真夜中の2分前

時事評論ブログ
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ふたたび、アメリカ人は正しいか――イエメン政変によせて

2015-01-25 19:35:01 | 政治・経済

 先日、アラビア半島の小国イエメンでクーデターが発生した。
 このクーデターの結果、ハディ暫定大統領らが退陣し、イランから援助を受けるシーア派系の武装組織「フーシ派」が実権を掌握したという。前々回、前回で書いたこととつながりがあるので、今回はこの件について少し書いておきたい。
 イエメンといえば、フランスで起きたシャルリ・エブド事件にも関与しているとされる過激派「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」が拠点としている国である。このAQAPというのはもともとサウジアラビアを拠点にしていて、アメリカに対するテロ攻撃をしかけてきた。これに対して米軍の側も、イエメンを“テロとの戦い”における戦場の一つと位置づけ、これまでたびたび無人機攻撃の対象としてきた。それは、同時多発テロ直後の2002年ごろから続けられてきたのだという。そのイエメンで、過激派武装組織が権限を掌握してしまったのである。クーデターを起こしたフーシ派という組織はAQAPとは対立関係にあるらしいが、しかしアメリカからみたときに、敵の敵は味方というわけにはいかないだろう。イランとつながりがあるシーア派武装組織というのだから、アメリカにとってよいお友達になれる相手でないことはたしかなのだ。中東にまた、厄介な国家が一つ増えたことになる。
 そしてこの構図は、前回取り上げたイラクやアフガンのこの十余年の経緯と通じるものがある。米軍が「テロとの戦い」の一環として攻撃をくわえてきた国において、過激派武装組織が衰退するどころか、むしろクーデターを起こし実権を握ったのだ。これもまた、武力攻撃の有効性を疑わせる事例といっていい。アフガニスタンへの攻撃は、タリバンの支配を覆すことはできず、“タリバニスタン”とさえ呼ばれる状況を作った。イラクのフセイン政権を打倒した後には、凶悪な「イスラム国」が誕生した。米軍が攻撃をくわえてきたイエメンでは、過激派がクーデターを起こした。イエメンと同様に無人機攻撃が行われているパキスタンでも、爆撃によって反米感情が高まり、新たに反米勢力に加入する者が絶えないといわれる。こうした事例を見ていると、暴力は、暴力を抑止するどころか、さらなる暴力を引き起こすというのは、かなり普遍的な法則だと思われる。原因はいろいろあるだろうが、一つには、長きにわたって暴力が行使されてきたところでは問題の解決に暴力を行使することが当然という空気が醸成されるといったこともあると私は考える。暴力が支配してきた社会では、暴力がタブー視されなくなってしまうのだ。
 いま日本は、イスラム国による邦人人質事件の急展開に揺れているが、このような事態がなぜ起こったのかということを過去にまでさかのぼって考えなければならない。「テロに屈しない」と題目のように唱えているだけでは、今後同じような事件が発生するのを防ぐことはできないだろう。ともかくも、安易に武力に頼ることなく、状況を根底から改善する方策がとられることを望みたい。

アメリカ人は正しいか――集団的自衛権を考える②

2015-01-21 21:49:05 | 政治・経済
 やや間が空いてしまったが、シリーズの第二弾となる。①にひき続いて集団的自衛権について考える。今回は、集団的自衛権にかぎらず、もっと広く、軍事力によって平和が実現できるかを考えたい。
 たとえば、イラクについて考えてみよう。昨日からメディアはイスラム国による(と思われる)日本人の人質殺害予告の話題で持ちきりだが、この人質事件に関するブログなどを見ていると、こんなことが起きるから日本は軍事力を持つべきだというような主張が見受けられる。しかし、本当にそうなのだろうか? 奇しくもアメリカのオバマ大統領は昨日の一般教書演説で対テロ戦争の成果を強調し、今後もそれを続けていくことを表明している。しかし、本当に武力で現在の中東情勢を改善することができるだろうか?
 そもそもイラクやアフガンの現状が、武力を行使した結果だということを忘れてはならない。
 イラク戦争の開戦理由は二転三転したが、当初は大量破壊兵器を保有している、とか、アルカイダとつながりがあるから、というようなこともいわれていた。いずれも後に否定されていることだが、その当時はその“大義”を信じている人もいただろう。ブッシュ政権は安全保障のためという理由でイラクを攻撃したのである。では、その結果世界は安全になったのか。
 また、アフガニスタンはどうか。NATOはその条約の第五条で集団的自衛権を規定しているが、それがこれまでに行使された唯一の例が9.11後のアフガン侵攻である。はたして、集団的自衛権を行使したことでNATO加盟国の安全は保障されただろうか?
 答えはノーだと私は思う。
 9.11テロ後の戦争がはじまって10年以上が経ってさえ、アフガニスタンとイラクは世界の難民数トップ2(ただしパレスチナ難民をのぞく)であり、イスラム過激派の動きはイエメンや北アフリカ諸国などに拡散し、むしろ活発化している。それらが、フランスで起きたシャルリ・エブド襲撃事件などともつながっている。また、東方面ではパキスタンでもイスラム過激派が勢いを増し、パキスタンを通り越してインドにまでアルカイダの支部が作られている状態だ(アルカイダはビンラディンの死後衰退しているともいわれるが、薄く広く拡散しているように私には思える)。これに対してパキスタンなどで米国が行う無人機攻撃は、むしろ反米勢力を勢いづかせているともいわれる……
 これが現実なのだ。武力を行使した結果、イラクもアフガンもまったく平和にはなっていない。むしろ、事態は悪化さえしているかもしれない。軍事力が平和を実現できるかについて語るのなら、まずこの現実を直視するべきである。米軍をはじめとする多国籍軍が政府を倒し、十万人を越える兵士が十年近くにわたって駐留し続けた後に残されたのが、イスラム国であり、いっこうに治安の改善しないアフガニスタンなのだ。
 いま日本で憲法9条や集団的自衛権について議論するのなら、その議論は「軍事力が平和を実現できていない」という現実を踏まえたものでなければならない。
 なるほど、たしかに軍事力が必要な場合はありうるかもしれない。私は、そのこと自体を否定しない。だが、軍事力を決して過大評価してはならない。それが持ちうる効力は、抑止という点でも、実際に起きている紛争を停止させるという点でもきわめて限定的であり、意図していたのとは逆の結果をもたらすリスクもある(しかもそのリスクはかなり高い)。純粋に実利で考えてみても、外交上のカードとしてそれほど有効なものではないのだ。そこを読み間違えて軍事力が絶対的なジョーカーであるかのように錯覚していると、アメリカのように幾たびも戦争の泥沼に陥るという愚をおかすことにもなりかねない。
 自民党中心の政府は、今度の通常国会で集団的自衛権に関する法整備を目指し、さらに将来的には憲法改正も視野に入れているという。はたしてそこでは、本当に現実を踏まえた議論が行われるのか。私は、強く疑問を感じている。

言論の自由と宗教――シャルリ・エブド事件によせて

2015-01-16 15:08:19 | 政治・経済
 順番からすると前回の続きで②を書くところなのだが、今回は、最近の出来事について意見をいっておきたい。
 フランスの新聞社襲撃事件についてである。先日、フランスの新聞社「シャルリ・エブド」の編集部が、イスラム過激派による襲撃を受けた。これに対してフランスでは、各国の首脳も参加してテロ行為に反対するデモ行進が行われた。
 いうまでもなく、テロ行為はいかなる理由があっても容認されるべきではない。各国がそれに対して屈しない姿勢を示したのは当然である。だが、その後シャルリ・エブド紙が再びムハンマドの諷刺画を掲載したことについては、ややすっきりとしないものを感じた人も多いのではないだろうか。かくいう私もその一人である。
 といっても、当然ながらテロ行為を擁護するつもりは毛頭ない。民主的な社会にとって言論の自由はきわめて重要であり、暴力によってそれを封じようとする行為は許されるべきではない。だが同時に、言論の自由はすべてに優先する価値ではない、とも私は考える。
 たとえば、ナチスが行ったホロコーストの存在を否定するような内容の記事を公の媒体に発表することは許されるか。ヨーロッパでは、まずできない。日本であっても、かつて『マルコポーロ』という雑誌がそういう記事を載せて廃刊になったという例がある。ホロコーストもまた許されるべきでない絶対悪であり、それがあったことを否定する、あるいはそれを擁護するというような言説を認めれば、社会を成り立たせている価値規範それ自体が深刻な危機に陥ってしまう。そのような言説は、言論の自由で許される枠を超えているのだ。ゆるがせにすることのできない、基盤となる公共的価値というべきものが社会には存在していて、そこに踏み込むことは言論の自由があるからといって許容されるものではない場合がありうる。
 ひるがえって、ムハンマドの諷刺画はどうか。
 イスラム教徒にとっては、ムハンマドを諷刺画のようなかたちで描かれることは、侮辱である。それはおそらく、彼らにしてみればホロコーストを否定する言説と同程度に容認しがたいものであっただろう。私は、そのような宗教のあり方にも一定の配慮が払われるべきだと考える。
 フランスという国は政教分離がかなり徹底していて、近年ではイスラム教徒の女子生徒が学校にスカーフを巻いてくることを禁止するかどうかといったことが問題になったこともある。それはそれで一つの価値観ではあろうが、同時に、信教の自由も近代社会の重要な価値の一つだ。宗教というものは多くの場合それを信仰する人の生活にわかちがたく結びついていて、その浸透のレベルは宗教によってちがう。その点には十分な配慮がなされなければならない。
 そもそも、ミルトンは言論の自由を語る際にプロテスタントの一派であるピューリタニズムをその根拠としたし、政教分離という概念も、もとはキリスト教内部の宗派対立を避けるために生まれたものである。そういう経緯から、欧米諸国が提唱する価値観というのは結局キリスト教に由来するものではないかという批判もあり、そこから、人権や民主主義を否定するような極端な相対主義が生まれてくることにもなる。
 言論の自由や政教分離といった価値観が真に普遍的なものであると主張するのなら、それがキリスト教的価値観の一方的な押しつけになってしまわないよう熟慮する必要がある。それには“言論の自由”を金科玉条として掲げるのではなく、それぞれの宗教の事情を酌まなければならない。「やつらは“言論の自由”を理解していない、前近代的だ」というような態度は、いたずらに対立を煽るばかりだろう。その観点からすると、ムハンマドの諷刺画を掲載するということにそこまでこだわる必要があるのかは、私にはやや疑問に思える。イスラムの側からすると、それはキリスト教世界で培われたキリスト教的価値観の押しつけと見えるかもしれない。悪くすれば、イスラム教に対する挑発のようにとられかねず、宗教的な対立を助長するおそれもある。過激主義がインターネットを通じて拡散する時代には、そうしたことも慎重に考えていく必要があるのではないだろうか。

ローマ人は正しいか――集団的自衛権を考える①

2015-01-11 19:05:53 | 政治・経済
 前の二回は、特定秘密保護法について書いた。今回は、これまでの安倍政権の二年でそれに次ぐ大きなイッシューであった集団的自衛権について語りたい。
 ここで取り上げるのは、大まかにいって、「バランス・オブ・パワー」という考え方は正しいのかという問題である。
 バランス・オブ・パワーとは、ひらたくいえば、各国が軍事力を持ちその釣り合いをとることによって平和が保たれるという考えだ。集団的自衛権が抑止力を持つということは、この考え方を前提にしているとみていいだろう。
 結論からいえば、私はこの考えに否定的である。
 私が考えるには、バランス・オブ・パワーという発想は中世的形而上学の領域から出てきたものであり、経済におけるレッセフェールと対をなす19世紀的迷信にすぎない。
 この話題では、「平和を望むなら戦争の準備をしておけ」というローマの格言(とされるもの)がよく引用される。平和を守るためには強い軍事力こそが必要で、それをもたずに平和を語るのは空論だというのである。しかし、ローマ人がそういったからといって、それは正しいのか? われわれは本当にこの警句を信用していいものだろうか?
 これも、結論から先にいうと、私は懐疑的だ。
 その理由は、「実際の歴史に照らしてみてとてもそうは思えない」ということに尽きる。もし手元に歴史の本があるなら、一つの実験として、でたらめにページを開いてみてほしい。それがどの時代のどのページであっても――文化だけをとりあげているような章でないかぎりは――たいていあなたは、そこに戦争の記事が載っているのを見出すだろう。それほど、人類の歴史は戦争だらけなのだ。ものの本によれば、これまでのところ人類の歴史で戦争がなかった時期は一割にも満たず、和平協定は平均して二年ぐらいしかもたなかった。はたしてそれは、人類が戦争の準備を怠ったからなのだろうか?
 どう考えても、答えはノーである。
 人類が軍事力と呼べるものを手に入れてからこのかた、ローマ人にいわれるまでもなく、各国、各民族とも戦争の準備にぬかりはなかった。それでありながら、実際に戦争を防ぐことはできていないのである。このことからも、軍事力を強化することによって戦争を防ぐという発想がきわめて胡散臭いものであることがわかる。すなわち、“軍事力によって平和を守る”という発想には実績がないのだ。私にいわせれば、平和のために軍事力を準備しておくという発想こそ、現実の裏づけをもたない空論である。
 このことを示す典型的な例は、ヨーロッパだろう。ヨーロッパといえば、かつては戦争ばかりしていた地域である。それは、彼らが軍事力をもたなかったからか? これも、あきらかに答えはノーである。ヨーロッパ諸国は、それぞれに軍備を保有し、互いに同盟を結び、けん制しあうのを常としていた。そして、その結果としてしょっちゅう戦争をしていたのである。歴史を眺めてみれば、むしろそうして同盟を結びけん制しあっていることそれ自体が戦争の原因となり、また、戦争がいったん起きたときにはそれを拡大させる働きをしているようにさえ見えるのである。戦争の準備をしていた“のに”ではなく、戦争の準備をしていた“からこそ”戦争がやむことがなかったということだ。
 後者の論点は、特に重要である。ここがまさに集団的自衛権の問題にもつながってくるが、いくつかの国が同盟を結んで対立する勢力をけん制するという方法は、じつは非常に危険である。たとえば、A、Bという二つの陣営があり、それぞれに十ヶ国が参加しているとしよう。そうすると、A、Bに属する国のどれか二ヶ国が戦争を始めて、同盟国がその同盟を理由に参戦していけば、二十ヶ国による大戦争になってしまう。
 これはただのシミュレーションではなく、現実に起きたことでもある。そのもっともわかりやすい具体例として、第1次世界大戦が挙げられるだろう。
 周知のとおり、この戦争はオーストリアの皇太子がボスニア=ヘルツェゴビナのサラエボで殺害されたことに端を発している。オーストリアがバルカン半島に勢力を拡大することを快く思わない大セルビア主義者が、テロに走ったという事件だ。すなわち、本来はバルカン半島というヨーロッパの片隅で起きた衝突にすぎないのだ。ところがそこに、各国がなだれをうって参戦していき、“世界大戦”となった。
 ここで、講談社刊の『クロニック世界全史』という本から第1次大戦に関する記事の一部を引いてみよう。1915年の記事である。

 「この年4月22日、ドイツ軍はベルギーのイープルの戦いでフランス軍に対して、はじめて毒ガス兵器を使用。さらに5月と翌年11月には、ツェッペリン飛行船とゴータ型爆撃機でロンドン空襲を開始する」

 なんということもない記事かもしれないが、はじめに衝突が始まったのがバルカン半島だったことを思い出してほしい。そして、ドイツ、ベルギー、フランスという国々がどこにあるかを地図で確認してほしい。なぜ、バルカン半島で起きた紛争の結果として、そのおよそ一年後にドイツ軍とフランス軍がベルギーで戦っているのか? しかも、さらにはロンドンを爆撃だって? いったいどういうことなんだ、これは……そういう素朴な疑問がわきあがってはこないだろうか。保守派は安全保障のうえでそんなことは当たり前だというかもしれないが、これを当たり前といえるようになったら、それは戦争という狂気に洗脳されているということだと私は思う。もっというと、この第1次世界大戦には、大西洋を越えてアメリカも参戦したし、日本も参戦している。日英同盟というものがあったために、ほぼ地球の裏側にある日本さえもが、地中海に艦船を派遣しているのである。そもそもの発端であるサラエボの事件に、日本はほとんど何の関係もないにもかかわらず、だ。これを狂気といわずして、なんといおう? 張り巡らされた同盟の網は、ひとたび衝突が起きると導火線の役割を果たし、戦火を拡大させていくのである。
 では、ひるがえって今はどうか。
 現在のヨーロッパは、かつてのように戦争が多発する地帯ではなくなっている。とくに、西欧――イギリス、フランス、ドイツ、スペインといった、かつてはヨーロッパで戦争といえば毎度のように顔を出していた常連たちが、この七十年ほど互いに戦争をしていない。いまのところ、しそうにも見えない。それはなぜか? 彼らが軍事力でけん制しあい、その釣り合いがとれているからだろうか? これも、答えはノーだろう。いまのヨーロッパの平和は、かつての誤った安全保障政策――すなわち、軍事力の均衡によって平和を維持するという考え方――をやめたからとみるのが妥当だ。
 19世紀ぐらいまでは、戦争が起きても「ああ、また戦争が起きてしまった」ぐらいで済んでいたから、誤った安全保障政策をとり続けていても特に問題はなかった。だが、20世紀になると、近代兵器を駆使した総力戦がしゃれにならない結果を引き起こすようになった。ここにいたってヨーロッパ諸国は、次の戦争を防ぐことを真剣に考え始め、これまでの発想が根本的に間違っていたことを正面から直視し、同盟を結びけん制しあうというような愚行をやめた。それによって、この地域における平和の持続記録を更新し続けている――というのが私の見方である。
 では、現在の東アジアではどうだろうか? 中国や北朝鮮の脅威がいわれて久しいが、果たして他国と手を組んでけん制することが、本当に有効な対応策となるのだろうか? 私は疑念を持っている。中朝の日ごろの言動を見ていれば、こちらがそのようなことをしたとしても引き下がらないのはあきらかだろう。いや、引き下がるどころか、面子を気にしてむしろますます前に出てくる可能性のほうが高い。そうしてお互いに“けん制”を続けていけば、いずれ導火線に火がつくのは時間の問題である。脅威が存在するからこそ、われわれは、過去の実績のない安全保障政策と訣別し、真に有効で現実的な方策をとるべきなのだ。

魔王

2015-01-09 15:11:03 | 政治・経済
 ――息子よ、なぜ顔を隠すのだ?
 ――お父さん、見えないの? 冠をかぶった魔王がいるじゃないか

                         (ゲーテ「魔王」)

 さて、本年2回目の投稿である。内容とてしては、前回の続きとなっている。
 タイトルの「魔王」というのはゲーテの詩をもとにしたシューベルトの歌曲「魔王」――ではない。勘のいい方はもう気づいておられるかもしれないが、そのシューベルトの「魔王」をモチーフにした伊坂幸太郎氏の小説『魔王』である。漫画化もされたので、ご存知の方も多いだろう。今から十年ほど前に発表され、その当時の社会状況を反映させた作品であるが、今でもなお――というより、まさに今の日本社会にこそ、ここで描かれた状況はあてはまると私は考える。そういうわけで、今回はこの『魔王』をテーマとして語っていきたい。
 冒頭に引用した会話はその元ネタである「魔王」の一節(伊坂氏の『魔王』で引かれている訳)であるが、その後には次のようなやりとりが続く。
 父「あれは霧ではないか」 子「お父さん、聞こえないの? 魔王が何か言うよ」 父「枯れ葉の音ではないか。落ち着くんだ」 子「お父さん、見えないの? 魔王の娘がいるよ」 父「見えるが、あれは柳ではないか」 子「お父さん、魔王が今、僕をつかんでいるよ」……
 この詩でゲーテが描いている“魔王”というのは、あるいは人間の深奥に潜む芸術的創造性のようなものの象徴かもしれないが、伊坂氏はその無気味なイメージに21世紀初頭における日本の状況を託している。そしてそれはまさに、私が抱いている問題意識とつながっているものと思われるのである。すなわち、重大な政治的決定が強行突破の末に既成事実化されていくことについての恐怖であり、もっといえば、そうしたことへの国民のリアクションの問題である。
 ここで、少し話題を変えたい。
 ひところ話題になった広瀬弘忠氏の『人はなぜ逃げ遅れるのか ――災害の心理学』(集英社新書)という本によると、人間には正常性バイアスという心理的なトラップがあるという。たとえば、2003年に韓国テグ市で起きた地下鉄放火事件が具体例として挙げられている。放火犯が地下鉄の車内で火を放ち、火災が発生するのだが、黒煙が充満しているにもかかわらず乗客たちはなかなか避難するなどの行動をとろうとしない。広瀬氏はその様子を、「全体としてみると、何かおかしいと感じているが、誰も危険を意識したうえでの、危険対応の行動をとっているようには見えない。現実に自分たちの身に降りかかっている危険を、理解できないえいるのである。」と表現している。「これぐらいなんてことはないだろう」と考え、行動を抑制するのだ。あわてて避難して何もなかったら、恥ずかしいといったような心理も働き、「これは正常な状態なんだ」「なにも異常はないんだ」と自分に言い聞かせるわけである。この正常性バイアスというものが、いざ火事などの一大事が起きた時に“逃げ遅れる”原因になるともいわれている。これはおそらく、昨年韓国で起きたセウォル号の転覆事故にも共通しているのではないだろうか。あの事故では、傾き行く船内の様子が映像に残されていたが、それらを見ていると、乗客たちはある意味で非常に冷静に見えた。なかには、その状況を楽しんでいるようなふうさえ見えるものもあった。本当は致命的な事態であるにもかかわらず、そのことが認識されていないのである。たまたま先の地下鉄と同じ韓国の事件ではあるが、このような事態はひょっとすると日本でも起こりうるのではないかと私は思う。想像してみてほしい。もし船や飛行機、あるいはバスなどが予期せぬ事故に遭い、船内放送で「大したことはありません、待機していてください」というようなことをいわれたら……意外と多くの人がなんの行動も起こさないのではないだろうか。
 そして私はこれを、この十数年ほどの政治状況に敷衍して考えてみたい。そうすると、おそろしい絵が見えてこないだろうか。
 事態をわかりやすくするために、もう一つ――これは手垢のついたたとえかもしれなが――“蟹の安楽死”という話を紹介しよう。蟹(カエルのバージョンもある)に苦痛を感じさせないように殺すときに、水を張った鍋の中に入れて、少しずつ熱していくのである。いきなり熱湯のなかに入れると逃げ出そうとするが、少しずつ熱していくと気づかないうちに茹で死にしてしまうのだという。

 ここで、ふたたび伊坂幸太郎氏の『魔王』に話を戻そう。たとえば、作中のある登場人物は憲法改正について次のように語る。
 「最初は大きな改正はやらないんだ。九条は、『自衛のための武力を保持する』とその程度にしか変えない。『徴兵制は敷かない』と足してもいい。……(中略)……そして、たぶん、憲法は変わる。大事なのはその後だ。時期を見計らって、さらに条文を変えるんだ。マスコミも一般の人間も、一回目ほどのお祭りは開催できない。抵抗も、怒りも、反対運動も持続できないからだ。『もういいよ、すでに九条は改正されてるんだからさ、また変えればいいじゃないか』という感じだろうな。既成事実となった現実に、あらためて歯向かう気力や余裕はないはずで、『兵役は強制されない』の条文を外すことも容易だ。一度、認められた消費税は上がる一方で、工事は途中では止まらない」
 さらに、こんなせりふも続いて出てくる。
「一度目の改正で、憲法改正の要件を、つまり九十六条を変えることができれば、もっと都合が良い。二度目以降の国民投票をやりやすくしておくわけだ。とにかく、賢明で有能な政治家であれば、唐突に大胆なことをやるのではなく、まずは楔を打ち、そこを取っ掛かりに、目的を達成する」
 この作品がはじめに発表されたのは2004年のことであるが、憲法改正の発議には国会議員の3分の2が必要であるという憲法九十六条の要件を安倍政権が緩和しようとしていたことは記憶に新しい。それを踏まえれば、われわれは『魔王』の無気味な預言に耳を傾けるべきではないだろうか。
 もとより、“既成事実化”という現象はなにも今にはじまったことではなく、この十数年の間にもペースの差はあれあったことだ。国旗・国歌法、日米ガイドライン、盗聴法、個人情報保護法、住基ネット……いまとなっては、そういえばそんなものもあったなあという程度のことに思えるかもしれないが、いずれもその当時は大きな話題となり、各方面で反対の声が上がっていた。こういったことが進められ既成事実化されてきたこの十数年の間に、日本の社会が少しずつ息苦しくなってきていると感じないだろうか? 私は感じている。
 たとえば、つい最近気になったニュースとして、爆笑問題がNHKの新春番組に出演した際に政治家ネタをすべてボツにされたという件があった。これなども、私には世の中がおかしな方向に向かっている一つの表れではないかと私には思える。ここでわれわれは、立ち止まって考えなければならない。この問題、「お笑いのネタがボツにされるぐらいいいじゃないか」といってしまっていいものなのだろうか?
 特定秘密保護法があってもいいじゃない、安全保障に関する情報を保護するのはは当たり前だよ、集団的自衛権の行使を容認したって別にいいじゃない、それでいきなり戦争になんてならないよ――そんなふうにいっている間に、少しずつ何かが決壊していっているのではないだろうか? ここで、伊坂幸太郎氏が出てきたついでに、氏の『グラスホッパー』という別の小説も紹介しておこう(ちなみ、『魔王』の漫画バージョン『魔王 JUVENILE REMIX』は、小説の『魔王』と『グラスホッパー』をミックスしたもになっている)。この『グラスホッパー』のなかに、「今まで世界中で起きた戦争の大半は、みんなが高をくくっているうちに起きたんだと思う」というせりふがある。安倍首相のいい加減な約束(前回参照)とちがって、改憲派が九十六条に手をつけようとするだろうという伊坂氏の”預言”は的中している。そのことを考えれば、われわれは高をくくってはいられないのではあるまいか。
 「これぐらいなんてことはないだろう」「いや、これは正常な状態なんだ」と考えているうちに、事態は取り返しのつかないところに至ってしまうかもしれない。真夜中はもう五分前ぐらいにまで近いづいているんじゃないか――われわれは、いま本気でそういうことを考えなければならない状態になっている。