ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

勤労感謝の日

2015年11月23日 | 日記




      きょうは祝日です。
      勤労感謝の日です。

      ウィキペデア
       https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A4%E5%8A%B4%E6%84%9F%E8%AC%9D%E3%81%AE%E6%97%A5



      もともとは、新嘗祭という、天皇が五穀の収穫をお祝いする日だったとか。
      由来は飛鳥時代、皇極天皇のみ代に遡るとのことです、
      日本は農業国ですから、
    
      新米を神にささげてお祝いする行事には、実感がともなったでしょうね。

      都会育ちの私は、本当の意味での「収穫の喜び」の経験はありません。
      「田を耕して、食べなければいけない」と、学ぶこともなかったのです。
      
      
      農業労働がどれほど厳しいかは、伝え聞くだけでした。
      娘時代、楽しく飛び回っている私に、母が言ったものです。

      「あなたみたいな人は、とても農家のお嫁さんになれないわね。農家のお嫁さんはね。
      暗いうちから起きて、まず田んぼに行って働き、ひと仕事してから朝ごはんのしたくをして、
      家族に食べさせ、また野良へ行くのよ。
      夜は夜で、遅くまで繕いをしたり、縄を綯(な)ったり籠を編んだり・・・。
      お米はね。八十八の手がかかっているから、お米と書くのよ」

      それで、お気楽な娘は思ったのです。
      「ああ、よくぞ都会に生まれた。サラリーマンの子どもでよかった!」


                



      お米が国家、個人の経済の基盤だったというのは、考えただけでも、たいへんですね。

      農業は大地が相手とはいえ、太陽の恵みと程よい雨が必要です。
      台風や洪水や日照りや冷害があれば、一年間の労苦が水の泡になるのです。

      もし、私が何か仕事をして、給与は、一年に一度ですと言われたらどうでしょう。
      毎日仕事をしながら、「給料もらえるかなあ」と心配すること間違いなし。


      でも、もちろん、いまの農家は違うのではないでしょうか。
      三十年も前に、田舎を走る列車の中で、隣に座った老人が話しておられたのです。

      「見てごらん。誰も田んぼに出ていないでしょう。昔は、この時期はみんな田んぼに出ていたよ」
       たしか田植えの頃だったでしょうか。
       機械化が普及した頃でした。
       最近では里山のお嫁さんも都会のお嫁さんも、ぜんぜん、違いがない!
       それどころか、
       農家のお嫁さんの方がきらきらしているかな!!

       
            
 
      


 

テロに思う

2015年11月20日 | 聖書




    パリの同時多発テロでは、多くのイスラム教徒も「テロ反対」の声を上げています。

    これは当然の事だろうと思います。
    彼らが、テロによって自分たちの神のために、どれほど胸を痛めているかは、
    信仰をもつものにとって、容易に想像がつきます。

    自分たちへの差別や偏見が増幅されることも迷惑でしょうが、
    
    テロ行為に、「神の名」が使われることこそ、痛みでしょう。

    
    「#NotInMyName」のプラカードやタグをつけての抗議が
       世界中で起きているのはうなづけます。
       http://matome.naver.jp/odai/2144780080625894001


     もし、日本●●同盟とか、キリスト△△共和国なんて名前で、世界中でテロが起こされただけでも、
     日本人とくくられる者、キリスト教徒の中に入る者は、

     どんな気持ちになるでしょう。


     もっとも、
     混乱と恐怖を巻き起こすのが、テロリストの狙いでしょう。
     人は、潜在的におびえるものです。
     事実、
     どんな、高価な政治ショーや楽しいエンターテイメントより、彼らに注目が集まったのです。
     
     






            

天に宝を

2015年11月19日 | 聖書


                            日本から訪問した私たちのためにフィリピンの人たちが整えて下さった食事 
    

 新約聖書の最初に、福音書が置かれています。
 マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の4つが置かれています。福音書(Good News)は、イエス・キリストの公生涯の書物です。
 きのうはここから、「たがいに赦しあう」ことについて、西九州教会牧師・佐々木正明師のエッセイを転載させていただきました。
 きょうも、もう一つ、掲載させていただきます。 タイトルは「天に宝を積む」です。
                                                
        小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの天の父は、
        喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
        持ち物を売って、施しなさい。自分のために、古くならない財布を造り、
        朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。
        そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることはありません。
        あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。
                                     (ルカの福音書12:32-34)



                                             西九州教会牧師  佐々木正明
 四つの福音書には同じ物語がくり返し語られています。ところが、よく読んでみると、少しずつ内容や書き方が違います。それぞれの著者が、異なった観点と強調点を持ちながら、記したためです。天に宝を蓄える話も、ルカはマタイとは異なったところを強調しています。(参照:マタイ6:19-21)
                                

1 神を父とした小さな群れ  


 イエス様は、私たちが誰であるかということから、話をお始めになりました。私たちはまず、小さな群れです。救いを受けたひとりひとりの個人ではなく、群れ、一塊の人々、共同体であることが強調されています。イエス様はひとりひとりが救われて、天国に行ければそれでよいとはお考えになりませんでした。救われた人々を集めて、ひとつの群れとなさったのです。

 クリスチャンは一人で生きるべきではなく、群れとして、互いに愛し合い助け合って生きるべきものなのです。その群れ、すなわち教会を作ることが、イエス様の使命だったのです。イエス様の救いの働きはこの教会を通して、伝えられて行くからです。小さな群れでしたが、聖霊が宿り、黄泉の力も打ち勝つことが出来ない群れなのです。(参照:マタイ16:18)

 そしてその群れは、神を父としていす。生まれながらに怒りの子、神の敵であった私たちは、ただただ神の一方的な愛と憐れみによって、養子縁組をさせられ、神の子供となったのです。(参照:エペソ2:1-5、ローマ8:14-16)



2 持ち物を売って施しなさい  


 イエス様は、私たちが何をすべきかをお教えになりました。持ち物を売って施しなさいとは、豊かな者は施しなさいというのでも、余裕があったら施しなさいというのでもなく、貧しい中で、蓄えもなく余分なものを持たない生活であっても、施しなさいということです。共に痛みを負い合いなさいということです。

 それが自分のために古くならない財布を持つことであり、天に宝を積み上げることだとおっしゃるのです。またこれは、単に所有物をもって施すというだけに止まらず、小さな者たちのために病院をおとずれ、刑務所を訪ねるというような配慮、時間と労力の施しも含まれます。(参照:マタイ25:32-46)

 クリスチャン同士は、兄弟愛によって助け合います。共に同じキリストの救いにあずかり、同じキリストの命に生かされ、永遠の住まいを分け合う者として、互いを大切にします。しかしその助け合いの心は、小さな群れの中だけに止まるものではありません。本当の愛は多くの隔ての壁を打ち破ります。そして具体的な行為を生み出すのです。


3 神の国を与えられるのだから  


 イエス様はさらに、なぜ施しをするのかということについて教え、私たちの基本的人生観を、確認するように仕向けておられます。私たちには神の国が与えられるのです。これは永遠の命を持つということです。私たちの人生はこの世の70年80年だけで終わるものではなく、永遠に生きるのです。この世だけを豊かに贅沢に生きたとしてもその後の永遠を、貧しく惨めに生きたのでは、実にもったいないことです。私たちは永遠に生きるのですから、永遠に生きる準備をするのです。
 
 貧しいものに施すのは、天に宝を積み上げること、天に貯金をすることなのです。そこにはインフレも、銀行の倒産もありません。この世界で貯めた財産は天に持っていくことは出来ません。しかしこの世界の貧しい者、小さな者に施した分は、天に蓄えられるのです。そして私たちの財産のあるところに、私たちの心もあるのです。わたしたちの、この世の財産、金や物質に捕らえられない生活は、この世に心を置かないことに始まるのです。たとえ、天に宝を積み上げるということが文字通りの事実ではなく、比喩であったとしても、神がすべてを公平に報いてくださるという、事実があるのです。




                        日本の教会の方々がフィリピンの子どもたちのために寄付して下さった文具







たがいに赦し合う

2015年11月18日 | 聖書


         そのとき、ペテロがみもとに来て言った。
         「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか。」
                                       ( マタイの福音書18:21~)



                                            西九州教会牧師  佐々木正明
 イエス様は「赦しなさい」と教えてくださいました。ただし、ただ赦すのではなく、主にあって赦すのです。それは自分が先に赦されていることを知って、その赦された喜びと感謝を持って、赦すということです。私たちは神様に赦され、永遠の命を頂きました。神は、私たちを赦すために、イエス様を十字架にさえつけてくださいました。ですから私たちも、たとえ自分が損をしても、犠牲を払っても赦すのです。


 人間は赦さないでいると、どんどん悪人となって行きます。私たちには神に似せて造られた性質があり、良心があります。赦さないでいると、その性質が痛み、良心が疼くのです。それをごまかすために、私たちは自分が受けた小さな損害を拡大したり、歪曲したり、うそを言ってまで、赦さないことを正当化するのです。そのようにしていると、そのうそさえ真実と思えてくるのです。


 韓国の人たちを見ていると、まさに、日本を赦せないだけでなく、赦さないと決心して、自分の国や国民が受けた被害をことさら大きく言い、事実を捻じ曲げ、うそを言い続けるだけではなく、それを信じているとしか思えなくなります。それが、国家というレベルで積極的に行われているために、多くの韓国人が日本人を愛することは難しくなっています。それでも韓国のクリスチャンたちは、イエス様の教えに従って、何とか日本を赦し、日本のために祈り、日本人を愛そうとしています。しかし、国家が率先して日本に対する憎しみを増幅させようとして、間違った情報を流して事実を捻じ曲げてきたために、韓国人クリスチャンの日本人に対する思いは複雑です。あるクリスチャン・グループが「日本人を赦さないで来た罪を悔い改めます」と発表したところ、韓国中から大変な反発を食らってしまいました。


 韓国と日本は、もっと仲良くやって行けそうなものですが、いつまでも赦そうとしないで、自分たちの被害を拡大して語ったり、事実を歪曲したりしていたのでは、日本人も、自分たちが犯した韓国に対する罪を、素直に認めて謝ることはできません。韓国に対しては、日本は戦後の賠償を行い、さまざまな支援活動をしてきました。それだけではなく、韓国を支配したときの日本は、経済的に破綻していた韓国に対して多大の援助をして、経済を立て直しました。多くのインフラを整備して、近代国家の礎を気づきました。でもそのようなことを知っている韓国人は一握りしかいません。韓国には、日本を赦さないで行かなければならない、内的事情があるのかもしれません。


 でも、自分たちの被害を拡大して主張するのは、何も韓国に限ったことではありません。日本人も原爆の被害を言い続けています。被害を受けたのは事実ですが、「何の罪もない何万の人々が死んだ」などと言うのはまったくの誤りで、認識不足です。当時の日本では、「一億総玉砕」というスローガンの下、少年少女たちまで軍事工場で働いていたのです。「何の罪もない」などとは言えないのです。原爆の被害を声高に叫びながら、自分たちの国が韓国を初めとする隣国に犯してきた犯罪については、ほとんど口をつぐんだままです。


 自分たちの被害を大げさに言い、自分が与えた損害を過小に評価するのは、歴史上ほとんどの国々がやってきたことです。40数年前、本土復帰運動が激しかった沖縄では、自分たちが大和の被害者だという認識が非常に強かったものです。そのために、何につけても、被害者であると言い募るのが沖縄の人たちの欠点でした。そこで牧師は、「沖縄の人が大人になるためには、自分の受けた被害だけを叫ぶのではなく、自分がどれほど加害者であったかも知らなければならない」と書いて、沖縄の牧師たちの総スカンを食らったものです。 赦さない結果は、赦せない人をいつまでも不幸にし、次々と新たな争いを作り出すことです。


 フィリピンという国は、期間こそ短かったものの、韓国と同じように日本の支配を受けた国です。しかし国民性の違いから、フィリピン人は日本から受けた被害をほとんど言いません。年配の人たちも過ぎ去ったことだと言って、日本人を責めません。戦後20年くらいまでは、日本を憎む声もまだ残っていましたが、30年後にはまったく聞かれなくなりました。かえって、日本が統治したことは、フィリピンにとって益となったという声が多く聞かれるほどでした。有名なバターンの死の行進にしても、記念日として大切にされているものの、それで、日本人の悪口を言う人を聴いたことがありません。かえって、そうしなければならなかった、日本軍の苦悩を理解してくれています。日本の戦後賠償についても、韓国人とは異なって、フィリピン人は結構良く知っています。そういうこともあって、フィリピン人と日本は友好関係にあります。その結果、両国は共に益を受けることができるのです。ただ、日本がフィリピンに損害を与えた事実は事実です。せめて、バターの死の行進について知っている日本人が、もう少し多くても良いと思うものです。


 日本人は、フィリピンだけではなく、台湾に対してもシンガポールに対しても、あるいはミャンマーに対しても、インドネシアに対しても、謝罪と感謝の気持ちを持たなければなりません。彼らは侵略者であった日本を赦してくださっているのです。その赦されている事実を軽んじて、感謝を忘れてはならないのです。


 国家間でも、赦さないでいることは益にはなりませんが、一人の人間としてみると、赦さないのは不幸の始まりです。でも、残念ながら、赦さないのではなく、赦せないことが多いのです。赦せるようになるためにはどうしたらよいのでしょう。


 自分が赦されていることを、しっかりと知り、常にその自覚を持ち続けていることです。神はキリストの死という犠牲を払ってまで、私たちを赦し、永遠の命を下さり、ご自分との交わりを回復してくださいました。その事実を常に思い起こし、感謝のうちに生きることです。そのような感謝が私たちのうちに満ち溢れているとき、私たちは赦すことができるのです。韓国のクリスチャンたちの多くは、日本を赦そうとしています。ありがたいことです。願わくは、その上に客観的に物事を見、公平に判断する冷静さをもってほしいと思います。すると、赦すことだけを考えるのではなく、赦されなければならないことも分かってくるのです。そして、すでに赦されていることに驚き、改めて感謝をすることができるのです。そうなると、慰安婦問題でいこじになっている日本人も、素直に謝ることができることでしょう。


 日本人は、国家として慰安婦を狩り集めたことはないと、保証を拒否しするだけではなく、慰安婦があったという事実までも認めない方向に向かいつつあります。韓国の人たちにとっては、一般民間人がやったか、国家の機関である軍ががやったかはあまり問題ではありません。いずれにしても日本人がやったのです。国家間の保証はすでに済んでいるかも知れませんが、被害にあった一人ひとりの保証はされず、謝罪もされず、人格も無視されたままなのです。

                                    (佐々木正明牧師のブログ「折々に想う」より)http://orioriniomou.seesaa.net/



                      
                                                       カット絵、さとうまさこ








敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい

2015年11月17日 | 聖書





          「目には目で、歯には歯で」と言われたのをあなたがたは聞いています。   (マタイの福音書5章38節)
          
          しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。

          あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。  (39節)


          「自分の隣人(となりびと)を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。 (43節)

          しかし、わたしはあなたがたに言います。

          自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 (44節)


   

         テロの犠牲者のためだけではなく、
                      テロリストのためにも、祈ろうではありませんか。