農道を通ってゆく車に一怒一憂。
相手(との関係性)によっては、その”怒”が半日も続いてしまう。その間に次のも来るわな。無理矢理共感を求められるこいけにも、いい迷惑である。
周囲に未だ受け入れられていない、いてもいなくてもいいという存在だという気持ちが、自己肯定感をじわじわと下げている。漬け物石のように。
また、小学生の頃からの長い受験生活で身につけてきてしまった強迫的完璧主義、白か黒か、敵か味方かの考え方もあるのだろう。
その結果、(父と同じように)多分わずかにある僕の中のアスペルガー的部分(過敏さ)や認知のゆがみ、強迫的な部分などが増幅されているのだろうと思う。
でも・・・受け入れて欲しかった一番の相手、(できる範囲で)無条件に愛し、そしてそれを言葉にして、ソフトにコントロールせず色々な自分を受け入れ、その可能性を育てて欲しかった一番の相手は、やはり親だったのだろうと思う。
今自分の心に聞いてみる。
「お前は本当に親にどんな自分でも受け入れて欲しかったのか」と。
すぐさまそれはイエスではない。表面の意識では単に「冷たくて嫌いな人たち」である。
しかし、そのうんと下には、恐らく幼い自分がいまだに泣きながら隠れていることを認めねばなるまい。いい年をして恥ずかしいが。
この年になって、その両親がそのような能力のない人たちだったとわかっても、折に触れ、古傷のようにうずくのである。あんなに自分を殺して頑張ったのに!と。
そして、自分の生きてきた徒労の道を想う。
早く夢に向かって飛び出したいものだ。