「歴史探訪の道」19 徳川家康・大野治長です😌
徳川家康(1542~1616)武蔵国江戸城主は小田原の戦い後秀吉の命令で江戸を本拠としたのですね😌
秀吉の命令がなければ今の東京はありえなかったのかもしれません😊
家康は1万5千人もの大軍を率いて名護屋に駐屯したそうです😊
本陣とは別に家臣団の陣屋もあったそうで、これは秀吉が警戒したためともいわれているそうです😌
大野治長(?~1615)お城の記述はありません😊
どこかの城主とゆう人ではなかったのでしょうか?😌
秀吉の馬廻として仕え、後秀頼の側近となるが家康暗殺容疑により下野国結城に追放されてしまったそうです😥
関ヶ原の戦い後再び秀頼に仕え豊臣家存続のため尽力したが果たせずに秀頼に殉死したそうです😢
名護屋城跡山里口にきました😊
山里丸は上下2つの曲輪からなっており山里口は上山里丸に通じる虎口の1つだったそうです😌
発掘調査で門礎石、石段、玉砂利敷が発見され防御面を配慮した複雑な出入口であることが明らかになったそうです😌
ステキな野面積みですね😊
「歴史探訪の道」8 名護屋城跡上山里丸茶室です😊
「歴史探訪の道」8 名護屋城跡上山里丸茶室です😊
「歴史探訪の道」陣跡説明板で唯一の人物以外の説明板です😌
「名護屋城図」(屏風)の描写と一致する地点で国内初となる秀吉の茶室跡が発見されたそうです😊
発掘された状況と茶室開きに招かれた博多商人の日記の記述がほぼ一致しているそうです😌
それによると千利休の追い求めていた「侘び寂びの草庵茶室」が秀吉によって再現されていたそうです😌
「歴史探訪の道」20 名古屋経述・寺沢広高です😊
「歴史探訪の道」20 名古屋経述・寺沢広高です😊
陣跡説明板はこれで最後です😌
名古屋経述(生没年未詳)肥前国名護屋領主は松浦党波多親の重臣としてこの名護屋一帯を支配していたそうです😊
居館のあった垣副城を大改造して築かれたのが秀吉の名護屋城なんだそうです😊
一領主にすぎなかった経述は波多氏とは別に陣屋を構えているとありましたが居館が秀吉のお城になってしまったので新しい居館を建てただけではないかと思うのですが😌
経述の妹広子は秀吉に仕え広沢局と呼ばれていたそうです😊
寺沢広高(1563~1633)肥前国唐津城主は秀吉の側近として仕え、肥前名護屋城の築城に加わっていたそうです😌
関ヶ原の戦いでは東軍に属しその戦功により肥後国天草郡も与えられました😊
唐津藩初代藩主でもあります😌
子の堅高は島原の乱の責任を問われその天草郡を没収されてしまいます😓
寺沢氏はこの2代で断絶してしまったそうです😢
「歴史探訪の道」陣跡説明板をすべてまわり今度は名護屋湾の対岸にやってきました😊
「歴史探訪の道」陣跡説明板をすべてまわり今度は名護屋湾の対岸にやってきました😊
こちら側にも徳川家康別陣や伊達政宗など有名武将の陣跡があるのですが離れた場所だからか陣跡説明板などはありません😌
しかし1ヶ所だけ見学可能な陣跡がありますのでやってきました😊
ここは加藤嘉明陣跡です😊
ここは加藤嘉明陣跡です😊
加藤嘉明(1563~1631)伊予松前城主は水軍の将として750人の兵を率いて参陣しています😊
秀吉古参の武将であり「賤ヶ岳の七本槍」の一人なんですね😌
これは先程も話題にあがった「名護屋城図」(屏風)でしょうか😌
これは先程も話題にあがった「名護屋城図」(屏風)でしょうか😌
加藤嘉明陣跡はどのあたりに描かれているのでしょう😊
陣跡は海に突き出た半島の先端に位置しいかにも水軍の将といった場所らしいです😊
陣跡は海に突き出た半島の先端に位置しいかにも水軍の将といった場所らしいです😊
行ってみましょう😊
確かに海がすぐそばです😊
確かに海がすぐそばです😊
ここは高台なので見晴らしもいいですね😌
発掘調査の結果石垣を伴った曲輪跡と井戸跡が見つかったそうです😊
曲輪跡を平面的に表示して石垣の残存状況を露出展示しているそうです😌
林の中の1段低い場所で石垣の遺構のようなものも見れました😊
建物跡等は発見出来なかったようですがこの曲輪から海がよく見えます😊
林の中の1段低い場所で石垣の遺構のようなものも見れました😊
建物跡等は発見出来なかったようですがこの曲輪から海がよく見えます😊
見張り台とかあったのでしょうか😌
最後に見学可能な陣跡の徳川家康陣跡にきました😊
最後に見学可能な陣跡の徳川家康陣跡にきました😊
この看板の後ろの保育園も陣跡で南郭だったそうです😌
発掘調査で確認された割石を用いた石垣がこれでしょうか😌
発掘調査で確認された割石を用いた石垣がこれでしょうか😌
隅櫓台跡のようです😊
ワタシがいる場所は発掘調査で堀跡や土橋が発見されたところでしょうか😌
ワタシがいる場所は発掘調査で堀跡や土橋が発見されたところでしょうか😌
こちらから行けるのは主郭のようです😊
上にあがってきました😊
ここにどんなお屋敷が建っていたのでしょう😌
竹ノ丸陣跡と呼ばれていたのですね😊
この他に北郭と東郭が配置されていたようです😊
竜泉寺に向かう道を挟んで北郭があったそうですので左側が北郭のようですね😌
竹ノ丸陣跡と呼ばれていたのですね😊
この他に北郭と東郭が配置されていたようです😊
竜泉寺に向かう道を挟んで北郭があったそうですので左側が北郭のようですね😌
この道も堀切みたいに見えました😊
これで名護屋城跡陣跡めぐりはおしまいです😌
これで名護屋城跡陣跡めぐりはおしまいです😌
名護屋城跡陣跡位置図に載っていた「歴史探訪の道」陣跡説明板と見学可能な陣跡を全てめぐることができました😊
陣跡説明板の内容はワタシが説明を読んでまとめたものですので不足があるかもしれません😌
説明板自体も新たな史実が発見されて違ってきているかもしれません😌
でもここ名護屋の地に豊臣秀吉と百六十余りの諸大名が集結していたことは間違いないのです😊
すごい歴史ですね😌
突如この地に巨大な都市が出現した時の事を想像しながら陣跡めぐりを終わりにしたいと思います😊
長々とお付き合い頂きありがとうございました😌
こんちゃんがお送りしました😌