ことしのイースターは4月16日です。イースターは移動祝祭日なので、毎年日付が変わります。
復活祭という言葉には、クリスマスとはまた違った喜びがあります。
十字架にかけられて亡くなり、墓に葬られたキリストが、三日目によみがえるのです。
よみがえりは、蘇生ではありません。新しい命となって生まれることです。
わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
(ヨハネの福音書11章25節)。
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神の国
第3課
神の国の到来
Ⅰ. 到来(とうらい)の宣言と現れ
キリストの出現(しゅつげん)とその働きは、神の国の到来を告げるもので、悪魔とその配下の悪霊どもに支配されていたこの世界に、新しい時代の始まりを宣言するものでした。これはまた、長い期間にわたって、神がくり返しお与えになった、約束の成就(じょうじゅ)でもありました。救い主と神の国の出現は、さまざまな時と場所で、多くの人々を通してくり返し語られた預言の中心として、旧約聖書に記録されているのです。(旧約聖書とは、聖書全巻の中で、キリストが生まれる前、すなわち、BC 1500年からBC400年くらいにわたって、書かれた部分のことです)。
残念ながら、これらの預言も、聞いた人々の都合によって、一面だけが取り上げられたり、好みに合わせて歪曲されたりして、本当の意味が充分に伝わっていませんでした。そのために、キリストの出現によってもたらされた神の国は理解されず、キリスト本人までも誤解(ごかい)され、結果として、十字架の死を招くことになりました。ところが、これらのことはどれひとつとして、偶然に起こったのではなく、すべて、神のご計画の中にあったことであり、これもまた、旧約聖書に預言されていたことなのです。(ルカ24:13-47)
Ⅰ.A. キリストの誕生
キリストの誕生は、人間の歴史に対する神の直接介入(かいにゅう)でした。神は、悪魔に支配され痛みと苦しみの中に一生を過ごし、ついには永遠の死を迎えなければならない人間をあわれみ、何とかして救い出そうとしてくださいました。ところが、「絶対に聖(きよ)い」栄光の性質を持っておられる神は、たとえ人間を救うためであっても、汚(けが)れてしまった人間に簡単に近づくことはできません。神が汚れた人間に近づくと、燃え上がる火を近づけられた昆虫が、一瞬で焼き尽きるように滅(ほろ)んでしまうからです。神の聖さとは、汚れた人間にとって、それほど恐ろしいものなのです。
そこで神は、神ご自身の栄光を横に置いて、人間の姿を取り、人間の世界にお生まれになるという、いわば決定的(けっていてき)手段(しゅだん)、あるいは危機(きき)的手段をお取りになったのです。そうすることによって、神が直接ご自分で人を教え、人の救いを達成することができるからです。キリストは、天地を創造された神が「神としての栄光を」捨て、その権力と力も自ら否定(ひてい)して、人間と共に住むために、人間として生まれてくださった姿なのです。(ピリピ2:6-8、ヨハネ1:1-14、コロサイ1:15-17、ヘブル1:2-3)
人間が生まれるのは、無(む)から有(ゆう)に生まれ出ることであり、文字通り新しい命の誕生で、大変めでたいことです。そこでつい、キリストの誕生もめでたいことであると勘違いして、大々的にクリスマスを祝い、「イエスさま、お誕生日おめでとうございます」などと言ってしまいます。ところが、キリストの誕生は、キリストにとって決してめでたいことではなく、小さく、弱く、惨(みじ)めな、人間の姿になることだったのです。キリストは、ご自分がこの世界に生まれて来る前から、ずっと存在していたことを、はっきり主張(しゅちょう)なさいましたし、たんに生まれたのではなく、天から下って来たのであると、お教えになっています。(ヨハネ8:58、6:26-59、8:23)
もちろん、神がキリストとしてこの世に出現してくださるために、神の栄光を完全に失ってしまったのでも、永久に失ってしまったのでもありません。あくまでも人間を滅(ほろ)ぼさずに、人間と直接接触(せっしょく)するための、非常手段なのです。それほどまでに、神は、人間を心に留(と)め、愛してくださっていると言うことです。(ヨハネ3:16)
このように、神は、悪魔に支配されているこの世に直接介入し、悪魔の支配を打ち破る働きを進行させました。これに対して悪魔は、何としてでもキリストの働きを挫折(ざせつ)させようと、荒野(あらの)の試みで最大の努力をしましたが失敗に終わり、敗北が明白になりました。(マタイ4:1-11、ルカ4:1-13)
こうして、キリストの、神の国の到来(とうらい)の宣言にいたるのです。