武家政権が成り立ったのは、単に平安貴族よりましな政治を武士がしたからではない。
頼朝や尊氏がやったことは、単に荘園という一大策源地にいる武装集団の利益を代表し保護する政権を作っただけに過ぎない。
そう、市民革命時代のブルジョワジーが新進貴族と連帯して、絶対王政を倒し、自分たちの利益を代表し保護する政権を作ったように。
ただ、それだけでは大義名分が立たない。
よって、北条政子や徳川家康は儒学者に命じて貞観政要を読んだり、講義させたりして、藤原摂関政治や院政以上のよい政治をするんだというアピールをして、その政治をしたのである。
だが、これには条件がある。
隣国で戦乱が起こり、自国の戦乱に乗じてこれらの国が自国を侵攻しないという条件があるか、さもなければ、隣国が太平に流れ、自国を侵攻するという野心家がいないときという条件のいずれかの場合である。
実はそこに、豊臣秀吉の朝鮮出兵や徳川家康の鎖国を敷いた理由がある。
秀吉だって馬鹿ではない。
戦乱が終わり、まだ民が食うや食わずやの状況で出兵すれば、民の怨嗟が待っていることがわかっている。
よって、その怨嗟を自分が安堵した領主に向かうように仕向け、さらに、当時の明に何らかのアピールをするために朝鮮出兵をした筋も考えられる。
家康の鎖国に関しては、日本が内需拡大路線を進め、南方の進出してそこの経営をしないという筋を当時のヨーロッパ列強にアピールしたのであろう。
どのみち争いは、南方の資源を巡っての激戦となり、ヨーロッパ列強にとっても、日本にとっても、ロジスティクスが維持できないからである。
なにやら武家政権は武士階級の利益の代表と保護を目的とした政権というテーマから話が盛大にずれたが、たまにはこういう脱線もいいであろう。
以上、いけもと。