ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

ベン・バランさんのこと

2014年03月22日 | 日記

 二月四日に出かけられなくて、残念だったこともあります。
 それは、ベン・バランさん一家に会えなかったことです。

 べん・バランさんのことは、ずいぶん以前にS先生の著述で知っていました。
 生き埋め事故で一週間意識不明、目覚めたものの長いこと全身がマヒし、言葉もなく寝たきりだった男性です。
 

 事故は一九八三年の秋、二〇〇〇メートルの山間での教会の建設中のことでした。
 ベンさんがセメントに混ぜる砂利を集めていたとき、突然がけ崩れが起きたのです。

 すぐに近くの小さなクリニックに運ばれましたが、手の施しようがありません。
 先生たちは手分けししてお金の工面をし、マニラの大きな病院に移しましたが、酸欠だった間に脳が損傷して、回復の見込みはまったくないということでした。

 ベンさんには、当時奥さんと二人の子どもがいて、事故後まもなく、三人目の子どもも生まれたのです。
 しかし、まったく植物状態の夫に絶望した奥さんは、別の男性のところに走ってしまいます。
 ベンさんの世話は、あちこちの教会に集う信徒たちが手分けしてすることになりました。

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 やがて、教会が彼のために小さな家を建て、信徒たちが入れ代わり立ち代わり付き添ったのです。

 三年目くらいから、ベンさんは少しずつ言葉を発するようになりました。
 また、天井から吊り下げてもらったひもをつかんで、上半身を起こす練習をし、声も大きくなり、感情も表せるようになりました。

 ベンさんを捨てた奥さんはその後、山で薪を集めていて木が倒れてきて亡くなりました。ベンさんの三人の子どものうちの一人の男の子も事故で亡くなっています。

 ベンさんは悲しい知らせを聞くたびに、聖書の言葉で答えました。

「主(しゅ)は与え、主は取られる。主の御名(みな)はほむべきかな。」(旧約聖書ヨブ記1章21節)

 東の国の長者ヨブが。十人の子どもたち全員と財産とを、一瞬にして失った時、発した言葉です。


 二〇年近くも経ったころ、ベンさんは車いすに乗って働き始めたのです。

 その様子を、S先生の文章からお借りします。

 ごった返す人ごみの真ん中に割り込んで乗客を載せ、それぞれの目的地に向かう乗合の車に、乗客を呼び込む仕事です。喧騒を掻き分けて、車椅子を操り、人を呼び、車に案内し、運転手から何がしかの手間賃をもらうのです。わずかな収入ですが、これは彼の肉体と精神の健康の向上に、大きな力になったものと思います。でも聞いただけで、車にはねられはしないかと心配になったものです。
 またこのころから、彼は市役所と交渉し、古くて汚れがひどいとはいえ、かなり広い建物を借りて、障害者の交流会を立上げ、その会長として活躍を始めていました。障害者たちが沢山集まって、団欒したり、手作業をしたり、励ましになるように様々なことを考えるとともに、障害者の地位向上のためにも活動していました。町の職員が感心するほどの彼の姿に、驚くばかりでした。


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 二〇〇一年、S先生はお子さんの病気のためやむを得ず日本に帰国されたのですが、日本のS先生にビッグニュースが飛び込んできました。

 ベンさんが障害者交流会に来ていた女性と結婚したのです。お相手は、一九九〇年のバギオの大地震で片足を失った三〇歳年下の女性でした。

 まもなくベンさんと女性の間に、男の子が生まれました。それから二年ほどして、女の子にも恵まれました。




                     


 一度は、体の自由と家族を失ったベンさんは、なんと二十五年もの苦闘ののちに、ふたたび家族と新しい人生を手にしたのです。

 聖書の物語の中で、ヨブも苦しみの逡巡のはてに、ふたたび家族と財産を回復するのですが、ベンさんの人生はまるでヨブ記のようだと、私には思えるのです。


 今回、ベンさんは、奥さんと二人のお子さんを連れてS先生の講演先に会いに来られたのです。
 
 残念ながら、さとうは、対面の写真を見るだけになってしまいましたが、この壮絶な話を、みなさんにもお知らせしたく、記事にさせていただきました。






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