置かれた場所で咲く

教育のこと、道徳のこと、音楽のこと、書籍のこと、つれづれ、あれこれ

30センチ前の男【3】

2007-08-26 23:58:54 | インド旅行記
「!!!!!」



声にならない声を上げると、男は何事もなかったように、すたすたと列車の奥へと向かっていった。

彼は、わたしの頭上のベッドのサッシを掴み、勢いよく立ち上がったのだ。
おそらく、トイレに向かうために・・・。
向かい合うベッドの間隔は、そのくらい狭かった。


・・・・・・そりゃ、何事もないわ・・・。

横を見ると、声を殺して笑う、蟹のような彼女がいた。



戻ってくると、またもやごろりと横になる男。
ガイドブックを読みふける、女二人。


そして、沈黙は再び破られた。


「・・・ぷぅ・・・・・・。」

音とともに、微かな異臭。

「・・・ぷぅ、ぶぅぅぅぅ・・・。」



今、彼女の顔を見てはいけない。絶対にダメだ。
幸運にも、彼女も同じ思いを抱いていたようだった。

心穏やかでないまま、静寂を迎えてしまった。
時はどんどん流れ、事実は色褪せてゆく。




・・・・・話したい・・・・・・。


図らずも極々シンプルな思いを胸に、列車は次の駅までの距離を着々と縮めていた。
アグラに向かう、二つ目の駅まででの出来事だった。



30センチ前の男【2】

2007-08-26 16:09:58 | インド旅行記
確認するようにまわりを見回すと、彼はわたしたちの前の席にどかっと座った。手には大きなトランク、ちょっとよれたグレーのスーツを着ている。50くらいの、背の高い痩せた男だった。

女二人、言葉少なくフルーツを頬張る姿は、誰の目から見ても異様だったに違いないが、とにかく頻繁に視線を感じた。

一つバナナをちぎり、おずおずと男の方に差し出した。
「・・・良かったら、どうぞ?」

「・・・・・・。」

言葉ひとつ発することなく、要らない、と断られた。

目の前で食べ続けるのはあまりにもばつが悪くて、わたしたちはガイドブックを見ながら、明日一日のプランの検討を始めた。今日の夜9時には、アグラに到着する予定だった。


しばらくすると、毛布とシーツ、そして小さな枕を一つ、乗務員の男の人、数人が配りにきた。
ちょっとあの人、○○さんに似てたよね・・・と、アグラそっちのけでしばし盛り上がった。
女同士の話は手品のように鮮やかに、どんどん話題が移ってゆく。

そのとき。
横に寝かせたトランクの上にさらに枕を乗せ、目の前の男はごろりと横になった。顔をやや壁側に向け、すやすやという寝息は数分後には小さないびきに変わった。


「チャイ、チャイ・・・。」

寝台車の中で飲み物やお菓子を売るのは、少年のような若者から今にも倒れそうなおじいさんまでさまざまで、バラエティに富んでいた。

唯一の共通点が声のトーンだった。
ヒンディー語で呼びかける彼らの発する音は、皆揃って抑揚がなく、無表情。


「・・・チャイ、チャイ・・・。」

おじいさんがわたしたちの寝台の前を通り過ぎようとしたまさにそのとき、いびきをかいていた目の前の男が、勢いよく起き上がった。

チャイを買い、飲み終わると、男は再び座り、周囲に視線を撒き始めた。
懲りないわたしはキャンディーを差し出したが、またもや首をふられた。




突然。
座っているわたしの視界を、グレーのスーツが覆った。
目の前の男が、わたしに覆い被さってきたのだ。




30センチ前の男

2007-08-26 07:06:51 | インド旅行記
指定席の寝台列車。
狭い通路を挟んで、やや埃臭い二段の寝台が、相向かいに置いてある。
俗に2Aと呼ばれる、インドでは二番目に値段が張る、ちょっとリッチな列車だ。
わたしたちの寝台は35番と36番。上下に位置していた。

アグラまで、駅5つ。所要時間はおよそ7時間。
これから、この列車で向かうアグラは、いったいどんな都市なんだろうか。タージ・マハルくらいの知識しかないこの街で、いったいどんなことが・・・。


微かな期待を込めて妄想していると、電車は大きな音を立てながら走り出した。

「・・・お腹空いたね。」
彼女がぼそっと呟いた。そういえば、ホテルでトーストとマンゴージュースを口にしたきり、今日は何も食べていない。既に2時をまわっている。
ホームで買ったバナナを一房取り出し、わたしたちは食べ始めた。
どこにでも豊富にある果物の、その甘さが心なしかわたしたちを安心させた。

もう一本・・・と手を伸ばそうとしたとき、一人の男が向かいの席にやってきた。