、自衛隊の現場が「今後他国と連携した戦闘を伴う任務遂行などの可能性が増大する」と分析していたことがあきらかになったという。つまり、現場ははっきりと“戦闘”を見据えているのであり、「戦争しないため」という政府の説明は、国民を欺くためのものでしかなかったわけだ。

 また、手続き上の問題も大きい。
 勝手にアメリカで約束してきたということも問題視されたが、“法的安定性”を損なうということも指摘された。このような強引な憲法解釈を許せば、時の政府がいくらでも恣意的に憲法を解釈して好き勝手な法律を作ることができるようになり、「憲法が権力を縛る」という立憲主義国家の土台が崩れる――という批判である。

 このようにさまざまな問題点をはらみながら、安保法は施行にいたってしまった。
 しかし、まだ希望もある。
 施行を前にして、国会前ではSEALDs らを中心として抗議行動が行われたという。そして、それに呼応するように、全国各地で行動があった。昨年の強行採決から半年以上が経つが、こうして抗議が続けられており、今後も消えていきそうにないのは、じつに心強い。「採決してしまえば国民はすぐに忘れる」という自公の見通しは、完全にはずれたのである。目論見がはずれた政権側は、法の実際の適用は夏の参院選以降に先送りする方針という。最近では消費税増税の再延期を検討しているという話もあるが、こうした動きは焦りの表れだろう。安保法や消費税といった問題について、こうまで露骨な「争点化回避」をしなければならないほど、彼らは追い詰められているのだ。
 以前辺野古新基地の問題についても書いたが、これらはつまるところ一時的な“選挙シフト”にすぎない。選挙前だけ、そういう部分を隠して有権者に見えないようにしようとしているだけだ。そうして参院選をしのぎきれば、すぐにそれを前面に出してくることは目に見えている。何度でもいうが、有権者はこんな見え透いたやり方にだまされてはいけない。

言論・報道への抑圧はすでにはじまっているのかもしれない

2016-03-25 22:33:53 | 政治・経済
 自民党の大西英男議員が、「巫女さんのくせに」発言でふたたび物議をかもしている。
 北海道での補選の必勝祈願で現地の神社を訪れた際に巫女さんに自民党への投票を呼びかけたところ「自民はあまり好きじゃない」としごくもっともなことをいわれ、逆ギレしたすえの暴言である。
 これに関する報道やつぶやきなどでは、この人があの“文化芸術懇話会”の参加者で「マスコミを懲らしめるためには広告収入がなくなるのが一番」などと発言していたこともついでに取り上げられているが、たまに名前が出てくればこんな話題でなんともお騒がせな議員である。

 この“文化芸術懇話会”議員がふたたびクローズアップされたのにあわせて、当ブログでも報道の自由について書いておきたい。

 先日、鳥越俊太郎、田原総一朗、岸井成格氏らが、外国特派員協会でふたたび会見を行った。
 このブログでも取り上げたが、彼らは一ヶ月ほど前にもほぼ同じメンツで会見を行い、高市総務大臣の電波停止に関する見解を批判しているが、あらためて海外の記者たちにむけてアピールしたかたちである。

 その会見では、金平茂紀氏もメッセージを寄せ、前回の会見が一部報道機関では報じられなかったということに触れていた。金平氏はそこに、メディアの「自己規制」「自己検閲」という問題をみる。まさにこれこそ問題で、政府がメディアを弾圧していれば、それは弾圧という問題が起きていることがわかるわけだが、メディアが「自己検閲」してしまえば、問題があるということさえわからない。メディアがみずから検閲するから政府が検閲するまでもない――そうなると、表面上は報道の自由があるように見えて、実際にはきちんとした報道がなされていないということになるわけである。

 そういう状況を作り出すものはなにかというと、政府の威圧的な態度であり、高市大臣の発言もまさにそのゆえに問題があるわけだが、こうした発言とはまた別に、最近は“スラップ訴訟”というのも問題になってきている。

 スラップ訴訟とはつまり、「訴える」という行為自体で、相手を萎縮させ、批判的な言説を封じ込めようというものであるが、これが報道や言論に対するソフトな抑圧のツールとなっているのである。
 その例として、たとえばこのブログで以前とりあげた甘利前経済再生相の問題というのがあったわけだが、ここでは同じ稲田朋美政調会長の件についても触れておく。
 2014年に、「サンデー毎日」が「安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月」という記事を掲載し、このなかで、稲田氏が、ヘイトスピーチをくりかえす在特会と近い関係にあると書いた。この件で稲田氏は名誉を傷つけられたとして慰謝料と謝罪記事の掲載をもとめる訴えを起こしていたのだが、今月、大阪地裁は稲田氏の請求を棄却した。判決は、記事の内容は真実で公益性もあると認定しており、この手の訴訟としては異例なぐらいに、全面的な敗訴といっていいだろう。

 この訴訟もまた、スラップ訴訟とみるべきではないか。
 スラップ訴訟は、裁判そのものの勝ち負けがどうであろうと、つまりは「訴える」ということ自体で批判的な言説を封じるのが目的である。要するに、それ自体がソフトな言論弾圧なのである。もちろん、報道機関や言論人の側がそのような威圧に屈しない気概をもつことが重要だが、それは、スラップ訴訟のような行為を容認する理由にはならない。

 甘利氏や稲田氏の起こした訴訟をスラップ訴訟とみるならば、報道機関への抑圧はもうすでに行われているということになる。さらに、はじめの話に戻ると、あの“文化芸術懇話会”で、井上貴博議員は「福岡の青年会議所理事長の時、マスコミをたたいたことがある」と発言していて、これが事実なら実際に報道機関を抑圧した前歴があることになる。こういう人たちが電波停止を口にしているということが、恐怖なのだ。

ベルギーのテロは、日本の未来図かもしれない

2016-03-23 21:37:45 | 海外
 ベルギーでテロが発生した。
 欧州では、昨年フランスで大規模なテロが2度発生しているが、それに続いてベルギーでもテロが発生したというかたちだ。IS系の組織が犯行声明を出しており、欧州諸国とISとの“戦争”の一環としておきた攻撃であるようだ。

 奇しくも同じに日に、日本では安保関連法の施行を閣議決定するという動きがあった。
 「抑止力の向上と地域、国際社会の平和と安全にこれまで異常に積極的に貢献することを通じて、我が国の平和安全を一層確かにし、歴史的な重要性を持つ」と、安倍総理は語ったという。

 この閣議決定によって、安保法は29日に施行されることになったわけだが、はたして本当にそれによって日本の平和安全は確かなものになるのだろうか。
 私は、きわめて懐疑的である。

 ここではじめの話に戻るが、ベルギーやフランスでなぜテロが起きるのか。
 それは、ISを中心としたイスラム過激主義者たちを敵にまわしたからだ。そして、なぜイスラム過激主義者たちを敵にまわしたかといえば、アフガン攻撃やイラク戦争に参加したからである。
 当ブログでは何度か書いてきたことだが、アフガン攻撃は、NATOがその創設以来はじめて集団的自衛権を行使した事例である。イラク戦争は、欧州から参加した国はアフガンに比べれば少ないが、しかし基本的な構図は同じである。

 すなわち、集団的自衛権を行使してアフガン攻撃に参加し、「自分が直接攻撃されていないのに、他国に軍隊を派遣して戦争に参加する」ということをした結果、欧州はいまのような状況になっているのである。

 そして、いうまでもなく、アフガン攻撃は、テロだけではなく難民問題にもつながってくる。
 先日イラク戦争についての記事で、EU加盟国への難民申請が過去最多となり、その一割はイラクからの難民だったと書いたが、アフガンからの難民もそれと同じぐらいで、全体の14%ほどを占めているという。そういう意味で、アフガン攻撃はいまでもダイレクトに難民問題につながっているのだ。

 こうした問題を踏まえて、日本のことを考えれば、集団的自衛権の行使を可能とするというところからはじまった安保関連法が日本の平和にも安全にも寄与しないことがわかる。
 昨年の安保法制に関する議論で、“日本が海外に自衛隊を派遣して戦争に参加すれば、テロの標的になる”という議論があったが、これは、可能性の問題ではなく、すでに欧州では現実のものになっているのである。「自国が直接攻撃されていないのに、他国に軍を派遣して戦争に参加する」ということをすれば、問題をさらにややこしくするのはちょっと考えればわかることであって、現実の世界では現にそうなっている。アフガンやイラクの攻撃に参加したことによって、欧州諸国は“戦争”を自国に持ち込んでしまった。それによって、平和と安全が守られるどころか、欧州は危険で不安になったのである。このまま安保関連法が施行され、実際に日本の自衛隊が海外派遣されるようになれば、日本でも同じような問題が生じる可能性はかなり高い。フランスやベルギーで起きたようなテロが、日本でも起きるようになるかもしれないのだ。本気で日本と周辺地域の平和と安全を考えるなら、自衛隊の海外派遣が実行される前に安保関連法を廃止に追い込むべきである。

安倍政権は違憲内閣

2016-03-21 22:12:20 | 安倍政権・自民党議員の問題行動
 先ほど、安倍政権の閣僚は幼稚園児レベルという記事を投稿した。
 そこではいくらかコケにするような調子で書いたが、しかし、そう笑っていられるような状況でもない。
 先の記事では政策の中身以前の問題をメインに取り上げたが、政策の中身もまた問題があるから困るのだ。安倍政権のわがままは、憲法をないがしろにするレベルにまでいたっていて、このことは日本の社会に深刻な危機をもたらしつつある。というわけで、この記事では、安倍政権がいかに憲法を蹂躙しているかということについて書く。

 先の記事でも少し触れたが、馳文部科学大臣が国歌斉唱について「恥ずかしい」と発言したことに対して、憲法学者らが「違憲」だという声明を出した。
 発端は、岐阜大学が卒業式などで国家斉唱をしないという方針を打ち出したことで、これに対して馳文科相は、「恥ずかしい」などと批判していた。この発言に対して、憲法学者96人が「国歌斉唱をするかどうか決定する権限は各国立大にある」として今回の声明を出した。馳発言が、学問の自由を保障する憲法23条の趣旨に反するという批判である。先日、高市総務大臣の電波停止発言に対して学者たちが違憲と批判する声明を出したが、それに続いてまたしても安倍政権の閣僚が違憲と断罪されたかたちだ。

 もっと前にさかのぼれば、安倍政権が違憲との批判を受けたことは、これだけにとどまらない。
 安保法は圧倒的大多数の憲法学者に意見と指摘され、昨年は臨時国会を開かなかったことが憲法違反と指摘された。そして、今年に入ってからもまた。こうして次々に違憲を指摘されているのである。
 かつて、ここまで幾度も憲法学者らから違憲と批判された政権があっただろうか。
 それに、思えば、そもそもの選挙からして、衆参両院で定数配分が違憲状態だと指摘されているという事実もある。そういう意味では、内閣がその信任のもとに成立し連帯責任を負うとされている国会自体が違憲状態なのであって、最高裁の指摘にも根本的な措置をとらないままその状態を放置している安倍政権は、存在そのものが憲法に違反する“違憲内閣”とでも呼ぶべき状態である。

 ここまでくると、もうこれは故意にやっているのじゃないかと思えてくる。

 あえて憲法を無視しまくって、憲法違反を日常茶飯事にしてしまう。そうすれば、新たに憲法に違反しても「またか」という感じで誰もなにもいわなくなる。改憲は難しそうだから、憲法を無視しても大丈夫な状況を作ろう――そう彼らは考えているのじゃないか。彼らの憲法蹂躙っぷりをみていると、なかば本気でそんなことを思ってしまうのだ。

 まあ、それはさすがにうがった見方というものだろうから、ここではじめの話に戻る。
 高市発言は「報道の自由」、馳発言は「学問の自由」への侵害と批判されているわけだが、この両方で指摘されているのは「戦前の経験」である。言論の自由や学問の自由が抑圧された社会が無謀で無責任な戦争につながっていったという過去があるから、日本国憲法ではそういう自由が保障されているわけである。それを無視する大臣らの発言は、つまりは安倍政権がこの国を“戦前レジーム”に戻そうとしていることのあらわれである。そして、その“戦前レジーム”はばかげた戦争につながるものにちがいないのだ。

イラクはいま

2016-03-20 22:24:42 | 政治・経済
 今日3月20日は、イラク戦争開戦の日である。
 というわけで、この記事ではイラク戦争について書きたい。

 開戦の理由とされた大量破壊兵器が結局存在しなかったこと、当時のブッシュ大統領が国連の枠組みを無視して開戦に踏み切ったこと、それを正当化するために持ち出してきた三段論法が世界中の国際法学者らから批判されたことなどは、これまでにも何度か書いてきたが、今回は、また別の観点から書く。それは、武力によって状況をよい方向に変化させることができるのか――ということである。

 “武力で平和はつくれない”ということを当ブログでは重ねて主張してきたが、イラク戦争はまさにその典型的な例だ。
 フセイン政権を倒したまではよかったが、その後のイラクでは安定した状態を作り出すことはできなかった。米軍が撤退する前に一時的に改善した時期はあったものの、それも武装勢力が「米軍が出て行くまでおとなしくしているだけ」とその当時から指摘されていて、実際、米軍が撤退していったあとにイラクは無秩序状態に陥ってしまった。
 その混沌のなかで、ISが勢力を伸ばしていくことになる(※)。
 ISは、塩素ガスやマスタードガスといった化学兵器も使用しているとされ、他宗派や異教徒(彼らからみての)に対しては虐殺行為もためらわない無法集団だ。ISよりは、フセイン政権のほうがまだましだったろう。イラク戦争は、膨大な戦費を費やし、人命を犠牲にし、その結果としてイラクという国を前よりひどい状態にしたにすぎないのである。


 そして、イラク戦争は、単にイラクを失敗国家にしたというだけではない。それに参加した国々は、いまだに重い代償を払わされ続けている。
 
 その“代償”とは、たとえばテロの脅威である。テロそのものも被害をもたらすが、そのテロの脅威が国内に憎悪と分断を生み出し、社会全体を不寛容にしていくという問題もある。
 そして、それを助長するのが難民問題だ。
 イラクはもうほとんど内戦状態にあり、その混迷から多くの難民を出し、それが欧州で難民問題となっている。先日EUが発表したところによると、2015年のEU加盟国への難民申請者数は、過去最多の125万5千人にのぼった。そのうちおよそ1割が、イラクからの難民であるという。この膨大な数の難民が、受け入れても受け入れなくてもなにがしかの問題を生じさせる解決しがたい悩みの種となっているのは周知のとおりだ。
 こうして、イラク戦争は、イラクだけでなく周辺国にも多くの困難な問題をもたらし続けているのである。

 これらの問題を解決するために欧米諸国や中東諸国からなる有志連合はIS殲滅のための作戦を進めているが、ここでも、軍事力によって問題が解決されるかは不透明である。

 まず、単純にISを壊滅させることが可能なのかという問題がある。
 有志連合による空爆は、回数でいえばもう一万回をゆうに超えているが、それほどの効果は出ていないといわれる。実際のところ、ISの勢いはまだ衰えているとはいいがたい。
 たとえば、つい先日ヒッラで大規模な自爆攻撃が発生した。ヒッラはISの支配地域から遠く比較的安全といわれていたというが、そういうところでも攻撃が起きている。昨年の12月の時点で、アメリカのカーター国防長官は、ISの封じ込めが「できていない」ということを認めていて、こうした状況に、カナダなどは空爆作戦から撤退する方針を示している。
 空爆だけではどうにもならないというのはもうあきらかで、アメリカは逆に地上戦への関与を深めている。特殊部隊や軍事顧問を派遣し、作戦への助言や訓練を行うなどしているようだ。
 こうした関与を強めていけば、なるほど対IS戦に一定の効果はあるだろう。殲滅させることもできるかもしれない。だが、だからといってその後に安定した国家が作れるかどうかというのはまた別問題である。いまの状況をみていると、たとえISを殲滅したとしても、その後にまた別の武装勢力が台頭してくるだけ、ということになりそうである。

 いまから25年前に、多国籍軍はイラクを攻撃した。そして、13年前にも攻撃し、またいま、攻撃している。いまのやり方を繰り返しているだけでは、十数年後にまた同じことをしている可能性はかなり高いのではないだろうか。


 昨年になって、開戦当時アメリカの国防長官だったラムズフェルド氏は「イラク攻撃の計画を聞かされたとき、“イラクに民主主義国家を作る”というのは非現実的だと思った」と語り、イギリスの首相だったブレア氏は「情報が間違っていた」と謝罪した。いまさらそんなこといわれても……という話である。このように、イラク戦争というのは、そこにいたる経緯も嘘と欺瞞だらけで、その後の結果も、何もいいことがない、失敗としかいいようのない代物なのだ。

 最後に日本の話をしておくと、日本では、イラク戦争を支持した人たちがまったくそのことについての総括をしていないようにみえる。
 去年も、安倍総理は国会で「大量破壊兵器がないことを証明しなかったフセインが悪い」と発言するなど、なんの反省もしていない。
 そして、このイラク戦争を支持した政治家たちが安保法制を作り、イラク戦争を支持したメディアが安保法制を支持していた(これは某Y新聞のことだ。Y紙はイラク戦争を全面的に支持していた)という構図がある。だから私は、ますます安保法制を支持することができないのである。イラク戦争のことを考えれば、安保法についても、十年ぐらいあとになって「あの判断は間違っていた」ということになるのはかなり確実と思われるからだ。


※…ISの登場はイラク戦争が直接の原因とはいえないかもしれないが、間接的には関係があるし、イラクの混迷がISの勢力拡大をたすけているという意味で、やはりもとをたどっていけばイラク戦争とつながっているといえるだろう。