西アフリカぶるきなふぁそ親爺暮らし

2003年、50歳にて西アフリカのブルキナファソに渡りボランティア。歳月を経ていまではすっかりブルキナ親爺になりました。

輝きに向かって

2020-04-18 | 生き方

災害は私たちの心の中に迷路を創り

 

ネガティブやエゴイズムは夢と希望を奪う

 

何もかも信じられない世界を作ってしまう

 

今生命が危ない

 

今地球が危ないよ

 

みんなで力を合わせよう

 

みんなで心を支えよう

 

みんなで希望を与えるポジティブな力を出そうよ

 

みんなで未来を信じよう

 

苦難な時こそ人を自分を信じよう

 

今こそ私たちは奮い立ち地球を救う戦士になるべきだ

 

父と母そして祖先は誰もいるはず

 

先祖は励ましあって

   いくつもの困難を乗り越えてきた

 

だから私たちも未来に向かって

   今ある困難に立ち向うことを始めよう

 

これから地球の生命を守るためにちからを合わせよう

 

みんなの心が一つになった時にあらゆる困難は消え去る

 

そして必ずみんなで輝き幸せをつかむんだ

 


坂東哀愁香

2018-03-02 | 生き方

秋の夕暮れ、秀緑広場の揺れる木から漏れ日が、

キラキラと木々の隙間をすり抜けて

ミラーボールのようにきらめく

私はまるで舞台のヒロインみたい

でも一人ぼっちのヒロイン

毎日私の周りに沢山の役者が現れ、そして演じる

何のストーリーかもわからないけど

なぜか一瞬虚しくなる

 

冬の菅生沼にはたくさんの白鳥

きっと君たちにも大切な故郷なんだね

春には八坂神社の桜が咲き誇り

周りが何となくうれしそう

 

故郷っていいね、心が癒えるから

もうヒロインじゃなくていいよ

誰かに寄り添いたいと思えるから

 

 

 

早春の朝、利根川の川風がそよぐ目吹橋のたもと

堤防の若草たちがサワサワと音を奏で

心地よい春風とのハーモニー

私はまるで音楽のコンダクターみたい

でも1人ぼっちのコンダクター

毎日懸命に腕を振ると雑音だけしか聞こえない

何を演奏しているかもわからないけど

なぜか一瞬淋しくなる

 

夏の逆井城はセミや小鳥のコーラス

きっとみんな歌声を披露しているんだね

静かな国王神社でうたた寝をすると

清んだ空気のなかで心が晴れる

 

故郷っていいね、心が癒えるから

もうコンダクターじゃなくていいよ

誰かに寄り添いたいと思えるから


人生の冒険家(Adventurer of Mylife)

2018-02-25 | 生き方

この星にはいろんなものがあるんだね

見たこともない街、食べたことないもの

聞いたことがない言葉、触れたことがないもの

自分が生きてることってほんのちっぽけなことかもしれない

でも、恥ずかしい事ではないよ

だって人はみんな人生の冒険家だから

I’m adeventurer of mylife

 

それぞれの人生、一人一人の人生

嬉しい出来事、悲しい出来事、

やりきれないこと、さびしい事

自分が本当に信じれることって何もないのかもしれない

だからチャレンジする価値はあるよね

だって君も素敵な人生の冒険家だから

I’m adeventurer of mylife

 

人間に生まれていろんなことがあるんだね

苦しみや憎しみ、憧れや挫折

好きになること、嫌われること

自分が自分で居ることがたまらなくなるときはあるかい

でも失望することはないよ

だって君はすでに人生の冒険家だから

I’m adeventurer of mylife

 

この世に生まれた一度きりの人生だもの

自分で探検しないともったいない

自分の体、自分の心

生きている限り自分で確かめなきゃもったいないよ

どんなに苦しくても人生を楽しもうよ

だって君は出来るはず人生の冒険だから

I’m adeventurer of mylife


ぶるきな親爺の世迷言

2017-09-09 | 生き方

人類が初めて誕生したのは今から15万年前のこと、

アフリカ北東のサバンナで誕生したそうです。

そして現在、世界の人口は、約74億2,200万人で1分に137人、1日で20万人、1年で7千万人、増えています。

世界中で、1年に6千万人が亡くなり、1億3千万人が産まれます。

 

ある動物生態学者によると強い者はその地に残り、弱い者は駆逐されるそうです。

アフリカから日本を見ると最も遠い距離にあることが分かります。

その論理に従えば日本に来た人たちは多くの年月をかけて逃げ延びて来たのでしょうか。

 

15万年と言うと私達の祖先である両親は約15,000人にもなるそうです。

その両親に代々守られて来たから現在の私達があると言っても過言ではありませんね。

祖先たちは、最果ての地日本にたどり着くまで数多くの苦難に会い、そして乗り越えてきたことでしょう。

 

親爺は、弱い者は弱いからこそ知恵と感性が養われるのではないかと思うのです。

例えば苦難を乗り越える術、すなわち忍耐、協調、匠、和み、工夫、改善です。

親爺の偏見かもしれませんが、日本人は他の民族に比べてその能力が高いのではないでしょうか。

それは、知らず知らずのうちに先祖から受け継いでいるものなのかもしれません。

 

これから世界は益々複雑で混迷の時代に入って行くような気がします。

そこで親爺が思うに、政治や宗教、お金の問題で争っている場合ではなく、日本人は同じ人類として世界のために今まで先祖から受け継いできた能力を発揮することが私達を産んで守ってくれた15,000人の祖先に対する感謝と恩返しになるのかと思いまする。


全知全能の力

2017-09-08 | 生き方

森羅万象のエネルギーを供給する根源を神と言い、全ての時空において万能でありそれぞれ個別の物事が進化しうる源である。

それぞれが影響しあい協調し合いながら現世が存在している。

 

森羅万象を創るエネルギーが全ての命に繋がっていると言う事は、私達の中にも根源である神に結び付く接点があるのかも知れない。

 

命とは自然界でその物事の目的や使命を成し遂げるために与えられたエネルギーであり、生物や物質に拘りなく、物事が何らかの原因により機能しなくなったときに命は終わる。

 

それは宇宙も、地球も、生物も、物や計画も同じである。

然るに私たちは人間としてこの世に生があるうちに自分の目的を見出し、そして進化していくために何かを成す必要があるのではないか。

 

何かを成すことは物事の大小は関係ない。

船は船長だけでは動かないし、大統領だけでは国は作れない。

良い船は多くの人や物を遠くまで運べ、良い大統領は国民が安心し、豊かに暮らせる。

船を造る人、大統領を選ぶ人がいなければ物事は成り立たないのである。

 

利己を捨て、自己に素直に向き合い、自分の中に全知全能の力への接点を見つけることができれば、その道をたどり全ての物事と結ばれ、自分と言う命の末端から宇宙全体に至るまで疎通も可能なのではないのか。


SHOMON KING (平将門)

2017-09-08 | 生き方

SHOMON(将門) KING

いつか夢見るBANDO COUNTRY

京都だけが都じゃねえ 田舎者と馬鹿にされ

親戚からも蔑まれ 家に帰れば国がない

高い年貢じゃ生きられねえ 苦しみあえぐ民衆の

声を聞いては捨ててはおけぬ 汚い輩は我が打つ

我はBANDO SHOMON KING

 

豊かで平和なBANDO COUNTRY

みんなの笑顔が見たいから 我はこの世を変えてやる

北斗の神の天命は 皆で作る新天地

慕ってくれる民衆の 心に応えて奮闘努力

関八州を駆け巡り どんな敵にも負けられねえ

我はBANDO SHOMON KING

 

突如敵の大軍勢 稲刈り時のその最中

味方は少数絶体絶命 こんな時に攻めるとは

SHOMON KINGは馬を駆る

敵の弓矢は雨のよう ここで引いては負け戦

味方の勇気を湧かせるために 民衆の想いを胸に

我はBANDO SHOMON KING

 

敵を蹴散らし矢雨の中に その姿は烈火の如く

我が頭を貫く一矢 天は我を見捨てたか

これから創る新天地 北斗の神よ聞いてくれ

次第に薄れる意識の中で この世が平和になるまでは 

生きているぞ永遠に 民衆の笑顔が瞼に浮かぶ

我はBANDO SHOMON KING


ブルキナ親爺の一人酒

2016-01-17 | 生き方

幸副とは・・・

ブルキナファソに住んでいるといろいろと事件が起こります。

昨日は近くの高級ホテルと向かい側の高級レストランがテロリストに襲撃されて23人が死亡し60人が負傷する事件がありました。

その後ブルキナファソ、フランス、アメリカの特殊部隊によって鎮圧されテロリスト4人(女性2人)が死亡、2人が拘束されました。

5年前にも軍の暴動があったり2年前には大統領の追放騒動や昨年はクーデターと物騒な事件が起こります。

そのようなことで今日は豚肉をつつきながら一人で晩酌をしている次第です。

酔いがまわるにつれ親爺の脳みそも回りだし、[幸福]とは何ぞや・・・・。

  • ニコマコス倫理学
    • 幸福とは快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または人間の霊魂の固有の形相である理性を発展させることであるとして、幸福主義をとなえた。
  • 『語録』
    • 己の力の及ぶものと及ばないものを識別し、自己抑制をもって生きることを説く。
  • 『エチカ』
    • 物事を永遠の相のもとで見ることが幸福(神に対する知的愛)への道であるとする。
  • 『幸福について』
    • 目先の環境に振り回されるのをやめ、すべては空しいと諦観することで精神的落ち着きを得るべきである。世俗的な幸福の源泉を人のあり方・人の有するもの・人の印象の与え方に大別した上、肝心なのは「人のあり方」であるとする。
  • 『意志と表象としての世界第四部』
    • 自他の区別を去った意志の否定を説く。
  • 『幸福論』
    • 健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説く。
  • 『幸福論』
    • 己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧める。
  • 『幸福論』
    • 神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論。
  • 『私の幸福論』
    • 不公正な世の現実を見据え、弱点を弱点と認識した上でとらわれなく生きること。望むものを手に入れるために戦い、敗北しても悔いないこと。

Wikipediaではこのように書かれています。

幸福という短い単語にはとても深い意味があります。

 

しかし幸福の実現の裏側には不幸があります。

親爺は最近テレビでライオンがシマウマをとらえて子供たちと一緒に食べるシーンを観ました。

ライオンは幸福ですがシマウマにとっては不幸です。

戦争も勝てば英雄、負ければ戦犯。

 

地球に暮らす人間は現在72億人を超えています。

世界の人口は、1分に137人、1日で20万人、1年で7千万人、増えています。

世界中で、1年に6千万人が亡くなり、1億3千万人が産まれます。

貧富の拡大、温暖化など問題が山積です。

石油の枯渇が近づき、表土と森が失われています。

 

国際応用システム分析研究所(IIASA: International Institute for Applied Systems Analysis)の計算によると、世界の人口が90億人に達するのは、ようやく2070年のことになるだろうと予測しています。

ただ、このニュースはまったく落胆するような ものではありません。

これは人口過剰へのブレーキとなる。まさに地球が必要としていることなのです。

もうひとつの可能性は、人類が消滅していくというものです。

IIASAはこのことを確信しているようです。

08年のリポートによれば、もし現在のヨーロッパの出生率(女性1人あたり1.5人)が世界中でも定着すれば、世界の人口は2200年には半分になるだろうといわれています。

さらに、2300年には10億人をわずかに下回ると考えられています。

 

親爺も人間として生まれて凡夫でありますので先ず自分の幸福を考えます。

端的に言えば、人生が思い通りになることが幸福なのです。

 

自分の幸福は何が幸福と思えることなのかと。

人の役に立つこと、人に好かれること、無事に事を成し遂げた、もちろんパチンコや懸賞に当たった時など幸福です。

 

今親爺が一番心配していることは不幸が不幸を呼ぶことです。

各地で起こっているテロもある意味では不幸がさらに不幸を呼んでいることなのかと思います。

不幸が不幸を繰り返さない方法はあるのか親爺にはわかりませんが政治倫理や宗教の教えが多様化し戒律が機能しなくなってきている現在、これから先の人々は何を支えに生きてゆくのか。

きっと有能な人か宇宙人が現れて人間を幸福に導いてくれることでしょう。

もう夜の12時か。

ちょうど3本めのビールが無くなったところで寝ることにしよう。


中年派遣員奮闘記(終わりに)

2016-01-13 | 奮闘記

「中年派遣員奮闘記」終わりに

「三年間のブルキナファソの生活を振り返って」

2003年7月18日、初めてブルキナファソの地を踏んで依頼、時間の経つのは早いもので3年間に渡る現地派遣員生活も終了しようとしております。

3年前は言葉も解らず、周りには日本人もいなく、まして何の知識もない私はこれから駐在員としてどの様にしたら良いか途方にくれましたが団体本部の方々の適切なサポートにより何とかやり遂げることが出来ました。

リサイクル物資補助事業に始まり、ネリカ米栽培事業、診療所建設事業、感染症撲滅給水事業などのプロジェクトや2つのテレビ局のブルキナファソ取材のコーディネート、インターンシップの方々のお手伝いなど、いろいろと良い経験になりましたが今思うとただ夢中で一心不乱に動き回っていたように思いますと同時に今までかつてないエネルギッシュな自分を発見することが出来、また私生活では当初フランス語で挨拶も出来ずジェスチャーで意思の伝達をしていたのが最近やっと3歳児くらいの言葉が話せるようになりブルキナファソの友達も沢山でき、近所でも外国人扱いをされていたのが今では頑固な日本人おじさんとして仲間入りを認めてくれたようで、人間は時間をかければ何とか適応できるものだと自分ながらに驚いています。

そしてブルキナファソの素顔に触れれば触れるほど日本と違って良きにつけ悪きにつけ、いろいろな意味での人間味を感じます。それはどういうことかといえば日本のように発展していても人いじめや人を恨み、世を果敢無んで自殺をする人が大勢いるし、絶えず他との比較をしながら上を見、下を見、自分の位置づけを意識しながら生活し、物があり仕事も選ばなければ何とか生活をしていけるのとは違い、金や物がない仕事がない中でブルキナファソの人々はそれぞれに生きていくための知恵を凝らしているのです。

この国の多くの人々の意識は一言でいえば良い意味での個人主義、人は人、私は私という風に余り他人を意識しないのか、する余裕がないのか、でも決して無関心ということではなく弱者に対してはとても思いやりがあり決して自分を卑下するわけでもなく世間を気にするわけでも無く黙々と日々を暮らし貧困の中にもとても陽気です。

私はブルキナファソの人々から今の日本にはもう無くなっているかも知れない心の豊かさとバイタリティーを感じました。

 今私がブルキナファソの状況でとても心配していることがあります。それはお父さんやお母さんがエイズで亡くなった子供、いわゆるエイズ孤児といわれる子供たちが27万人もいるということです。

国連などの2002年の調査によれば、親をエイズで失った15歳未満の孤児は世界で1344万人、そのうち80%以上がアフリカだといいます。1990年には100万人だから、10倍以上に増えたことになります。2010年には2000万人を超え、子ども全体の6%にのぼるだろうと予測されています。

エイズとエイズ孤児が激増する背景には、セーフ・セックスに対する意識の低さや貧困など、さまざまな原因がありますが、エイズ治療薬が値段は下がったとはいえ、1日ドル以下の生活をしているブルキナファソでは依然として高価なことも大きな原因のひとつです。エイズ孤児や貧困孤児はセックス・ワーカーや少年兵士、子ども奴隷を生み出す温床でもあり、一刻も早い解決が望まれていますが、前途は暗中模索の状態であるといわれています。

日本の昔の言葉に「親は無くとも子は育つ」と言いますが、せめて病気の治療や最低の教育だけは受けさせてあげたいと思うのは私も人の親としての人情なのでしょうか。

先進国から見ると世界はインターネットを始めIT産業の発展によりグローバリゼーションの推進がさけばれていますが、日本などでもよくいますが携帯電話やパソコンに1日中かじりついて情報や知識だけは豊富でなんとなく得意になっている人や仕事ならまだしも、まるで麻薬中毒のようにそれがないとパニックに陥ってしまう依存症人も多く存在しています。

私はそれらを否定するつもりはありませんし、とても便利な物と思っていますがそれに没頭しすぎて自分の本質、目的を発見できず見失ってしまうことが多々ありますがとても心配なことです。あくまでも使う人間が主体でありその人間の本質が高ければ高いほどすばらしい道具として真価を発揮できるものだと思います。

また、その一方ではそのようなことは全く無関係で、まだ先進国の動きに対応できない国も沢山あり、その国の中にも家が無く貧困で苦しむ人がいて貧困で苦しむ人の中にもさらに不幸な人がいることも事実です。私はその一番の底辺の人たちに目を向け、手を差し伸べてあげることが人として生まれてきたことの証のように思えてなりません。

これまで先進国と呼ばれている国々は途上国に対し援助と称していろいろなものを作り、また供与してきました。と同時に彼らの工夫する能力や協調して何かを創り上げることも奪ってきたように思います。彼らはそのような努力よりも、寧ろどうやって手に入れるかに努力しているような気がします。

また、今の国際ボランティアはわざと複雑にしてしまっているように思えます。困っている人を助けるという行為に何の能書きが必要なのでしょう。俄学者の意味のない廻りくどい能書きよりも、これからは事実やデータに基づいた的確なボランティアを本物の専門家の人たちは研究し、一般の人々がもっと簡単に理解が出来、気軽に参加できるように創意工夫をしなければ限られた人だけの理想論と自己満足の場になってしまうでしょう。

 私は50歳を過ぎてこれを良い経験として今後の人生に活かしたいなどというつもりはありませんが中年派遣員奮闘記を読まれた中年と呼ばれる方々に少しでも励みになればどんなに嬉しいことか、また青年の方々には多くの良い経験を積み今後の人生に生かしていただきたいという願望を込めて中年派遣奮闘記を終了させていただきます。

 


中年派遣員奮闘記(その22)

2016-01-12 | 奮闘記

NO.22[サピナ村の人々]

サピナ村は、ナオリ州の州都POから7キロほど西に行ったところにある人口1500人程の村で、周りは小高い丘に囲まれワガドゥグ周辺の平坦な風景とは少し違い日本人の私には何と無く親しみが湧く風景です。

人々は皆穏やかで、私が訪れるとまず子供が寄ってきます「ナサラ、ナサラ(白人の意)」と言いながら珍しいものでも見たか様に少し遠巻きに私を見ています。此処には私のような外国人は訪れることはないようです。中には恐ろしいのか泣き出す子供もいたりして、暫くすると好奇心旺盛の子供が近づいてきて握手をすると他の子供も安心したのか恐る恐る近寄ってきます。

皆と握手をして「私は日本人でイイダといいます。」ふと、この村には学校がなくフランス語は話すことは出来ないことを思い出し、自分を指差して「IIDA,JAPONE」「IIDA,JAPONE」と何とか子供たちに気に入ってもらおうとカメラを取り出して見ると子供たちは写真を撮られることが好きらしく、大騒ぎで集まってきます。他の方向にレンズを向けると又そこに集まるので面白くなり、写すマネをしていろいろな所に移動をして子供たちと戯れていますと、アリラが大声でなにやら一言云うと子供たちはすごすごと戻っていきました。

アリラが村のシェフ(酋長)を紹介したいから一緒に来てくれ、というのでシェフの家に向かいながら何と無く、これからこの村で私はこの村の人々に迎え入れてもらえるかどうか、言葉もあまり解らないでこの村の人々とうまくやっていけるのか不安が募ります。

シェフの家は全体が土で造られたグリシー族特有の曲線的な造りで大きな囲いの中に幾つもの家があり、そこで数家族が暮らしているようです。門の外に細い木で作られた椅子があり少し緊張した面持ちでそこで待っていますと、赤い帽子をかぶった60歳くらいのいかにも酋長と思しき身なりの人物が数人の人と共に近づいてきました。私はアリラに促され椅子から立ち上がり酋長が椅子に座るとアリラがしているように前にひざまずき、握手をしながらひたすら笑顔を作りアリラが私をカセナ語で紹介してくれているのを聞いていました。

ブルキナファソでは各国の援助で診療所や学校や井戸などの建設そのほか稲作や野菜の栽培など色々なプロジェクトが行われていますが、私どものようなNGOは政府の機関を通してプロジェクトを行うより直接村に行き村の人々の合意を持って行うことも多く、その村のシェフの動向で全てが決まります。

通常はその村の出身で行政や主な役職についている人に間に入ってもらい便宜を図ってもらうことが多いのですが、なかなか村の実情を知ることが難しいことと、その人への報酬や設備なども割高になることも多く効果的な実績を果たすには自分自身直接村の人と話をして村の実態を把握し直接自分で依頼し、結果を確認する必要があります。

そのようなことで、果たしてこれから新米の私が現地駐在員としての責務を遂行できるか、とても自信がありませんが気持ちの何処かにどうせ乗りかかった船だ、精一杯頑張ってダメなら諦めがつくという開き直りも同居していました。

一通りアリラが私とこれからの事業のことをシェフに説明した後、村の人達20人位と話し合いが持たれました。私の目的はこの村に稲と井戸を作ること、稲の種類はNERICAという新しい品種でこれからこの村に普及させ食事を栄養のないミレット(粟)から栄養のある米に替えていくことが必要。と同時に販売をして生活の向上に役立てたい。それから診療所の建設も行い村に人達が今まで病気で苦しんでいる状況をなくし、小学校を作り子供たちが公用語のフランス語を話せて読み書きが出来るよう、そして将来は日本と交流を盛んにし日本の人が沢山訪れる村にしたい。それらの事を代表のアリラを介して人々に説明しました。始めは見知らぬ日本人が一人で旅行にでも来たと思ったのか何と無く余所余所しく振舞っていた村人がだんだん身を乗り出し興味を起して来るのを感じました。

ブルキナファソの初等教育就学率は39.5%、中等教育就学率は8%、15歳以上の識字率は26.6%と低く、村落にいたっては5%未満の識字率です。此処サピナ村も近くの小学校までは10キロの道を歩いて行かなければならず小さい子供に毎日の通学はかなりの道程で、もし村に学校が出来たとしてもそこに赴任する教員の宿舎や生活の負担、教材の購入などを各家庭で授業料として払える余裕もありません。又、医療においてはブルキナファソでは5歳未満の乳児死亡率は16%、村落では30~50%と高い数値になります。

私はサピナ村の人々を見るにつれ、この様な過酷な生活環境の中でこの人達の描く未来はなんだろう、子供たちの夢はなんだろう、私のように日本の豊かな環境で育って来た者とは違って彼らは村の生活をどの様に思っているのだろう、先進国への憧れはあるのか、でもどんなに努力をしたところで今のこの村の状況ではそこに行く事は不可能で大半が村で一生を過ごすことになります。果たしてそれが不幸なのか、それとも知らない方が幸せなのか、たとえ今の日本の生活状況を知ったとしても彼達にはどうすることも出来ない。私の思いは複雑になると同時に何処となく虚しさも覚えました。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その21)

2016-01-11 | 奮闘記

NO.21[POとサピナ村]

首都ワガドゥグから南に約140キロメートルの所にPOという町があります。POはナオリ州の州都で人口は約7.000人でグリシー族が多く住んでおり、この部族は国境を挟んでガーナにも住民は多くKASSENAという言語を使っています。

気候はワガドゥグとは違い降水量も比較的多く綿花並びに野菜やイネの栽培が盛んでガーナの国境までは約20キロメートルでガーナから働きに来ている人や品物も入っていて、たとえばガソリンはブルキナでは1リットル550Fですがポでは500Fで、ヤム芋や木材、清涼飲料水などのほか生活用品なども売られていて他の街とは少し違う町の雰囲気があります。

またPO近郊は観光地も多く、近くのチェベレと言う、東に20㌔ほどの所にある町にはグリシー族の代表的な建築様式の家があり、すべて泥で作ったブロックを積み上げて建てられたもので柔らかな曲線とグリシー特有の装飾模様はとても美しい物で、この模様は女性が描くのが習慣だそうです。

POから西に10キロ程行くとチャカネという村があり、此処にはガーナから最初に移り住んだグリシー族の酋長の家があり、家はもう大分朽ち果てていて訪れる人はあまり居らず、家の大きさや物置に残された古い装飾品などを見ると当時の隆盛が想像されます。

そこから20キロほど南に行くとナジンガ自然公園に至り、此処には象を始めマントヒヒやガゼルその他多くの動物が保護されていてブルキナを訪れた人やガーナからも観光客が訪れますが、3月からは狩猟が解禁になるので多くの外国のハンター達が訪れ腕を競います。

サピナ村はポから西に7キロ程行った所、地形的には周りを丘で囲まれた盆地のような所で、住民は1.000人程で電気はなく学校や診療所も近くにはありません、村ではミレットや米の栽培が行われています。

私とこの地の始めの拘わりですが、POは友達のラミンの生まれ故郷で、予てより一度行ってみないかと誘いを受けていたこともあり、ある日、日帰り旅行気分で行くことにしました。朝7時のワガドゥグ発のバスで駅には沢山の荷物を持った人達が大勢いて、バイクや家具などをバスの屋根に積んだ大型のバスがあります。

まずはチケットを買いに販売所に行き名前を告げますが、忙しいためか無愛想なプロレスラー曙似の中年婦人が居て「チケット2枚下さい。」というと「何処まで?」私もムッとして「PO!」と言うと「名前は?」「イイダ!」「エ!何?IDA?」「IIDA!」中年婦人が少しニヤケ顔で「この名前はブルキナファソでは女の名前だ。」と言うので私は余計腹が立って「日本では家族の名前だ。」と説明をしながら10.000Fを渡すとまた婦人は険しい顔になって「何で1.500F(現在は2.000F)なのに10.000F渡すの?お釣りが無い!」と言いますのでしかたがないので、しばらく待ってからお釣りを受け取ることにしました。

日本なら自動販売機があり、このような無駄な労力は要らないのにと思いながら待っていますと、バスの発射時刻になりバスの入り口で係りの人が乗客の名前を読み上げています。急いでお釣りを受け取りバスの乗車口に行くと、沢山の人が集まっていて名前が良く聞き取れません。そのうちに「イダ!。イダ!」と何回も読んでいるのでチケットを差し出すと係員も「IDAは女の名前だ」というので大きな声で「I I D A 、イーダだ!」と教えていますと、周りの人達が中国人か等と聞きますので「私はジャポネだ!」バスの乗るのに汗だくになり、こんなに苦労をしたのは生まれて初めてです。

漸くバスが走り出しやれやれと思いきや、後ろの10代の若者達4~5人が故郷に帰るので嬉しいのかバカンスで旅行に行くのかは解りませんが、歌を歌ったり大きな声で笑ったりはしゃいでいます。私は先ほどの心の疲れを癒そうと、少し寝たいと思っていましたが後ろが煩くて寝ることも出来ません。暫くすると横に座っていた人も私と同じ心境だったらしく、大きな声で「静かにしろ!」と怒鳴っています。一時は沈黙をするのですが30分もすると又はしゃぎ出します。そういえば私も10代の頃、友達と一緒に旅行をした時は周りのことなど考えずにいたことを思い出し、私もやっぱり中年だな、と考えながら暑さと若者達の騒音の中に身を委ねる事にしました。

ワガドゥグを出て2時間半、バスはPOに到着しました。まずPOで目に付くのは軍服を着た人が多いことです。POはガーナとの国境が近いので大きな軍の基地が2つあり、以前はコンパオレ大統領もこの基地に長年居た事もあるそうで、今もその住宅がきれいに保存されています。

バスを降りるとラミンから何人かの人を紹介されました。ラミンの兄のババ、サピナのアリラ、ウェニュャ、Me.エリザベットです。彼らはBIEN VENUE M.IIDAと笑顔で親切に迎えてくれ取敢えず近くのレストランに行き話をすることになりました。ババはラミンの兄と言うことで顔も良く似ていて家具を作る商売をしており、アリラはサピナで農業を営んでいて一見強面でギャング映画にでも出てきそうな顔立ちで、ウェニュャもサピナで農業をしておりいつもニコニコ顔でアリラとは対照的です。いろいろと話をしていくうちに彼らは村に案内をしてくれると言うことになりました。

バイクをチャーターして行くという事で待っている間に食事をすることになり、ラミンが此処で美味いのがGHANAトーだと言うことでPO名物を戴くことにしました。作る所を見ようと思い店の前に行くと臼のような物と杵のような丸太があり、茹でたヤム芋を臼に入れ餅搗きと同じようなやり方で搗き込んで行きます。

これは通称フトゥと言いますが、搗く人と捏ねる人と一体になり10分くらい搗いていると程よい粘りが出てきて、それを10センチくらいの玉にして深皿に載せソースをかけて出来上がりです。ソースはトマトソースに鶏かムトンの肉を一緒に煮込んだものできっと何か調味料があるのでしょうか。このソースがさっぱりとしているにもかかわらず酷があり説妙な味付けで、それとモチモチとしたフトゥがとても相性が良くいつの間にか胃の中に滑り込んで行ってしまいます。

二杯御代わりをしてお腹が膨れた頃バイクが到着し、いよいよサピナへ出発です。


次回をお楽しみに・・・・


人のルーツID:g6unvl

2016-01-10 | 暮らし

人の母方の遺伝子をたどっていくとアフリカにいたイヴという女性にたどり着くといわれます。

私たちの先祖イヴが生まれた地域アフリカ

今から20万年前は物や生命のすべてが共有した世界でした

イヴの子孫は自然の中で、他の動物たちや災害から身を守り

子孫の繁栄を信じて大いなる自然に挑戦し可能性を広げ

自分で考え、力を出し合って自然界の中で色々な困難を克服してきたのです

21世紀に生きている私たちは今、イヴの末裔として先祖が築いてきた歴史の最先端を生きています

あなたは今、自分という存在をどのように思いますか

イヴは人の母として地球に生まれた時、いったいどのように思っていたのでしょうか

私たちも、もう一度イヴの気持ちに立ち返ってみてはいかがでしょう

なぜなら私たち世界の70億人を超える兄弟の母親なのですから

私たち一人一人が人類の母イヴに血のつながりを伝わってコンタクトが出来るようにすることにより人間として、そして地球の一生命として、これまで先祖達が繋いでくれた道筋を思い毎日の暮らしの中に生かして行くことが未来にも繋がっていくことになるのではないのでしょうか

私たちのルーツであるイヴの出現から私たちは現在72億人を超えています

世界の人口は、1分に137人、1日で20万人、1年で7千万人、増えています

世界中で、1年に6千万人が亡くなり

1億3千万人が産まれます

貧富の拡大、温暖化など問題が山積です。石油の枯渇が近づき、表土と森が失われています

水と食料が、病院と学校が不足しています

人の生活が、太陽と地球からの恵みを、超えそうです

争いなんかしている場合ではありません!

分かち合って、共に生きなくては!


中年派遣員奮闘記(その20)

2016-01-10 | 奮闘記

NO.20[OUAGADOUGOUの商い]

ブルキナファソの1日はとても早く、5時には起きて掃除や朝食の準備が始まります。お手伝いさんがいますが大体は村から出てきている人で、13歳から18歳くらいの女性が多く、フランス語はあまり話せない人が多いようで1ヶ月の給料が2000フランくらいですが、食事と寝るところはあるのでワガドゥグに出稼ぎに来る人は多いようです。村の仕事と言えば男性は農作業、女性は食事に関する仕事、子供は10歳くらいから水汲みや燃料にする枯れ枝集めなどを行い、週に何度か女性達は近くのマルシェに行き自分達で作ったものを売りお金に換えていますが、1日の売り上げはほんの僅かのようです。ですから少しでもお金を稼げるところがあればとワガドゥグに来る若い女性も多く居ります。

 さて、バルコマ家でまず1番早く起きるのは勿論お手伝いさんです。毎朝5時にイスラムのモスクのスピーカーから朝のお祈りの声が聞こえ、すると間も無く庭を掃く音、こちらの箒は柄がなくサーガという40センチほどの真っ直ぐな細い枝を直径5センチ位に束ねた物で腰を屈めて器用に掃き慣らして行きます。6時頃になるとムッシュバルコマがプラスチックのヤカンを手にもち外のトイレに行きます。ブルキナの人達はトイレットペーパーを使う人は少なく殆どの人は御尻を水で洗います。私も何度か試みましたがとても心地良く考えてみればこちらの方が清潔なのかも知れません。

 トイレが終わると大きな声で皆を起こします。7時になると長男のボリスと次男のフィデルが学校に向かい、学校は7時半から始まりますのでとても慌しい様子で、マダムはトウモロコシの粉を乾燥させるために大きな台の上に広げていると、3女のフランソワーズは洗濯物を井戸の所に運びます。7人家族の洗濯物はとても多くおまけに女性は2~3度着替えをするので洗濯物は毎回山のようです。

お手伝いさんは掃き掃除を終わると洗濯に執りかかりますが洗濯物が多いときは洗濯を専門にする人も来ます。4女のエステルはムッシュバルコマの乗っている車の掃除が朝の仕事のようで、いつも車を拭く前に運転席で車のカセットデッキに好きな歌を入れ聞いていますが聞いているうちに気持ちが良くなり又寝てしまうことが多く、ムッシュバルコマが出かけようと車に行くとエステルが中で寝ているので結局ムッシュがぶつぶつ文句を言いながら自分で拭くことになってしまうようです。

 昼になると学校に行っていたムッシュバルコマ、ボリス、フィデル、小学生のロズモンドとお母さんのアンドレアが戻ってきます。12時から3時までは昼休みなので昼食後は体の汗を流し昼寝をします。ブルキナファソの自然環境で日中の暑さは厳しく特に5月の頃の気温は50度にもなり、汗とともに体力の消耗が激しく、屋外での直射日光は熱中症にもつながりますので社会環境もこの様な習慣になっていると思われます。昼寝を終えるとそそくさと再び職場、学校へと向かい、終業時刻は5時半です。

ブルキナファソには行商をしている人が多くいて、バルコマ家は家族が多いためか朝からいろいろな行商の人が訪れます。まず朝に来るのがガーナパン屋さんブルキナはフランスパン(ヴァゲット)が普通ですが、ガーナパンと言われるいわゆるブレッドもあります。主にガーナからやって来た人が作っていますがやはりガーナは昔イギリス領だったためかと思われます、次に来るのが古着屋さんでブルキナでは古着の事をYOUG YOUG(ユグユグ)と言い、ジュラ語で「洗う」という意味だそうです。

女性物と男性物、下着類、布類とそれぞれ別の人が売っており、古着はインド製やパキスタン製が多くジーンズは1500F(300円)、シャツは1000F(200円)位です。この人が来るたびに私にも声がかかりイイダも安いから何か買えば、といわれますが私の好みに合うものが無いので丁重にお断りします。それからミシンの修理屋や果物屋と行商も多種様々で、この人達は殆どが親方(パトロン)がいて仕事を貰い1日中売り歩きます。

その他街に出ると本、メガネ、アクセサリー、薬、ビデオCD,CDレコード、水やジュース、それからとても多いのがパンクの修理屋です。バイクや自転車が一般の乗り物で日本のようなチューブレスなどというタイヤではなく普通のチューブ入りのタイヤでこれがあまり良い品質ではないので、すぐパンクをします。修理代は1箇所100フランですが修理するところを見ていないと穴の開いていないところも修理をしてしまい5箇所パンクしていた、などと言われますので気が抜けません、OUAGADOUGOUには沢山のオフィスビルや商店などがありますが、それぞれに専用駐車場はありません。

また公共駐車場もありませんので入り口の近くに車やバイクを駐車し、するとそこにいる人にチケットを渡されます。その人は駐車している車やバイクが、いたずらされたり盗まれないように見張っている仕事なのです。車は100フラン、バイクは50フランでその人は店やオフィスとは関係が無く個人で事業をしているようで、店やオフィスとなぜ関係が無いのかを聞きますと、もし盗まれ たときに店やオフィスの責任にならない様に、だそうです。

 まだまだ職業は沢山ありますが主な職業を紹介してみました。いつもこの人達を見ると熱い中歩いて回るのはとても大変なことだし、売り上げはどれ位あるのか計り知れませんが、怪我や病気などになったときは何の保証も無く、この国では健康ということが最大の資本であることをつくづく考えさせられました。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その19)

2016-01-09 | 奮闘記

NO.19[エステル]

エステルは24歳バルコマ家の4女、看護婦になることが夢で現在看護学校に通っています。とても人懐こく穏やかで毎朝起きるとまず彼女がボンジュールと声をかけてくれます。彼女の趣味はおしゃれをすることの様で1日に多いときで3回服を取り替えます。毎日お姉さんと交代で料理を作ったり家の掃除をしたり勉強はあまり好きではないようで時々教科書を私のところに持ってきては「イイダこれ何か知っている?」などといいながら「私の彼はアルノって言って銀行員、けれどとても浮気者。」などと言う話になってしまい、「なんで?」と尋ねるとこの前彼の家に遊びに行ったら他の女がいて親しそうにしていたと言うのです。

私は思わず「それは単なる友達できっとエステルのことが一番好きだと思うよ。だからあまり気にしない方が良いよ。」、と言うとエステルは気が休まったのか後で彼に電話してみると言って家に帰ります。また何日かすると事務所に来て「このまえミサで教会に行ったときアルノが知らない女といたの。見ない振りして家に帰ってきちゃった。」、すると側で聞いていた弟のフィデルが「アルノは良くないよ~、女がいっぱいいる~。」とエステルを横目で見ながら言いますので、私はすかさず、「アレ!このまえフィデルは学校に何人も彼女がいて俺は女にもてるって得意そうに言っていたじゃない?」そうなると強いのはエステルで「アルノよりお前の方が一番悪い!」3人で大笑いです。

時々バルコマ家の夕食に呼ばれます。夕食の席ではムッシュバルコマの威厳は強く、さすがに一家を養っているだけのことはあると感じます。「イイダ!イルフォマンジェ、イルフォマンジェ(食べなさい、食べなさい)」と言いながらブルキナの地ビール、ブラキナをおいしそうに飲みます。私が「今日の食事はエステルが作ったのですか?」と聞くとエステルが、「そう私が作ったの。」というと少し離れた所にいるお姉さんのフランソワーズが「それは私が作ったんでしょ、あなたは野菜を切っただけ。」、父と母が口を揃えて「フランソワーズは料理が上手だけどエステルはだめ。」、と言うとエステルが「本当に作ればお姉さんより私のほうが上手よ、お姉さんに悪いからへたな振りをしてるの。」、と言うとフランソワーズが大きな石を持ってエステルに近づいて来ます。エステルはすかさず笑いながら外の門のところに身を隠し、「怒った、また怒った」とフランソワーズをからかいます。「エステル、いい加減にしなさい!」とムッシュバルコマの雷が落ち一件落着。「エステルは小さいころから要領が良いんだから。」、フランソワーズが苦笑しながらまた調理場のほうに戻っていきました。

エステルの笑い声にはとても特徴があります。お腹のそこから大きな声で「ワッハッハッハ」と笑った後に高音で「ヒー」と言います。これが事務所にいると一日に何回か聞くことができて、どんなに落ち込んでいるときでも彼女の笑い声を聞くと思わず笑ってしまう、と言う不思議な魔力があります。事務所は私一人なのでフランス語で書かれた難解な文章を辞書と首っ引きで解読をしているときに隣の家から「ワッハッハッハ、ヒー、ワッハッハッハ、ヒー」と聞こえてきます。それに連られて私のお腹から笑いがこみ上げてきて「ゥワッハッハッハッハー」、これが1日3回は日課です。

その人がいると何と無く楽しくなるという人がいますが、そのような作らない自然な魅力を持っている人はとても人徳のある人だと感じます。皆顔をしかめて話すより楽しく話をした方が良いに決まっていますが、もし逆にその人がいるために周りを不愉快にしてしまうとしたらどんなに人生において損をしているのかとも思います。私も出来る事であればエステルのように心穏やかにいつも周りを楽しくさせるような自然な魅力のある人になりたいと思うと同時に、ブルキナファソで人生の機微を言葉や人種、環境の違うエステルから教えていただけるとは思いませんでした。

それから私は何とかしてエステルを笑わそうと、それが趣味であるかの様になっていました。エステルが来ると言葉ではだめと思いジェスチャーや表情で何とか笑わそうとするのですが微笑むくらいまででなかなか笑ってくれません。バルコマ家には番犬が居ります家の人以外の人が来ると牙をむき出し今にも襲い掛からんとするので、何とか慣ついてもらおうと努力をしていましたが思うように行きません。

エステルがいつも犬のことを「イベ!、イベ!」と言っているので、この犬の名はイベと言う名前だったのか。それから犬のことを見る度に「イベ、ヴィェン、ヴィェン」と呼んでいましたが犬は顔をしかめ一向に来ません。ある時エステルにイベはいくら呼んでもこっちに来ないけど何で来ないのと聞きましたら大きな声で「ワッハッハッハ、ヒー、ワッハッハッハ、ヒー、ワッハッハッハ、ヒー」と突然笑い出しました。

私はどうしたのかと不思議に思いながらも連られて笑っていますと暫くしてエステルが笑い疲れて表情をこわばらせ、涙を拭きながら話し出しました。「イイダ、あの犬の名はトゥパスと言うのよ。」私が「でもエステルはいつも犬のことをイベって言っているじゃないか。」と言うとエステルは又ワッハッハッハ、ヒーと笑いながら「イベはモレ語で行けって言うことなの。」、これで謎が解けました、いくら呼んでも来ない理由が、日本語に訳すと「行け!来い、来い」といっていたのですから犬も顔をしかめるはずです。この時だけは私も暫く笑えませんでした。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その18)

2016-01-08 | 奮闘記

NO.18[フィデル]

フィデル・バルコマ(20歳)6人兄弟の末っ子で将来は薬剤師を目指し目下のところ専門学校にて学業に励んでおり、理数系が得意で家では大きい黒板を壁の前に置き夜は屋外にある蛍光灯のところで勉強をしています。ブルキナファソでは学生がいる家には庭に黒板がおいてあるところが多く夜は静かで涼しい屋外で勉強をするようです。日本では学生は自分の部屋がありエアコンやパソコンその他いろいろな電気製品をそろえて至れり尽くせりの環境ですがこの国ではなかなかその様には行きません。

家族が多いので個室はありませんし、電気製品や電気そのものが高価なのでよほど恵まれた家庭でもなければ日本のような環境では勉強することが出来ないのです。フィデルに聞いてみるとブルキナファソは仕事が少ないし給料が安いので、将来はアメリカやヨーロッパで仕事をしたい、そしてそこで結婚し暮らしたい。だからどんなに難しくても勉強するんだといつも言っています。確かに日本とは大きく違う社会環境の中で彼なりに考えたことなのでしょう。

この国の多くの人達はヨーロッパやアメリカ、日本などの先進国への憧れは強く、私もフィデルに日本人ということでいろいろと日本の様子などを聞かれます。「ブルキナファソは7階建ての建物があるけど日本はもっと大きな建物があるのか?」、とか「東京にはこの国の人口と同じくらいの人が暮らしているそうだね?」、「日本には何処の村にも学校や病院があるの?」、など日本では殆ど話にならないことも聞かれます、私は、日本は確かにいろいろ便利な物がたくさんあるけど、その便利な物を買ったり使ったりするにはお金が必要で、この国の人の何倍もお金を持っていないと普通の生活が出来ない。

そのために日本では人々が子供のときから競争して勉強をし、働くようになってもそれは変わらない。その競争に負けることは、日本ではとても不自由な生活に繋がり、それはブルキナファソで生活をするよりも過酷なことになってしまう。もしこの国の人が今すぐ日本に行って生活をしたなら殆どの人が1ヶ月も生活が出来ないかもしれない。なぜなら、例えばこの国の社会システムは何も無いところに山を築き、その山の頂点を目指して登って行くのに対し、日本の社会システムは高い所から篩いにかけられる様なものだと話します。

この国には61の言葉がありフランス語が公用語として使われていますが、小学校に行かないと勉強できませんので学校の無い村や、学校があってもお金がなく働いている子供も多く、この国では山どころか丘を築くのさえ難しいのが現状です。10歳から15歳の子供が楽しげに牛やヤギを追っている姿や街で卵や果物を売っている姿を見ると、この子達の夢はなんだろうとふと思ってしまいます。

日本の子供に将来の夢はと聞くとよく宇宙飛行士やパイロット、医者や教師などと言いますがブルキナファソの子供でそのような夢を語ることが出来る子供は大臣や医者の子供でもないといません。大体がどこかで働きたいとかサッカーの選手とか家族といつも一緒に暮らしたいとか、夢と現実との大きな開きがあるのを理解しているのか、それでも村の子供やワガドゥグで働いている子供は厳しい現実の中で元気に毎日暮らしています。

ある日フィデルが訪れ、明日友達の家で結婚式があるからイイダも一緒に行ってみないかというのでブルキナの結婚式を見ておくこともいいと思い誘いに乗ることにしました。翌日彼の友達と共に6人3台のバイクで30キロほど離れた村はボボデュラソに通じる国道沿いにあります。ワガドゥグの料金所を過ぎると景色は変わりアフリカのサバンナ地帯の自然が広がっていて、私は日本にいるときからバイクが好きで、よく友達と共にツーリングに出かけたものです。

私のバイクは中国製で50ccの普通の物ですがフィデルのバイクはフランスのプジョー製のバイクで、名前はなぜか「Ninjya忍者」、自転車にエンジンが付いている物でブルキナの人達にはとても人気があります。アフリカの大地の風を体中に感じ気分は爽快、皆で笑いながら私もつい尊敬する矢沢エーちゃんの「ルイジアナ~、テネシ~、シカゴ~、遥かブルキナファソまで~」と口ずさみながらいつの間にか気持ちは青春時代に戻り、3台のバイクは目的地にむかってアフリカの原野を貫く国道をひた走ります。

40分くらい走ったところに会場はあり、沢山人が集まっています。新郎新婦の顔も知らない私は何と無く部外者ではないのかと言う不安に駆られフィデルたちの後について家の中に入り、暫くして両親と思える人が来て私たちに何か話しかけています。このような場合、日本でも緊張して言葉が出ないのに、ましてブルキナファソの結婚式では何と言ったらよいのか解からずにただ笑顔を作るだけが精一杯でした。

その後広い庭に行くと運動会で使うテントが4~5張り並んでいる披露宴会場があり椅子に座るとフラッグと言うビールを貰いました。フィデルと仲間の青年達は上機嫌で、あっという間に飲み干すともう2本目を飲み終わろうとしています。イイダももっと飲め、と言われても日本の結婚式ではお祝いの金一封を持って行き飲み物や食べ物を戴きますが、ただで戴くのは気が引けますし、おまけに日本人は私一人なので何と無く目立っているし、浮いてしまっているようで来て失敗したと後悔していると横に座っているフィデルたちは3本4本とビールを腹に流し込んでいます。

「何でイイダは飲まないの?」、もう酔いが廻り始めているのかフィデルの声がだんだん大きくなっています。アトラクションのジェンベの演奏と踊りが始まり、青年達は水を得た魚のように踊りだし、何処から持ってきたのかPASTISと言う酒を飲んでいます。これがとても強い酒で飲み慣れない味なので少しずつ飲んでいると又注ぎ足され私も周りの雰囲気に釣られ陽気になってきました。

酔いも手伝い周りの雰囲気にも慣れて、どうやら私の心配は行き過ぎだったようです。ブルキナファソの人達はしきりにイイダも一緒に踊れと促し、仕方なく見様見真似で踊っていると皆が笑って拍手をしてくれ、いつの間にか自分も仲間に入れたという満足感でいっぱいです。1時間ほどするとクライマックスで新郎新婦が皆輪になった中でジェンベに合わせ踊り、どちらも幸せそのものの笑顔で輝いていてとても微笑ましいもので、ブルキナファソでも日本も同じだな、と感じました。

 さてフィデルはというと、まだPASTISのビンを抱え、顔を良く見ると目が少し内側によっているようにも見え、踊りながら飲むペースが速くなっています。踊っているのかよろけているのか。まもなく新郎新婦が空き缶の沢山付いた車に乗り込み新婚旅行に出発です。周りの人達もバイクや車やトラックの荷台に乗りワガドゥグの空港まで送りに行くようです。

道中は皆一斉にクラクションを鳴らし他の車の通行には一切注意を払いません。日本なら飲酒暴走行為そのもので途中には警察もいますが無視をしています。フィデルもバイクのクラクションを思い切り鳴らしながら、大きい口を顔いっぱいに広げて蛇行運転をしています。私はこれが良いのか悪いのかは別にして、いつしかブルキナファソの人達の大らかな雰囲気に飲み込まれ、日本にいたころいつも何事にも神経質になっていたことがうそのように思えてきました。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その17)

2016-01-07 | 奮闘記

NO.17[一人暮らし]

Sさんが日本へ旅立ち、いよいよ独りの生活になりました。

今まで何もかもSさんに頼っていた私にとって、これからのことを考えると何とも心細い心境になると同時に一日も早くこの国の生活に慣れなければいけない。そして駐在員としての職務を果たさなければならない。そして何のためにこの国に来たのか、自分で今出来ることは何か、言葉も出来ない私にとってこの国で生きていけるのだろうか。独りになって考えると今までの人生が小さく平面的なものであったかが悔やまれます。

日本にいるときは全て整った環境の中で物事を比較判断して来ましたし、頼る人もたくさんいてそれが当たり前の生活でもあり、自分で飛び込んだ世界がこんなにも深くそして大きな物とは思いもよらないことでした。それはブルキナファソの環境があまりにも日本のシチュエーションと違うことです。

税収が少ないためか公共施設は殆ど整備されてなく、道にはごみが到る所に捨てられ下水道も無く汚水が道に流れています、街には仕事が無く道端にごろごろと寝そべっている人や子供はもちろん物乞いをしている人達も多くいます。

同じように今日の日本も失業者が多く、ブルーシートやペーパーハウスでの生活を余儀なくされている人が多くいますが日本は仕事を選ばなければ何かあるし、それが無くても何らかの救済措置がありますがこちらでは全くありません。健康保険や生命保険 に入っている人は少なく、不慮の事故で身体障害になってしまうことは、日本とは比較出来ないほどの大きなハンデキャップとなってしまいます。

 何日か部屋にこもり色々と考えていましたが、ある朝考えていても何も始まらないと思い、まず自分で今出来ることは何か。それは近くのマルシェに行き野菜を買い食事を作ることです。いつも行きと帰りに出会う人に挨拶をしてマルシェの人と会話をするうちにだんだん外に出ることが億劫でなくなり、むしろ楽しみに思えるようになってきました。

近くの道路沿いでいつも5~6人の若い人達がお茶を飲んでいます。その中には事務所を借りている大家さんの息子フィデルがいました。フィデルはメディカルドクターを目指している学生で日本にもいるような音楽好きの青年で、フィデルがお茶を飲まないかというので思い切って若者の中に加わりお茶を御馳走してもらうことにしました。

こちらの人達が普段使う言葉はモシ族の言葉でモレ語と言って周りはモレ語が飛び交います。私には何を話しているのか一向に解からずただ周りの人が笑うと合わせて笑うという状況です。少しして村で飲んだチャパロ(ドロー)を思い出し、「ドロー セパボン」というとイイダはドローを知っているのかといいます。「ウィ ジュコネ ドロー」というと一人の青年が「500セファー出せば買って来てやる。」と言い出しました。

そこで私は酒もたまには人間関係を作る良い道具だと思い、思い切って1000セファーを出してこれで買ってくれと頼み、一時すると青年は4リッターのタンク2つを持って戻ってきました。内心こんなに沢山買えるのかと思う、と同時にこんなに飲んで大丈夫なのか少し心配になりましたが若者達の嬉しそうなしぐさを見て自分も何とか仲間になれたようで心が弾み、そしていよいよ宴会の始まりです。

カリバスと言うヒョウタンに似た器を皆で廻しながら少しずつ飲みます、酒は日本では少し強いほうでしたので、私は少しほろ酔い加減で日本には「イッキ」という飲み方があるといって飲み方を教えると若者達はもう止まりません、皆で「イッキ!イッキ!」と言いながら何度も繰り返すうちに8リッターのドローは瞬く間に無くなってしまいました。

気が付くと地べたに寝ているものもいれば隅のほうで「ゲーゲー」とやっている者もいます。「何だ?皆もう酔っ払ったのか、不甲斐無い奴らだ。」などと言いながら午前11時ころ事務所に歩いて行ったことまでは覚えていますが、それから先は全く白紙で気がつくと翌日の午前11時ごろで事務所のソファーで目が覚めました。

昨日の二日酔いで頭痛と気分が悪く水を飲み暫くするとフィデルが来てニコニコしながら私を見ると「イイダは酒が弱い。24時間寝てた。」などというので少しムッとして「ドロー セパボン」と言うとまたフィデルが大笑い、そのうちに大家さんの家族が来て昨日の話で持ちきりです。

すかさずフィデルの悪態「この次は何時イッキをやるの?」などと聞くので私はムムッとして「今日はしない。」と答えるのが精一杯でした。と同時に悪いことを教えてしまったと反省。

大家さんの家族を御紹介しますと、ムッシュ・バルコマはこの家の主で62歳、税務署を退職し現在運輸会社の重役です。働き者でほかに4箇所の貸家があり車はもちろんメルセデスで大きいお腹はいかにも主の貫禄があり、とても陽気で家族的な人柄です。

奥さんのマダムバルコマは56歳、良妻賢母を地で行っているような人でお金持ちの奥さんの割には派手さが無く、家の要として家事をする傍ら洋裁が得意でいろいろな人が服を作ってもらいに来ます。

長女のアンドレアは35歳、バス会社に勤務していてロズモンドという7歳の娘がいて、いつも仕事で忙しそうです。

次女のナターシャは御主人と10ヶ月になる娘のアンドリンと共に隣の国マリに住んでおり時々実家に戻り2ヶ月ほど過ごしていきます。やはり生まれたところは一番良いのでしょうか気さくな性格でいつも賑やかです。

三女のフランソワーズは26歳、家事手伝いで独身、料理が得意で時々ご馳走に預かります、真面目で堅実な人です。

四女のエステルは23歳独身、保健学校に通っており将来は看護婦を目指しています。とても明るく彼女の独特の笑い声は周りを明るくさせます。

長男のボリースは22歳、経理の専門学校に通い将来は銀行に勤務したいといっております。オーディオが好きでとても真面目で慎重派、しっかりものです。

そして末っ子のフィデル、20歳、メディカルスクールに通っていて将来は薬剤師志望、HIP・HOPが好きな日本にもいるような若者です。酒、タバコ、ガールフレンドと時々ダンスホールに行くなど青春を謳歌しています。

 もちろんこのように恵まれた家庭はブルキナファソでは少なく、ワガドゥグでは定職に就かず物売りや建設の日雇いで毎日を過ごすだけで精一杯な人たちがほとんどです。


次回をお楽しみに・・・・