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帝国を傾けた愛の証~タージ・マハル~

2007-08-12 20:12:00 | インド旅行記


あまりにも有名で、あまりにも美しく、その姿に魅了された人たちが、毎年数多くやってくる、このタージ・マハル
そこには、はかなくも美しく、それゆえ愚かにすらみえる、純粋さを秘めた物語が眠っていた。

※歴史薀蓄話です苦手な方は飛ばしてくだされ。





時をさかのぼること400年、アクバル帝が築き上げた強大な帝国、ムガル朝は、最大の栄華を誇っていた。
1605年に彼が死去した後は、その息子のジャハーンギールが即位。ペルシャ出身の賢く美しい妻を娶り、政治を任せきりにし、その結果絵画・建築・文学・文学・衣装・風俗の分野で、ヒンドゥー・インド的なものとペルシャ・アラビア的な要素が融合した、独特の文化が生まれたのである。


そして次代帝王、シャー・ジャハーン。彼こそがこの、タージ・マハルの建設者であり、この物語の主人公だ。


ムガール王朝第四代皇帝ジャハーンギールの第三皇子フッラームは、アグラ城で行われた宮廷バザールに参加した。
バザールをのんびり楽しむフッラームだったが、ガラス玉を差し出してきたペルシアの美しい娘を見て固まった。娘の名前はアルジュマンド・バーヌー。
ふたりはこの瞬間、恋に落ちた。フッラームは父の許可を得るとすぐにバーヌーと婚約した。このときフッラーム15歳、バーヌー12歳。5年後、ふたりは正式に結婚した。


1628年、ジャハーンギールが亡くなるとフッラームは第五代皇帝に即位し、世界の王=シャー・ジャハーンを名乗り、妃は選ばれし後宮の人=ムムターズ・マハルと呼ばれるようになる。
王は他の王のように複数の妻を持つこともハーレムを築くこともなく、外征にも必ずムムターズを伴い、妻をいつもそばに置いた。ふたりは結婚生活約18年の間に14の子をもうけた。

しかし、ムムターズは最後の女児を出産したあと、1631年6月7日に亡くなってしまう。
死に際してムムターズは夫に新しい妃をめとらないことを約束してもらい、安心して眠りについた。
シャー・ジャハーンはあまりの悲しみに一夜にして髭を白くし、1週間公の場所に姿を見せず、2年間宴を催すことはなかった。

喪が明けるとシャー・ジャハーンは政治を半ば放棄し、妻の墓の建築を開始する。
世界各地からあらゆる素材、あらゆる人材を集め、約20年の歳月と2万人の労働力を投入し、1653年、純白のタージ・マハルを完成させる。
このあとヤムナ川を挟んだタージ・マハルの対岸に、黒曜石で真っ黒な自分の霊廟の建立し、その間を橋で渡す計画を立てていた。
コーランが言う最後の審判の日、復活してその廊下を渡り、ムムターズと再会するそのときを信じて。


ムガール帝国がシャー・ジャハーンの迷走から力を失いつつあるのを見て、各地で民族蜂起が起こり、イギリスが侵略を強めた。
同時に皇位継承戦争が激化し、結局息子たち4人の血で血を洗う闘争を経て、三男アウラングゼーブによってアグラ城のムサンマン・ブルジュと呼ばれる八角の塔に幽閉されてしまう。

シャー・ジャハーンは塔の一室に横たわり、7年間の幽閉ののち、ヤムナ川のほとりに小さく見えるタージ・マハルを眺めながら息を引き取った。

アウラングゼーブは幽閉中、父に会うことはなかったが、父の死後、遺体をタージ・マハルに移し、棺をムムターズの隣に安置した。シャー・ジャハーンはムムターズ・マハルに寄り添い、復活の日を待ちながら、いまも眠っている。

引用; http://allabout.co.jp/travel/worldheritage/closeup/CU20060315A/