ノアの小窓から

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神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る第2課(抜粋)5

2017年03月14日 | 聖書






  きょうは、神の国――キリストのおしえの中心をやさしく語る――
   第2課Ⅳ
を掲載します。
    罪の世から神に支配していただく「世」という、聖書のメッセージが佳境に入ってくるところです。

   「神の国」(天国)は、死んでから行く所であるだけではなく、今すぐ、入ることができる、
   その約束は、キリスト(救い主)が来られたことで実現する・・・。

    不思議な、素敵な、メッセージです。

    世の中の醜い、汚い面だけを見ていても、同時に、
    私たちは、いつでもひかり輝く平安の中にいるのだと
    わかったとき、私たちは生まれ変わることができる、そう語られます。
    そのための、神様(キリスト)の犠牲は、とても大きなものだったのですが、
    キリストは、私たちのいのちも営みも肯定的に見ることを、教えてくれます。

    訪問して下さって感謝です。


       
    

Ⅳ. キリストの生涯と神の国

  キリストは神の国の到来(とうらい)を宣言し、ご自分の働きは、神の国が現在ここに来ていることの証明であると、お教えになりました。キリストは神の国をもたらしてくださったのです。(マタイ4:17)


Ⅳ.A. 人々の期待
  国家が二つに分裂して、大きいほうが完全に滅ぼされてから、700年以上も神の国の出現、すなわち国家の再建を待ち望んでいたイスラエルに、キリストはお生まれになりました。
  その頃のイスラエル人は、ローマの圧政から国を解放して建て直す、力強い王を、「今や遅しと」待ちわびていたのです。
  当時のイスラエルにも、一応へロデという王がいましたが、純粋なイスラエル人ではない上に、ローマ帝国のあやつり人形にすぎず、民衆は彼を嫌って、他の王の出現を期待していました。

 ヘロデは、自分の王位に異常なまでに執着し、猜疑心(さいぎしん)にかられて自分の親族・妻子までも殺してしまった人間です。
  キリストがお生まれになった時にも、新しい王の誕生という情報に、自分の王位が危うくなるのを恐れ、生まれたばかりのキリストがいると思われた地方の、2才以下の赤児(あかご)を皆殺しにしてしまいました。

  キリストが30才になり、実際に教えを始め、数々(かずかず)の奇跡(きせき)を行われると、人々の期待はいやがうえにも膨(ふく)れあがり、もう、まさに爆発寸前というありさまでした。実際、人々はたびたびキリストを王として担(かつ)ぎ上げようとして、暴動(ぼうどう)にさえなりかけたのです。(ヨハネ6:15)


 Ⅳ.B. 人々の失望


  人々の期待がますます過熱するのを、目(ま)の当(あ)たりにしながら、キリストは王になることに関してまったく無関心で、もっぱら病人を治し、悪霊を追い出し、罪にとらわれていた人々を解放する働きに、専念しておられました。それこそが、その時キリストがもたらした、霊的な神の国、悪魔の支配を打ち破る、神の主権と力の現れだったのです。(マタイ12:24-28)
 
  キリストの態度は、過激な愛国者で、現世的(げんせてき)独立国家を望んでいた多くの人々には、優柔不断(ゆうじゅうふだん)でまどろっこしいものでした。そんなことから、いつしか、キリストに対する不信が芽生えていきました。 

  一方、宗教家や国家の指導者たちは、キリストを嫌っていました。民衆がキリストになぴいて行くことに対する妬(ねた)み。自分たちのひそかな罪と偽善(ぎぜん)が、キリストの鋭い教えに暴(あば)かれてしまう恐れと憎しみ。どうしてもキリストの教えに対抗できない腹立(はらだ)たしさ。
  さらには、キリストを王として担(かつ)ぎ出そうとする人々の暴動の可能性。それを弾圧するに違いない、ローマ帝国をなだめなければならない心配。これらが重なり合って、彼らはついにキリストを殺す陰謀(いんぼう)に走り、真夜中に祈っておられたキリストを捕(と)らえて、いつわりの裁判を開き、死刑の求刑をするのです。

  当時、植民地(しょくみんち)国家であるイスラエルの法廷は、死刑の宣告をすることが許されていなかったために、彼らは、キリストを宗主国のローマの官憲(かんけん)に手渡し、虚偽(きょぎ)の訴えをして死刑を求めたのです。
  憎いローマの官憲(かんけん)に手渡されてしまったキリストを見て、一般民衆のキリストに対する不満と不信は、たちまち頂点(ちょうてん)に達しました。こともあろうに、ローマを敵として戦う、勇ましい王として期待していたキリストが、いとも簡単に捕らえられ、弱々しく裁判にかけられ、口も開かずにいるのです。つい数日前までの人々の大きな期待は裏切(うらぎ)られ、まったくの失望に変わってしまいました


Ⅳ.C. キリストの死

  大きかった期待を裏切られた怒りは、そのまま、キリストにぶつけられました。この方こそ新しく王になられるのだと信じて、「一目でも見たい。一言でもお祝いの言葉をかけたい」と集まった群衆。椰子の葉を道に敷いて臨時の凱旋行進さえ演出し、胸躍らせ、歓呼して都に迎えた民衆は、一変して、キリストの死刑を要求したのです。
  誤って理解していた神の国への望みが、どんなに強力なものであったかがよく分かります。こうして、キリストは、死刑の中でももっとも重く残酷な、十字架刑に処(しょ)せられたのです。


Ⅳ.D. 神の国の再認識

  キリストは十字架の上で死に、墓に葬(ほうむ)られました。しかし、私たちが信じ崇(あが)めているキリストは、墓の中で朽(く)ちはてた人間ではありません。墓を打ち破って復活して下さった神の子です。キリストは3日目に甦(よみがえ)り、40日に及んで多くの人々の前に現れ、教えと働きの最後のしめくくりをした後、天に昇って行かれました。

  ここに至って、キリストと親しく生活を共にし、くわしく教えを学んだ弟子たちを中心に、神の国の新しい理解、正しい理解が生まれてきたのです。
  弟子たちも、一般の民衆と同じように、いや、それ以上に、キリストが王となり、ローマ帝国を打ち破って、繁栄の独立国家を再建して下さることを期待していました。ですから彼らにとって、キリストの死は、まさに、絶望だったのです。
  キリストの甦りはそんな弟子たちを狂喜させ、神の国の正しい理解を可能にしたのです。