今日は4月1日の川崎の小高庵で開催する茶会の道具組の為に亡き師匠の道具を先輩と一緒に取り合わせしてみた。
師匠が亡くなってから15年経ったが、残された膨大な量の茶道具は使われることもほとんどなく押し入れにしまわれっぱなしの状態になっていた。
今回はその道具を今後どのようにするのかを師匠のご家族と決めなめればならないのだが、家族の方もお茶はやらないと決めているのであっても場所を食うだけの存在になってしまっているという現実があった。
残された茶道具は師匠が若いころより60年以上かけて収集したもので正確な数は数えていないが300点はあると思う。茶釜、茶碗、茶杓、掛け軸など収納場所も相当なスペースを要する。
残された膨大な量の茶道具を前にして思うことは師匠あっての道具だということに尽きる。師匠が生きていたからこそ道具にも命が吹き込まれていたのだと改めて気つかされた。人間と人間をつなぐ媒介としての茶道具であったり、純粋な美術品としての茶道具であったり、見る角度によって価値は様々だが肝心の使いこなす人間がいないとなると道具に再び生命を吹き込むことは難しい。
このたびの茶会では残された弟子が師匠の追善を目的にして行うものだがやはり師匠がこの世にいないという寂しさがより一層感じられる一日になるだろう。
自分もこの世を去る時にはどこまで人の心に記憶や思い出を残して旅立つのであろうか。こんなにクラシックのCDや茶碗を残してばっかりでは残された家族はさぞ迷惑だろうしな~。少しは方付けをして断舎利を進めるしかないな。
どうせ残すなら現金にしてちょうだい!と言われるに決まっているしね!
写真は私が愛蔵している江戸千家流茶道の流祖である川上不白の赤楽茶碗です。(師匠の道具ではありません)