良い名声は良い香油にまさり、
死の日は生まれる日にまさる。(伝道者の書7章1節)
祝宴の家に行くよりは、
喪中の家に行くほうがよい。
そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者が
それを心に留めるようになるからだ。(2節)
香油はお金を出せば買えますが、名声はお金では買えません。死体の腐臭を防ぐために振りかけられる香油は、お金があれば買えるのです。しかし、どれほど高価な香油も、彼が生前に築いた名声ほど彼を飾りません。まさに、「棺を蓋いて事定まる」のです。
死は、人生とは何かを考えさせられる絶好の機会です。だからこそ、心と足が重くなる喪中の家にこそ行くべきだと言うのです。
悲しみは笑いにまさる。
顔の曇りによって心は良くなる。(3節)
言葉の流れで、喪中の家つまり、悲しみの家に行くのは、笑うより勝るというのです。顔を曇らせるのは知恵を得ることなのでしょう。
知恵ある者の心は喪中の家に向き、
愚かな者の心は楽しみの家に向く。(4節)
知恵ある者の叱責を聞くのは、
愚かな者の歌を聞くのにまさる。(5節)
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愚かな者の笑いはなべの下のいばらがはじける音に似ている。
これもまた、むなしい。(6節)
「鍋の下のいばらがはじける音」は、今の人には想像がむずかしいですよね。さとうが結婚した相手はかなりのへき地に実家がありました。ガスの設備があっても、枯れ枝を燃やして燃料の足しにしていました。
炉の中に投げ込まれた枯れ枝や枯草は、簡単に火が付き、ぱちぱちと景気の良い音を立てて燃えますが、すぐに燃え尽きてしまいます。大きな薪をついでやらなければ、湯を温めることさえできないでしょう。
愚か者の笑いも同じです。ガハガハと大声で笑うけれど、少しも人の心を暖めません。
テレビのバラエティ番組なんかで、度を超えて笑っている芸人を見て、ふと、むなしくなる時がありますね。
しいたげは知恵ある者を愚かにし、
まいないは心を滅ぼす。(7節)
どんな知恵あるものも、しいたげを行うときは、愚かになっていることなのです。同時に、わいろをもらうことは、やはり知恵ある者の価値を滅ぼすと、伝道者は言います。
そうしてまた、繰り返されるのです。終わりは初めにまさると。
ことわざも言います。「終わり良ければすべてよし」
事の終わりは、その初めにまさり、
忍耐は、うぬぼれにまさる。(8節)
時にはうぬぼれなければやっていけないのが人間でしょうが、自我を殺して忍耐をするべきなのでしょうか。苛立つ時にも、忍耐をするべきでしょうか。
軽々しく心をいらだててはならない。
いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。(9節)
すぐに苛立つのは愚か者だとすれば、愚か者でない人など、めったにいないようにも思えるのですが。
頂点にいる王の立場は、じつはいら立ちを耐えることが多かったのかもしれません。