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7-9-1 フランソワ一世登場

2023-10-23 01:02:53 | 世界史


『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
9 カルバンとフランス・ルネサンス
1 フランソワ一世登場 

 一五一五年一月、フランスのバロワ王家では、二十歳のフランソワ一世が即位した。
 この王は、神聖ローマ皇帝カール五世、イギリス王ヘンリー八世とならんで、十六世紀前半のヨーロッパを代表する国王であり、ルネサンス時代らしいはなやかな人物である。
 フランソワ一世が王となるころまでに、フランスの王権は大貴族たちの勢力をおさえ、充実してきた国力を背景に、その余勢をかって十五世紀末からイタリアに進出しようとしていた。
 いわゆるイタリア戦争である。
 そしてフランソワ一世も即位後まもなく、イタリアに兵を入れ、九月、マリニャーノでスイス兵団を主体とするミラノ公の軍に大勝し、半島においてフランスは優勢となった。
 王はさらに野心をたくましくしたが、これはうまくいかなかった。
 一五一九年、フランソワ一世は神聖ローマ(ドイツ)帝国の帝位をめぐって、スペイン王でハプスブルク家のカルロス一世と争った。
 勝敗は、ドイツのいくらかの選帝侯たちによって決せられる。
 二人とも金にものをいわせようとしたが、この点ではドイツの大銀行家フッガー家とむすんだカルロスのほうが優勢であった。
 その結果、カルロスは神聖ローマ皇帝をかねてカール五世と称し、南アメリカにもおよぶスペイン領のほかに、オーストリア、ネーデルラント、その他のハブスブルク家領をあわてせ大帝国を成立させた。
 いまや包囲されたフランスは、このカールの勢威を打破するために決戦をいどむ。
 一五二一年から始まる戦争は、主として北イタリアを舞台としているので、イタリア戦争の継続であるが、同時にフランスのバロワ家対ハブスブルク家の戦いであった。
 そして一五二五年二月、フランソワ一世はパビアで大敗し、捕われの身となり、八月からスペインのマドリードに軟禁されてしまった。
 がっかりしたフランソワ一世は、一時は死にたいと考えるありさまだった。
 このとき王の姉にあたるマルグリート(一四九二~一五四九)は、みずからマドリードを訪問して弟をはげまし、またカール五世と和平交渉をしている。
 なお彼女の夫アランソン公は、このパビアで戦病死した。
 その後、彼女はナバール公アンリ・ダルブレと再婚し、学者や文人を保護するとともに、ボッカチオの『デカメロン』(『十日物語』)に似て、多くの話を集めた『エプタメロン』(『七日物語』)などを書き、フランス・ルネサンス史上に名をとどめることとなった。
 この作品も十日物語になる予定であったが、一五四七年フランソワ一世が死去し、気落ちした彼女はついに完成できなかったという。
 一五二六年、フランソワ一世は不利な条約をうけいれて自由になったが、王はこれを守るつもりはなかった。
 一五二七年戦いは再開されたが、フランスは勝てず、さらに一五三〇年代、四〇年代と戦いはつづいた。
 この間、フランソワ一世は、東からオーストリアをおびやかしている異教徒トルコと同盟さえしている。
 けっきょく、決定的な勝敗はつがず、フランスはハプスブルク家の地位をゆるがすことはできなかった。
 しかしハブスブルク家との戦いは、フランスに大きなものを与えた。
 ルネサンスの源(みなもと)イタリアに侵入したフランス人は、その進んだ文化におどろき、それが人的にも物的にも輸入されることとなったからである。
 こうしてフランソワ一世は、フランス・ルネサンスの王となった。
 イタリア遠征によって、ぜいたく品、書物、絵画、彫刻などが収集された。
 国王も、貴族、騎士たちもこれをきそい、またイタリアふうの建築や装飾や生活様式をまねた。
 イタリアからは美術家、工芸家たちがフランスを訪れ、そのなかには晩年のレオナルド・ダ・ビンチもいたのである。
 フランソワ王はミケランジェロをも招こうとしたが、これは成功しなかった。
 しかしフランスにきたほかの美術家たちは、王のためにフォンテヌブロー宮殿などを美しくかざった。
 彼らの指導下にルネサンス美術を学んだフランス人たちは、フォンテヌブロー派とよばれる一派をつくり、フランス・ルネサンス美術の中心となった。
 そしてこのフォンテヌブローをはじめブロワ、シャンポールなどの宮殿が、当時のルネサンス建築や室内装飾を代表している。
 一方、「大航海時代」にともなうフランス経済の発展が、そのルネサンスを裏づけていたが、フランスもこの時代にふさわしく十六世紀前半カナダ方面を探検した。
 「王はフランドルの金髪の女たちを、北国の美少女らを愛する……
 陽気で高らかな笑いは若人らの集いをゆすぶる。」
 王太子のときから満ちあふれるばかりの青春を謳歌し、「力と陽気さの絵すがた」かと思われ、「恋と狩りと戦いと生」とを愛し、「情婦の腕からぬけ出すと、その足で礼拝堂にはいる」ような一個のルネサンス人、輝かしく強く勇敢なフランソワ王であった。
 王はその美しい宮殿の壁に「女は気まぐれ」などと落書きしたりした。
 王は快楽を追いすぎたため、老いの影が早くから宿ったようであったが、だいたい頑健(がんけん)、牛飲馬食、快眠、精力的で、狩猟を一日もそれがなくてはすごせぬほど好み、また若年の日々に一命を落としそうになったこと二十度といわれるほど、勇敢であった。
 そして王はひとかどの伊達(だて)男で、豪奢(ごうしゃ)を愛し、その絹やビロードの衣服にはいつも金銀や高価な宝石類がちりばめられていた。
 「宮廷」――やがて十七世紀に西欧文化の中心となるフランスの宮廷は、中世をつうじてしだいに形をととのえ、フランソワ一世の時代にまず花開いた。
 「貴婦人がいない宮廷は、春のない一年、ばらの花がない夏にひとしい。」
 これまで田園の奥深く住んでいた貴婦人たちも、宮廷に登場する。
 廷臣(ていしん)たちの数も増加する。一方、宮廷生活は貴族たちにも出費をかけ、その勢力を弱めることになった。
 王は母ルイーズ・ド・サボワ(一四七六~一五三一)から当時の貴族として恥ずかしくない教育をうけ、また前述した聡明で教養がふかい姉マルクリートの感化のもとに成長した。
 そして組織だった学問こそなけれ、王はじつに多くのことを知っており、またそれらをいつでも、どこでも生かすことができた。

 王は戦争、文学、絵画、言語、地理、スポーツ、農業等々についてさまざまな知識をもって語り、人びとを驚かせた。
 貴族とは王国のすべての貴族の系譜を知っているかのように話し、軍人とは作戦、補給などについて論じ、学者とは哲学、文学、書物について語った。
 フランソワ王の食卓はまるで「ひとつの学校」のようであり、そこに詩人、学者、美術家などが同席していないことはめずらしかった。
 王はまた、従来のラテン語にかえて、公用語としてのフランス語の発達にも意をもちいた。




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