ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

同じ主(しゅ)にある兄弟姉妹

2014年03月21日 | 日記

 二月四日の午後は、結局出かけませんでした。
 お腹の調子が悪くては、外歩きは落ち着きません。

 部屋に一人で留守番するのは、旅行中ということを思えばもったいない気もするのですが、パソコンも聖書もあり、ネットはできなくても、写真の整理や書き物はできます。

 部屋にはコーヒーカップとソーサー、電気ポットもインスタントコーヒーもあります。吉原先生の奥様が日本茶のティーパックも下さいました。
 じつに、静謐な時間が約束されているのです。


                  

                  まず、お祈りをします。
 


  
 
                                        


 一人のフィリピン人の「兄弟」の写真を、ご紹介させてください。

 アバダン教会での礼拝の朝です。

 私たちは、まだ、会堂に入らず、庭や一階の駐車場のあたりで、ほかの人とあいさつを交わしていました。
 その時、遠くから足早にひとりの男性がS先生に近づいてきて、うれしそうに手を差し伸べました。先生もうれしそうに彼の肩をたたいて、再会を喜び合っていました。

 「この人はね。子供の時、日曜日ごとに、この山の向こうから礼拝にやってきてたんですよ。まだ、十一・二歳だった。親がいない孤児で、ここで食事をして帰って行く。毎週そうやって通ってきていたんですよ」

 彼の名前はブルーノさんと言います。村の名はラシンガン、「動物をかこっている柵」の意味だとか。とにかく僻地の中でも僻地だったのです。馬も通らないけわしい山道を六時間かけて越えてくるために朝早く出発してくるのです。帰りには、集落の人たちの買い物をして、生活の足しにしていたそうです。

 孤児だったブルーノ少年にとって、教会がどのような場所だったのか、その笑顔に現れていました。

 S先生を見る彼の目は、十歳の少年の純真さそのものでした。
 いえ、そこで初めて、彼が知った歓びの光だったのでしょう。

 ブルーノさんは教会に来て、自分が孤児ではないことを「知った」だけでなく、生活の方便まで手に入れたのです。
 

 
 S牧師は、彼に神様の愛を教えたのです。そうして、神様は彼をたくましく成長していく少年として導かれたのです。
 

 同じ主(神様)にある兄弟姉妹として、彼は私にとって忘れがたい一人です。 






 

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