朝っぱらからこんな記事は書きたくないが、恨(ハン)の文化というものが、世界には存在する。
そう、隣国の文化である。
恨み。
被害者意識から導き出された文化。
恨みは弱さと密接に結びついている。
「恨みます。」の文化は、弱さを美化する文化。
何かおかしい。
と、ここまで書いて、なんかその文化とか、心性のおかしさに気がついた。
弱さを誇る文化。
何か変だ。
その変な感じを、「変だ!」といったのが、ニーチェの一連の著作である。
かつてネットの黎明期に、メンタルを病んだと自称する人たちのホームページを読むと、必ず弱さを美化するキリスト教や、それとは正反対のニーチェの思想に行き着いたものだ。
弱さと救い。
そして超人への意志。
が、己のうちに眠るルサンチマンや、自分の境遇を引き受ける運命愛を説いた当事者はみたことがありませんでした。
あの頃の検索エンジンの、限界だったのかもしれませんね。
さて、哲学の方面からスキゾフレニアを研究したい人は、キリスト教やニーチェの研究をしてみるといいかもしれない。
なぜこの病気とユダヤ思想はこんなに親和性があるのか、研究するのもおもしろいかもしれませんね。
そこにあるのは悪と許し、そして弱さと救いがあるのです。
キリスト教のドグマを要約すれば、結局その二つをもたらすものの主体として、三・一の神がいるのです。
それと、精神医学や心理学で、因果律からスキゾフレニアを研究した人は多いが、目的論。すなわちアドラーの流れで、スキゾフレニアを研究した人は寡聞にして、B.H.シャルマンしか知らない。
つまり、メンタル疾患は人間関係の病という、ハリースタックサリヴァンのテーゼを因果律からではなく、目的論から解釈するのだ。
目的論。
人間関係から距離を置く戦術として、作り上げてきた性格やそれでも防衛しきれなくなった心の防衛策としての症状。
二者間のマウンティング、三者間の自分をのけ者とした敵対同盟。
これは非常に不快なものだから、そんなものから永遠に距離を置きたい「私」がいることに、今、気がつきました。
と、ここまで書いて、話は飛ぶのであるが、メニンジャーの己に背くものの本質は、「不幸を必要とする意志」ではないかと思うようになった。
自ら強くなろうとする成長の意志を持たない個体にとって、一番楽な生存戦略は、弱さの文化や、恨みの文化をでっち上げ、永続的に、「ヘルプミー」とか「謝罪ニダ、賠償ニダ」と連呼する政策ですからね。
交流分析の人生脚本には、こうした人生戦略の手筋が列挙されています。
(ここからは後日加筆しました)
井戸端会議や一杯飲み屋の会話は、いない人の悪口とマウンティグ、そして不幸の共有。
飲み屋で裃を脱いだ人たちが話すことは、あまり愉快な話ではありませんね。
ここにいけもとは、不幸を必要とする意志を見ます。
他人の不幸や、自分の不幸。などなど。
その不幸や不愉快なるものが無意識に蟠踞する観念だとしたら、それはそれで、社会に不幸や不愉快なことがはびこるのは、当たり前のような気がします。
故にイエスは、「いつも目覚めていなさい。」と、そういったのかもしれません。
まあ、ここまでにしておこう。
以上、いけもと。