人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。(伝道者の書6章7節)
たしかに人は「食うために労苦する」のです。実際に、世の中の問題はすべてここから起きている、と多くの人は納得していると思います。
聖書には、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイの福音書4章4節) とあります。
荒野で40日40夜祈り断食されたイエスは空腹を覚えました。そこに悪魔が近づき、イエスに石を見せて、「あなたが神の子なら、この石をパンに変えてみなさい」と誘惑したのです。イエスは、この悪魔を退けて、「人はパンだけで生きるのではない」と言われたのです。
★★★★★
伝道者(ソロモン)は、国が全盛期の時代の王でした。もとより、彼自身は、飢えの恐れなど、全くなかったし、「口のために働く」必要もなかったでしょう。食欲はいつも満たされ、それも贅沢に満たされていたはずです。王の仕事は、時に疲れを覚えるものであるとしても、労働者のように、「これも生活のため、家族の糊口を満たすため。全く子供らときたら、食べ終わったとたん、何か食わせろと言うのだから・・」などと、思うことはなかったでしょう。
ソロモンの一日分の食糧は、上質の小麦粉30コル、小麦粉60コル。肥えた牛十頭、放牧の牛20頭、ひつじ百匹。そのほか、牡鹿、かもしか、のろ鹿、そして肥えた鳥であった。(1コルは約220リットル)。(Ⅰ列王記章22節~)と記されています。一人分の食糧にしては膨大すぎますが、これは、王には「王の食卓に連なる大勢の者たち(親族縁者、賓客、政府の高官、みつぎや謁見のためにやってくる外国からの客、時には功績に応じて選ばれる庶民など」がいて、その数は1000人にも上ったのです。
21世紀の日本にも同じような催しがあるようで、国会で問題となったりしています。
いずれにしても、首長が庶民を招待する宴会の起原は古そうです。さらに、ソロモンの宮廷では、それが毎日であったと言うのです。
もっとも、王の席は特別に仕立てられていて、王からは客の様子が見えても、客からは王は見えなかったようです。まして、客が馴れ馴れしく王に「密接する」ようなことはありませんでした。
また、その膨大な食料は、それぞれの地方の「守護たちが持ち回りで納めた」(同27の節)のですから、食料調達のためにソロモンが頭を痛める必要もなかったのです。
それでも、毎日毎日やって来て、食卓を食い荒らす人々の旺盛な食欲を見るにつけ、王は、うんざりすることが多かったのではないでしょうか。
いつも空腹に脅かされる「人の宿命の始まり」を、聖書は記しています。
これは、創世記で、アダムとエバが罪を犯して楽園を追放されたことが、原因です。
★★★★★
聖書によれば、人は、もともと完全な世界「エデンの園」に置かれたのです。そこは文字通り楽園でした。食べ物は豊富で、人は欲しい時に欲しいだけ、園にある実を食べてもよかったのです。また、「いのちの木の実の」を食べて、永遠に生きることができました。
「園の管理」という(多分に)ゆるーい仕事がありましたが、もっと大切な仕事は、神様と毎日、お話することでした。
禁じられているのは、園の中央にある「知恵の木の実」を取って食べてはならないということだけでした。「それを食べるとき、あなたはかならず死ぬ」と、神は仰せになったのです。
ある日、そこに、「そそのかす者――蛇の姿をした悪魔」が現れたのです。
そして、エバを誘惑して、知恵の実を食べさせるのです。エバが夫に与えたのでアダムも食べたのです。
創世記の楽園追放の物語は。膨大な聖書の最初の3章まで(5ページ分ほど)ですので、よろしければ、ぜひ一度お読みください。聖書は図書館にも置いてあると思います。また、キリスト教会にも来客用に備えています。もちろん、本屋さんやアマゾンでお求めになることもできます。
食べても食べてもすぐにお腹が空いて満足できないのは、楽園から追放された私たちの宿命であるこという聖書の物語に、さとうは納得するのですが。
確かに、すぐにお腹が空くのは、切ない宿命です。
「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と言いたいのは、やまやまですが・・。