角川文庫 宮部みゆき『おそろし 三島屋変調百物語事始』を読了しました。
あらすじと感想をざっくりと備忘録として書きます。
※ネタばれがありますのでご注意ください。
※文中の敬称は省略させていただきます。
※ネタばれがありますのでご注意ください。
※文中の敬称は省略させていただきます。
【目次】
第一話 曼珠沙華
第二話 凶宅
第三話 邪恋
第四話 魔鏡
第五話 家鳴り
解説 縄田一男
【あらすじ】
17歳のおちかは、ある事件を境に、ぴたりと他人に心を閉ざした。ふさぎ込む日々を、叔父夫婦が江戸で営む袋物屋「三島屋」に身を寄せ、黙々と働くことでやり過ごしている。
ある日、叔父の伊兵衛はおちかに、これから訪ねてくるという客の応対を任せると告げ、出かけてしまう。座敷で客と応対をするおちか。そこでおちかが聴くことになったのは、世にも奇妙な話だった。
【感想】
江戸は神田三島町にある袋物屋三島屋の主 伊兵衛が、自分の長兄の娘を訳ありで預かることからこの物語は始まる。ある考えから伊兵衛は座敷を「黒白の間」と称し、おちかにここで江戸中から集まってくる人々の不思議話を拝聴するという、一風変わった仕事?を任せる。
「曼珠沙華」、「凶宅」、「邪恋」、「魔鏡」と続き、やがて最後の「家鳴り」でおちかは、ようやく恐ろしく残酷な自身の体験と心の傷に向き合うことになる。この百物語のような趣向こそが、おちかの残酷で恐ろしい経験への理解と決別させるためのものだった。
今でいうところの、自助グループの少人数版のようなものだろうか?
「辛いのは自分だけではない」そう伊兵衛はおちかに、客が語る不思議話からわかって欲しかったのだろう。そして、闇の水底に沈んだままのおちかに、そこから自分で浮上していって欲しかったのだと。甘やかすのでもなく、放置するのでもない、見守るという器の大きい愛の形だと思った。
このお話は結局のところ、一番怖いのは人であるということに落ち着いてしまう。それさえも、自分も含めてなのだということに気づかされる。決して、他人事ではないという。
因縁やら亡者やらおどろおどろしい感はあるが、人は肉体の中に魂や感情をもつ生き物であるということが、全ての発端なのではないかと思わざるを得ない。
最後のくだりは予想どおりの展開になり、ここまで引っ張ってきたのにあっさりと幕引きをしてしまったという印象。まぁ、無理にくどくどと理屈で説明などをしなかったのはいいと思うが。
宮部みゆきご本人も、「やさしい怪談」でなければ理解してもらえないのだろうか?というようなことをおっしゃっておられたようだ。この「やさしい」は「優しい」ではなくて、「易しい」という意味だろう、おそらく。
>土蔵の中に潜んでいるのは、さして手強いものではございません。
籐兵衛はそう言っていたのではなかったか。
とうに名前を忘れ、亡者の形さえ失った、ただの未練の塊だ。
そして、櫃のなかは空っぽだ。
天啓のように、おちかは悟った。そうだ、空だ。空であることが、この屋敷の主の話なのである。
このくだりを読んで、すとん。。と腑に落ちたような気がした。「空」、「空っぽ」、「未練」。たったそれだけのことだったということ。
作品中に出てくる不思議話と同様に、妙な、でも決して不快ではない読後感が残った。
「曼珠沙華」、「凶宅」、「邪恋」、「魔鏡」と続き、やがて最後の「家鳴り」でおちかは、ようやく恐ろしく残酷な自身の体験と心の傷に向き合うことになる。この百物語のような趣向こそが、おちかの残酷で恐ろしい経験への理解と決別させるためのものだった。
今でいうところの、自助グループの少人数版のようなものだろうか?
「辛いのは自分だけではない」そう伊兵衛はおちかに、客が語る不思議話からわかって欲しかったのだろう。そして、闇の水底に沈んだままのおちかに、そこから自分で浮上していって欲しかったのだと。甘やかすのでもなく、放置するのでもない、見守るという器の大きい愛の形だと思った。
このお話は結局のところ、一番怖いのは人であるということに落ち着いてしまう。それさえも、自分も含めてなのだということに気づかされる。決して、他人事ではないという。
因縁やら亡者やらおどろおどろしい感はあるが、人は肉体の中に魂や感情をもつ生き物であるということが、全ての発端なのではないかと思わざるを得ない。
最後のくだりは予想どおりの展開になり、ここまで引っ張ってきたのにあっさりと幕引きをしてしまったという印象。まぁ、無理にくどくどと理屈で説明などをしなかったのはいいと思うが。
宮部みゆきご本人も、「やさしい怪談」でなければ理解してもらえないのだろうか?というようなことをおっしゃっておられたようだ。この「やさしい」は「優しい」ではなくて、「易しい」という意味だろう、おそらく。
>土蔵の中に潜んでいるのは、さして手強いものではございません。
籐兵衛はそう言っていたのではなかったか。
とうに名前を忘れ、亡者の形さえ失った、ただの未練の塊だ。
そして、櫃のなかは空っぽだ。
天啓のように、おちかは悟った。そうだ、空だ。空であることが、この屋敷の主の話なのである。
このくだりを読んで、すとん。。と腑に落ちたような気がした。「空」、「空っぽ」、「未練」。たったそれだけのことだったということ。
作品中に出てくる不思議話と同様に、妙な、でも決して不快ではない読後感が残った。