アカデミー賞候補だからか、金券ショップでも前売り券が値引きしてないなーと思いながらようやく鑑賞。
冒頭、スタイルカウンシルのオルガン弾きが早口で喋ってる!あんまり恋人の話聞いてなくて、話のフォーカスは、会話の流れではなく、自分の“心のフック”次第で不規則に移り変わってゆく。で、最初に言いたいのは、
俺の経験では、これをやるのは圧倒的に女の方である!!(笑)
○IT起業物語
アルゴリズムを表す数式や、のんきな学内サイトのセキュリティホール等技術的な内容に言及した場面や台詞は少ししかない。その内容自体はストーリーに影響を与えていないので、判らなくても大丈夫。何だか専門的なこと言ってるな、ぐらいでOK。
フェイスブックが学内で動き始めて以降は、もう何十年も前から米国内で繰り返されてきた、シリコンバレー型ITベンチャーの典型的な物語であり、他のIT製品やサービスでもそのまま使える内容です。ここらへんもっと知りたい方向けには、もはや古典になりますが『コンピュータ帝国の攻防 上・下』(ロバート・X・クリンジリー著)(Accidental Empires by Robert X.Cringely)や『シリコンバレーアドベンチャー』(ジェリー・カプラン著)(STARTUP: A Silicon Valley Adventure by Jerry Kaplan)あたりがお薦めです。ちなみに後者はiPhoneのご先祖みたいなものを作ろうとした話です。より新しい類書も色々出ているだろうけれど、エコシステムとして定着しており、文化の領域だから基本は同じです。
○友情についての物語
大学生のエドゥアルド・サリバンサベリンには、ちょっとトンチンカンな友達、ザッカーバーグがいました。ザッカーバーグは、人一倍プライドは高いが、気持ちのやりとりが苦手でした。
フェイスブックの噂をききつけた起業家のショーン・パーカーは二人をシリコンバレー(とその文化)へと誘います。スクールカーストの中で周囲の“充分な認知”を得られず悶々としていたザッカーバーグは、新しい世界からの誘いに夢中になりますが、サリバンサベリンは学業とスピード感溢れるシリコンバレー・スタイルに馴染みがないことに囚われ、そしてザッカーバーグを魅了したパーカーへの対抗心もあってハーバードに残ることを選択します。
パーカーはフェイスブックの中心人物であるザッカーバーグを取り込み、一山当てることを狙います。その過程でノリの悪いサリバンサベリンの排除を画策します。
ザッカーバーグは、サリバンサベリンがシリコンバレーに来ないことで裏切られたと感じ、パーカーの策略を止めませんでした。が、VC(ベンチャー・キャピタル)の投資を受けて以降、ザッカーバーグの最高の友人はフェイスブックという会社になります。だから、フェイスブックにとってマイナスになる行動をとったパーカーも切り捨てられることになります。
表情が乏しく見えても、やはり(冴えないギーク時代の)自分と親しくしてくれた数少ない人たちとの絆はザッカーバーグにとって大切なものでした。だから裏切られたサリバンサベリンの怒りを見てようやくそれが意味することを理解し、パーカーを非難し、パーカーへの見方を変えることになります。そして訴訟の場面では弁護士たちとサリバンサベリン、自分それぞれが持っている「同じはずの友情の崩壊物語の違い」に(他の二者同様)困惑します。「異国の王様」となったザッカーバーグは、自分とフェイスブックの故郷、アイビーリーグにいるだろう元ガールフレンドへ「友達申請」を送り、空しく応答を待つ場面で映画は終わります。
○世代間ギャップについての物語
ここで言う「世代」とは年齢のことではなく、価値観・世界観のことです。スクールカーストの最上位に位置しているウィンクルボス兄弟達は、古い価値観に護られた「エスタブリッシュメント」の世界しか知りませんでした。そしてその外側にいるサリバンサベリンやガールフレンド達も、やはりイノベーションが神であり認知されることへの欲求が動力源であるシリコンバレーの価値観を理解できませんでした。しかし、大学の経営責任者であるハーバードの学長は、アイビーリーグとその友愛会を頂点とする世界と、シリコンバレーを含むビジネスの世界の両方を知っていました。だからウィンクルボス兄弟が「いいつけ」に来たときに、「相手を見下して楽しようと思った君達が間抜けなのだ。自分の尻は自分で拭け。」と戒めるのです。
ミニチュアに見える特殊な撮り方をしているボートレースの場面は、かつての世界の最上部(とウィンクルボス兄弟等が思っていた)が、既に広い世界の中の小さな一部分に過ぎなくなってしまっていることをユーモラスに表現しています。また、ザッカーバーグが女の子にビールを抛って失敗する場面は、ザッカーバーグが軽度のコミュニケーション障害をもつギークということよりも、二つの世界のスピードとリズム、タイミング感のギャップを表現するために挿入されたエピソードという意味合いが強いと思われます(本当にこんな感じです)。
○フェイスブックについてではない物語
ビジネスとして本格的にローンチして以降のフェイスブックについては殆ど触れていません。これは尺の問題と作品としてのフォーカスの問題を除けても無難な判断と言えます。巨大SNSのもたらしたインパクトについては、たくさんの側面があり、そして中東の市民革命に代表されるように、根本的に動的なシステムをめぐる世界は今も加速しながら変化しています。だから今SNSを中心に据えても表現できるのは小さなスナップショットになってしまい、映画が世に出るときにはとっくに時代遅れになってしまいます。
○主人公についての物語
この映画、主人公の特徴的なキャラクターが話題になり、確かに表情の変化の少なさやあごの上げ方、会話のズレなどが目につくが、考えてみれば小中学校の頃クラスに一人はこんな感じの子がいたものだ。“野蛮”で閉じた子供社会の中で、内気で体も強くない一方、寄らば大樹の陰をする“器用さ”も無いため低く見られ、しばしばいじめられたりする子。それが続いてゆくにつれて、感情を押し隠すことがならいとなり、コミュニケーションもますます苦手になってゆく。この映画に出てくる『ザッカーバーグ氏』はそういう“どこにでもいる子”だ。僕は転勤族だったから、行った先々でそんな子を見てきた。そして、そんなキャラクターが生まれつきのケースもあるにはあるが、成長するにつれて自分の居場所を見つけ出し、表情豊かな“普通の子供”になっていった例の方がずっと多かった(逆の過程を辿るケースも多い)。『ザッカーバーグ氏』はより“タフな”社会の中で、人一倍高いプライド(と驚異的な集中力/執着心)を持っていたために“こじらせてしまった秀才”以上のものには描かれていない。だからフェイスブックで周囲に認められ始めて以降笑みを浮かべるシーンが出てくるようになるのだ。もちろん周囲はそういう経緯を(『ザッカーバーグ氏』が周囲に対するのと同様)忖度しないことが多いので、この映画のように“不完全なコミュニケーション”がしばしば発生する。
そう言えばこの映画の『ザッカーバーグ氏』を"He is a borderline sociopath, never smiling, never raising his voice..."などと書いた批評が英ガーディアン紙のサイトに載ったようですが*、偏見無くきちんと映画を観ていればこういうことは書かないはずです。
*The Social Network -- review: http://www.guardian.co.uk/film/2010/oct/14/the-social-network-review
ちなみに、引退して何年も経つビル・ゲイツも、軽度のアスペルガー症候群やサヴァン症候群の例として挙げられることが多いですが、新OS発表会のバックステージに現れたゲイツ氏は、何のことはない普通のおっさんでした。よく言われたとっちゃん坊や風でもなく、そんなに体格も悪くなかったです。