おでかけ大好き!ピースくん

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名護屋城跡陣跡めぐり・2-3(2020年2月)

2020年06月13日 | こんちゃんのお城めぐり
「歴史探訪の道」19 徳川家康・大野治長です😌
徳川家康(1542~1616)武蔵国江戸城主は小田原の戦い後秀吉の命令で江戸を本拠としたのですね😌
秀吉の命令がなければ今の東京はありえなかったのかもしれません😊
家康は1万5千人もの大軍を率いて名護屋に駐屯したそうです😊
本陣とは別に家臣団の陣屋もあったそうで、これは秀吉が警戒したためともいわれているそうです😌
大野治長(?~1615)お城の記述はありません😊
どこかの城主とゆう人ではなかったのでしょうか?😌
秀吉の馬廻として仕え、後秀頼の側近となるが家康暗殺容疑により下野国結城に追放されてしまったそうです😥
関ヶ原の戦い後再び秀頼に仕え豊臣家存続のため尽力したが果たせずに秀頼に殉死したそうです😢

名護屋城跡山里口にきました😊
山里丸は上下2つの曲輪からなっており山里口は上山里丸に通じる虎口の1つだったそうです😌
発掘調査で門礎石、石段、玉砂利敷が発見され防御面を配慮した複雑な出入口であることが明らかになったそうです😌
ステキな野面積みですね😊

「歴史探訪の道」8 名護屋城跡上山里丸茶室です😊
「歴史探訪の道」陣跡説明板で唯一の人物以外の説明板です😌
「名護屋城図」(屏風)の描写と一致する地点で国内初となる秀吉の茶室跡が発見されたそうです😊
発掘された状況と茶室開きに招かれた博多商人の日記の記述がほぼ一致しているそうです😌
それによると千利休の追い求めていた「侘び寂びの草庵茶室」が秀吉によって再現されていたそうです😌

「歴史探訪の道」20 名古屋経述・寺沢広高です😊
陣跡説明板はこれで最後です😌
名古屋経述(生没年未詳)肥前国名護屋領主は松浦党波多親の重臣としてこの名護屋一帯を支配していたそうです😊
居館のあった垣副城を大改造して築かれたのが秀吉の名護屋城なんだそうです😊
一領主にすぎなかった経述は波多氏とは別に陣屋を構えているとありましたが居館が秀吉のお城になってしまったので新しい居館を建てただけではないかと思うのですが😌
経述の妹広子は秀吉に仕え広沢局と呼ばれていたそうです😊
寺沢広高(1563~1633)肥前国唐津城主は秀吉の側近として仕え、肥前名護屋城の築城に加わっていたそうです😌
関ヶ原の戦いでは東軍に属しその戦功により肥後国天草郡も与えられました😊
唐津藩初代藩主でもあります😌
子の堅高は島原の乱の責任を問われその天草郡を没収されてしまいます😓
寺沢氏はこの2代で断絶してしまったそうです😢

「歴史探訪の道」陣跡説明板をすべてまわり今度は名護屋湾の対岸にやってきました😊
こちら側にも徳川家康別陣や伊達政宗など有名武将の陣跡があるのですが離れた場所だからか陣跡説明板などはありません😌
しかし1ヶ所だけ見学可能な陣跡がありますのでやってきました😊

ここは加藤嘉明陣跡です😊
加藤嘉明(1563~1631)伊予松前城主は水軍の将として750人の兵を率いて参陣しています😊
秀吉古参の武将であり「賤ヶ岳の七本槍」の一人なんですね😌

これは先程も話題にあがった「名護屋城図」(屏風)でしょうか😌
加藤嘉明陣跡はどのあたりに描かれているのでしょう😊

陣跡は海に突き出た半島の先端に位置しいかにも水軍の将といった場所らしいです😊
行ってみましょう😊

確かに海がすぐそばです😊
ここは高台なので見晴らしもいいですね😌
発掘調査の結果石垣を伴った曲輪跡と井戸跡が見つかったそうです😊
曲輪跡を平面的に表示して石垣の残存状況を露出展示しているそうです😌

林の中の1段低い場所で石垣の遺構のようなものも見れました😊

建物跡等は発見出来なかったようですがこの曲輪から海がよく見えます😊
見張り台とかあったのでしょうか😌

最後に見学可能な陣跡の徳川家康陣跡にきました😊
この看板の後ろの保育園も陣跡で南郭だったそうです😌

発掘調査で確認された割石を用いた石垣がこれでしょうか😌
隅櫓台跡のようです😊

ワタシがいる場所は発掘調査で堀跡や土橋が発見されたところでしょうか😌
こちらから行けるのは主郭のようです😊

上にあがってきました😊
ここにどんなお屋敷が建っていたのでしょう😌

竹ノ丸陣跡と呼ばれていたのですね😊

この他に北郭と東郭が配置されていたようです😊

竜泉寺に向かう道を挟んで北郭があったそうですので左側が北郭のようですね😌
この道も堀切みたいに見えました😊

これで名護屋城跡陣跡めぐりはおしまいです😌
名護屋城跡陣跡位置図に載っていた「歴史探訪の道」陣跡説明板と見学可能な陣跡を全てめぐることができました😊
陣跡説明板の内容はワタシが説明を読んでまとめたものですので不足があるかもしれません😌
説明板自体も新たな史実が発見されて違ってきているかもしれません😌
でもここ名護屋の地に豊臣秀吉と百六十余りの諸大名が集結していたことは間違いないのです😊
すごい歴史ですね😌
突如この地に巨大な都市が出現した時の事を想像しながら陣跡めぐりを終わりにしたいと思います😊
長々とお付き合い頂きありがとうございました😌
こんちゃんがお送りしました😌

名護屋城跡陣跡めぐり・2-2(2020年2月)

2020年06月13日 | こんちゃんのお城めぐり
それでは陣跡めぐりを再開します😊
北条氏盛陣跡です😌
丘陵頂部から中腹部一帯に石垣、石塁等で区画された曲輪や旗竿石などが残っているそうです😊
丘陵頂部とはもしかして先程の展望所の部分なのかもしれませんね😌

わかりづらいですが石塁でしょうか😊
旗竿石は見つけられませんでした😌

少し移動してきました😊
「歴史探訪の道」14 上杉景勝・直江兼続です😊
上杉景勝(1555~1623)越後国春日山城主は上杉謙信の甥です😊
武田勝頼や織田信長との戦いをしのぎ秀吉に臣従して越後を統一、120万石の大大名として会津に移り五大老の一人として活躍したそうです😌
しかし関ヶ原の戦い後は米沢に減封されてしまったそうです😓
直江兼続(1560~1619)越後国与板城主は上杉家の重臣として景勝に永く仕えた名将です😌
名護屋での陣屋も景勝の西隣に構えられていたそうです😊
後に景勝は減封されてしまいますが米沢城下の堤防構築、河川掘削などの開発を指揮したそうです😌
優秀な部下をもって景勝さんは幸せ者でしたね😊

この林の中が直江兼続陣跡のようです😌

こちらは上杉景勝陣跡です😊
道が続いているので行ってみましょう😊

曲輪のような所に着きました😊

よく見ると石塁のようなものがありました😌
もしかしたら陣跡の遺構かもしれませんね😊
ロマンを感じます😌

続いて「歴史探訪の道」15 九鬼嘉隆・細川忠興です😌
九鬼嘉隆(1542~1600)志摩国鳥羽城主は伊勢湾、紀伊水道、熊野灘一帯の海域を制していた水軍の有力武将だったのですね😌
信長の死後は秀吉に仕えて豊臣水軍の大将格として活躍したそうです😊
関ヶ原の戦いに敗れ子の守隆の助命が届く前に自害してしまったそうです😢
細川忠興(1563~1645)丹後国宮津城主は明智光秀の娘(後のガラシャ)を妻としていた人ですね😌
後に豊前国中津、小倉そして肥後国八代に移ったそうです😊
この時、子の忠利が肥後細川家の初代熊本藩主として熊本城に入っているのですね😌
水前寺成趣園で忠利公の銅像を見ました😌
また忠興は千利休の高弟でもあり古田織部、高山右近などと「七哲」の一人に数えられているそうです😌

真田昌幸陣跡はあの林の中みたいです😊

近くに「歴史探訪の道」16 蒲生氏郷・真田昌幸がありました😊
蒲生氏郷(1556~1595)会津国若松城主は織田信長に重んじられその娘を妻としているそうです😌
本能寺の変後は秀吉と結び、後に奥州の安定を図るためか武蔵国(徳川家康)と陸奥国(伊達政宗)の間に位置する会津国に移封されたそうです😊
茶人でもあり千利休の「七哲」の一人だったそうです😊
真田昌幸(1547~1611)信濃国上田城主は信之(信幸)と幸村(信繁)の父で、いずれも名護屋に出陣していたといわれ、その陣跡も推定されているそうです😊
信之は信濃国松代藩の初代藩主になったそうです😌
幸村は大坂の陣で徳川家康を相手に奮戦したことが有名ですよね😊
この陣跡が幸村の陣屋との説もあるそうです😊

波戸岬に続く道路沿いに陣跡がありました😊

九鬼嘉隆陣跡ですね😌
曲輪が道路で分断されているそうです😌

波戸岬地区の中央に位置し水軍の将の陣にしては内陸部にあるとなっています😌
確かにどうして海の近くではなかったのでしょうね😌
ここから出陣していったのでしょうか?😌

「歴史探訪の道」17 氏家行広・足利義昭
氏家行広(1546~1615)伊勢国桑名城主は美濃出身で初めは織田信長の子信孝に従っていたが本能寺の変後は秀吉に仕えて活躍したそうです😌
陣跡の発掘調査で20棟以上の掘立柱建物群などが発見され兵舎的な機能が推定されているそうです😌
足利義昭(1537~1597)は室町幕府最後の15代将軍ですね😌
兄の13代将軍義輝が松永久秀に襲われて自害した後織田信長の助力で幕府の再興を果たしたそうです😌
その信長と対立を深め挙兵したが敗れ室町幕府は滅んだそうです😢
以後毛利輝元、豊臣秀吉の援助を受けていたそうです😌
名護屋に在陣していたそうですがその時代はどのような立場だったのでしょう😌
不思議な感じがします😌

「歴史探訪の道」18 長束正家・富田知信です😊
長束正家(?~1600)近江国水口城主は織田信長の重臣である丹羽長秀に仕えていたそうです😌
長秀死去の後秀吉の家臣となり実務面で活躍した武将なんですね😊
石田三成とともに五奉行だったそうです😌
富田知信(?~1599)伊勢国津城主は一白ともいうそうです😌
織田信長に仕えていたが本能寺の変後は秀吉に属して、小牧長久手の戦いでは織田信雄との講和交渉に尽力したといわれているそうです😌

富田知信の陣跡と推定されている天神宮にきました😊
名護屋城跡陣跡位置図には富田信則陣跡と記されています😌
同一人物なのでしょうか?
昔の人は名前がいくつもあったりするのでこんがらがってしまいます😥
それとも親子?兄弟?だったりするのでしょうか?

遺構は道際鳥居脇にある旗竿石とあります😌
これですね😊

今はその中心区域に天神宮が鎮座しているのですね😌
お参りしてゆきましょう😌


ピースくんの息抜き(2020年2月)

2020年06月13日 | 佐賀におでかけ
ピースくんだよ😊
こんちゃんに付き合ってると藪の中ばっかりだからね😅
お天気いいし、せっかく玄海国定公園ってきれいな景色の所に来てるんだからちょっと休憩しようよ😌

ちょっと高めの三角点発見😊

古墳みたいな展望所だね😊
国民宿舎から北条氏盛陣跡に向かって遊歩道を歩いてきた所にあったよ😊

波戸岬や海がとってもきれい😊
やっぱり景色見ないとね😌

こんちゃん「ピース氏❗ワタシは陣跡めぐりにきているのです❗
さぁ陣跡めぐり再開しますよ❗😆」
ピースくん「はぁい😥」


名護屋城跡陣跡めぐり・2-1(2020年2月)

2020年06月13日 | こんちゃんのお城めぐり
こんにちはこんちゃんです😊
肥前名護屋城跡番外編陣跡めぐり第2弾をお送りしたいと思います😊
今回は波戸岬近くからスタートします😌
このあたりは玄海国定公園の一部になっています😊
それでは遊歩道を歩いてめぐってみましょう😌

ここは生駒親正(1526~1603)陣跡です😊
美濃国生まれで織田信長の家臣から豊臣秀吉に仕えたそうです😌
讃岐国17万石を領し高松城(玉藻城)丸亀城(亀山城)を築いた人です😊
高松城も丸亀城も1県スペシャルでお邪魔しましたねぇ😌
公園に伴う遊歩道があり土塁や石塁を見学することができるようです😊
さっそく行ってみましょう😊

主郭の周囲には高さ1~2mの土塁や石塁が巡り…とありました😌
奥に見えるのが石塁ではないでしょうか😊

こちらは土塁のように見えます😌

丘陵全体が陣跡と推定されているそうです😌
陣跡から海がよく見えました😊

佐竹義宣陣跡は生駒親正陣跡の隣になるようですが見学できないようです😌

半島の西の海に面した場所にきました😊
「歴史探訪の道」13 島津義弘・増田長盛です😊
島津義弘(1535~1619)大隅国栗野城主は言わずと知れた島津家の人です😊
鎌倉時代から続く武家の名門なんですね❗
増田長盛(1545~1615)近江国水口城主は五奉行の1人です😊
後の関ヶ原の戦いで西軍に属して所領没収を受け高野山に追放されてしまったそうです😢

島津義弘陣跡は曲輪や石垣跡が見学できるみたいです😊

この奥ですか😌
行きましょう❗

遊歩道沿いに説明板がありました😊
島津義弘は渡海し戦っていますが、子の忠恒はこの陣に滞在し日記に陣の中で蹴鞠や茶の湯を楽しんだことが記されているそうです😅
あまりのギャップに戸惑ってしまいます😓

波戸地区では最大規模の陣跡だけあって石垣もたくさん残っていました😌

これなどきれいに残っていて素晴らしいです😊

こちらは復元整備で積み直したのでしょうか😌
それともこんなにきれいに残っていたのでしょうか?😌

島津義弘の石碑がありました😊
違う面には井樋田陣阯と刻まれていました😌

この丘陵の岬の先端まで石塁がみられ当時の陣の面影を伝えているそうです😌
残念ながらそこまで見には行けませんでした😌

それでは次の陣跡へ向かって海岸沿いの遊歩道を行きましょう❗タッタッタッ🐾

海岸沿いの遊歩道はあまり利用されていないらしくなかなかアドベンチャーな遊歩道でした😅

国民宿舎近くに増田長盛陣跡がありました😊
道際駐車場から見える曲輪・石塁跡となっていましたがはっきりわかるものは見つけられませんでした😌

「歴史探訪の道」12 北条氏盛・生駒親正・佐竹義宣です😊
北条氏盛(1577~1608)河内国狭山藩主(江戸時代)
北条氏は北条早雲を初代とする有力な戦国大名です😌
小田原を本城とし関東地域を支配していましたが秀吉に敗れ北条氏の本流は断絶してしまったそうです😢
小田原城…懐かしいですね😌
なにを隠そうワタシのお城めぐり第1回が小田原城だったのです😊
江戸時代には四代氏政の弟氏規とその子氏盛が狭山を領地として藩を維持したそうです😌
名護屋にはこの親子が在陣していたのですね😌
生駒親正(1526~1603)讃岐国高松城主の陣跡は先程めぐりましたね😊
生駒親正は関ヶ原の戦いで敗れ山城国に隠退するとなっていますが陣跡の説明板では高野山で蟄居(謹慎)となっていました😌
どちらにしろ子の一正が徳川側であったため許されて高松に戻れているようです😊
佐竹義宣(1570~1633)常陸国水戸城主は伊達政宗とは従兄弟にあたるそうです😊
関ヶ原の戦いで石田三成らに味方をしたため後に出羽国へ改易となったそうです😌

この先が北条氏盛陣跡ですね😌
行ってみましょう😊