真夜中の2分前

時事評論ブログ
「真夜中の5分前」→「3分前」→「2分前」に

辺野古和解は政府の卑劣な選挙シフト、「沖縄隠し」

2016-03-09 18:25:54 | 沖縄
 辺野古の新基地問題に関して、国と沖縄が和解した。
 ひとまず、代執行訴訟や審査請求などを取り下げ、いったん工事を中止して協議を進めるという。

 選挙があるから、その間だけ辺野古問題を封印しておこうという、あまりにも見え透いたやり方である。
 このまま辺野古をめぐる激しい対立が続いている状況で参院選を迎えるのはまずい。ひとまず参院選の間だけは沖縄基地問題が争点として浮上しないようにしておこう。選挙が終わってしまえば、あとはどうとでもなる――そんな本音が透けてみえるのだ。

 私はちょっとした事情があってアメーバでもブログをやっているのだが、たまたま最近、そこで辺野古の基地問題についての記事を書いた。アメリカ側は実際にはそれほど辺野古にこだわってはいないのではないか、という内容である。それを、ここにも転載しておこう(ですます調になっているのは、ブログに寄せられたコメントに対する回答であるため)。


《アメリカ側が辺野古移設にそこまでこだわっていないというのは(もちろん表向きにはそうはいっていませんが)、かなり確実と思われます。それを示す状況証拠がいくつか出てきています。

 その一つとして、たとえば、ヒラリー・クリントンの私用メールがあります。 
 アメリカの大統領選で民主党予備選に出馬しているヒラリー・クリントン候補が公務に個人用メールアドレスを使っていたことが問題になっていますが、この件で公開されたメールのなかの一件に、日本に関するものがありました。そのメールの内容によって、「ヒラリー・クリントンが日本の駐米大使を呼びつけた」というのが虚偽だったことがあきらかにされています。
 2009年の12月に、藤崎一郎駐米大使(当時)がクリントン国務長官(当時)から呼び出しを受けたと報道陣に語り、「長官が大使を呼びつけるのはめったにないこと」とアメリカ側から異例の圧力がかかったことを示唆していたのですが、問題のメールの文面では、それは事実ではなく、むしろ藤崎氏の側から面会を打診して訪問したことがうかがえます。実際のところ、2009年当時でも藤崎氏の発言をアメリカ側は否定していて、外務省が「アメリカが県外移設を許さないという圧力をかけてきた」との印象操作をした疑いが指摘されています。つまり、実際には日本の大使が自分から訪問したのに「アメリカの国務長官に呼び出された」と嘘をついて、アメリカ側が圧力をかけてきたかのようにみせかけたということです。

 また、最近あきらかにされた話として「65カイリ基準」というものがあります。
 鳩山元総理は県外移設の候補地として奄美を検討していましたが、「65カイリ基準」という基準に合致しないために奄美への移転は不可能だと知らされ、それで奄美への移転を断念したというのです。
 ところが、最近になってその文書を入手した朝日新聞が米軍に確認したところ、米軍はこの「65カイリ基準」の存在を否定したそうです。「65カイリ基準」なるものが存在しないというのが事実なら、何者かがそれをねつ造し、そのねつ造された情報によって鳩山政権は県外移設を断念したことになります。

 また、「アメリカがそれほど辺野古移設にこだわっていない」というのは、ふつうのテレビの報道などでもときどき漏れ伝わってくる話です。

 これらの事実から浮かび上がってくるのは、アメリカ側は実際にはそこまで辺野古にこだわっておらず、むしろ外務省などがそれに固執していて、それがアメリカの意向であるかのように偽って、民主党が公約に掲げた県外移設をつぶしにかかった――という構図です。「アメリカに呼び出しをくらった」などと嘘をつき、また米軍の内部規定で県外移設が不可能であるかのような文書を偽造し、あたかもアメリカが「辺野古以外は認めない」と強硬に主張しているかのようにみせかけることで、自分たちの固執する辺野古移設を押し通そうとしたということです。

 つまり、辺野古にこだわっているのは日本の側で、アメリカ側は実際には辺野古移設にそこまでこだわっていない――というのが濃厚です。》


 辺野古に固執しているのがアメリカではなく日本だとしたら、それはなぜなのか?
 それは結局、“一度動き出したら止まらない”官僚機構の習性というところに帰着するのではないだろうか。官僚機構的なプロセスにおいては、一度決定されたことを覆すのには膨大なエネルギーが必要となる。そこに利権とか面子とかいうものがからんでくると、もうそれはほとんど不可能といっていい。たとえば諫早干拓事業などが、そういう実例としてよく知られる。官僚機構は、いちど何かを決定してしまうと、もうそれ自体を目的にして動き出し、「採算があわない」とか「本来の目的に合致しない」とかいう事実が出てきても、止まることなく、ひたすらはじめの決定を遂行しようとする。辺野古の新基地も、結局はそういう官僚機構の暴走ではないのか。

 利権という点にかんしていえば、辺野古に関してはカネにまつわるさまざまな疑惑も渦巻いている。
 辺野古の環境監視を請け負っていた専門家委員会の委員らが工事の受注業者から寄付を受けていたとか、沖縄の選挙区から出馬していた議員らが寄付を受けていたといった話だ。ちなみに、問題が発覚した6人のうち4人は自民党の議員である。また、移設の関連工事を防衛省の天下り先企業が大量に受注していたという報道もあった。しかも、その落札率はほとんどが90%を超え、100%に近いものもあったといい、公正な入札が行われたとはとうてい思えない。
(以上の件は、朝日新聞電子版の記事を参照にした。おそらく本紙のほうにも載っていると思うので、事実関係を確かめたい方は、去年の秋から年末ごろにかけての朝日新聞の記事を参照していただきたい。)
 
 この基地問題については、裁判によって決着がつく可能性もある。
 国と沖縄間の訴訟はすべて取り下げられたわけではなく、一本化したというかたちになっていて、判決が出れば国も沖縄もそれに黙って従うということになっている。
 その裁判がどうなるかはわからないが、本当に公正な判断が下されるかどうかはあやしい。米軍がからんでいるがために、裁判所は突っ込んだ判断を避ける可能性もある。
 そしてそうだとしたら、安保法と同様、結局は選挙で政権にノーを突きつけるというのがもっともわかりやすい方法だ。一般国民が裁判に口出しすることはできないが、選挙ならば誰でも投票することができる。選挙向けの“沖縄隠し”という姑息なやり方を通用させてしまったら、国はいつかあなたの住む町にも同じようなことをしてくるかもしれないのだ。

宜野湾市長選について

2016-01-31 21:11:19 | 沖縄
 もう先週の話になるが、沖縄の宜野湾市長選で政権側の推す候補が当選した。
 これを受けて、政権側は勢いづいているようだが、しかし、本当にこの選挙結果によって政府の進める辺野古移設が支持されたといえるかどうかは疑問である。ほうぼうでそう指摘されているのは、一つには、報道機関の出口調査などがある。たとえば朝日新聞の出口調査では、普天間基地問題を最重要に掲げた人の大半は翁長知事が支援する志村候補に投票したという。この結果を紹介する記事では、「どうせ辺野古になると決まっているなら」ということで政権側の佐喜真候補に投票したという有権者の声も紹介されている。どうせ辺野古移設がもう動かないのなら、へたに政府と対立するよりも政権寄りの候補が勝ったほうが後々のためにいい――ということだろう。理不尽な二者択一をせまられて、条件闘争に追い込まれ、不本意な選択をさせられる。終始“られる”“させられる”という使役・受身形の意思決定。安倍政権の沖縄に対する卑劣な“植民地”政策が功を奏してしまっているのである。
 辺野古の県外移設を主張して国との対立が長引けば、そのぶん普天間基地の返還は遅れる。そこで、宜野湾の住民は、先の見えない国との全面対決を続けていくか、それとも辺野古移設をもう決定事項として受け入れるかという選択をせまられる。その状況で、後者を選ぶ心理を部外者が責めることはできない。このような極限状態で強制的に受容を強いる安倍政権の卑劣なやり口こそが問題なのだ。

 政権側は今回の市長選において「辺野古移設に反対するなら普天間基地は固定化しますよ」という無言の重圧をかけ、その一方で「政権寄りの候補を当選させればその後は悪いようにはしませんよ」というアメをちらつかせることで、辺野古移設の是非を争点からはずす――という汚いやり方で勝ったにすぎない。
 にもかかわらず、それで政権側の候補が一回勝ったからといって、ここまでの連戦連敗などなかったかのように「オール沖縄は実態とかけ離れている」(菅官房長官)とか「サイレント・マジョリティを感じた」(島尻・沖縄担当相)などと、政府の側ははしゃぎまわっている。じつに醜くあさましい姿である。
 選挙で自分たちに都合の悪い結果が出ると無視し、都合のいい結果が出るとそれを前面に押し出す――恥ずかしげもなくこういうことをやる連中の醜悪さには、反吐が出る。

沖縄を返せ――安倍政権、辺野古新基地建設強行の横暴

2015-10-31 00:33:53 | 沖縄
 政府は、とうとう辺野古の基地建設にむけた工事に着手した。
 当然ながら、地元では猛烈な反発がおき、車両の前に反対派の市民が体を張って立ちふさがるなど、まるで天安門事件さながらの光景である。強制排除する警察に対して、反対派は「沖縄を返せ」という歌を歌って抗議したという。恥ずかしながら私は知らなかったのだが、そういう歌があるそうだ。
 沖縄県民でもない私ではあるが、沖縄の声が一人でも多くの人に届くように、その歌詞をここで紹介しておきたい。

 
 固き土をやぶりて
 民族の怒りに燃える島
 沖縄よ
 我らと我らの祖先が
 血と汗をもて
 守り育てた 沖縄よ
 我らは叫ぶ 沖縄よ
 我らのものだ 沖縄は
 沖縄を返せ
 沖縄を返せ


 今回の工事着手は、そもそも存在するかどうかも疑わしい“抑止力”なるもののために沖縄の海とそこに住む人々の暮らしを破壊する暴挙といわなければならない。
 私はかねてから、“抑止力”という発想の疑わしさについてこのブログで書いてきた。もう一度繰り返すが、20世紀前半までのヨーロッパでは、ほとんど絶えることなく戦争が繰り返されてきた。それは、みながありもしない“抑止力”という幻想にとりつかれて、「抑止力を強化する」といって軍備を増強し、他国と同盟を結んだりして、結果としてはむしろ軍事衝突を起こすリスクを高めてきたためではないか。むしろ、第二次大戦以降、そういうことをやめたからヨーロッパでは戦争が起きなくなったのではないか。
 その実例として、以前も紹介したエピソードのいくつかを再び紹介しよう。
 いまから100年ほど前に「日英同盟」が結ばれたとき、当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「これで戦争は回避された」といったという。日本とイギリスが同盟を結んだことによって、抑止力が高まるためにロシアとの戦争は未然に防がれたというわけだ。しかし、実際にはその2年後に日露戦争が勃発した。後から振り返れば、日英同盟は「戦争を事前に防ぐ」どころか、むしろ日露開戦の決定的なステップだった。
 また、かつてベトナムが南北に分断されていたとき、アメリカは南ベトナムを支援し、軍を駐留させていた。しかし、それによって戦争が防がれるということにはならなかった。むしろ、駐留している米軍の側が戦争を起こしたのである。そして、その戦争に敗れて南ベトナムは消滅した。
 このような事例を見れば、「米軍駐留によって抑止力で軍事衝突を防ぐことができる」という発想が非常に疑わしいものであることがわかるだろう。


 そして――これもこのブログでは何度か書いてきたことだが――そもそも本当にわれわれを脅かすものは何なのかということを考えなければならない。
 北朝鮮や中国の脅威があるから抑止力が必要だというが、そのような強大な軍事力をもった国同士が互いに近代兵器をフルに駆使して戦うような戦争は、これまでにほとんど起きたことがない。弾道ミサイルやらイージス艦やらを互いに出しての戦争ということになると、皆無である。国家同士の全面戦争というのは、現代においては起こる可能性がきわめて低いリスクなのだ。それに対して、国家の横暴によって地方自治体の主権やそこに暮らす人たちの人権が侵害される事態は、いま現に生じている。そしてこれは、沖縄だけの話にはとどまらない。これがまかりとおるとなれば、来年あなたの住む町に同じようなことが降りかかってきてもまったく不思議ではない。そういう、現実的なリスクだ。われわれは、いったいどちらをおそれるべきなのか。
 答えはあきらかだろう。政府がいま沖縄に対してやっているような横暴は、絶対に許されてはならない。

沖縄を“植民地”扱いする安倍政権の非道

2015-10-27 22:50:42 | 沖縄
 政府が、辺野古の3地区に直接振興費を支出する。
 朝日新聞電子版によれば、26日、辺野古の豊原、久辺、久志の3地区の代表者らを首相官邸に招き、菅官房長官が年内に振興費を支出する意向を伝えたという。辺野古の新基地建設に沖縄県も名護市も反対するなか、それらの自治体を通さず頭越しに直接振興費を出すことで、3地区を移設賛成の側にまわらせる意図がある。
 札束で頬をはたく、あまりにも露骨で卑劣なやり方である。
 そしてまたこれは、単に懐柔策というだけでなく、沖縄側を分断するための工作でもある。
 今回のこの報道を聞いていると、かつてインドネシアを植民地支配していたオランダのやり方を思い出す。
 オランダは、19世紀にインドネシアのアチェ王国に侵攻する際、ジャワなど近隣にある植民地の兵士を多数投入した。それによって、植民地内の民族同士を対立させ、統一意識を持たせないようにしたのである。
 いま安倍政権がやっていることは、構図としてはそれと同じだ。沖縄の内部で対立を起こさせ、それを利用して沖縄の結束を乱そうとしているのである。これでは、まるで百年以上前の植民地統治だ。彼らの沖縄に対する差別意識は、もはや沖縄を“植民地”視するレベルといっていい。こんなとんでもない連中が政権を握っているということを、日本国民はおそれるべきである。

 沖縄側の埋め立て承認取り消しに対して、政府側は、国土交通大臣がその効力を停止した。
 以前にも似たようなことがあったが、政府内の機関が政府の方針を審査するというデキレースを、安倍政権はまたしても繰り返している。そしてそれだけにとどまらず、さらには、地方自治法に基づく是正の勧告・指示、代執行にむけた手続きに入る方針という。アメリカにはへいこらして、沖縄に対しては威圧的に対応する――弱いものいじめばかりしている安倍政権の体質が如実にあらわれた行動といえるだろう。こんな暴虐を許していたら、中国がどうの北朝鮮がどうのという前に、安倍政権によって日本社会が破壊されてしまう。いい加減、この暴君政権をなんとかしなければならないときだ。


追記:本稿を書くにあたって、 “振興費”と打ち込もうとしたら、“侵攻費”と誤変換された。しかしこの変換も、あながち間違いではないのかもしれない。

沖縄はいま

2015-06-23 17:27:37 | 沖縄
 この6月23日は、沖縄戦の終結から70年となる節目の日である。
 凄惨な地上戦からそれだけの年月が経ったわけだが、いま果たして沖縄は、その犠牲にみあうだけの償いを国から受けてきたといえるだろうか。答えは、ノーといわざるをえないだろう。
 沖縄は二度捨てられた、とよくいわれる。戦時中には本土防衛のための捨石にされ、戦後はアメリカに差し出された。そしていま、辺野古への基地移転問題で、三たび沖縄は捨てられようとしているというのが現実ではないだろうか。
 辺野古では、いまでも移設作業への激しい抵抗が続いているが、政府は反対の声にいっさい耳を貸そうとしない。菅官房長官は「粛々」という言葉を批判され封印したが、「粛々」という言葉を使わなくなったというだけで、その問答無用という態度はまったく変わっていない。

 米軍基地について「せっかくアメリカが日本を守ってくれているのに」などと主張する人もいるが、それはまったくばかげた話である。米軍は、日本を守るために基地を置いているわけではない。彼らが置きたいから置いているのである。それでいながら「日本を守るために駐留してやる」という顔をしているにすぎない。はじめは日米ともはっきりと「アメリカ軍の軍事的都合から日本に基地を置く」という認識があったが、日米安保体制が作られていく過程で「アメリカが一方的に日本を守ってやっている」というふうに話がすりかえられていった事情は、豊下楢彦氏の『安保条約の成立』(岩波新書)という本に書かれている。
 つまり、米軍が日本に基地を置いているのは、あくまでも米軍の都合であって、日本のためではない。基地を置きたいから沖縄県民がどれだけ反対しようが基地を存続させるし、いらくなったら日本側が泣いて頼んでも勝手に出て行くのである。それがアメリカという国のあり方だ。そんなものに国の安全を託すのはばかげている。

 自民党は“地方創世”をスローガンとしてかかげいるが、実際には彼らは地方に対する徹底的な差別主義者である。原発問題を考えればそれはよくわかる。地方に対する差別が根底にあるから、原発再稼動をためらわない。それと同様に、沖縄に対する差別があるから基地移設作業を粛々と進めるなどといえるのだ。
 本土でも沖縄の抵抗に対する共感がじわじわと広がってきているが、その声に政治家たちが耳を傾けてくれることを願うばかりである。