私の小学校高学年のときの担任の先生が、クラスを前にしてこんな事を言っていた。
曰く「昔の生徒は主体性と連帯があった。」云々。
これはいけもとの私見であるが、主体性と連帯を持った生徒は何をするだろう?
主体性を持った生徒が連帯して、教師の統制を離れること請け合いだ。
ヨーロッパの生徒のように、自主管理労組ならぬ自主管理学校なるものを作って、教師を招聘し、学習指導要領なんてそっちのけにした自己教育を行うだろう。
そんなことを考えていたら、いけもとはいつの間にか、独立自尊という言葉を忘れていた事に気がついた。
独立自尊。
そうなのだ。我々の社会生活においても、お上に治めてもらうのではなく、個人レベルでの自治があり、そして家庭、地域、国家の自治。云々。
そう、今の国体にしたって、主体性を自覚した市民が政治家と役人を雇い、統治を委任しているのが建前なのだから、当の市民が主体性に目覚めなければ、なんにもならない。
そうか。
それは個人の生活レベルでも同じことだ。
私自身が自覚した市民として、権利の擁護を受けながら、義務を果たしていかなければならないと思った。
さて、東京は午前二時。
そろそろ寝るか。