音楽は、ときに、不思議な力を放つことがある ... って、まえにも書いたことがあるような気がするけれど。
まっすぐ家に、帰りたくない夜。 というのは、どんな人にもあるものなのだろうか?
なんとなく、家にいたくない夜。 寄り道して帰りたい夜。 誰かに会いたい夜。
ううん、わからないけれど。
「あのバー」 には、そんな人たちが、ほの暗い灯かりに誘われるように、やって来てしまうのだろうか?
ああ。 そう。 わたしは、DJ ( ... なんてね)。 昼間、仕事をしながら、趣味で DJ などというものをやっている。
「あの店」 に集まってくる人のこころの渇きを癒すのが、「お酒」 や 「会話」、だとするなら、わたしの役目は、それらの効果を高める音楽をかけること。
もともとはロックが好きなのだが、ブルース、ゴスペルにドゥーワップ、ソウルに R&B, オールディーズなんかもかけちゃうし、ボサノヴァやレゲエ、スカにダブ、ファンクや AOR,八十年代ポップスからニュー・ウェイヴまで。 ときには、Eminem や Avril Lavigne をかけちゃうこともある。
ロック以外は、広く浅く ... という感じで、われながら節操がないな、と思ってしまうけれど。 お客さんが喜んでくれるのが、うれしいのだ。
レイヴ・パーティーで、がんがん曲をかけまくって、フロア中を踊らせてしまう ... そんな世界には、ほどとおい、わたしの DJ ライフ。 けれど、これでいいのだ。 わたしは、主役でなくていい。 わたしは、ただのひき立て役で、いいのだ。
ほぼ毎日のように飲みに来ているお客さんがいる。 ケイさんと呼んでおこうか。
近所に住んでいる三十二歳の男の人。 お酒はそれほど強くなくて、ただ、話をするのが好きなようだ。 あるいは、店主の人柄ゆえにであろうか。 店主に惚れこんで、お店に足繁く顔を出さずにはいられなくなったのかもしれない。
店員さんでもないのに、すっかり、お店のムード・メイカーとなっている。 ムード・メイカーというのは、和製英語なのかしら。 よき雰囲気づくり人、とでも言えばいい? とにかく、もはや、お店になくてはならない人だ。
ある晩のこと。
わたしが曲をかけるときは、直接リクエストしてくる人はほとんどいない。 たいてい、いつも、空気の流れや雰囲気をみて、その場その場で曲をかけていくことになっている。
女性のお客さんが多いときは、なんとなく、ポップスやボサノヴァなどのやわらかめのものをかけたりするし、渋めの男性がいるときは、ブルースをかけたりする。 あるいは、お客さんの話し声に耳を澄ませて、「David Bowie が好きだ」 なんて言っているのが聞こえてきたら、さりげなく ‘Space Oddity’ なんかをかけたりして。
けれど、その晩は、めずらしく、ケイさんがリクエストしてきた。 ‘Same Old Blues’ というブルースのスタンダード曲を。 なんとなく、聴きたい気分なのだと言う。 どうしたのだろう、と、一瞬、ケイさんの細い顔にそっと目をやった。 とてもやせている人なのだけど、いつもよりも、さらにやつれているような気がした。
とりあえず。 じゃあ、あとで、ころあいを見てかけるわね、なんて言って、他の曲をかけながら、‘Same Old Blues’ はいろいろな人がカヴァーしているので、だれのものをかけようかな、なんて考えていた。
そのうち、若い女性のお客さんが、お店の戸をカランと開けて、ひとりでやって来た。 どうやら、はじめての人のようだった。
若い女性がひとりで来ることなんて、あまりないお店なので、ちょっと気になってしまった。
どんな音楽が好きなのかしら。 近所の人かしら。 ああ、あんなカウンターのはしっこなんかにポツンと座っちゃって、そんなんじゃ、もろ 「わけありの女」 ぽいじゃない、だれか、席を変わってあげなよ ... なんてことを勝手に考えたりして ... 。
その女性は、だれに話しかけるわけでもなく、バーボンをちびりちびりと飲んでいた。
わたしは、その女性が、とてもきれいで、落ち着いた雰囲気のする人なので、なんとなく、Bryan Ferry とか Peter Gabriel などの、オトナの女うけしそうな(?)ものを選曲していた。
いまどきの R&B とかのほうがいいのかしら。 それとも、ジャズとかのほうがいいのかしら。 などと考えていたら。 その女性が、わたしのほうへ、そろりとやって来て、
「すみません、‘Same Old Blues’ っていう曲、ありますか?」 と訊ねてこられた。
まあ、なんという偶然。 ‘Same Old Blues’ を聴きたがっている人が、もうひとりあらわれるとは!
「ええ。 何枚か持って来ています。 ご希望のアーティストってありますか?」 驚きを抑えつつ、わたしは、訊ねかえした。
「希望のアーティスト? エリック・クラプトンしか知らないんですが」 女性がこたえた。
「スタンダード曲なので、いろいろな人が歌ってるんですよ。 フレディ・キングという人のものがいちばん有名かもしれません」
「そうなんですか。 エリック・クラプトンは、兄が好きなので、家に CD があって、よく聴いていたんです。 ‘Same Old Blues’ が入っているアルバムなんですけど。 大好きなんです」
「じゃあ、それ、あとでかけますね」
わたしがそうこたえると、その女性は、とてもうれしそうに、じぶんの席に戻っていった。
そうして、それまでかけていた曲が終わったあとに、ちょっとタメてから、満を持しての、‘Same Old Blues’ を。
女性のお客さんも満足そう。 ケイさんは、ちょっと意外な顔。 ほかのお客さんはうっとりと聴き惚れていた。
音楽ひとつで、空気が変わる、そんな瞬間。
‘Same Old Blues’ が終わってから、ケイさんが、つと寄って来て、「いまの、だれ?」 と訊いてきた。 わたしは、「エリック・クラプトン」 とこたえ、なぜ Clapton さんを選んだのか、いきさつを説明した。 ケイさんは、へえ~、と言って、例の女性に、話かけはじめた。
ケイさんが聞き出したところによると、その女性 ―― ミキさんという ―― は、わけあって、さいきん引っ越してきたばかりらしく、まだこの地域に友だちがいないのだという。 また、引っ込み思案のため、なかなか知り合いも作れないのだとか。 その夜は、お酒を飲むのと、音楽を聴くのが好きなので、思いきって、一人でやってきた、と。
「へえ~、それにしても、クラプトンが好きってのが意外だなあ。 おれ、クラプトンの ‘Same Old Blues’ は知らなかったよ。 でも、なかなかいいね」
ミキさんは、照れながらも、うれしそうに、笑っていた。 「でも、わたしは、ほかのヴァージョンを知らないんです。 さっき、DJ さんが、ナントカさんのがいちばん有名だって ... 」
「ああ、フレディ・キングかな。 フレディ・キングのもいいですよ、おすすめします」
そのうち、ミキさんは、ほかのお客さんとも話をしはじめて、結局、閉店までいらっしゃっていて。 帰るころには、すっかり意気投合した様子だった。
ああ、良かった良かった、なんて思っていたのだけど。
その日を境に、ケイさんがぷっつりとお店に来なくなった。
ミキさんは、はじめてやって来た日以来、三、四日にいっぺん、やって来ていた。 話し相手ができて、楽しそうに飲んでいたけれど、ケイさんがいないのが、やはり気がかりのようだった。
さいしょは、風邪でもひいたのかしら、くらいに思っていたのだけど、二週間近くあらわれないので、さすがにわたしも心配になってきた。
店主に訊ねてみると、なんと、なにか持病がとつぜん悪化して、入院しているのだという。
なんてことだ。 ぜんぜん知らなかった。
とりあえず、心配しているミキさんに入院している旨を教えてあげた。 ミキさんも、すっかりおどろいて、「どうしよう? お見舞いに行かきゃ?」 なんて言って。
「そうねえ、いろいろお世話になっているから、お見舞いくらい行かなくちゃね」
「わたしは、一回しか会ったことがないんですけど、あのとき、ケイさんに話しかけてもらえて、とってもうれしかったんです。 おかげでとてもたのしい夜を過ごせました。 こうして、このお店にまた来るようになったのは、ケイさんのおかげなんです」
「それと、‘Same Old Blues’ ね」 わたしは、すかさず言ってみた。
ミキさんは、あっと言って、笑った。 「たしかに、そうですね。 兄が、エリック・クラプトンが好きなおかげですね」
その数日後、わたしは、ミキさんといっしょに、ケイさんのお見舞いに行った。
病室に入って、すっかりやつれはてたケイさんを見て、はっと胸が締め付けられた。 ミキさんも、こころなしか、うっすらと目がうるんでいるように見えた。
でも、あえて、わたしたちからは、なんの病気なのか、とか、病状のことは訊かなかった。
気を紛らわせるように、それぞれ手土産を渡しだす。 わたしは、とりあえず本を、と思って、詩集を。 ディラン・トマスという人のもの。
ミキさんは、CD だった。 Eric Clapton ! ケイさんとミキさんがはじめて会ったとき、わたしがかけた ‘Same Old Blues’ が収録されているアルバムだった!
ケイさんは、力なくも、うれしそうに、笑ってそれを受けとった。
ミキさんたら、粋なプレゼントね、なんて思っていたら。
ケイさんが、ベッドの脇の棚の、一番下を開けてくれ、と言い出した。
ミキさんは、そのことばに従って、棚の戸を開けた。
「そのなかに CD があるでしょ」
「はい」
「それ、出して」
言われるまま、ミキさんは CD を取り出した。
見ると、Freddy King の CD だった。
ケイさんは、
「それ、ミキちゃんにあげようと思って、店で会った次の日に買ったんだよね。 ‘Same Old Blues’ が入ってるから。 で、そのまま店に持って行こうと思ってたら、急に身体がおかしくなりやがって。 でも渡しに行かなきゃ、店に行かなきゃって思って、CD をかかえたまま ... 、気がついたら、ここに運ばれた」
そう言って、照れくさそうにわらった。
‘Same Old Blues’ ! ―― ひとつの曲をめぐって、こころを通い合わせたふたりの、すてきな偶然、のようなものを、目の当たりにしたできごとであった。
... でも。 どう考えても、わたし、おじゃまむしだったわ、ね。
BGM:
Eric Clapton
‘When You Got a Good Friend’
(先ごろ発売された、Robert Johnson のカヴァーアルバムより)