昭和44年第一子誕生と父親の病気,帰郷
おはようございます。
今日も中休みってとこの神奈川県愛甲郡愛川町は湿っぽい天気です。
脳卒中片麻痺歴6年,前立腺ガン全摘出術後歴1年半、片麻痺自助具の楽々歯磨きコップを開発したロマンシニアの原田太郎が元気印で、今日も脳卒中障害者や高齢者のご本人はもとより、ご家族の悩み、苦しみを和らげ、明日への希望、未来への活力となっていくようなお話をします。
2009年5月22日より新連載「原田太郎の義と仁」の子供の時代からの人生小さな武勇伝と小さなロマンスから大人のロマンスまでも交えながら「ケンカ太郎」の記憶をたどり多少ランダムな綴り方出来事自分史です。
【ガキの武勇伝Vol.23】
<昭和44年第一子誕生と父親の病気,帰郷>
昭和42~45年藤沢勤務の約4年間は会社と労働組合分裂などで大変なときでしたが現場は得意先に迷惑を掛けないように必死でした。
同業者にはチャンスとばかりに食いこまれたことも事実でした。
営業の本文は業績を上げることですからそれに徹したわけです。
家庭の事情などはついつい疎かになり、第1子(一人娘)誕生のときに奥方は分娩室に24時間ぐらいいて大変な思いをさせました。
すぐに病院に連れて行けばよかったんですけどそうしなかった私がいけなかったんです。
今なら直ぐ救急車なんでしょうけど当時はそうもいかず。
職場と住まいの借家は直ぐそばであったんですが近所の友人から破水したので直ぐにといわれるも目の前の仕事を優先した事で遅れた事が難産になったわけです。
男って何の役にも立たず知識もなく「破水」という事がどういうことなのかさえ知らなかった私が悪いんです。。
奥方はコレが原因でこの苦しみは二度と嫌だと一人娘で跡継ぎはいないんです。
生まれてくる娘も大変だったと思います。
現代のように分娩に立ち会うことや分娩室に入ることさえ許されない時代でした。
44年5月28日無事に生まれてくれました。
結婚に反対されたとは言えこの年は父親も体調を崩し一人息子の自分としては九州へ帰るべきか両親をどうするかで随分悩みました。
45年大阪では万国博覧会開催中でした。
とりあえず1歳にも満たない娘を連れてしかもオンボロ車のテールランプが柿の種
で有名なニッサンブルーバードに載せて神戸からフェリーで小倉へと佐賀県太良町へ帰りました。
10ヶ月の赤ん坊つれての長旅は無謀でしたけどね。
案の定娘はふるさとで高熱を出し、医者に通い、約束の日までに藤沢の職場へもどれませんでした。
結婚に反対していた両親も孫まで出来たら認めるしかなかったようでしたが
気まずさがあるのはお互い様でした。
奥方には一番辛い思いをさてしまいました。
心の中で「すまね~な!」と。
続きはまた明日、、、、、。
さ~さ~今日も片麻痺なんかに負けないで
一つの動作でも自分で出来るように
無理せず日々コツコツと一つ上のちょうど良か爺・良か婆の生活リハビリを頑張りましょう
心と身体のバランスが大切です。
健康維持の為には「食べる事が生きること」です。
美味しく食べる為には口腔ケアを疎かにできませんね。
歯磨きはしっかり続けましょう。
片手で楽々片麻痺専用歯磨きパラリンコップParalymcup
脳内出血や脳梗塞による片麻痺障害において大事な事は自分の出来ることをひとつずつ自立をするという強い意志を持つことです。
リハビリテーション病院入院中の急性期回復期は改善も顕著ですが退院後の慢性期に入ると改善するスピードは畳みの目を数えるほどですが必ず改善はします。
あきらめずに日々強い意志と希望を持って努力を積み重ねましょう。
脳卒中片麻痺としっかりと向き合って日々を楽しめるようになるともうしめたものですよ。
そこに行き着くまでがこの病気の大変さでrといえるでしょうね。
片麻痺で戦ってるかた、原田太郎の体験がお役に立つのであれば左のメ~ル相談室をご利用下さい。
福祉ものづくり集団【NPO法人たくみ21の店】もオープンしましたよ~。
【ブログポリシー】
■前立腺ガン全摘出の経過発信と片麻痺に関する元気情報の執筆を心がけます。
■守秘義務がある情報は一切執筆いたしません。
【片麻痺ゲンさんのあとがき】
いやはや、結婚というのはどんなに反対されても反対する側の理由があるわけで、理由は原因は息子である私がふるさとの両親との日頃のコミニケーションと両親への尽くし方足りなかった事にあるわけで子供の立場は粘り強く説得して了解をもらわないと後々嫁に肩身狭く辛い思いをさせることになります。
日頃からのコミニケーションは以下に大切かと言う事を判るのには大きすぎる代償でした。
し~ゆ~
今日も中休みってとこの神奈川県愛甲郡愛川町は湿っぽい天気です。
脳卒中片麻痺歴6年,前立腺ガン全摘出術後歴1年半、片麻痺自助具の楽々歯磨きコップを開発したロマンシニアの原田太郎が元気印で、今日も脳卒中障害者や高齢者のご本人はもとより、ご家族の悩み、苦しみを和らげ、明日への希望、未来への活力となっていくようなお話をします。
2009年5月22日より新連載「原田太郎の義と仁」の子供の時代からの人生小さな武勇伝と小さなロマンスから大人のロマンスまでも交えながら「ケンカ太郎」の記憶をたどり多少ランダムな綴り方出来事自分史です。
【ガキの武勇伝Vol.23】
<昭和44年第一子誕生と父親の病気,帰郷>
昭和42~45年藤沢勤務の約4年間は会社と労働組合分裂などで大変なときでしたが現場は得意先に迷惑を掛けないように必死でした。
同業者にはチャンスとばかりに食いこまれたことも事実でした。
営業の本文は業績を上げることですからそれに徹したわけです。
家庭の事情などはついつい疎かになり、第1子(一人娘)誕生のときに奥方は分娩室に24時間ぐらいいて大変な思いをさせました。
すぐに病院に連れて行けばよかったんですけどそうしなかった私がいけなかったんです。
今なら直ぐ救急車なんでしょうけど当時はそうもいかず。
職場と住まいの借家は直ぐそばであったんですが近所の友人から破水したので直ぐにといわれるも目の前の仕事を優先した事で遅れた事が難産になったわけです。
男って何の役にも立たず知識もなく「破水」という事がどういうことなのかさえ知らなかった私が悪いんです。。
奥方はコレが原因でこの苦しみは二度と嫌だと一人娘で跡継ぎはいないんです。
生まれてくる娘も大変だったと思います。
現代のように分娩に立ち会うことや分娩室に入ることさえ許されない時代でした。
44年5月28日無事に生まれてくれました。
結婚に反対されたとは言えこの年は父親も体調を崩し一人息子の自分としては九州へ帰るべきか両親をどうするかで随分悩みました。
45年大阪では万国博覧会開催中でした。
とりあえず1歳にも満たない娘を連れてしかもオンボロ車のテールランプが柿の種
で有名なニッサンブルーバードに載せて神戸からフェリーで小倉へと佐賀県太良町へ帰りました。
10ヶ月の赤ん坊つれての長旅は無謀でしたけどね。
案の定娘はふるさとで高熱を出し、医者に通い、約束の日までに藤沢の職場へもどれませんでした。
結婚に反対していた両親も孫まで出来たら認めるしかなかったようでしたが
気まずさがあるのはお互い様でした。
奥方には一番辛い思いをさてしまいました。
心の中で「すまね~な!」と。
続きはまた明日、、、、、。
さ~さ~今日も片麻痺なんかに負けないで
一つの動作でも自分で出来るように
無理せず日々コツコツと一つ上のちょうど良か爺・良か婆の生活リハビリを頑張りましょう
心と身体のバランスが大切です。
健康維持の為には「食べる事が生きること」です。
美味しく食べる為には口腔ケアを疎かにできませんね。
歯磨きはしっかり続けましょう。
片手で楽々片麻痺専用歯磨きパラリンコップParalymcup
脳内出血や脳梗塞による片麻痺障害において大事な事は自分の出来ることをひとつずつ自立をするという強い意志を持つことです。
リハビリテーション病院入院中の急性期回復期は改善も顕著ですが退院後の慢性期に入ると改善するスピードは畳みの目を数えるほどですが必ず改善はします。
あきらめずに日々強い意志と希望を持って努力を積み重ねましょう。
脳卒中片麻痺としっかりと向き合って日々を楽しめるようになるともうしめたものですよ。
そこに行き着くまでがこの病気の大変さでrといえるでしょうね。
片麻痺で戦ってるかた、原田太郎の体験がお役に立つのであれば左のメ~ル相談室をご利用下さい。
福祉ものづくり集団【NPO法人たくみ21の店】もオープンしましたよ~。
【ブログポリシー】
■前立腺ガン全摘出の経過発信と片麻痺に関する元気情報の執筆を心がけます。
■守秘義務がある情報は一切執筆いたしません。
【片麻痺ゲンさんのあとがき】
いやはや、結婚というのはどんなに反対されても反対する側の理由があるわけで、理由は原因は息子である私がふるさとの両親との日頃のコミニケーションと両親への尽くし方足りなかった事にあるわけで子供の立場は粘り強く説得して了解をもらわないと後々嫁に肩身狭く辛い思いをさせることになります。
日頃からのコミニケーションは以下に大切かと言う事を判るのには大きすぎる代償でした。
し~ゆ~
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