おはようございます。
神奈川県横浜市にある設計事務所・株式会社コア建築設計工房の野上です。
先日の記事の続きです。
坂口安吾は捻くれているけれど、実は優しい印象があります。
救われない小説も笑える小説も書くし、特に『堕落論』はネガティブなタイトルですが、実はポジティブな意味を含んでいたりします。
『日本文化私観』もそのような印象を受けます。
まず、序盤からブルーノ・タウトの名を出し、皮肉を炸裂させています(タウトは桂離宮を褒め称えたことで有名ですね)。
伝統や国民性に疑問を呈しています。
また、故郷の風景が壊され現代的になることを、悲しく思わないようで、
伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。
我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。
なぜなら、我々自体の必要と、必要に応じた欲求を失わないからである。
と痛快な主張です。
以下、「四 美に就いて」より
さて、ドライアイスの工場だが、これが奇妙に僕の心を惹くのであった。
工場地帯では変哲もない建物であるかも知れぬ。起重機だのレールのようなものがあり、右も左もコンクリートで頭上の遥か高い所にも、倉庫からつづいてくる高架レールのようなものが飛び出し、ここにも一切の美的考慮というものがなく、ただ必要に応じた設備だけで一つの建築が成立っている。町家の中でこれを見ると、魁偉であり、異観であったが、然し、頭抜けて美しいことが分るのだった。(中略)
美しくするために加工した美しさが、一切ない。(中略)
ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。
「装飾は罪悪である」と言ったアドルフ・ロースと同じ考えだと思いました。
古今東西を問わず生まれる考えかもしれません。
法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。
我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。(中略)
真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。
そうして結びます。
高尚より俗に寄っていますね(個人的には安吾に諸手を挙げて賛成はできません)。
陰翳礼讃のあとに読むと心に沁みます。
便利を受け入れていいのだと、優しいのです。
そして、どちらも「生活」に要点があり、考えさせられました。
もっと実感として理解したいです。
『日本文化私観』は人によっては気分を害するかもしれませんが、皮肉が最高に効いていてエンタメの読み物としても楽しめる傑作でした。
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