たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

秋のお彼岸

2019年09月22日 | 日記

”古来、厭離穢土(おおんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)といい、此岸(しがん)に対する彼岸(ひがん)といい、人類は、今ここの苦しい汚泥に満ちた娑婆を逃れて、どこかに楽土を求めようとする思いを、つねに持ちつづけようとする。

 そこを道元禅師はするどく指摘して、「生死のほかにほとけを求むれば、「ながえ」を北にして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし」と、さとされる。

生老病死、愛憎、損得、さまざまにうずまくこの現実の人生を逃れて、どこかに仏を、浄土を、涅槃を求めようとするのは、たとえば車の轅(ながえ:牛車などの前に長く平行に出した棒)を、つまりは車の向きを北に向けて、南方にある越(えつ)の国にゆこうとするようなものであり、または顔を南に向けて北斗七星をみようとするようなもので、見当違いもはなはだしい、というのである。”
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雑誌:大法輪 第71巻(平成16年第11号:「道元禅師に学ぶ:青山俊薫氏」正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)生死の巻の中の一説--から引用

越の国とは:ベトナムのこと。  つまりは無心になれという教えか、「花が咲いて 蝶がくる 蝶がきて 花が咲く 花は無心 蝶は無心」(良寛)犬山:寂光院

明日は秋のお彼岸の中日です。今日はお墓参りに行ってきた。スーパーでお花を2束買い、お墓には1束、花瓶の片方ににしか飾らなかった。ケチとは違う。かあさんが子守をさせられて、乳がんの発見が遅れ死に至った。その大恩ある人の墓参さえしない若世帯に片方を買って飾らせるためです。帰宅して息子に言っておいた。

彼岸会のお勤め中の手次寺には「志」3千円を持参し、お参りは失礼した。

墓地では卒塔婆を4、5本抱えた中年女性が車に納められた。どうされるのか聞いたら「お寺に納めるのです」と言われた。「禅宗ですね。そうなっているのですか」「そうです」と。
道元禅師の教えは私のゴルフにも通じる教えだ。叱られるかな。