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何度でもいう。抑止力は幻想にすぎない

2016-06-12 20:46:56 | 安全保障



 最近、当ブログにいくつかのコメントが寄せられている。
 かねてから、安保関連法は抑止力になどならないというのが私の主張であるわけだが、そういうことを書くとかなりの確率で批判的なコメントが寄せられる。それは、私がameba のほうでやっているブログでも同様である。個別のコメントに対して反論しているとなかなか大変なので、今回は「抑止力」という概念を批判するかなり長めの記事を書いた。われながら結構な力作だと思っているので、こちらのブログに寄せられたコメントに対する回答もかねて、ameba に投稿したその記事を転載する。



《私の考えでは、「抑止力」なるものは幻想にすぎません。はっきりいって、なぜ「軍事力で戦争を防ぐことができる」などというふうに考えることができるのかが理解できません。


 ・歴史上ほぼすべての国が軍備をもっていた。
 ・歴史上、多くの国が戦争を繰り返してきた。


 この二つの単純かつ明確な事実を考えあわせれば「軍備を増強すれば戦争を防ぐことができる」という考えははっきり否定されます。

 「強い軍事力をもっていれば攻撃されない」という理屈が事実でないのは、たとえば、戦国時代の日本を考えてみればわかります。
 上杉謙信と武田信玄は、戦国時代の両雄です。双方とも、当時の日本で随一の軍事力をもっていました。では、上杉と武田がお互いの軍事力をおそれて手出しをしなかったか。互いの軍備が抑止力となって戦争を起こさずにいたか。そんなことはありません。この両者は、しょっちゅう直接武力衝突しています。六度にわたる川中島の戦いは語り草です。
 そして、これはなにも上杉・武田だけの話ではなく、戦国時代の大国関係すべてにあてはまります。たとえば毛利、尼子、大内、大友といった西国の大大名は、互いに強い軍事力をもち、そのときどきで隣国をけん制するために同盟を結び合っていました。ではそのことで戦争が防がれていたかといえば、そんなことはまったくなくて、飽くことなく戦いを繰り返していました。

 そして、世界史レベルでみても事情は変わりません。
 たとえば、16、7世紀頃のことを考えてみると、神聖ローマ帝国は大国でしたが、デンマークが攻め込んできました。そのデンマークも大国でしたが、当時は新興国にすぎなかったスウェーデンに攻め込まれました。そのスウェーデンは、ロシアと戦争をしていて、ロシアはポーランドと戦争をしています。ロシアもポーランドも大国でしたが、互いに戦争をしているのです。また、イギリスとフランスもしょっちゅう戦争しています。歴史上、このような例は枚挙にいとまがありません。「強い軍事力をもっていれば攻め込まれない」などということはまったくないのです。


 そしてこれは、中世だけにかぎった話ではありません。

 神戸大学付属図書館のデジタルアーカイブに、1937年の東京朝日新聞の記事がありますが(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10188396&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 )、それによると、1934年から1936年にかけての2年間で、世界の軍事費は2倍以上に膨張し、ソ連はおよそ3倍、イタリアは2倍以上、ドイツにいたってはおよそ7倍、イギリスも2倍近く、フランスは2割増ほどとなっています。では、各国がこれほど軍事費を増大させた結果、抑止力が高められて戦争を防げたのでしょうか? 答えはノーです。1939年に、第二次世界大戦が勃発し、先にあげた国すべてが参戦しています。軍備をいくら増強させても抑止力など発生しないという証拠です。
 もっともわかりやすく身近な例として、最後に太平洋戦争をあげておきましょう。アメリカの強大な軍事力は抑止力にならず、日米間で戦争が起きました。強い軍事力をもつことが抑止になるというのなら、なぜ太平洋戦争は起きたのでしょう?


 逆に、第2次大戦後、英仏独といったかつての列強諸国が戦争をしなくなったのは、ミサイルや艦船を互いにつきつけあっているからでしょうか。そうではないでしょう。むしろ、そういうことをしなくなったから戦争が起きなくなったのです。


 もちろん、現代でも戦争は起きています。
 では、現代に起きている戦争は、抑止力がないためにおきているのでしょうか? これも、実際の例を考えてみればそうでないことはすぐにわかります。
 第二次大戦以後の国家間の戦争として比較的大きな例を考えると、タンザニアがウガンダに侵攻した例や、ベトナムがカンボジアに侵攻した例があります。あるいは、カシミール紛争や中東戦争はどうでしょう。これらの戦争において、攻め込まれた国は十分な軍備をもっていなかったのでしょうか。そうではないでしょう。ウガンダやカンボジアは、その当時は軍事独裁政権でそれなりに軍備にも力を入れていたはずですが、隣国に攻め込まれ、結果として体制が崩壊しました。インドとパキスタンの軍事力を比較すれば、圧倒的にインドのほうが上です。にもかかわらず、その圧倒的優位は抑止力にならず、インドとパキスタンは何度も紛争を繰り返しました。イスラエルについてはいうまでもないでしょう。中東で群を抜く強大な軍事国家であるイスラエルが、建国以来70年ほどの間に4度も大きな戦争を経験し、武装勢力との間にはほぼ常に紛争状態にあります。
 これらの地域において、どうして抑止力は働かないのでしょう。
 答えは簡単で、抑止力などというのは幻想にすぎないからです。まったくないとはいいませんが、きわめて限定的にしか働かないと私は考えます。


 そしてこれら、戦争の起きた国をみれば、経済的にそれほど高い水準にあるとはいえないことがわかります。経済的に一定の水準にある国は戦争をしていない。そして、戦争はそうではない国で起きている。軍事力は、どこの国ももっている……これらのことを考えあわせれば、戦争の起きる起きないは、軍事力の優劣ではなくて経済的な事情によって決まる部分が大きいと考えるのが合理的です。

 こうしたことがあるから、いわゆる先進国とされる国々間で戦争が起きていないのは、軍事的な抑止力のおかげであると考えるのは無理があるのです。
 軍事力というのは、もう有史以来ほとんどすべての国が持っていて、そのことは第二次大戦の前でも後でも変わらないわけですから、第二次世界大戦の後に急に抑止力が働くようになったなどとは考えられません。第二次大戦後“列強”諸国が戦争をしなくなったのは、抑止力のおかげではなく、別の事情によるとしか考えようがないのです。


 ではなぜこれまで戦争ばかりしていた列強諸国が戦争をしなくなったのか。
 先にも書きましたが、一つは、経済的な理由があるでしょう。
 “先進国”とされる国々は経済的に発展し、相互依存が強まったことにくわえて、「無賠償・無併合」の原則が暗黙の了解となったことで、戦争によって直接に得られる利益がなくなった。結果として、先進国同士が戦争をしても、コストとリスクに見合うリターンが得られる見込みはなく、失うものがあまりにも大きい……という事情があると思われます。
 また、多くの植民地が独立したことにより、植民地の維持、奪い合いといった衝突の誘引がなくなったことも大きいかもしれません。

 さらに、経済的な事情にくわえて、二度の世界大戦を経てこれらの国々が真剣に戦争を起こさないための方策を考え、それが不完全ながらも機能しているということがあると思われます。
 そしてその「戦争を起こさないための方策」のひとつが、「軍事力でけん制するようなやり方はしない」ということです。
 一応ことわっておくと、このことはなにも私がひとりで勝手に主張しているわけではなくて、歴史の上にはっきりとその足跡を見て取ることができます。
 第一次大戦後、「勢力均衡」の考え方では戦争を防ぐことはできないということがはっきりし、それに代わる新たな考え方として「集団安全保障」の概念が提唱され、それに基づいて国際連盟が作られました。しかし、それは十分には機能せずに、第二次世界大戦が起きてしまった。そのため、さらに修正をほどこして、より機能するようにした……第三次世界大戦がいまのところ起こらずにすんでいるのは、経済的な事情などにくわえて、そうしたことがある程度機能しているからに違いないのです。「軍事力によって戦争が防がれる」という理屈では、二度の世界大戦をはじめとする無数の戦争を説明できません。


 ここまで読んできた方は、ウィルソンの「十四原則」を思い出したかもしれません。
 まさに、それです。

 ウィルソンの提唱した原則が一定程度実現したことが、戦後の平和を維持する大きな力になっているというのが私の考えです。

 十四原則というのは、第一次大戦当時アメリカの大統領だったウッドロー・ウィルソンが提唱したものです。「集団安全保障」(※)や「民族自決」、「無賠償・無併合」などがそこでうたわれていました。
 しかしながら、ここでウィルソンが提唱したことは「集団安全保障」以外は実現していません。

 たとえば、「無賠償」というのはその言葉の通り戦争に勝っても敗戦国に賠償金を課さないというものですが、第一次大戦に勝利したイギリスやフランスは、これに強く反対して、ドイツに莫大な賠償金を課しました。そして、それがドイツ国内に英仏に対する強い反感を生み出し、またフランスによるルール占領などを引き起こして間接的に第二次大戦につながったといわれます。

 そして、唯一実現した集団安全保障についても、そのための機構である国際連盟に米ソが参加せず、常任理事国の半分(日本とイタリア)が脱退するなどして、うまく機能しませんでした。

 こうして十四原則を否定した結果、世界は二度目の世界大戦に陥ることになったのです。


 第二次大戦後に、さすがの欧米諸国ももう懲りて、ウィルソンが提唱した原則をある程度受け入れました。

 たとえば、ドイツに莫大な賠償金を課したことが次の戦争の火種になった反省から、連合国は日本やドイツに賠償金を課しませんでした。このことは、新たな戦争を防ぐという意味で非常に重要な意味があったと思います。

 また、集団安全保障については、国際連合においてもその考えが継承され、主要国はそこに参加しています。集団安全保障自体がそれほど機能しているとはいえませんが、「勢力均衡」に基づく軍拡競争を防ぐという意味ではじゅうぶんに機能していると私は考えます。

 植民地についても、多くの植民地が独立しました。
 第一次大戦後には、列強諸国の植民地ブロック経済形成につながり、植民地獲得のための争いが戦争の大きな誘引になりましたが、第二次大戦後には、新たな植民地をもつというようなことは現実的に不可能になり、それによって戦争を引き起こす一つの大きな要素が消滅しました。


 これらの一つ一つを検証すれば、パリ講和会議の時点では無視された理念が第二次大戦後にある程度実現されたことが、欧州での新たな戦争を抑止しているとみるべきです。そして、二度の世界大戦の震源地であった欧州で戦争が起きなくなったために、世界大戦というような大戦争も起きなくなった。すなわち、二度の世界大戦のような大戦争が起きなくなったのは、人類が積み重ねてきた「戦争を起こさないための努力」が一定程度功を奏しているからであって、軍事的な抑止力のおかげではないのです。


※……誤解している人がかなり多いようですが、「集団安全保障」というのは同盟を結び合ったりして敵国と対峙するというような意味ではありません。むしろ、そのような発想を否定する枠組みです。(画像参照)同盟を結び合うことで敵をけん制するようなやり方を「勢力均衡」といい、そのやり方では戦争を防ぐことができないということがはっきりしたために、それに代わる安全保障の枠組みとしてウィルソンが提唱したのが「集団安全保障」です。国際連盟はこの概念に基づいて創設され、いまの国際連合もそれを受け継いでいます。「同盟を結び合って敵をけん制するというやり方では戦争を防ぐことはできない」と私が主張するのは、このような歴史的経緯を踏まえてのことです。このことは、強調しておきたいと思います。

北朝鮮、ミサイル発射止まらず――やはり安保関連法に抑止効果などなかった

2016-04-03 17:41:09 | 安全保障
 北朝鮮が、狂ったようにミサイルを連射している。
 今年になってからミサイル発射は何度も繰り返されてきたが、3月29日に安保法が施行されても、やはりその行動は変わることがなかった。3月29日には、元山からミサイルが発射され、今月1日にも日本海にむけてミサイルが発射された。

 私はかねてから、「北朝鮮の核実験やミサイル発射は安保関連法に抑止効果などないことの証拠だ」と主張してきたが、今回、ますますその思いを強くした。
 世の中には、「やっぱり安保法制は必要だ。軍事や国際情勢を熟知している人たちがいっているからそのとおりなんだろう」と思っている人がいるかもしれないが、そうした人たちにいっておきたいのは、軍事や国家間の問題に携わっている政府関係者の見通しなど、そんなにあてになるものではないということだ。アフガン攻撃やイラク攻撃を決定したとき、それを決定した人たちは、アフガンやイラクが10数年後にいまのような状態になることを予測していたのだろうか? 予測できなかったのなら彼らの見通しはその程度のものということになるし、もし予測していたとしたら、アフガンやイラクを混沌状態に陥れてテロや難民問題を引き起こすと知りながら看過しがたい犠牲を伴う無益な戦争に足を踏み入れたということになり、これはもはや犯罪である。このように、政府において軍事や国際問題にあたっている人たちの認識というのは、まったく的外れなのである。

 また、日本の安保法に関しては次のようなエピソードを紹介したい。
 昨年、安保関連法が“成立”した直後、稲田朋美政調会長が訪米し、ワシントンを訪れている。その際、アメリカ国務省のソン・キム北朝鮮政策特別代表は「北朝鮮に強いメッセージを発信することになる」と発言したという。この発言を素直に受け取れば、「日本に安保関連法ができたことによって北朝鮮もいくらかはおとなしくなるだろう」ということをいっているのだと思うが、現実にはまったくそうなっていない。安保法が“成立”してから数ヵ月後に北朝鮮は核実験を行い、ミサイルを立て続けに発射し、五度目の核実験を近く行うともいわれている。つまり、“抑止力”などまったく働いていないのだ。

 関連報道によれば、北朝鮮の相次ぐミサイル発射はミサイル燃料の使用期限が近づいているということが背景にあるそうだが、もちろんそんなことは言い訳にはならない。これはすなわち、北朝鮮が「このミサイル、そろそろ消費期限切れだからいまのうちに撃っとこう」と思ったときに、日本が集団的自衛権を行使できるようになったことなどまったく考慮していないということである。つまり、北朝鮮がなんらかの行動を起こそうというときに、安保関連法はまったくその抑止になりえないことが、この半年ほどで証明されているのだ。

 ここで、当ブログでは何度か紹介してきたエピソードをもういちど紹介したい。
 それは、かつての日英同盟について当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が「これで戦争は回避された」といったという話だ。日英同盟によって日本は強大なロシアに並ぶだけの力をもち、それが抑止力となって戦争が防がれる――という理屈である。しかし、実際にはその2年後に日露戦争が勃発する。後からふりかえってみれば、むしろ日英同盟締結は開戦にいたる最後の決定的一歩だった。
 このエピソードが示しているのは、同盟や軍備の強化は戦争を防ぐことにはならない、ということと、にもかかわらず、強権的な政治家はなんの根拠もなく軍事力を盲信しているということである。私には、安保法が「北朝鮮に強いメッセージを発信することになる」というソン・キム代表の言葉は、ヴィルヘルム2世の日英同盟に対する誤った評価と重なってみえる。二度の世界大戦や、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争……といったこの100年間の戦争の歴史をみれば、軍事の“専門家”と称する人たちは見通しを誤り続けてきたのであり、その誤りの結果、世界は悲惨な戦争を経験することになったのだ。こんな人たちのいうことを真に受けていたら、泥沼の戦争に巻き込まれることになるのは請け合いである。今からでも、有害無益な安保関連法は廃止するべきだ。