19日は10月の定例デモ。大型台風の被害がまだまだ全国に広がり、地元の相模川やその支流も氾濫寸前だったけれど、ともかく皆無事に集合。いつもにまして18人のデモでした。
今月からはまた2時座間駅西口集合、2時半出発。沿道から励ましの声をいただいて、皆元気100倍。足腰の様子に気づかいながらもがんばりました。沿道でのチラシ配り、受け取ってもらえないことが続くとめげてくるけど「がんばって」の一言でまた復活。
ほぼ同時刻に国会議員会館前で行われた行動は2500人の参加。粘り強く訴え続けることで社会は変えられることを信じて。
申 し 入 れ 書
在日米陸軍司令官・米陸軍第一軍団前方司令部司令官 ビエット・ルオン少将様
陸上自衛隊座間駐屯地司令 尼子 将之様
陸上総隊司令部日米共同部長 野村 悟様
私たちは、座間市、相模原市とその周辺の市民です。私たちは、基地強化と戦争に反対して,2005年11月末より自主的に、主体的に、毎週水曜日にキャンプ座間正門前での座り込み、2006年4月から毎月第3土曜日にはデモを行い、申し入れを続けてきました。
初めに,台風で大きな被害を受けた方々に,お見舞い申し上げます。また日常の生活が取り戻せますようにお祈りします。
このところ,日本と韓国との間がぎくしゃくしています。それは「徴用工」や日本軍「慰安婦」の問題があるからだと考えられます。日本政府はすでに解決済みとしていますが,1990年代になって日本軍「慰安婦」だった方が自ら名乗り出て被害を訴えられました。性暴力を受けた方が自ら名乗り出るには,相当な決心と時間が必要だったと思われます。被害者の方のその後の半生を思うと胸が痛いです。
私は2001年に沖縄を始めて訪れたとき,南風原陸軍病院あった地下壕で,平和ガイドの方から,この暗い地下壕の中にも「慰安所」があり,チマチョゴリを着た若い女性の姿もあったとの証言があったと聞きました。その時の衝撃は忘れられません。戦争は人が人を殺しあうのですから,兵士は極限の精神状態にあると思われます。戦闘からしばし解放されたとき,性的快楽を求めたのだろうと想像されます。しかし,性暴力であることに変わりはありません。もう解決済みだなどと言わずに,国同士の関係においても,痛みを訴えている人の声に真摯に耳を澄ますことが当然のことだと思います。そこから解決への糸口に繋がっていくのではないでしょうか。
私たちが初めて座り込んだ時,「基地はどこにもいらない」というひざ掛けをしました。その思いは今も変わりません。今,デモの先頭の横断幕は「黙っていたら百年先も基地の町」です。「マルティン・ニーメラー」の言葉。「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから。 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから。 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから。 そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」ではないですが,声を上げられるうちに声を上げ続けます。武力による戦いではなく,話し合いにより解決する基地のない街をつくることを願っています。基地建設や軍備にお金をかけるのでなく,基地をひとつずつ,無くしていくことを考えませんか。基地や軍備は,他の国にとって脅威でしかありません。基地のない平和な世界を作ることを一緒に考えてみませんか。外交によって解決することを考えましょう。
お互いに相手を尊重しながら,対等な立場で,率直に話し合う。相手の言葉によく耳を澄まして真摯に話し合う。結論を急がず,互いの違いを理解できるように,丁寧に,時間をかけて,あきらめずに話し合う。何度も,回数を重ねて,労力を惜しまずに,話し合う。一致点を探して話し合う。 そして共に生きるにはどうしたらよいかを,一緒に知恵を絞り,考える。その先に,平和の実現があるのではないでしょうか。戦争や武力,武器は,生命や環境を守ることはできないと考えます。国同士の問題の解決は,軍事力ではなく,丁寧な息の長い話し合いによって解決をめざすべきだと考えています。私たちは,この街を、少しでも平和な街に近づけて,次の世代に渡したいと願っています。いつか,基地のない街になることを願います。世界中の人々が、互いの個性、違い、歴史を認め合い、尊重しあい、共に安心して暮らすことのできる平和を強く望みます。私たちは、これからも、あきらめることなく、基地強化に反対していきます。米軍再編に反対していきます。キャンプ座間を市民に返してください。基地のない平和な町を、私たちは望んでいます。
2019年10月19日
バスストップから基地ストップの会とデモ参加者一同