真夜中の2分前

時事評論ブログ
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全国でも広がる反安保の声!

2016-03-20 19:47:58 | 日本を守るためのアクション 2016
 昨日福岡での集会の様子を書いたが、朝日新聞電子版に、この集会に触れた記事があった。
 それによると、福岡市の集会には、予定の3倍の人が集まり、700人が参加したという。700人というのは、昨年の安保法案反対運動の“相場”からすると最大規模の人手といっていい。

 そして、予定の3倍の人数だったというのも重要だ。
 それは、自発的な参加者がそれだけ多いということを示していると考えられるからである。

 あの集会は弁護士会が主催したものなのだが、弁護士会主催の集会では、概して人数が多い。これは、弁護士会がさまざまな団体に広く参加を呼びかけているためと思われる。画像をみるといろんな団体の旗が立っていることからもわかるとおり、組合などで参加している人が結構いるのだ。そういう意味で、ふつうであれば、弁護士会主催の集会では、事前にある程度参加者の数が読めるし一定の範囲内に“案配”することもできるわけである。
 おそらく、昨日の集会では、弁護士会はそれほど人を集めようとしてはいなかったと思う。というのも、昨日の記事でも書いたとおり、デモから屋内での集会へという流れになっていたので、あまり人を集めてしまうと会場に入りきれなくなる。それで、それほど多くの人に参加を呼びかけはしなかったのではないか――と私は推測している。
 しかし、そうして抑制していたにもかかわらず、事前の予想の3倍の人数が集まった。ということは、それだけ、自発的に参加した人が多かったということなのである。

 昨年の夏、反安保運動は大きく盛り上がったが、強行採決後にはいったん潮が引いたような状況があったのも事実である。
 だが、ここへきて、また潮目が変わってきているように思える。
 強行採決によっていったん目標を見失っていたかにみえる反対運動が、参院選という新たな目標にむかって動き出している。これが昨夏のような大きなうねりになっていけば、“一強多弱”の壁を突き崩すことは十分に可能だ。
 冒頭にふれた記事によると、昨日は各地で集会が行われ、東京では5600人、名古屋では2800人、岐阜では1000人が集まった。もちろん、それ以外にも各地で集会は行われているし、東京では数日前に脱原発を訴える6000人の抗議行動もあった。これらの動きを束ねていけば、大きなうねりとなるだろう。

強行採決から半年 福岡県全域で反安保アクション!

2016-03-19 22:11:46 | 日本を守るためのアクション 2016



 今日は19日ということで、各地で安保法廃止を求める行動が行われている。例によって、そのなかで福岡の中心部で行われたデモの様子を紹介したい。
 まずは、警固公園の集会。これは、九条の会の主催らしい。



 そして、彼らも合流して、その後中央公園から弁護士会主催のデモ。



 沿道からは、「頑張って」などと声がかかる場面も何度かあった。世間的にも「アベ政治を許さない」というムードが高まってきているのを感じる。
 このデモのゴールは明治安田生命ホールになっていて、そこで市民集会があった。あの柳澤協二氏を講師に迎えての集会で私もぜひ参加したかったのだが、時間の都合でやむなく断念。


 もちろん、天神以外でも行動は行われている。
 インターネットで確認できるたけでも、アクションが行われているのは、小倉、那珂川、筑紫野、久留米、柳川、大牟田……と、県内全域に及んでいて、反安保運動が確実に拡大しているのがわかる。
 そしてそれが、実際に政治の世界を動かしている。
 今日の昼に投稿した記事では宮崎の統一候補のことを書いたが、今日さらに動きがあった。熊本、宮崎に続いて、長崎でも野党統一候補の擁立が決まったそうだ。こうして、もう記事を書くのも追いつかないペースで野党共闘の動きが進んでいるのである。これから参院選までの約4ヶ月でますますこの勢いが増していくことを期待したい。

安保法強行採決から半年 進む民主主義再生への動き

2016-03-19 15:33:28 | 政治
 今月も、民主主義・立憲主義の月命日である19日がやってきた。

 早いもので、安保法の強行採決から半年が経過したことになる。
 この一、二ヶ月で、市民連合・野党共闘の動きはかなり進展してきたが、そのペースは、はやまりこそすれ、まったく衰える気配をみせない。
 今月になって、関西市民連合が誕生。SEALDs KANSAI 、SADL といった団体や、学者の会、ママの会などの有志らで結成し、関西にある参院の一人区(奈良・和歌山・滋賀)で野党候補の一本化を促すなどの活動をしていくという。

 徳島・高知合区でも、野党統一候補が実現しそうだ。
 民主党の候補を推す両県の市民団体が連携にむけた協定案をまとめ、社民・共産がこれを了承したという。市民団体の積極的な活動によって野党共闘が実現した好例といえるだろう。 

 私の地元福岡では、北九州にもママの会ができたそうで、これでいよいよ福岡県全域にママの会が広まってきた様相である。しかも、そのほとんどは安保法採決後からこれまでの半年の間にできているのである。
 九州の動きとしては、宮崎で野党候補一本化が進んでいる。当ブログで一度紹介したとおり宮崎では「市民連合みやざき」が誕生しているが、この動きもあってか、先日野党統一候補擁立の動きに大きな進展があった。共産党が候補を取り下げ、宮崎では野党共闘が完全成立しそうだ。また、沖縄でも、オール沖縄で伊波洋一氏を擁立する動きが進み、「歯舞」を読めなかったあの大臣と対決する方向である。

 政界側の動きとしては、民主・維新の合流がいよいよ「民進党」という具体名を決定するところまで進展した。国民の間に“民主嫌い”はまだまだ根強く、看板のかけかえでそれがどこまで払拭できるかは未知数だが、ともかくも野党共闘の大きなステップとして歓迎したい。

 一方、このような野党の動きに対して与党は警戒を強め、けん制するような発言や「選挙目当ての野合」といった批判を繰り返しているが、「野合」というのはまったく的外れな批判である。安倍総理は、みずからに対する批判をしばしば“レッテル貼り”と呼んでかわそうとしてきたが、「民共合作」などというのは“レッテル貼り”の最たるものだろう。
 しかし、「民共合作」という言い方は、ある種、いいえて妙というところもある。この言葉は、いうまでもなく、かつて中国で国民党と共産党が手を組んだ「国共合作」を意識した表現だが、この故事からは学ぶべきことがある。
 激しく対立していた国民党と共産党がなぜ手を組んだかといえば、それは日本が大陸に侵攻してくるのに対抗するためだ。日本の勢力がどんどん中国に侵入してくる。このままでは、まずい。だから、一時的に対立は棚上げにして、まずは国が直面している最大の脅威に対処しよう――ということである。合作が必ずしも完璧には機能せず仲間割れのようなことがあったのも事実だが、国民党と共産党が対立したままでいたら、中国はもっと広い範囲が侵略にさらされていたかもしれない。
 いまの日本の話に戻ると、野党が共闘しているのは、安倍政権という日本が直面している最大の脅威を除去するためだ。別に民主党と共産党がそんなに激しく対立していたわけでもないが、少なくとも水と油の関係であることはたしかで、そんな両党が手を組まなければならないぐらい今の状況は危機的だということなのである。
 そのように危機的な状況では、対立する陣営が手を組むというのも当然だ。そして、選挙においては、候補を取り下げて票の分散を避けるというのは有効な手段であり、現状を考えれば野党各党はそれぐらいやらなければ話にならないのである。

 それに似た例として、たとえばすこし前に、ブルームバーグ前ニューヨーク市長が、アメリカ大統領選への立候補をとりやめるということがあった。
 これは、“トランプ大統領”という悪夢が現実のものになる可能性をすこしでも下げるためである。このままでいくとトランプ氏が共和党候補になる可能性が高く、その状態でもし自分が立候補すれば、そのぶん票が分散し、結果としてトランプ候補が大統領になる可能性を高めることになる(アメリカの大統領選では、そのような例が過去にいくつかある)。それを避けるために、ブルームバーグ氏は出馬を断念したのだ。英断といっていいだろう。トランプ氏のような無茶苦茶な人物が大統領になってしまうような危機があるなら、一時的に自分の信念や政治信条をわきにおいてでもそれを阻止するのが政治にかかわる人間としての責任である。ここでまた日本の話に戻ると、プチトランプのような総理大臣のやりたい放題を許してしまっているいまの状況をどうにかするために政治家として当然の責任を果たしているのであって、“野合”などという批判はあたらない。

 有権者の声にこたえる形で、野党は一部自分たちに痛みを強いるような決断もくだしている。今度は、もっと幅広い国民がそれに応える番ではないだろうか。

乙武洋匡氏立候補へ――なぜ自民党で……

2016-03-16 18:57:12 | 政治
 『五体不満足』などの著書で知られる乙武洋匡氏が、今夏の参院選に自民党から立候補するという。
 朝日新聞によれば、東京選挙区か比例区から出馬という方向で最終調整していて、4月にも正式に発表する予定だそうだ。

 乙武氏は生まれつき手足がないという障がいをもっており、その経験をもとにして執筆活動を行うなど活躍しているということで、安倍政権がかかげる“一億層活躍”に合うとして自民党の「目玉候補」に浮上したとのことだ。

 前回、今井絵理子氏が出馬を表明したときにも書いたが、なんでまた自民党から出馬するのかという話である。
 細かいことは以前書いたので繰り返さないが、自民党の目指す国家像は「国民が国家に奉仕する」というものであり、それが実現したら障がいをもっている人は冷たい視線を注がれることになるのは疑いようがない。実際に、安倍総理が敵視する“戦後レジーム”になる前の戦時中の日本は、障がいを持っている人たちを“ゴクつぶし”として非国民あつかいしていた。

 いまの安倍政権は、なりふりかまわず選挙対策に走っている。高齢者相手にカネをばらまき、辺野古問題では和解で一時問題を棚上げし、“タレント候補”というお決まりの手段にも手を出している。特に、今井絵理子氏と今回の乙武氏は、“障がい”というキーワードでつながっているが、これもまたイメージ戦略でしかないと私は考えている。

 障がいがあっても差別を受けることなく生活できる社会にしていくことは、もちろん重要である。
 だが、これまでにも書いてきたとおり、自民党の目指す国家はそれとは正反対にあるものだ。
 自民党にとっての“理想の国家”とは、国民が国家に従属し、国家のために国民の犠牲をいとわないという国である。歴史をみれば、そのような国は障がい者を「国家に奉仕せずに資源を浪費するだけのお荷物」とみなすようになるのはあきらかだ。
 もちろん、いまの自民党はそんなことは口にしない。それは、選挙前だからだ。選挙の前だから、なるべくソフトにみえるようにしているにすぎない。選挙の前だけ、「私たち、障がいのある人にもやさしいですよ」「辺野古でも和解しましたよ」「保育もきちんとしますよ」と人のよさそうな顔をしておいて、選挙が終われば、またもとの顔にもどって、集団的自衛権とか改憲とかそういうことばかりやるようになるのは、あきらかだ。
 日本の有権者は、くれぐれも、こんなみえすいた選挙シフトのイメージ戦略にだまされてはいけない。だまされて後で痛い目をみるのは自分や自分の子供、孫たちなのだ。

「保育園落ちた日本死ね!!!」――あらわになった民意不在

2016-03-15 19:40:39 | 政治・経済
 「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが波紋を広げている。
 この問題で、当初安倍総理は相手にしないような態度をとったことで批判を浴び、あわてて大気児童問題に取り組む姿勢を示そうとしたが、今度は国会答弁で「保育所」を「保健所」といい間違えて問題になった。ただの言い間違いをそこまで問題視するべきではないかもしれないが、しかし、本当に真剣に考えていたらそんな言い間違いはしないだろうとは思うところである。

 また、この問題に関しては自民党議員のヤジも問題になった。
 そのヤジを飛ばした一人とされる平沢勝栄氏は、民放の情報番組に出演した際に「本当に女性が書いたのか」という疑問を呈したそうだが、言葉遣いなどから女性であるかどうかを疑うというのは、まったくばかげた態度である。
 “女性がこんな言葉遣いをするはずがない”というのは、脂ぎったおっさんが勝手に作り上げた女性像にすぎない。女性はつつましく、しとやかに――そんな妄想を投影されても、世の女性方にとっては気色悪いだけだろう。実際のところ、複数のメディアがこのブログの投稿者に接触していて、投稿したのは30代の母親であるとされている。投稿者がじつは女性ではないというのは、平沢氏の勝手な思い込みである可能性が高い。


 保育といえば、昨年の冬、政府が「保育の資格をもっていなくとも保育所の一部の仕事につけるように要件を緩和する」という方針を打ち出したことがあったが、この件でも、巷では「そういう問題じゃない」と批判の声があがった。
 実際には、資格をもっていても保育の仕事についていない人は相当数いるといわれていて、資格のない人を保育の仕事に就かせるよりも、むしろ資格のある人たちがそのもっている資格をいかそうという気になるように、待遇面を改善していくことが重要だ――という指摘である。そういったところをみても、政府の待機児童問題に対する取り組みは、現状認識の段階から間違っているのではないかと思えてくる。

 もちろん、待機児童の問題に即効性のある対策がそうあるわけではないだろう。
 だが、この問題はなにも去年突然ふってわいたわけではなく、もうずいぶん前からいわれていることなのである。前に書いた震災復興の問題もそうだが、これまでの数年間真剣に取り組んでいれば、もう少しどうにかなっているはずではないのか。特定秘密保護法だの安保法だのといったことの前に取り組むべき問題があったのではないか、と思わずにいられない。どうも安倍政権というのは“戦後レジームからの脱却”などという、自己満足でしかない愚行に政治資源を浪費していて、ふつうの国民のいまの生活に関わる問題を軽視しているように私にはみえる。


 最後に、もう少し話を広げて考えてみたい。
 今回の一連の騒動をみていて、私は、中野晃一教授が以前福岡のシンポジウムで語っていた論を思い出した。
 代表制民主主義とは、「再現民主主義」である、と中野教授はいう。代表制民主主義というときの「代表」にあたる英語はrepresentation だが、この言葉は、「現れること、現前」という意味の presentation に「再び」を意味する接頭辞の re がついたもので、字義通りに訳すれば「再現」となる。すなわち、代議制民主主義とは、民意を議会のなかに「再現させる」ことなのだ。
 しかし、いまの日本ではその「再現」が機能していない。だから国民は、みずからの体で「現れる」ということをしなければならない。re‐presentation が成立しないので、presentation =「現前」をしなければならなくなる――それが、デモや国会前でのスタンディングなのである。
 今回の「保育園落ちたの私だ」運動は、保育といった分野でも同じ構図が存在することを示した。すなわち、安全保障の分野にかぎらず、安倍政権はその本質からして民意を体現していないのだ。

 そしてそのうえで指摘したいのは、そうした presentation が実際に国会を動かしたということだ。
 あのブログをきっかけにしてはじまった「保育園落ちたの私だ」運動は短期間で多くの署名を集め、それに対して与野党がそれぞれに対策を打ち出している。このことが重要である。問題の当事者やその支持者たちが「現前」したことによって、国会議員たちはそれを無視することができず、動かざるをえなくなった。――そういう点で、今回の件は、デモや抗議活動、署名といった運動が決して無駄なものではなく、実際に政治を動かしうるということの証明といえるのだ。
 そういう見方でみると、反原発や反安保、反辺野古基地の運動も、それぞれに一定の影響力を発揮しているように見える。国民の間で続く反原発の運動は、裁判官の判断にも影響したかもしれない。辺野古新基地への反対運動によって、政府は一時的にせよ沖縄との和解案を呑んだ。そして、反安保運動は野党の共闘を後押しし、難航していた民主・維新の合流につながった。
 こうしてみれば、国民がみずから姿を現わしての抗議は、決して無駄にはならないということがわかる。抗議の声が大きくなれば、政治の側は動かざるをえないのだ。今回の「保育園落ちたの私だ」運動は、それをはっきりとしたかたちで示してくれた。