

それを防ぐには遺言を残すしかない。

朝8時から草刈りしていて気づいた。
そっか、10年目の記念日か。
錫婚式っていうのね。何も用意してなかった。
二人ともあちこち草刈りの仕上げ。
僕は昨日から境界の休耕田の草刈り。涼しくて助かった。
昨日今日と4時間でなんとか。400坪くらいか。
イノシシに荒らされまくりででこぼこ。やりにくいったらありゃしない。
夕方は本業。
夜は酔っ払い。
そろそろらっきょう、梅の収穫か。
やっと帰宅しました。
田舎の農家のお付き合い、集落のお付き合い、なかなか大変です。
やっと心温まるらくださんの映像などで、ささくれだった自分の心を静かに癒しております。
それではどなたさまも心穏やかな夜をお過ごしくださいませ。明日がよい一日でありますように。お休みなさい。
水曜日、3窯目の詰め込みなど。
昼近くになって、突然鼻血。ぼたぼたと。
鼻筋あたりをぶつけた記憶はないのだが。
チェンソーも少し使うので、メガネの上から保護メガネをしているので、鼻筋には結構圧がかかっているが、それも考えにくい。
取り合えず自室に帰って鼻を押さえていると間もなく止まった。
人生で2回目ほどの鼻血である。
午後、もう大丈夫だろうとそろそろと続き。異常なし、普通に酒も飲み、入浴して就寝。
深夜にどこか鼻を無意識に触ったのか再出血。これもまたすぐに止血。
起床後コーヒーを飲んでいたら、再びだらだらと出血。
今度はしつこくなかなか止まらない。
どうもいかん、ということでこいけに送ってもらって耳鼻科へ。
鼻腔の形状の関係で止まりにくい場所から出血していること、服用している薬のせいで止まりにくかったのだろう。焼くことはできないが、ゼリーみたいな止血剤を詰めていただいてなんとか止まった。
数日大人しくしていろとのことで、心臓の主治医にも聞くと血をサラサラにする薬を2日ほどやめてみてもよいとのことで、炭焼きは延期、ここ二日ほどは割と静かにしている。
今日はそろそろとチェンソーで薪を作ったりしてみたが、大きな出血はなかった。
普通の人ならば、病院へ行くほどもなくすぐ止まってなんでもない鼻血。
服用している薬のせいで、こういうときはちょっと面倒だ。
鼻血くらいならいいが、体内部だったら?
おそらく自分は体内の出血で終わるのだろうな。山の中で誰にも気づかれずに最後は鳥葬。苦笑。それはそれでいいかもしれない。
下の動画、8:00頃に一瞬この国の同行者らしき方々が写るが、この国の上層部の指導者の方々の真摯さ、そしてこの大統領を如何に尊敬しているかが垣間見られた。
最後まで見られた方は少ないかも知れないが。
しかしこの大統領の発言にも100パーセントは支持できないかも。
人類の生き方を変えることは大切だが、地球にとって人類の幸せなどは関係のないこと。むしろ1生物種に過ぎない人類こそが、地球の脅威となっているのだ。
明日は娘、孫たちが来襲。ひな祭り。血まみれのひな祭りにならないといいが。苦笑
ざわざわすることが続く新年。
一昨日は集落の総会新年会。
昨日は隣人の葬儀にこいけと出席。お花も一輪もない、僕ら以外は故人の妹のみ。
集落からは、妹さんからの強い拒否の要望もあり、一人の参列者もなかった。
同じくらいの年回りの兄妹、経済的にも貧しく、公費の保護を受けていたようだが集落からは長く差別を受けてきたのだろうと思う。僕らも会えば普通に会話したり、車でバス停まで送ったりくらいはしていたが、どちらかと言えばやはり差別する側の人間だった。
言葉を尽くせば長くなりいつまでも書けない。
その彼が徐々に腎臓や足などに病を抱え弱ってきていることは明らかだった。この二週間ばかりの間に5回も救急車を呼び、その都度僕らもひやひやした。
両脇を抱えられながらも歩いて救急車に乗る姿も見ていた。昼間は駆けつけたりもしたが、まさか亡くなるほどとは正直思っていなく、最後の晩も風呂(外)から部屋までが上がれないとの妹さんからの要請を僕らは結果的に断ってしまった。
そしてその後彼は救急車内で亡くなったようだ。その日は初窯を朝から焼いていて、200mほど離れた彼の家から、彼の声が聞こえたりしていて、むしろあれだけ声が出れば大丈夫くらいに思っていた。
そのことを彼女は隠したかったのだろうが、救急病院から地元のお寺さんとの付き合いの深い葬儀社に運ばれたそうで、そういうことは田舎はインターネットよりも早く伝わるようだ。
救急搬送から二日間そのことを知らなかった隣の僕らが、救急搬送は都度知らない同じ班の長老から知らされた。
僕は実はこの集落では葬式の組には(大変そうなので)お願いして入っていない。
葬儀はプライベートなものだと思っている。
ここは数十年前までは土葬で、墓穴を掘る役人(やくびと)の習慣が今でも回りべんたである。昔の薪代代わりに出棺の朝同じ組の人がわざわざ1000円ほど持ってその家に集まるという習慣も残っている。
古い習慣だと思ってはいても、昔自分の親がそうやってお世話になったのに、自分のところからその習慣をやめるわけにはいかないということだ。ということでいつまでも終わらない。
彼の親が亡くなった数十年前、おそらくその頃も経済的に貧しかったために、十分なお返しができなかったこともあったのだろう、また兄妹も口下手で、ある長老から「お前の親の葬儀で集落に迷惑をかけた」と兄が以前言われたらしく、それは彼らを深く傷つけており・・・・長老からの「周囲の手伝いのお願いはないのか」といういきなりの不躾な申し出に、普段大人しい妹が毅然と断ったのだった。
幸いに近所のお坊さんが火葬の後、お寺に遺骨を安置してもらえることを区長を通じて新年会で知り、一安心すると共に、葬式の組としては何もしないとの暗黙の合議がなされたことも知った。
翌日の火葬されるという朝、僕らはすでに家を出ていた妹に電話、参列の許可をもらい、葬儀場に向かった。本当に僕らと妹だけだった。お坊さんの読経で出棺し、火葬場への同行も許されて、彼の骨も3人で拾った。
100kgくらいあっただろう彼は一時間以上かかって骨壺に納まった。60歳。
亡くなる二日前ほど病院から帰宅した彼らをわずかな距離、車で送ったのが最後となってしまった。あっけない。切ない想い。体調も悪くなりせきも出てきた。
が、明日は何か月も前から予約していた数年ぶりの群馬湯檜曽温泉行。
帰りに富岡方面にもできれば寄ってこられればと予定している。
往復500km、僕の長距離運転もいつまでもは無理だろう。健常な人のようでいて、驚くほど行動半径が狭い自分。外国などは一生無理だろうが、こいけにもたまには楽させないと。お互いに生きているうちに。
順調に推移したが、一昨日窯出しで(長老と立ち話している間に)発火してしまい、おじゃんになった初窯。
あぁもう9日。いのしし年です。ぶひ。
年末年始はずっと穏やかな晴天が続いている。例年通り3日かけて作ったおせちを4日くらいかけて食べて。僕は6品。こいけはもちつき、松前漬け、柿なますなど。
2019年はまず切り干し大根を切って干すことからスタート。
手前だが、おせちって悪酔いしない。元旦だけは神社にお参りしたあと、昼前からこいけとおせちで日本酒を飲むのだけど、夕方までうとうとしたり、年賀状をながめたり、テレビを見たりで結局ほぼ一升あけることができた。神様などにあげているから全て飲んだわけではないけれど。
昨年一昨年と大体8合くらい止まりだったので、まぁ良かった。どこが?苦笑
そうした穏やかなスタートでありながら、年末から心の一部はざわざわしている。
長くなるので詳しくは書けないのだけど、親戚の訃報の話だ。
昨年は、実は伯父、伯母夫妻、別の叔父(全て母方)がお亡くなりになったそうなのだが、どの訃報も自分にはオンタイムで伝わらなかった。両親がまだなんとか健在だから、両親の考えもあって甥っ子である僕には伝えなかったのもあるが、両親にも知らされていない事実もあって、色々考えてしまった。
知らないから従妹に年賀状を出してしまったり。何十年も賀状の交換さえしていなかった従妹から喪中欠礼の葉書が来たり。
兄弟姉妹であっても、配偶者の訃報を気遣いで知らせなかったりすることもあるのかな。こちらも当事者には電話したりできないので、この無作法をどう取り戻すかなどと飲みながら考えてもどうしようもない。確かめようがない。
従妹くらいになると、親しくしてきた人以外は親の代の関係が終わっていくと、縁が切れていくものなのだろうか。
さて・・・・
長らく炬燵を温めていたが、重い、本当に重い腰を上げて一昨日昨日と作業始め。
久々の孟宗竹林。昨年タケノコの時期の前に切り倒したままの竹を運び出し、火燃し。
二日目の昨日は、風はほとんどなかったが、火が大きいのと、乾燥が続いていることから、昼休憩にも帰らず、(おにぎりを持ってきてもらって)午後3時ごろまでかかってやっと運び出した。腰が・・・・
やはり胸騒ぎな腰つきのいのしし年。きっと大変だよ。
52円の官製はがきで賀状の返事を出してしまった。恥ずかし。
公開は1971年とのことだが、あまり記憶がない。
高校の頃1976年頃、多分TVで放映され、わが高校ではトレーシーハイド旋風が吹き荒れた。マークレスターの端正な顔立ちにも好感を覚えたが、それにしてもトレーシーハイドの可愛さと言ったら。
ビージーズはすでに有名になっており、この頃はサタデーナイトフィーバーの大ヒットで全米チャートの上位を数曲独占するような時代であった。
個人的には僕はビージーズにはディスコブームには乗って欲しくなかったけどね。
本来はこういうのが僕は好きだった。
とかなんとか千葉駅前で映画は、中間テストの帰りかなんかに見たんだけどね。
あれから40年。
溝堀り直し、竹燃やしなど。
だらだらになった溝。
after
こんなことやっているうちに、僕はもう落葉の頃。
アレクサ、青春を返してくれ。苦笑