早春の飛騨路と春霞の乗鞍岳 実家からは見えません。母も通った尋常小学校は2kmほど上流の集落にあり、校庭からこの山を眺めて皆育ちました。(4月15日撮影)
高山市内から望む乗鞍岳と少し視野角が違い山容は乗馬の鞍です(4月18日撮影)
死後2日目、心配した天気も穏やかな晴れの朝を迎えました。ここは高山市から20kmほど離れた地、国道41号線を南下し分水嶺の宮峠を越えて最初の地、飛騨川に沿って開けたところです。
朝早くから両本家惣領の奥さま方など早々とお勝手のお手伝いに来て下さいました。
村の人、すなわち集落内の人は淋見舞に次々と訪問されます。ここで「香典」と入院中を知らなかった人、入院見舞いを欠礼していた人が「お見舞」も出されます。
2升持ち親戚はそのほかに「菜草料」を包まれ、3通になる方もおられます。
菜草(さいくさ)は野菜のことで、昔は米や野菜を持ち寄り葬式を出した、その名残りが残っているのですね。もうこんな習慣は止めるべきでしょう。
岐阜県は田舎県なのでどの新聞にも、地方版に「おくやみ」欄が必ずあります。
お隣りの愛知県はありません。これは役所へ死亡届けに行った際、おくやみ欄に掲載の可否を遺族に問う書類があって、これに意思表示します。
死亡者が社会的な功績や職歴があったり、喪主や1親等に著名人が居たりすると、その旨併記できるようになっています。市の係が整理して、一般人のおくやみとは別に新聞社へ報道資料を提供します。個人名に横傍線を入れた編集の訃報記事として紹介されます。
前の日、死亡届けを出して数時間後、中日新聞社、岐阜新聞社の二紙から「高山市最高齢者」として、母の死亡を訃報欄に報道するがいいかと、許諾の電話が喪主にあり、兄は「たんと書いとくれ・・」と、返答したらしい。
市が好意的に最高齢者として報道提供されたもので、遺族は最高齢と予想はしていましたが、知らない出来事でした。
翌日、岐阜新聞を身内が取っていないので、弟が駅前の新聞配達店へ買いに行きました。
ただ長生きしたというだけのこと、社会や行政にはどちらかといえば厄介婆なのに、多くの行を割いて報道され恐縮しました。
バトンタッチした同市の次の人は、103歳の市内のお婆さんになったと、この方も氏名入りで報道されていました。
敬老の日の市長さんの表敬訪問は度重なるので辞退し、支所長さんが表敬してくださっていました。
平成22年秋には、慶応義塾大学医学部付属病院 老年内科診療部長 廣瀬信義先生が、政府助成金研究の、「超百寿者研究」105歳以上全国的広域調査 で来宅され、生活履歴、生活習慣などの聞き取り、在宅する1親等を含めた血液採取など、研究対象にもなりました。
大変名誉なことです。
母の姉妹は3人でしたが姉は104歳、三女は99歳といずれも超長寿者でした。兄が1人いましたがこの方は70歳代だったと思います。
平日は仕事を外せない私の家族や、他の学生の孫達も、この日、日曜日に遠路お別れに来てお参りして帰っていきました。「死者は生者を煩わせず」、それでいいと私が指示しました。
私の家族を含め夕食を共にし、仮通夜は浄土真宗のお勤め「正信偈」(しょうしんげ)を唱和しました。
ご主人の葬儀お参りありがとう。
左フレームのメールは初めてもらった。
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