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ワシントンの銃弾――集団的自衛権行使事例を検証する(アメリカによるニカラグア干渉)

2015-12-02 19:58:45 | 集団的自衛権行使事例を検証する
  ニカラグアではじめて革命が起きたそのとき
  アメリカからの干渉はなかった
  アメリカの人権外交ってやつ
  民衆との闘いに敗れ 指導者は逃げていった
  ワシントンの銃弾がなければ 奴に何ができるだろう?

                                  ――The Clash, ‘Washington Bullets'


 集団的自衛権の行使事例を検証するシリーズの第六回として、今回は中米のニカラグアに対するアメリカの干渉をとりあげる。

 ことの発端は、1979年。この年、中米のニカラグアで、独裁者ソモサを放逐して反米的な左翼政権が誕生する。
 その主体となった反政府組織は、FSLN。1961年に結成されたこの組織は、かつて反米解放闘争を指揮して暗殺されたアウグスト・サンディーノ将軍の名をみずからに冠している。その正式名称はサンディーノ民族解放戦線――通称“サンディニスタ”である。
 このサンディニスタがソモサ政権を打倒した当初、アメリカは“人権外交”を掲げるカーター政権の時代だったこともあってか静観のかまえを示していた。その背景には、かつてキューバに対して強硬な姿勢をとったことがむしろキューバを社会主義圏に押しやったという過去に対する反省もあったという。ところが、80年代のレーガン政権になると、このサンディニスタ政権に対して、アメリカは積極的な干渉政策に出る。
 ニカラグアへの小麦輸出を停止したり、カーター政権が行っていた経済支援を打ち切るなど、経済的な締め付けを強化し、さらには間接的な軍事介入も行う。隣国ホンジュラスを拠点として、ソモサ派の残党であるニカラグアの反政府ゲリラ“コントラ”を支援したのだ。このホンジュラス支援が、集団的自衛権の行使事例とされている。これらの干渉の結果、ニカラグアは3万人ともいわれる死者を出し、経済も破綻状態に追い込まれ、ダニエル・オルテガ率いるサンディニスタ政権は内部から多くの離反者を出すなどして瓦解することになる。
 その経緯から、このケースは「東西冷戦を背景にした介入」というパターンに属するといえる。大国が、近隣の国を自分の勢力下においておくために干渉するというもので、旧ソ連によるハンガリーやチェコスロヴァキアへの介入に似ている。

 以下、このニカラグア干渉について周辺的な情報を二つほど書いておく。

 まず、集団的自衛権史上に汚名を残す「ニカラグア事件」について。
 これは、1987年、アメリカがコントラを支援していることについてニカラグアが国際司法裁判所(ICJ)に提訴したというものである。この件を審理したICJは、ニカラグアの訴えを認め、アメリカに行動中止を命令した。アメリカの行動を、裁判所が断罪した例である。

 また、このニカラグアへの干渉は「イラン・コントラ事件」という奇怪な付随物ももたらした。
 これは、レバノンで誘拐されたアメリカ人の解放と引き換えに、アメリカがイランに対してミサイルや戦闘機を売却し、その代金をコントラに渡していたという事件である。この一大スキャンダルについて、レーガン大統領は国家安全保障会議(NSC)のメンバー数人を解任し、後には全責任が自分にあることを認めている。集団的自衛権の名の下に行われたのは、このような欺瞞に満ちた戦争だった。


 ここで冒頭の引用について。
 このフレーズは、伝説的なパンクバンド The Clash のWashington Bullets という曲からとった。
 この曲は Sandinista! というタイトルのアルバムに収録されていて、まさにこのニカラグアのサンディニスタ革命をモチーフにしている(※1)のだが、ニカラグアだけではなく、ほかの中南米諸国に対するアメリカの干渉政策にも触れている。たとえば1961年に起きたキューバのコチノス湾襲撃や、1973年に発生したチリのクーデター(※2)などだ。
 中南米諸国へのアメリカの干渉ということでいうと、上の二つの例ほど有名ではないが、アメリカはグアテマラ内戦にもかなり早い段階から干渉していたことが知られている。カーター大統領の“人権外交”時代にはグアテマラへの干渉は一時休止していたようだが、80年代のレーガン時代には再開された。そしてレーガン大統領は、ニカラグア、グアテマラのほかにも、エルサルバドル、グレナダでも同じような介入を行っている(このうちエルサルバドルについては、オリバー・ストーンがこれを題材にして『サルバドル』という映画を撮っている)。また、レーガンの後を継いだ父ブッシュの時代には、パナマに対しても干渉を行った。
 このように、アメリカは、中南米を自分の勢力下においておくために、露骨な干渉を繰り返してきたのだ。ほかにも、ブラジルやウルグアイにかつて存在した軍事政権もアメリカと深いつながりをもっていたし、コロンビアは今でもそのような国であり続けている。そして、ホンジュラスもまたそうで、だからこそニカラグア干渉の前線基地となっていたわけである。

 私の見るところ、レーガンを「偉大な大統領」として賛美する人たちはあまりこのような干渉政策のことを語りたがらない。さすがに、他国へのこういう干渉はほめられたものではないと思うからだろうが、しかし中には、それもひっくるめて「強いアメリカ」を実現したとして評価する人もいるようだ。彼らにいわせれば、アメリカが中南米諸国の共産化を防ぐためにそれらの国に干渉しするのは当然であり、そのためには軍事独裁政権を支援するのもやむをえないということになるわけだろう。
 しかし――そうすると、ここで一つの問いについて考えなければならない。アメリカのこのような干渉政策は、はたして“成功”と呼べるのだろうか?
 じつは、これがとても成功とはいいがたいのである。
 これらの干渉から十数年が経つと、親米的な政権は次々に姿を消していき、2000年代には、中南米に反米左派政権が相次いで誕生した。いまは亡きベネズエラのウーゴ・チャベス大統領が有名だが、ボリビアでは先住民族出身のエボ・モラレスが大統領となり、エクアドルではチャベスよりもさらに先鋭なラファエル・コレアが大統領になった(※3)。先にアメリカと深いつながりをもつ軍事独裁国家として名前が出てきたウルグアイ、ブラジル、チリの3カ国はすべて程度の差はあれ左派政権となった(※4)し、本稿の中心テーマであるニカラグアについても、2006年にはサンディニスタのダニエル・オルテガが大統領に復帰している。
 オルテガが復帰したという一事だけをとっても、アメリカによるニカラグア干渉は結局無意味だったと結論づけてかまわないと思うが、ばかげたことに、問題はそれだけにとどまらない。アメリカが中南米に対して行った干渉政策は、結局それらの国民の間に反米感情を鬱積させ、長い目で見ればむしろそのすべてが逆効果だったといってよいのではないか。
 ここで、「内戦を泥沼化させる」ということとはまた別に集団的自衛権がもつ問題点が見えてくる。それは、「たとえ一時的に目的を達したとしても、その効果が長続きしない」ということだ。その「介入後の経過」という点からみても、この事例は、かつてソビエト連邦が集団的自衛権の行使としてハンガリーやチェコスロヴァキアの民主化運動を弾圧したケースと類似している。ソ連のこのような弾圧は、結局民主化運動を根絶やしにすることはできず、介入から二、三十年後になってそれらが噴出し、結局はソ連邦そのものの崩壊に拍車をかけた。アメリカの中南米に対する介入も、程度の差はあれ基本的には同じ結果に終っているとみていいだろう。この観点からみても、集団的自衛権というのはおよそ無意味な代物なのだ。

 また、ホンジュラスについては、以前中東のレバノンやイエメンの事例で指摘した「集団的自衛権の行使によって“支援”を受けた国は治安が悪化する」という現象もみられる。
 ホンジュラスという国は、いまでも政情が安定しているとはいいがたい。
 2009年には軍によるクーデターが発生しているし、この国の第二の都市サン・ペドロ・スーラは、「世界でもっとも治安の悪い都市」ランキングで二年連続で一位に輝くという“栄誉”に浴した。人口70万人ほどのこの一都市の一年間だけで、日本で一年間に発生する殺人事件に匹敵する数の殺人事件が起きているそうで、あまりにも犯罪が多発しているために警察も裁判所も対応しきれず、それがさらに犯罪を誘発する状態になっているという。
 奇しくも、最近ニュースでこの都市の名前を聞く機会があった。
 11月に起きたパリ同時多発テロの直後、ホンジュラスで、偽造パスポートをもってアメリカに行こうとしているシリア人グループが逮捕されるという事件があったが、このグループはホンジュラスの首都テグシガルパからサン・ペドロ・スーラへ飛び、そこから陸路でアメリカへ向かう予定だったという。この事件がテロに関係しているのか、なぜホンジュラスを経由しようとしたのかというのもよくわからないのだが、このグループがアメリカに対するテロを計画していたのだとすると、もしかするとこのホンジュラスという国、サン・ペドロ・スーラという都市が、テロリストが身を隠すのに好都合だったのかもしれない(治安がおそろしく悪くて司法が麻痺しているような都市なら、テロリストが潜伏していても摘発される可能性は低い――という考えで)。そうであるなら、レバノンやイエメンがそうであったように、集団的自衛権で“支援”を受けたホンジュラスもまた、治安の悪化のためにテロリストの巣窟となるリスクをはらんでいるということになる。

 このケースのように、そしてその他の事例もほとんどがそうであるように、集団的自衛権は、それを行使した側(この件でいえばアメリカ)にも、行使してもらった側(ホンジュラス)にも、行使によって攻撃された側(ニカラグア)にも、ただ損害だけを与えて、なんの利益ももたらさないのである。



※1……この曲の邦題は「サンディニスタ!(ワシントンの銃弾)」。

※2……1959年にフィデル・カストロのもとで、キューバに社会主義体制が誕生した。これを転覆するために、CIAは訓練したキューバ人を動員してキューバのコチノス湾に侵攻させた(コチノス湾はアメリカでは“ピッグス湾”と呼ばれていて、Washington Bullets の中でもその名前で出てくる)。結果としては失敗に終ったこの作戦は、翌年のキューバ危機にもつながった。
 チリでは、1970年にサルヴァドル・アジェンデのもとで社会民主主義的な人民連合政権が誕生。これに対してアメリカは不安定化工作を行い、銅(チリの主要な鉱山資源)の備蓄を放出して銅の国際市場価格を下げてチリの貿易収支を悪化させるなど露骨な嫌がらせを行ったすえに、1973年にはアウグスト・ピノチェトのクーデターを背後から支援する。このクーデターは1973年の9月11日に起きたため、アメリカでいわゆる「9.11同時多発テロ」が起きた後に、「もう一つの9.11」ともいわれるようになった。
 ピノチェト政権といえば、抑圧的な軍事独裁政治で知られる。それでも、「ピノチェトがとった新自由主義的経済政策のおかげでチリの経済は発展した」という評価もあるのだが、しかしこれについても経済評論家の内橋克人氏などは疑念を呈している。内橋氏によれば、新自由主義的政策をとっていた時代には、むしろチリの経済指標は悪化していた。それが好転するのは、ピノチェトが新自由主義政策を放棄してからのことである。

※3……チャベス大統領はブッシュ前アメリカ大統領を「悪魔」と呼んだことで物議をかもしたが、これについてコレアは「ブッシュを悪魔だというのは、悪魔に失礼だ」といっている(大統領になる前の発言だが)。その理由は、「悪魔は邪悪だが賢い。ブッシュは邪悪なうえに頭が悪い」から。

※4……「世界でもっとも貧しい大統領」として有名になったウルグアイのホセ・ムヒカ大統領もその系譜に連なる一人である。彼はかつてウルグアイの反政府ゲリラ“ツパマロス”の一員として、軍事政権と戦っていた。

忘れられた内戦――集団的自衛権行使事例を検証する(アフリカの2事例:チャド、アンゴラ)

2015-11-25 20:15:05 | 集団的自衛権行使事例を検証する



 前回からだいぶ時間があいてしまったが、集団的自衛権の行使事例を検証するシリーズの5回目を書く。
 今回は、80年代におけるアフリカの2つの事例として、チャドとアンゴラをとりあげる。アフリカでは、90年代のコンゴ民主共和国の事例もあるが、これついては、また別に扱うことにしたい。コンゴのケースはチャドやアンゴラとは少し性格がちがっているのと、集団的自衛権行使の全事例のなかでも突出して規模が大きいためである。


 「忘れられた内戦」という言葉がある。
 内戦が何十年も続いているような場合に使われる言葉だが、アフリカでは長期にわたって続く内戦が多く、そのように呼ばれるものが少なくない。
 また、この言い方には、「国際社会からあまり関心を払われていない」という含意もある。実際、図書館などに行ってみても、よほど有名なものでもないかぎり、アフリカの内戦を個別にとりあげた資料はあまり置かれていない。前回シリーズ第四弾の記事を書いてからこの記事を書くまでに一ヶ月以上時間かかったのも、これらの内戦について調べようにも、資料が乏しいためである。
 
 なぜ、アフリカではそのような内戦が多いのか。そこには、次のような事情があると考えられる。
 長いあいだ植民地状態に置かれていた国が独立し、いきなり自分たちで政治をやれといわれても、そう簡単にはいかない。政党政治のノウハウもないし、現地の歴史や文化を無視した国境線によって、複雑な民族・宗教構成になっていたりする。そういうところでは、部族主義や宗派主義が幅を利かせることになる。また、天然資源に恵まれていれば、それはそれで問題の種ともなる。天然資源は、その利益の配分をめぐってむしろ紛争の原因となったり、その資源に関わる産業以外の産業を逆に衰退させたりすることがよくあり、「資源の呪い」などという言葉もあるぐらいだ。資源の呪いにとりつかれた国は、豊富な天然資源をもちながら、外資とそれに連なる一部の特権階級だけが利益を得て、国内には不満ばかりが募るということにもなる。このような事情から、アフリカでは、慢性的な内戦状態に陥る国が少なくなかった。

 そして、チャドも、そのような国の一つである。
 チャドが独立したのは「アフリカの年」とも呼ばれた1960年のこと。その直後1966年ごろから内戦状態に陥り、80年代になるとフランス、リビア、アメリカが「集団的自衛権の行使」としてこの内戦に介入してきた。

 そのうち、まずフランスの介入について。
 チャドにとってフランスは旧宗主国であり、その関係からフランスに介入を要請したということなのだが、しかし、この件をそう素直に受け取ってよいものかという疑念もある。
 フランスは、ああみえて覇権主義的な政治思想が色濃く残っている国で、あえてNATOに参加しないなど独自外交路線をとっていたこともある(だから核兵器も保有している)し、第二次大戦後もアフリカの旧植民地にしばしば介入していたといわれる。あえていうならば、そのようなあり方が最近のパリ同時多発テロにも間接的につながっている部分はあるだろう。
 軍事的なものはそう多くはないだろうが、軍事介入でなくとも、フランスは「コーペラン」と呼ばれる行政顧問を派遣し、自国に有利になるようにその政府の内部情報をフランス企業に流したりしているという。アフリカのフランス語圏国のほとんどにこのコーペランは送り込まれていて、アフリカ諸国の内政に干渉しているといわれる。
 実際チャドに関しても、90年にデビがチャドの首都ンジャメナを占領して、フランスが支援していたハブレが亡命に追い込まれた際に、フランスの外相は「フランスが一国の政府の選択を行った時代は終った」と、これまで旧植民地の内政に干渉してきたことを認める発言をしている。
 かつてのいわゆる列強諸国は事実上の植民地のことを“保護領”などといって植民地支配を正当化していたわけだが、そういう状況は第二次大戦後もあった。イギリスやフランスなどは、アフリカではある程度円満に植民地状態を解消して独立の後も旧植民地と親密な関係を持ち続けていたが、それは“新植民地主義”と紙一重だ。チャドへのフランスの介入も、自国に有利な体制を“保護”しようとういう新植民地主義の一環といえるのではないだろうか。


 次に、リビアの介入について。
 1980年代のリビアは、今はなきカダフィ大佐の時代である。その頃のリビアは、“植民地解放闘争”として、世界各国のテロリストを支援していた。そして、チャドについてもみずからと関係の深いグクーニを支援して、チャドで反政府闘争を起こさせていた。この介入が、集団的自衛権の行使とされる。最終的に、フランスの支援するハブレを追い落として、グクーニは大統領に就任する。
 そして、このリビアの介入が、三番目のアメリカの介入にも関わってくる。
 アメリカは、テロリストを支援するリビアをかねてから強く非難しており、リビアの支援するグクーニが政権を掌握したことを受けて、このチャド内戦にも介入してくる。さらには、1986年にベルリンで起きたディスコ爆破事件に対する報復として、米軍がリビアを爆撃するという事態にいたっている。この爆撃は、カダフィ殺害を狙ったものといわれ、首都トリポリやベンガジが爆撃され、一般市民にも多くの犠牲者を出した。
 この件をリビアの側からみれば、集団的自衛権を行使したことによって、むしろ自国を危険にさらしたということになる。集団的自衛権を行使してチャドに介入したことが、米国の介入を誘発し、自国が空爆されるという事態を招いたのだから(チャドの件だけが原因ではないにせよ、当然それも一つの大きな要因だったはずだ)。
 そして、周知のとおり、カダフィ体制は現在ではすでに消滅してしまっている。そこにいたるまでにはもちろんさまざまな要素がからみあっているわけだが、少なくとも、チャドへの介入がリビアという国を守る方向に働いたとはとうてい考えられない。それどころか、むしろ、国家崩壊にいたるプロセスの一つであることはあきらかだ。集団的自衛権は、自衛どころか、それを行使した国をも深刻な危険にさらすのである。

 そして、総合的にみて、チャドの事例も、集団的自衛権の行使例として“失敗例”といわざるをえない。
 結果としては、これらの介入はチャドの内戦状態を収束させることにはならなかった。チャドという国は、半世紀以上にわたって断続的に内戦状態が続いており、いまでも政情が安定しているとはいいがたい。そして、その治安の悪さにつけこんで、過激派組織ボコ・ハラムの勢力が忍び寄っている。集団的自衛権の行使によって介入を受けたレバノンやイエメンが、ヒズボラ、AQAP、フーシ派といった過激派の拠点となっていることと相似形である。集団的自衛権は、ここでも、内戦を泥沼化させ、周辺地域の治安を悪化させ、間接的にテロ組織の活動を手助けしてさえいるのだ。


 そして、アンゴラについて。
 アンゴラは、旧ポルトガル植民地で、1975年に独立したが、複数の勢力が複雑に対立しあい、それぞれに独立式典を行うなど、独立の時点から国が十分に統一されていない状況にあった。
 なかでもMPLAとUNITAの対立は、それぞれソ連、アメリカの支援を受けていて、東西の代理戦争という側面をもっていた。そこに南アフリカ共和国の介入もあって、ソ連の仲介でキューバ兵がアンゴラにやってくる。このキューバによるアンゴラへの介入が、集団的自衛権の行使事例である。
 そこにいたる経緯から、このケースは「東西冷戦を背景にした介入」というパターンに属する。前回扱ったソ連によるアフガン侵攻に近いといえるだろう。
 そして、前回の記事で指摘した構図はここでもみられる。
 キューバ兵の進駐によって、MPLAは、ひとまず南ア勢力を撃退することには成功した。しかし、アンゴラに多くのキューバ兵が駐留しているという状況が、対立するUNITAの背後にいるアメリカを刺激した。当時のアメリカは他国への干渉に積極的だったレーガン大統領の時代であり、そのレーガンのもとでUNITAに大規模な軍事援助が行われる。こうして、南ア軍を撃退したはいいものの、キューバによる介入から10年近くにわたって内戦は続いていくことになる。結局のところ、集団的自衛権による介入は、紛争を終らせることにはならなかったわけだ。
 これは、ソ連がアフガンに侵攻したときに、その直接的な目的は果たしたものの、その後およそ十年にわたる泥沼の戦争に引きずり込まれることになったのと同じである。そして、アメリカがベトナムに侵攻したときもやはり同じように、十年近い泥沼の戦争となった。先ほど紹介したチャドでも、複数の国が介入したことによって内戦は泥沼化した――このようにみてくれば、集団的自衛権というものが平和にも安全にもまったく寄与しないことがわかるだろう。

 しかも、アンゴラの場合は、ベトナムよりもアフガンに近い。
 先ほど10年近くにわたって内戦が続いたと書いたが、その内戦の終わりは、あくまでも一時的なものでしかなかった。
 その後選挙が行われたのだが、この選挙で敗れたUNITA側が選挙に不正があったと主張して内戦を再開する。その後も断続的に戦闘が続き、UNITAの首魁であるサビンビが死去してようやく最終的な和平合意が成立したのは、2002年のことである。アンゴラは、独立から実に30年近くも内戦が続いたことになる。そして、集団的自衛権が行使されたのは、そのごく初期。それが、内戦を終らせるどころか、他国のさらなる介入を招き、内戦を泥沼化させたのはあきらかだ。
 内戦の死者は350万人ともいわれ、この内戦のあいだに国土の3分の2が地雷原となり、アンゴラの全人口を上回るともいわれるその地雷がいまでも被害をもたらし続けている。そのうちのかなりの部分が、集団的自衛権によるものなのである。

怒りのアフガン――集団的自衛権行使事例を検証する(ソ連によるアフガン侵攻)

2015-10-21 20:00:42 | 集団的自衛権行使事例を検証する



 集団的自衛権の行使事例を検証するシリーズの第4弾として、今回は、ソ連によるアフガン侵攻をとりあげる。アフガンについては、2001年にNATOなどが介入したケースもあるが、その件はまた別にとりあげることにして、ここではソ連のことだけを書く。

 アフガニスタンは、「ソ連のベトナム」ともいわれる。
 アメリカがベトナムに介入して国力の衰退を招いたのと同様に、ソ連もアフガンに侵攻したことで国力を衰えさせた。この戦争もまた、多大な犠牲の末に目的を果たすことができず、しかもソ連そのものの崩壊につながったという意味で、集団的自衛権行使事例のなかで、ベトナム戦争に並ぶ失敗例といえるだろう。

 まずは、簡単に歴史的経緯を説明する。

 アフガンは、その地政学的な重要性のために、古来から多くの国が勢力争いの舞台としてきた地域である。
 かつてのモンゴルや、その流れを汲むムガル帝国、ペルシャのサファヴィー朝などが、この地をめぐって争いを繰り広げてきた。
 19世紀頃になると、そこにイギリスとロシアが加わる。南下のルートを確保したいロシアとそれを防ごうとするイギリスの争いは“グレートゲーム”と呼ばれ、日露戦争などもその一環だが陸路での南下ルートとしてロシアが目をつけたのがアフガンであり、それを防ごうとするイギリスとの間で、激しい争奪戦となった。結末としては、ほかの地域でもそうだったようにイギリスの側が勝利をおさめ、アフガンは実質的にイギリスの支配下におかれることになる。
 その後、半植民地状態が続くが、中東諸国などと同様に、アフガニスタンも20世紀になると独立を果たす。しかし、その地政学的な重要性は変わらず、第二次大戦後には、おなじみの冷戦の構図でふたたび大国間の覇権争いに巻き込まれることになる。
 この1970年代の勢力争いでは、ソ連の側がひとまず勝利をおさめ、1978年、「サウル革命」によって、ムハンマド・タラキーを首相とする社会主義国家「アフガニスタン民主共和国」が誕生した。
 しかし、そのまま社会主義政権で安定するというわけには行かなかった。
 革命以後のアフガンは混迷していた。タラキー政権の急進的な政策はイスラム教徒たちの反発を招き、各地で“ジハード”と呼ばれるゲリラ戦が展開されるようになる。そしてそんななか、1979年に、かねてから権力の座を狙っていたアミンが、クーデターを起こして政権につく。アミンは、「民族共産主義者」としてアフガン民族の自決権を重視する立場から、ソ連と距離をおく方針をとり、のみならず、経済援助を得るためにアメリカに接近しようとする動きをみせた。
 このときのソ連は、ブレジネフ政権の時代。この不穏な動きに対して、アフガニスタンを東側陣営にとどめてくために、ブレジネフはただちに軍事介入に踏み切る。「集団的自衛権の行使」として、アフガニスタンに軍を投入し、アミンを殺害。そのうえで、親ソ派のカルマルを政権につかせたのだった。

 以上が、ソ連介入にいたるまでの簡単な歴史である。
 その経緯から、このケースは、冷戦期の陣取り合戦というパターンに属するといえる。そういう意味で、同じくソ連が行ったハンガリー侵攻やチェコ侵攻と同じ構図といえるが、もちろん異なる点もあった。それは、軍事介入で話が終らなかったということである。アミン体制打倒は、ソ連にとって泥沼の戦争のはじまりでしかなかった。

 そもそも、ここにいたるまでのアフガニスタンの政情は、単純なものではなかった。
 先述のとおり、社会主義体制に反発するイスラム教徒たちが激しい反政府運動を行っており、その「政府VS反政府ゲリラ」という対立と並行して、政府内部で親ソ派とそうでないものたちが反目しているという複雑な構図があった。そこに介入していったソ連は、アミンを倒したはいいものの、“イスラム聖戦士(ムジャヒディン)”たちと戦わなければならなかったのである。
 その戦いがはじまると、ちょうど、この十数年間のアメリカと同じ状況がソ連を待っていた。
 最大で12万人にものぼる兵士を派遣し、激しい空爆を加えたが、ムジャヒディンたちはいっこうに勢力が衰える気配をみせなかった。それもそのはずで、アメリカを中心とする西側陣営が、ムジャヒディンたちを後方から支援していたのである。
 「鉄のカーテンは鏡にすぎない」とサルトルはいったが、まさにこれは、ベトナムの共産主義勢力をソ連や中国が支援していたのをそっくりそのまま鏡に映したような図だ。こうして、いくら攻撃してもまったく衰えない敵を相手にして、ソ連は底なしの泥沼にはまり込んでいくのだった。
 結果としては、ソ連はアフガン情勢を好転させることができないままで撤兵をせまられる。
 80年代後半になると、ゴルバチョフ大統領によるペレストロイカという時代背景もあり、アメリカの「ベトナム化」政策と同様、ソ連もまた、軍を引き上げさせて間接的に支援するという方向に舵を切ったのだった。
 これも鏡に映したようにそっくりな展開で、アメリカのベトナム支援が失敗したように、ソ連のアフガン支援も思うようには行かなかった。ソ連軍の撤退後、ムジャヒディンたちはみずからの政権樹立を宣言。アフガニスタンには二つの政権が並び立つという内戦状態になった。
 そして、これまた南ベトナムの場合と同様に、ムジャヒディンたちと対立するナジブラ政権は、それ以降ソ連の支援を受け続けることはできなかった。だがそれは、アメリカの場合のように、政治の論理で援助が打ち切られたからではない。ソ連自体が崩壊してしまったためだ。

 ソビエト連邦が崩壊したのは、1991年のこと。
 その原因はいろいろあるだろうが、一つには、アフガンでの終わりの見えない戦いがソ連を疲弊させ、連邦解体の間接的な原因になっているともいわれる。つまり、ソ連は、集団的自衛権によって自国を防衛するどころか、集団的自衛権を行使したことによって国家の崩壊を引き起こしてしまったことになるのである。
 もう少しいえば、東欧諸国での民主化運動の高まりもソ連崩壊の原因のひとつだが、かつてソ連はそれらの運動を弾圧していた(当ブログ「プラハの春」参照)。チェコやハンガリーへの介入は集団的自衛権の行使として行われたわけだが、結局これらの介入も、民主化運動を完全におさえ込むことはできず、東欧諸国で一気に噴出した民主化運動が連邦衰退に拍車をかけた。そういう意味でも、集団的自衛権は自分の国を守るという役割を果たせていないのである。

 一方、ソ連という後ろ盾を失ったアフガニスタンのナジブラ政権は、もはや政権を存続させることができず、1992年にナジブラは辞任、その後の内戦状態を経て、1994年にタリバン政権が誕生することになる。結論としては、ソ連が集団的自衛権の行使として行ったアフガン侵攻は、ソ連にとって「自衛」の目的を果たすどころか、むしろ体制崩壊の一因となり、介入を受けたアフガンでは、タリバンという過激派政権を生み出すことになったのだった。

 そして、アフガン侵攻の失敗はこれだけにとどまらない。
 先述のとおり、ソ連のアフガン侵攻に対して、西側諸国はムジャヒディンたちを支援していたが、そのときアメリカが支援していたムジャヒディンのなかに、かのオサマ・ビンラディンがいたことは周知のとおりである。
 ビンラディンだけでなく、各地の過激派イスラム教徒がこのアフガンでの“聖戦”に参加した。そして、それから彼らはイスラム世界の各地に散って、過激主義を拡散させるという結果になった。その後継者たちは、今でも中央アジアから北アフリカにまたがる広い範囲でテロリストとして活動し続けている。そういう意味で、ソ連によるアフガン侵攻は、集団的自衛権の行使が、当事国だけでなく、世界全体をより危険にしたという実例でもあるのだ。
 さらに、アメリカの側から見れば、“敵の敵は味方”という理屈でムジャヒディンたちを支援したことが、結果としては後のテロリストたちを養成したことになる。ある意味で、9.11テロは自分たちのまいた種によるものでもあるのだ。こういう観点からすると、アフガンのケースは、もはや集団的自衛権云々というところにとどまらず、武力の行使によって事態を解決しようという発想そのものの致命的な失敗といえる。
 ちなみに、本稿のタイトルは映画『ランボー』シリーズの3作目にあたる『ランボー3 怒りのアフガン』からとっている。
 この映画では、いつものことながら終盤でランボーはピンチに陥るのだが、そんな彼を窮地から救ってくれるのが、ムジャヒディンたちだ。そのときのアメリカにとって、ムジャヒディンは邪悪なソ連と闘う“正義”の側だったわけである。しかし、そんな彼らが今ではアメリカを脅かすテロリスト。“敵の敵は味方”というのは、とても危険な考え方なのだ。アメリカは、ムジャヒディンを支援することで、“パンドラの箱”を開けてしまった。そういう意味で、このアフガンのケースは、集団的自衛権を行使した側と、それに対抗して介入した側の両者に致命的な結果をもたらしたのである。


 ここまでお読みいただければ、このアフガン戦争が、ベトナム戦争にまさるとも劣らない失敗例だということが納得できるだろう。
 このような歴史を目の当たりにすれば、「自衛は他衛、他衛は自衛」などという御託が実にそらぞらしく聞こえてくる。“自衛”のためにといって行った“他衛”は、“他衛”にも、まして“自衛”にもならず、それどころか、むしろ自国を衰亡に追いやった。これが、集団的自衛権の現実なのである。
 もう少し私の意見を補足しておくと、これは、なにも偶然にそういうことになったわけではない。
 私が考えるに、このようになった背景には、集団的自衛権というものの持つ構造的な問題がある。
 集団的自衛権というのは、AとBという二つの勢力が衝突しているときに、Cという国がAに肩入れするということなわけだが、このようになるのは、多くの場合、CがもともとAの後ろ盾のような立場にある場合である。そして、たいていの場合はBの側にも同じように後ろ盾Dが存在している。そういう状況があれば、Cの介入は必然的にDの介入も引き起こす(※)。その結果、紛争は拡大し、また、長期化し、その紛争が終わっても別の場所に飛び火していったりすることになる。アフガニスタンで起きたことはまさにそれで、集団的自衛権の行使から30年以上がたち、その当事者だった国々が消滅した後でさえ、それによってまき散らされた火種が世界中で紛争を引き起こし続けているのである。まさに、集団的自衛権というものが、百害あって一利なしの代物であることがよくわかる。



(※)……ベトナム戦争を例にとれば、Aが南ベトナムでBが北ベトナムとすると、Cはアメリカ、Dはソ連、中国など。
アフガンの例では、Aがカルマル政権、Bがムジャヒディンとすると、Cはソ連、Dはアメリカということになる。 

地獄の黙示録--集団的自衛権行使事例を検証する(ベトナム)

2015-10-14 21:37:53 | 集団的自衛権行使事例を検証する
 集団的自衛権の行使例を検証するシリーズの第三弾として、今回は、いよいよベトナム戦争をとりあげる。
 ベトナム戦争は、そのはじまりから終結にいたるまでの経緯の理不尽さ、規模の大きさ、犠牲の多さ、結果の不毛さといった点で、集団的自衛権史上でも屈指の失敗例といえる。

 一応、ベトナム戦争開戦直前までの歴史を大雑把に書くと、次のようになる。
 ――19世紀からフランスの植民地であったベトナムは、第二次大戦中の日本による一時的な占領期間を経て、戦後フランスとの独立戦争に勝利し、フランス勢力を撤退させることに成功する。だが、それですんなり独立とはいかなかった。当時の東西冷戦の時代背景のなかで、米中ソなどの思惑がからみあい、北緯17度線を境界として南北に分断され、ちょうど北朝鮮と韓国のようなかたちになった。朝鮮半島と同様、北は社会主義陣営、南は資本主義陣営に属した。
 そして、その南側の「ベトナム共和国」を支援したのが、アメリカである。 
 共産主義がインドシナ半島に浸透するのを防ぐために、アメリカは生粋の反共主義者であるゴ・ディン・ジェムを政権につけた。しかし、この男はとんでもない独裁者で、それで都合が悪くなると、クーデターを支援してカーン政権を誕生させるなど、アメリカは露骨に南ベトナムの内政に干渉した。この政変以後、南ベトナムは1年半ほどの間に8回もクーデターが繰り返されるという混乱状態に陥る。このような状況の中でおきたのが、ベトナム戦争である。


 まず、経緯の理不尽さについて。

 戦争そのものの発端は、1964年のいわゆるトンキン湾事件である。
 この事件は、1964年、8月2日、北ベトナムの沿岸をパトロールしていた米海軍の駆逐艦マドックスが、トンキン湾の公海上で北ベトナムの哨戒艇に攻撃されたというものだ。その後8月4日にも攻撃があったとして、ジョンソン大統領は報復攻撃を宣言。翌65年には、北ベトナム側を爆撃する「北爆」にも踏み切り、ベトナム戦争は一気に拡大していく。

 さて、戦争の発端となったトンキン湾事件だが、8月4日の攻撃については、後にねつ造であることがあきらかにされている。
 また、8月2日の交戦についても、「ただパトロールをしていただけのアメリカの駆逐艦が突然奇襲を受けた」というような性質のものではない。
 当時アメリカの支援によって、南ベトナムが北に対して介入する「34A作戦」と呼ばれる作戦が展開されており、マドックスはこれを支援する「デソート」哨戒作戦に従事していた。つまり、北ベトナムにしてみれば、マドックスは自国に対する攻撃を支援している駆逐艦であり、当然攻撃対象となるわけである。つまり、この2件の攻撃は、前者は、米軍の挑発的な行動に対して北ベトナムが反撃してきたものであり、後者はねつ造ということになる。この事件で、米議会では、戦争拡大の全権を大統領に白紙委任する「トンキン湾決議」が採択されることになるわけだが、当時のリンドン・ジョンソン大統領は、議会で嘘をつき、全権委任のようなことをさせたのである。しかも、「慎重に行動する」という約束も守られず、ベトナムへの介入は際限なく拡大していく。
 そして、北爆に関しても、直接には65年の2月に南ベトナムの米軍基地が南ベトナム解放民族戦線(親北ベトナムのゲリラ組織)の攻撃を受けたことを理由としているのだが、実際には前年にすでにホワイトハウスの戦略会議で65年早期の北爆実施大綱が承認されており、報復というのは口実にすぎないといわれている。
 残されている資料からあきらかになっているのは、アメリカは1964年のかなり早い段階から北ベトナムへの進攻という方針を決めていたということだ。しかし、自分の側から攻撃をするのははばかられる。そこで「攻撃を受けた」と言いがかりをつけて、議会をだまして大統領に対する白紙委任をとりつけ、軍事介入の道をひた走った。

 このように、アメリカが嘘や捏造で戦争に突き進んでいったというのがベトナム戦争である。
 これは集団的自衛権の行使事例の一つであるわけだが、こうした経緯をみていれば、「集団的自衛権によって平和と安全が守られる」などとはいえないことがよくわかる。むしろ、米軍と密接な関係にあるおかげで、南ベトナムは集団的自衛権の行使によって戦争に巻き込まれたのである。

 このようなアメリカの身勝手さは、ベトナム戦争のさまざまな段階で見られる。
 たとえば、トンキン湾事件から4年後の1968年。この年、北ベトナムと解放戦線は、南のサイゴン政府に対して大攻勢をかける。いわゆる「テト攻勢」である。これによって、一時はサイゴンのアメリカ大使館までが占拠されるという事態に陥り、このあたりからベトナム戦争は潮目が変わってくる。サイゴンでの戦闘がテレビ中継され、アメリカでは戦争反対の声が拡大していき、さらに、この年に起きた“ソンミ村の虐殺”も、それに拍車をかける。
 この状況に、アメリカは「ベトナム化」という方針を打ち出した。
 ベトナム化とは、「ベトナムのことはベトナムにまかせる」という意味で、つまりアメリカは前面には出て行かず、南北ベトナム間で決着をつけさせようということである。
 自分で戦争を引き起こしておいて今さらなにをいっているんだ、という話なのだが、これがアメリカという国の思考回路なのだ。あれこれ手出し口出ししておいて、都合が悪いとなるとさっと手を引いて、あとは自分たちでやってくれ、という。こうした歴史を教訓とすれば、アメリカとの同盟によって日本が守られるなどという保障はどこにもないのである。

 そして、アメリカの身勝手はこれにとどまらず、ベトナム戦争の最終盤においても発揮される。
 1970年代になると、アメリカはさらに一歩引いたところまで後退し、1973年にパリ和平協定に調印し、ベトナムから軍を撤退させる(※)。ただし、この和平協定は形ばかりのもので、実際にはアメリカはその後も南ベトナムを支援し続けるつもりでいて、そのために大量の軍需物資を提供していた。その結果、戦争終結までの二年間は、南の軍事力は北をはるかに圧倒していた。
 しかし、にもかかわらず、南ベトナムは敗北する。
 原因はいろいろあるだろうが、その一つに、アメリカ側が支援を大幅に削減したことがある。
 1970年代前半には、いわゆるオイルショックとニクソンショックという二つの大きな国際的事件があり、そのいずれもが、ベトナムに対する援助の削減という方向に働いた。また、時を同じくして、ウォーターゲート事件で1974年にニクソン大統領が辞任に追い込まれる。南ベトナム支援に積極的だったニクソンの辞任は、アメリカのベトナム政策に少なからぬ影響を与え、1974年には、南ベトナムへの支援は大幅に削減されていく。「これ以上南ベトナムを援助しても無駄になるだけ」という判断もあって、議会もペンタゴンも、事実上サイゴンを“見捨てる”決定を下していった。アメリカの支援なしには持続不可能な状況に陥っていた南ベトナムは、これによって急速に崩壊にむかっていく。
 
 この顛末は南ベトナムの側からすれば開いた口がふさがらないだろう。自分の都合で勝手に戦争をはじめておいて、南ベトナムをそこに巻き込み、勝てそうにもないとみると、援助を打ち切ってしまうのだから。
 これは、以前どこかの政治家が挙げていたたとえ話になぞらえていえば、友人のアソウくんが他校のグループに勝手に喧嘩を売って自分も一緒に喧嘩する羽目になり、その喧嘩が不利になると、言いだしっぺのアソウくんだけが勝手に逃げ出してしまった……というようなものである。取り残されたアベくんは、他校グループに袋叩きにされるしかない。
 そしてそれが、南ベトナムを実際に見舞った運命だった。
 アメリカの後ろ盾をほとんど失った南ベトナムは、物理的戦力のうえではいまだ圧倒的に有利であるにもかかわらず、敗戦に敗戦を重ね、1975年に無条件降伏。10年余にわたった戦争は終結し、北によってベトナムは統一された。
 結果としては、アメリカは、自分の起こした戦争で存亡の危機に立たされた南ベトナムを見捨てて支援を打ち切り、見殺しにしてしまった。繰り返すが、自分で戦争を起こしておいて、である。


 二点目に、ベトナム戦争の規模の大きさについて。
 この戦争は、南北ベトナムだけでなく、カンボジアやラオスといった周辺諸国にも飛び火した。サイゴン軍と米軍が相手にしていたのはゲリラで、ゲリラたちは国境などおかまいなしにインドシナの密林のなかを縦横無尽に移動する。そのため、周辺諸国にも影響を及ぼさずにはいなかったのである。また、ラオスのパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)はベトナム戦争開始以前からアメリカにとって脅威となっていたし、カンボジアは表向き中立だったものの、実際には北ベトナムや解放戦線を支援し、物資や基地を提供していた(そのためアメリカは、1970年に親米派のロン・ノル将軍にクーデターを起こさせ、カンボジアに親米政権をつくった)。
 そして、そういう状況があったから、密林をなくすために、あの悪名高き“枯葉剤”が使用された。“オレンジの代理人”とも呼ばれたこの薬剤に含まれるダイオキシンが新生児の異常を引き起こす(アメリカ側は因果関係を認めていないが)など、戦争が終ったあとにも長期にわたって傷跡を残すことになる。
 また、ベトナム戦争には、ほかにも複数の国が関与している。北ベトナムは共産主義陣営の中国やソ連が支援していたし、南側はアメリカが支援し、オーストラリアやニュージーランド、韓国など、複数の国が資本主義陣営として参戦した。これらもまた集団的自衛権の行使事例とされるが、集団的自衛権を行使したことによって、これだけ大規模な戦争になってしまったわけだ。ベトナム戦争は、集団的自衛権がむしろ紛争を拡大させ、泥沼化させるという実例でもある。


 犠牲の多さについて。
 ベトナム戦争の死者がどれぐらいなのかというのははっきりしないが、百数十万人とも、二百万人を超えるともいわれている。ほかの事例との比較は難しいが、第二次大戦後の紛争のなかでもかなりの犠牲者数であることは間違いない。


 結果の不毛さについては、いうまでもあるまい。
 多大な戦費を費やし、多くの犠牲を払いながら、結局アメリカは南ベトナムを守ることはできなかった。「自国に都合のいい独裁体制を維持する」という目的自体どうかと思うが、百歩譲ってそれを正当なもの、あるいは冷戦下でやむをえないものと認めるとしても、その目的も果たせていないのである。結局ベトナムは「社会主義共和国」として統一され、「共産主義の浸透を防ぐ」ことはできなかった。
 しかも、ベトナム戦争の不毛さは、単に目的を果たせなかったというだけではない。そのうえ、膨大な戦費を費やしたことで自国の衰退をも招いている。まったく馬鹿げた所業というほかないではないか。


 これが、集団的自衛権によって引き起こされた歴史的事実である。
 「集団的自衛権によって平和が守られる」という主張が幻想だと私が主張するのも、おわかりいただけるだろう。
 そして、アメリカという国がそんなに頼りになるものではないということもこれでわかる。米軍の存在は、戦争に対する抑止にならなかったし、実際に戦争が起きたときにそれに勝つ助けにもならなかった。それどころか、アメリカは、むしろ戦争を引き起こす引き金を引き、そうしておいて、戦争に勝てそうにないとなると“同盟国”を見捨ててしまったのである。
 「米軍が駐留していることによって日本の安全が守られる」と主張する人たちは、この事実を直視すべきである。米軍が駐留しているということは、ある意味ではそれ自体が戦争を引き起こすリスクを抱えることであり、また実際に戦争になったときにアメリカが日本を守ってくれる保証などないのだ。日米安保条約に基づく行動も、究極的には議会の承認が必要であり、議会が“ノー”といえば米軍は手を引かざるをえなくなる。そして、たとえ軍事的事情がどうあれ、政治的、経済的に困難な状況があれば、議会は“ノー”という。それが、ベトナムの教訓である。
 ベトナム戦争は、複数の国に多大の犠牲を出したうえに、集団的自衛権の行使によって守られるはずの南ベトナムは消滅してしまい、行使した側のアメリカも、多くの兵士の命が失われただけでなく、経済的・政治的・心理的に大きなダメージを受けた。あえて誰が得をしたかといえば、集団的自衛権行使によって攻撃を受けた北ベトナムなのである。ばかげているとしかいいようがない。
 前回までに挙げた東欧や中東での集団的自衛権行使事例も失敗に終ったものばかりだったが、ベトナム戦争はそれらをはるかに凌駕する、あまりにも無惨な失敗である。そして、先にいってしまえば、これ以後の事例もたいていこんなものだ。集団的自衛権は、事態をなんら解決に導くものではなく、泥沼化させ、悪化させるだけでしかない。前時代的な植民地主義と覇権主義の残滓であり、平和も安全ももたらさない、百害あって一利なしの代物なのである。



※…ちなみに、この和平交渉の担当者として、アメリカ側のキッシンジャーと北ベトナム側のレ・ドク・トは、1973年のノーベル平和賞に選ばれているが、このうちレ・ドク・トのほうは賞を辞退している。戦争をはじめたのはアメリカであり、そのアメリカ側の関係者とともに平和賞を受賞することはできない、という理由からである。

レバノンの杉――集団的自衛権行使事例を検証する:中東の3事例(レバノン、ヨルダン、イエメン)

2015-10-07 20:21:12 | 集団的自衛権行使事例を検証する

   
  敵は慎重に選ぶことだ 君の存在は彼ら次第なのだから
  彼らを面白く仕立てることだ ある意味では、彼らが君を養ってくれるのだから
  彼らは はじめはそこにいない 
  だが 君の物語が終わったら 君の友人たちよりも長くとどまり続けるだろう

                                 ――U2 ‘Cedars of Lebanon' より


 集団的自衛権行使の事例を検証するシリーズの第二弾として、今回は中東のケースをとりあげる。
 時代は、1950年代。
 この頃、「エジプト革命」で王政を打倒して誕生したナーセル大統領の率いるエジプトを中心に、アラブ民族主義運動が高まりをみせていた。1958年には、エジプトとシリアで「アラブ連合」が結成され、それに触発されるようにして、イラクでもクーデターが発生し、王政が打倒される。
 この動きに対して、イギリスとアメリカは即座に反応し、「集団的自衛権の行使」として、それぞれヨルダンとレバノンに軍を進駐させた。

 なぜ英米は中東に軍を派遣したのか。
 それは、中東で広がる動きが、彼らの権益を損なう可能性があったためだ。
 イギリスの場合は特にそうで、中東地域には旧イギリス植民地が多く、そこで民族自決の動きが広まっていくことは、みずからの権益が大きく損なわれることを意味していた。エジプトなどはその典型で、ナーセルがスエズ運河の国有を宣言したことはイギリスに大きな衝撃を与え、第2次中東戦争(スエズ動乱)にイギリスがフランスとともに介入する要因となった。そういう土地柄なので、イラクでクーデターが起きると、イギリスは、その動きが周辺地域に波及しないよう、イラクの隣国であり、かつて植民地であったヨルダンに軍を派遣したのである。

 アメリカの場合は、中東に植民地を持っていたというわけではないが、中東で主導権を握りたいと考えていた。そこで、1957年にレバノンに軍事・経済援助を行っていた(このことが、キリスト教系住民とイスラム系住民との対立を生じさせ、内戦を引き起こすことになった)。

 すなわち、アメリカにとってレバノン、イギリスにとってヨルダンは、中東にある出張所のような存在だったわけである。
 アラブ連合の成立、そしてイラクでのクーデターなどによって、米英が中東に持っている既得権益、あるいはこれから確立しようとしている権益が脅かされる危険があり、それを守るために集団的自衛権を行使したという構図が浮かび上がってくる。アラブ民族主義のうねりが中東地域に広がり、アラブ諸国が結束して欧米の半植民地状態から逃れることを、英米は快く思わなかった。そこで、それを防ぐために自分たちの“出先機関”となっている国に軍を送り込み、アラブ民族主義の動きが周辺地域に波及するのを阻止しようとしたのだ。

 また、それから少し後の話になるが、’64年にイギリスは当時の南アラビア連邦(現在のイエメン南部)に軍を派遣している。
 これも集団的自衛権の行使例の一つとされるが、この南イエメンもまた旧イギリス植民地だったことを指摘しておかなければならない(北イエメンはオスマン帝国に支配されていて、南とは別に独立し、1990年に統一されるまで別の歴史をたどった)。この南アラビア連邦には、紅海、スエズ運河につながる要衝であるアデンがあり、イギリスにとってここを確保しておくことは重要な意味を持っていた。そこで、「独立」国家とは名ばかりの、事実上の植民地として、この国を“保護”下においておきたかった。そのために、軍事介入したのである。
 しかし、この植民地主義丸出しの行動は国際社会から強い批判を浴び、また、このころのイギリスにはすでに大英帝国時代の面影はなく、目的を果たすことなく撤退を強いられる。そして、’67年に南アラビア連邦は民族解放戦線に打倒され、「イエメン人民共和国」となった。結果としては、イギリスの介入は徒労に終ったことになる。

 このように、1950年代から60年代にいたるまでに中東地域で行使された集団的自衛権は、アラブ諸国が、独立してもなお続く半植民地状態から脱しようとするなかで、旧宗主国であるイギリスが自国の権益を守る、あるいは、アメリカが中東での主導権を確立するために目論んだ軍事的干渉だったことがわかる。
 これは、集団的自衛権のもつ一つの大きな側面だ。
 前回は、《東西冷戦を背景にした陣取り合戦》という構図を指摘したが、それとは別に、《旧植民地の利権を守るための旧宗主国の介入》というのが、もう一つのパターンとして存在したのである。1960年代ぐらいまでは、欧米の大国はまだあちこちに植民地を持っていて、それらが独立してからも一定の影響力をもっていた。そういう時代に作られた代物であるから、「集団的自衛権」には植民地主義的性格も色濃くそなわっているのだ。
 先の「安倍談話」において、安倍総理は「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」と、日本が植民地状態にあった諸国に希望を与えことを強調したが、ならば総理は、集団的自衛権が欧米列強の植民地主義的権益を守るために行使されてきたという歴史的経緯をどう考えるのだろうか。

 ところで、こう書いてくると、植民地主義というのはもう昔の話じゃないか、という人がいるかもしれない。いまさらそんな何十年も前のことを問題にしても仕方ないじゃないか、と。
 だが、そういいきってしまうこともできないと私は考える。
 というのも、上述した米英の介入などによってもたらされた中東の混迷は、悲しいことに、現在にいたるまで尾を引いているのだ。
 本稿で名前が出てきた中東4カ国のうち、ヨルダンをのぞく三カ国は、現在きわめて不安定な状態になっている。
 レバノンは、アメリカの援助を受け入れた1950年代から今にいたるまで、果てることのない混迷が続いていて、時にはほとんど無政府状態一歩手前にまでいたったこともある。また、この国がかつてはパレスティナゲリラの拠点となっており、現在ではシーア派系武装組織ヒズボラの拠点となっていて、イスラエルによる侵攻をたびたび受けてきたことは周知のとおりである。
 イエメンは、当ブログで一度紹介したが、テロ組織AQAPの拠点として米軍による無人機攻撃が長いあいだ行われていたが、今年になってクーデターが発生し、AQAPとはまた別の武装組織“フーシ派”が実権を掌握した。それ以降内戦状態に陥っており、今年の3月から現在までの間に民間人2300人以上が死亡しているという。
 イラクについては、いうまでもあるまい。イラクは英米の集団的自衛権行使によって直接攻撃されたわけではないが、この軍隊派遣は直接にはイラク情勢を念頭においたもので(アメリカは、イラクでのクーデター発生の翌日にレバノンに海兵隊を送り込んでいる)、そういう意味ではこのケースの“当事者”ではある。もう少しいうと、この国もまた旧イギリス植民地であり、広い意味ではイギリス植民地主義の犠牲なのである。

 今回あげたなかで、特に、レバノンとイエメンは、集団的自衛権がいかに無益かという典型的な例である。
 イギリスやアメリカが集団的自衛権を行使して介入したこの両国が、数十年の時を経てなお、おそろしく治安の悪い状況が続き、テロリストの温床となっているのは偶然ではない。中南米のホンジュラスやコロンビアを見てもわかるとおり、大国の出先機関のような状態になっていたからこそ、民主的な統治が行われないために治安が悪化し、事実上の支配者である大国に対する強い反感がテロ組織やゲリラ集団を生み出すのである。
 だからこそレバノンは現在のような状態になっているし、イエメンもまた然りだ。
 アメリカが支援したレバノンは、その後PLOの拠点となり、いまでは過激派組織ヒズボラの拠点となっている。
 イギリスが支援した南イエメンは、その3年後に体制が崩壊し、さらに40年ほど後にはシャルリ・エブド事件にも関与していたテロ組織の拠点となり、アメリカがそこに空爆をくわえているうちに別のテロ組織がクーデターで実権を掌握した……

 米英が集団的自衛権を行使して支援した2つの国が、いまこの有様なのである。
 イギリスは、植民地的利権を守るという目的を果たせなかったし、アメリカは中東で主導権を握ることはできなかった。その目的の是非はさておくとしても、いずれの目的も失敗に終わっているというのは歴史上の明確な事実だ。米英の介入は、当初の目的を果たせず、その後には混乱状態の国家だけが残されたのである。
 このような歴史をみていれば、集団的自衛権なるものが平和も安全ももたらさないということがよくわかる。集団的自衛権がもたらしたのは、短期的な破壊と荒廃、長期的な混乱だけだ。「集団的自衛権によって安全が守られる」などと主張する人たちは、まず、この現実を直視すべきだろう。


 さて、最後に、冒頭の引用について説明しておこう。
 このパッセージは、世界的ロックバンドU2の Cedars of Lebanon という曲の歌詞の一部である。
 タイトルのCedars of Lebanon というのは、直訳すれば「レバノンの杉」。レバノンは大昔から杉の産地として有名で、レバノン国旗にも描かれているこの木は、聖書でも何度か言及されている。それらの記述によれば、レバノン杉はかつて神殿建築などでもよく使われていたようで、U2の歌でも「神の家」といような意味合いを含ませているのではないかと想像する。この歌は、レバノンで戦場を取材している記者の立場で書かれているとされるが、そのジャーナリストの目を通して、「神の家」であるべき場所(狭い意味でいえば、聖書の舞台であるパレスティナの周辺地域。広い意味でいえば、全世界)が戦場となっている現実が淡々と歌われている。
 件のフレーズは、記者の視点からの言葉としても皮肉がきいている(特に「彼らを面白く仕立てることだ ある意味では、彼らが君を養ってくれるのだから」というところ)が、この記事で書いてきたような安全保障の観点からみても、興味深く読めるだろう。
 「敵は慎重に選ぶことだ 君の存在は彼ら次第なのだから」という言葉には、深い含蓄がある。「彼らははじめはそこにはいない」。武力を行使することこそが、はじめは存在していなかった敵を新たに作り出す。そして、「君の物語が終わったら 君の友人たちよりも長くとどまる続けるだろう」。大国は、「正義」や「自由」といった“物語”を喧伝してみずからの勝手な都合で軍事介入する。しかし彼らが、撤退していったあとも、それによって生み出された憎悪はそう簡単には消えない。友好的な体制が消滅してしまった後でさえ、テロリストの暴力というかたちで、数十年にわたって人々を苦しめ続けることになるのだ。