ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る 第2課(抜粋)2

2017年03月11日 | 聖書



   きょうは、東日本大震災から6年目です。
   震源地とは、ほど遠い東京の西の端にいて、
   あの日、どれほど怖かったかを思い出しています。

   夜十時頃まで停電していたので、寒さと暗さの中、一所懸命祈っていました。
   三陸で、何万人もの人が行方不明になっていると知ったのは、ラジオのニュースでした。

   何日も悲しく、何を見ても悲しかったのを思い出します。

   しかし、このような悲劇は、2011年に突然初めて起きたのではないですね。また、
   もう、金輪際起きないことでもないですね。
   亡くなる方と、生き残る方に条件や理由があるのでもないですね。

   生まれてきたことに、選択がないように、死もまた自由になりません。
   私たちは無能なのでしょうか。

   神さまは一体どこにおられるのでしょう。なにをしておられるのでしょう。

   聖書は、何と語っているのでしょう。
   
   


      

   さて、昨日に続いて、本や・野の草が出版を進めている

   「神の国――キリストの教えをやさしく語る」(佐々木正明著)の抜粋を、掲載させてください。
       

神の国・第2課
Ⅰ、神の国の始まり


 Ⅰ、A、神の自己表現
 Ⅰ、B、神に似せて作られた人間
 Ⅰ、C、神の愛の対象として造られた人間
 Ⅰ、D、善悪を選ぶ試み
 Ⅰ、E、人間の失敗
      

     


Ⅱ. 人間の反逆の結果

  もしも人間が、悪魔の誘惑(ゆうわく)に打ち勝って、神の戒(いましめ)めに従う選択をしていたならば、神の国の歴史は、随分(ずいぶん)変わっていたはずです。少なくてもこの世界は、悪魔の支配の下に陥(おちい)らずにすみました。人間の神への不服従(ふふくじゅう)は、悪魔への屈服(くっぷく)だけではなく、神への反逆(はんぎゃく)です。これが「罪(つみ)」と言われるものの根本です。
  これに対し、神のもうひとつの本質的な性質である、「絶対の聖(きよ)さ」が、当然の反応をしました。それは人間をご自分の前から追放(ついほう)する、つまり、交わりを拒絶することでした。絶対に聖(きよ)い神が、罪を犯した人間と交わりを続けることはあり得ないのです。その結果、いくつかの事が起こりました。


Ⅱ.A. 祝福(しゅくふく)の喪失(そうしつ) 

  罪を犯す前の人間の生活は、悲しみも苦痛もなく、何ひとつとして不足のない、満ち足りたものでした。自然は美しく、豊かな環境と実りを与えてくれました。しかし、神から追放された人間は、神の祝福の多くを失ってしまったのです。恵みに満ちていた自然は、荒々(あらあら)しくも猛々(たけだけ)しく豹変してしまいました。多くの微生物は、ありとあらゆる病を人間にもたらすようになりました。おだやかだった気候は荒れ狂って台風となり、いたるところに洪水をもたらす一方で、多くの地方では旱魃(かんばつ)を広めて砂漠化を進めています。地震は町々を破壊し津波を発生させて、多くの人命を奪い続けています。そのような中で、人間は悲しみと苦痛(くつう)にあえぎ、ひたいに汗を流し、争(あらそ)いながら、生きて行かなければならなくなったのです。(創世記3:15-18)


Ⅱ.B. 命(いのち)の喪失
  人間の命は、単なる生物学的な生命とは異なっています。神が、特別にご自分の命を吹き込んで、ご自分に似せてお造りになった「人間としての命」です。(創世記2:7) 
  ところが、命の源である神から追放されることによって、人間の命は、人間の命としてもっとも大切な機能(きのう)である、神との交流を失ってしまいました。
  神との交わりを失ってしまった人間は、他の何ものをもっても、心のうつろさを、埋(う)め合わせることができません。金、地位、名誉(めいよ)、権力(けんりょく)、性、家庭、親戚、芸術、その他あらゆる快楽も、人間を本当の意味で満足させることはできません。聖書はこの状態を「死」と定義(ていぎ)しています。
  キリストもまた、ただ動物的に生きているだけの人間を、「死人」と呼んでいます。(マタイ8:21) (私たちはこの死を「霊的な死」と呼んでいます)。  


  さらに、命の源(みなもと)である神から離れた人間は、生物学的な死をも避(さ)けられないものになってしまいました。(創世記3:19) それだけではなく、聖書が「第2の死」と呼ぶ、永遠の裁きとしての死までが、運命づけられてしまったのです。(黙示録20:11-15) 死は、人間が罪を犯す前に、あらかじめ与えられた警告だったのです。(創世記3:16-17)


Ⅱ.C. 道徳的無力・無感覚
  神に反逆して追放された人間は、霊的に死ぬことによって、道徳的には無力・無感覚(むかんかく)になってしまいました。エデンの園を離れた人間の、その後の歴史は、長男カインが弟アベルを殺した事件に始まって、あらゆる犯罪と闘争(とうそう)の歴史だったと言って、過言ではありません。
  それは21世紀に入った現在も変わっていません。人間は、この悪い状態を何とかしようと、できる限りの努力をしてきました。部分的には、それなりの効果を上げたことも事実ですが、全体的には、どうすることもできなかったというのが真実で、少しも良くなっていないばかりか、ますます悪化し続けているのです。
  現在も世界中の多数の人々が餓え、何億もの人々が差別(さべつ)に苦しみ、何千万の人々が戦争の犠牲(ぎせい)になろうとしているのです。(創世記4:1-15) 


Ⅱ.D. 宗教の始まり
  神から追放(ついほう)された人間は、神との交わりの喜びを失ってしまいました。失われたその喜びは、霊的な存在物として造られた人間の本質に関わる喜びで、他のどのような代用物でも満たすことができない喜びでした。
  そこで人間は、失われた神との交わりをなんとか回復しようと、空しい努力を重ねたのです。しかし、拒絶され追放された人間は、しだいに神の真実の姿を忘れ、おぼろげな記臆や、曖昧(あいまい)な理解に、頼(たよ)らざるを得なくなっていましたので、誤りだらけの神(かみ)観念(かんねん)ができあがり、目を覆(おお)うばかりに、はてしなく混乱した宗教が、たくさん生まれてきました。
  それでも人間は、神との交わりを失ってぽっかりと開いた心の空しさを、そのような宗教で埋め合わせようと、なおも悲しい努力を続けているのです。


Ⅱ.E. 悪魔の支配

  神の支配から追放(ついほう)された人間は、悪魔の支配の中に入れられてしまいました。人間に与えられたこの世界は、人間が悪魔の誘惑(ゆうわく)に負けたことによって、そのまま、人間もろとも、悪魔の支配の中に、組み込まれてしまったのです。
  悪魔は自然を用い、人間の道徳的無力さを利用し、死の恐怖(きょうふ)をちらつかせ、さらには宗教の混乱を武器に、人間を支配し、苦しめ、ますます神から遠ざけているのです。
  悪魔にとって最大の喜びは、神の愛の対象である人間に、できるだけ多くの苦しみをもたらすことによって、神を悲しませ、創造の目的を汚(けが)し、栄光に傷をつけることなのです。


  罪を犯してしまった人間を、神がご自分の前から追放されたのは、 神の聖さだけではなく、愛の性質のためでした。
  神の絶対の聖さは、汚(けが)れたたものが近づくと、それを焼き尽くさないではいないからです。それはちょうど燃えさかる火のようです。(ヘブル12:29) 燃えさかる火に飛び込んでくる虫は、一瞬のうちに焼き尽くされてしまうように、絶対に聖い神に罪あるものが近づくと、たちまち焼き滅(ほろ)ぼされてしまうのです。

  そこで神はその愛の性質のために、罪を犯した人間がご自分に近づいて滅んでしまわないように、ご自分の前から追放し、もどって来られないように、厳重な警戒を敷かれたのです。
  そのようにした上で、神は人間に救いの道を準備してくださったのです。(創世記3:23-24)