cosmotiger発信!!

日本一脚の速い「鉄ちゃん」を目指します!
時刻表検定1級
10km33:04、フルマラソン2:46:31

コスモタイガー漂走記~旧紀州街道編②~前編

2025-02-17 | 旧紀州街道run/更新中
単身赴任後初の正月を名古屋でゆっくり過ごし、いよいよ2019年となった。
正月ムードもようやく終わりかけた1月中旬の休日。
1ケ月以上間隔開いてしまったけれど、せっかくの大阪での休日だ!
そしてお天道様もしっかり見えててまさにトレーニング日和。

とはいえ、明日日曜日はレース申し込んであるんだよな。
うーん。

でもレースといっても1年の中ではそこまで狙ってるレースでもないしさ、半分は練習の一環。
紀州街道の続きなら、たいした起伏もねぇし、問題なかろう。

ということで、いろいろ迷ってて街道runにしては遅めの時刻に社宅を出発。
天下茶屋駅で南海電車に乗り換える。

前回のゴール地点は松ノ浜駅。
だから今日も松ノ浜駅からスタート、が普通なんだけどね。
でも鉄チャンとしてはそれは面白くないのさ。

ってことで、羽衣駅で急行列車を下りる。
ここで南海高師浜線に乗換♪
わずか2駅、1.4kmのローカル線♪

乗車時間たったの4分だったけど、終点高師浜駅で行止まりの盲腸線というのもたまらんな~。
テンション爆上がりで高師浜駅を記念(証拠?)にパチリ。(冒頭写真)

本当はこの高師浜駅舎も大正期の建造物で、鉄チャン的にはもう少しのんびり拝見したいところだけど、社宅出たのが遅かったからね。
すでに13:30を過ぎているからさ。
ここを本日のスタートとして、先へ進みましょう。

といいつつ、ここはまだ紀州街道ではない。
街道は東へ約150m、府道204号を超えたすぐの道。
病院が目印ね。

ってか、ここ、前回走ったところ(笑)
少し重複してるからね。
まずは前回のゴール、松ノ浜駅まで約2.5kmまではアップ代わり?に脇目を振らずに走る。

というわけで、松ノ浜駅近くの前回のコースアウト地点に再び戻ってきた。
さあ、ここからが前回の続き。
ヤマダ電機が右手にあって、恐らくかつてはこの敷地の中を街道が通ってたんだろうね。

だからヤマダ電機を過ぎると、右手にそれらしき道が現れる。
といってもこれまた500m弱かな?
府道にまた合流。

でもまた200m弱。
春日町南の交差点を右折すれば、旧街道らしき道が復活する。
そしてここからはしばらく道なりに走ることになるようだ。
泉大津駅近くで結構栄えてるんだけどね、街道らしい雰囲気が残り、丁寧な案内板も用意されている。
今度はアーケードが見えてきた。
中央商店街という名前の通り、泉大津のど真ん中の商店街で、ちょっと走るのが恥ずかしい。
(でも走る(笑))

あちこち旧街道走ってると、商店街が旧街道、なんてさして珍しくもないからね(笑)
ここはとにかく走って通り過ぎるのみ。

アーケードを抜けると犬走もある屋敷が点在し、旧街道らしさを所々で感じられるね。
左手に古刹が見えてきた。
観海山観音堂。
和泉西国札所、なんてものがあって、第16番札所になっている。
要するに昔からの寺ね♪

盾波橋を渡る。
下を流れるのは大津川。
ここを境に忠岡町に入った。

もっとも忠岡町はわが国で面積が小さい市町村で(3.97平方km)、さらに東西に細長い忠岡町を南北に横切るだけ。
わずか数分、約800mほどで忠岡小学校を過ぎたら、もう岸和田市だ。

そして左手に現れたのが八幡山公園。
誰もいない静かな公園となっていて、ちょっとほっこりできる。
あまり面影は感じられないけれど、すぐ隣に弥栄神社があって、それらしき面影は感じられないけれど、セットで春木八幡山古墳といい、前方後円墳になっているようだ。

神社が前方で、公園が後円ね。
ダジャレなんかいってる場合じゃないね。

さらに街道を黙々と走ること約800m。
西福寺。
室町時代以前からある古刹ということらしいが、手だけ合わせて先へと進む。
徐々に岸和田市の中心に近付いていることを実感。

まっすぐに進む旧街道。
やがて真っ黒に目立つ山車が現れた。
並松町の地車庫。
地車は「だんじり」と読むらしい。
そういえば岸和田といえば「だんじり」だよね。

さらに進むと、なにやら明治風の建物が目立つ。
そのうちの一つ、「かじやまち事務所」の赤い看板が印象的だ。
現在では、レンタル事務所?公民館のような形で利用されているらしい。

その反対側(右手)にも素敵な建物が。
もっとも、こんなところで立ち止まって首を左右にしている場合ではない。
いよいよ岸和田市の中心へと入り、江戸末期から明治期の街並みエリアへと入っていくようだ。

まだまだトレーニングは道半ば。
お天道様に請われるように、足は進んでいる。
(続く)
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コスモタイガー漂走記~旧高野街道編(2)~後編

2024-11-26 | 旧高野街道run!!/更新中
高野街道京大坂道と別れて国道沿いに約150mのところにある学文路駅。
といいつつ、「京大坂道」と別れただけで、ここから国370号に沿って、あるいは国370自体が高野街道の支線ともいうべき道だった違いない。(これはまた別の機会にね♪)

とりあえず国道に沿って、というより南海高野線に沿って走る。
2km弱走っただろうか。
いよいよ看板が今日の目的地「九度山町」に入ったことを知らせてくれる。

その名も「九度山」の交差点に到着。
左手の急坂道を上がったところに南海高野線の九度山駅がある。

和歌山県伊都郡九度山町。
人口4,000人にも満たない小さな田舎町である。
なぜ目的の高野街道京大坂道を外れてまで走ってきたのか?って。

答えは簡単。
大好きな真田家にまつわる街だからだ。
ここに来たくてウズウズしてたのさ。

目の前を流れる丹生川に沿って交差点を右手に行くと、いよいよ九度山の中心だ。
言うまでもなく、一昨年(2016年)の大河ドラマ「真田丸」が記憶に新しいところではあるが、コスモタイガーにとってはやはり高校時代にむさほるように読破した池波正太郎の「真田太平記」がもっとも印象的だ。

もともと時刻表がホームグラウンドだからね、上田とか別所温泉とか沼田とか松代とか、信州・上州の結構マイナーな地名が出てきても、ちゃんと位置関係がわかってるから歴史物も繋げて覚えられることを知ったのもこの本あたりがきっかけではなかろうか。

関ヶ原合戦で西軍に属したため、第2次上田合戦で徳川秀忠を散々に翻弄したにも関わらず、蟄居のみとなった真田昌幸とその子信繁(幸村)が長く過ごした地がこの九度山だ。

父昌幸はここで不遇のうちに亡くなったものの、息子の幸村は14年もの長き蟄居生活ののち、あの大坂冬の陣・夏の陣で伝説的な活躍をすることになるんだよね。
(本名は信繁だけど、本稿では認知度高い幸村に統一します)

頭上には「真田のみち」なんて大きな看板が掲げてあるから迷いようがなく、そのまま進めばすぐに遍対面石。
この対面石自体は真田とは関係なく、高野山は女人禁制のため、弘法大師が山を下りてここでお母様と対面したという逸話から来ているらしい。
その前には、もう一度は耳にした史跡を示す道標が建つ。
さあそして、ここからはもう練習にならないからさ、ここを本日のrunの終了地点としよう。
恐らくちょうど20kmぐらい走ったんじゃなかろうか。

ここからはクールダウン兼ねてウォーキング、というのは言い訳で、ただの観光♪
案内板も丁寧すぎるほどあるから説明も不要。

はい、100mもしないうちに真田古墳。
要するに抜け穴伝説の場所ね。
一説には幸村は厳しい警護をかいくぐり、この穴から抜け出して大坂城に入ったとされる。
いくら名軍師幸村といえど、さすがにそれは厳しいと思うけどなぁ…。

さらに道なりに。
やってきました!!真田庵!
正式には「善名称院」というお寺で、ここに真田親子は住んでいたのさ。
表札も誇らしげに掲げてある。(冒頭写真)

そして中に入れば「真田家屋敷跡」の説明書き。
いや~、モチベーションMAX状態!
隣接状態で、父昌幸の墓所も案内されている。
もし昌幸があと数年長生きし、大坂城に入っていたら…。
タラレバでしかないけれど、息子幸村が指揮した真田丸の合戦もまさに後世に残る名采配であるが、昌幸ならすでに実績十分なため、打って出ることを許可され、ゲリラ戦を用いて長期戦に誘導したんだろうな、と想像してしまう。

遅ればせながら本殿にお参り。
瓦をよく見ると、あの有名な六文銭が描かれ、もう気分はアゲアゲ状態なのさ。

さて、名残惜しいが真田庵という今日のメインディッシュ?を終え、さらに「真田のみち」を進む。
この道自体、主要ではないものの、街道の1つなんだろうね。

今でこそ南海電鉄九度山駅があるけれど、当時は決して便利とは言い難い高野街道からも外れたこんな僻地に蟄居させられた真田親子。
いかに徳川家康が真田を恐れていたかが実感できる。

すぐに右側に出てきたのが「真田ミュージアム」。
ぜひ入りたい!今すぐ入りたい!
でも入ってしまったらある程度の時間見ないといけないし…。
ということではやる気持ちを抑えて先へと進み、いったんトレーニングを終わらせよう。

丹生橋を渡った先に道の駅「柿の郷くどやま」があり、ここで観光も含めて本日のトレーニング終了!

時計は間もなく15時。
ランチの時間は過ぎてるせいか、思ったほど観光客はいない。

とりあえず汗の始末と着替えを済ませ、給水兼小休憩。
単身赴任の侘しい?身では土産なんか買ってもしょうがねぇし。
昼食食べそびれてしまったけど、走り終えたばかりの身でそんなに空腹感も感じない。

ってことで早々に来た道を戻り、真田ミュージアムで締めるとしよう!

一昨年(2016年)の大河「真田丸」の際には大河ドラマ館にもなったらしい。

入館していきなり、赤備えと六文銭の武具!

真田親子が蟄居中に編み出したとされる「真田紐」も陳列されている。
なんやかんやと楽しんでいたら、時計はすでに17時近い。
師走の日は短いね~。
そろそろ駅に戻ろうか。

某電話会社の九度山ビル。
何の変哲もない交換所だけれど、「九度山」という文字だけで後ろ髪を引かれる思い。
九度山駅に戻るころにはすっかり日が傾いた。
真田の赤備えが、駅の灯に映えて美しい。

さあ、明日からまた仕事だ。
やってきた電車に乗り込み、南海電車を乗継、20kmの道のり以上に、真田の世界を満喫できた満足感に浸りつつ、ひたすら大阪の社宅に戻るコスモタイガーであった。

あ!そういえば結局、朝食以降何も食べてない。
腹減った~!!晩飯どうしよ~…。

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コスモタイガー漂走記~旧高野街道編(2)~中編

2024-10-01 | 旧高野街道run!!/更新中
橋本橋を渡ってすぐ、右折。
この道は県道13号に指定されているようだ。

「向副」という信号もない十字路をそのまま進んでしばらく。
正面にガソリンスタンドを見て、右へと分岐するのが高野街道(京大坂道)だ。

紀ノ川のサイクリングロードに沿うように進むこと約300m。
「三軒茶屋大常夜灯籠」。(冒頭写真)

名前からしてここに茶屋が3軒並んでたのかな?
そしてこれがさっき川向うで見た四里道標石の常夜灯と対の関係で、その間を渡し舟で渡っていたとされる。

この道はいかにも旧街道らしい雰囲気で、快調に足を進めること約5分、距離なら700~800mぐらいだろうか。
素敵な風景に思わず足を止めてパチリ。


信号もなく、車もめったに通らないから走りやすい。
T字路に出て左折。
学文路天満宮一の鳥居なんてものが左手に現れ、ちょっとそそられるところではあるものの、天満宮は直線距離でも500m以上離れた高台ということで、先に進むとしよう。

ちなみに学文路と書いて「かむろ」と読む。
高校生の頃に熟読した真田太平記にも出てきた地名だし、並走している南海電鉄高野線に学文路駅があるからね。
ネット等でたびたび紹介される難読地名・難読駅名も、鉄チャンのコスモタイガー的には初めての様な気がしない響きなのだ。

県道13号に合流する地点には地元の人たちに整備されていると思われる小綺麗な祠がある。

高野山六地蔵の第2の地蔵、という説明書きがある。
名前の通り6つの地蔵さんがあるんだろうけど、目的は「高野街道を利用したトレーニング!」(笑)だからね。
そのまま県道を走りましょう。

700mぐらいかな?
左斜めに入る小道がある。
これが旧街道やね。

すぐにT字路になり、旧街道は右なんだけど、「←大畑才蔵勝善の墓・かむろ大師奥の院」なんてそそられる案内板があるんだよね。
ここまで順調に進んだから〈言い訳〉、この辺で寄り道しましょうか。

車1台がやっとの道を左右にカーブしながら上る。
南海線を踏切で渡り、反時計回りに登った先にあるのが「かむろ大師」。
ここに案内板どおり、大畑才蔵さんの墓があった。
とはいえ、そもそも大畑才蔵さんが何者なのか、さすがにリサーチしてこなかったからなぁ。
どうやら江戸中期、主に紀州藩を中心に活躍した土木技術者で、治水や灌漑工事で活躍したらしい。
当時の学文路村で生まれ、今も学文路の地で静かに眠っている。

ここはかなりの絶景スポットらしく、数人の散策?ドライブ?の先客もいた。
大師というんだから、弘法大師にゆかりがあることは間違いないが、ごめん、メインは高野街道だからね。
この辺はリサーチ不足気味。

高野街道に戻る途中、中腹といえる場所に、かむろ大師の奥ノ院がある。
奥ノ院のほうが手前にあるというのも若干不思議な感じはするが、こちらも数人の先客がいるものの、静かな山寺の雰囲気ではある。

立派な本堂に手を合わせてトレーニングの無事を祈っておこう。
さぁ、今日はこの先、まだ楽しみが残ってるからね。
寄り道はこの辺にして旧街道に戻りましょう。

来た道を戻って旧街道を進む。
案内表示が整備されているため迷うことはない。

国370を斜めに横切り、街道らしい道が続く。
街道名物?の郵便局前を通過し、左にカーブすれば再び国370に出る。

その合流の手前にあるのが「学文路三叉路道標石」。
当時の文字もまだ読めるんだね~。

案内板によれば、このまま直進で国370を横切り、その先の南海高野線を渡って明らかに登っていくのが旧街道。
でもコスモタイガーはここでコースアウト!
国道に沿って走る。
といってもわずか150mほどで学文路駅なんだけどね(笑)
旧高野街道runとしては、さっきコースアウトしてるし、すでに20km弱走っている気がするからね。
このまま帰ってもいいんだけどさ。

でも絶対外せない腹案があるからさ。
幸い、時計はまだ14時を少し回ったところ。
まだまだ帰れないんだよな~。

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コスモタイガー漂走記~旧高野街道編(2)~前編

2024-08-05 | 旧高野街道run!!/更新中

★関西ネタです

 

【2018年12月某日】

社宅で過ごす週末、しかも雨も降っていないとなると、もう体がウズウズしてくるのさ。

昨日、紀州街道(1)を終えたばかりなのにね。

でもそのまま紀州街道の続きという気にもなれないからね。

 

まるで昨日のテープレコーダーのごとく、朝から朝食と洗濯をさっさと済ませれば、やっぱりもう一つの走破中の街道、高野街道に足が向かってしまうのさ。

 

最寄りの北浜駅から大阪メトロ堺筋線、天下茶屋駅で南海電鉄高野線の急行に乗換。

やってきました、林間田園都市駅。(冒頭写真)

時計はすでに11時をわずかに過ぎている。

 

名前から想像される通り、駅の西側には大規模団地が広がるものの、周辺は売店すら見当たらない。

東口に出て、早々にトレーニングを再開する。

 

駅前のヘアピンカーブを下り、国371に出て、道なりにしばらく走れば、前回のコースアウト地点だ。

斜めの道を下りてきたところだったよね。

資料によれば、ここからそのまま国道を走るようだ。

 

500m弱走れば、道路の右側にすり減ってしまった感がある「高野街道五里道標石」。

そうそう、高野街道お馴染みの道標石で、東海道や中山道の一里塚に該当するわけで、これがあると安心だね。

 

さらに国道を進む。

300mぐらいかな?

右へ分岐する道がある。

緩やかなカーブには旧街道らしい匂いがいっぱい(笑)

ということで、迷うことなくこの道ね。

いかにも旧街道らしいカーブが続くが、しばらくはシャメスポットもなさそうで、しかも緩やかな下りということで足は快調に進む。

左手にひっそりと橋谷地蔵尊なんてものがあって、ここが街道であることをこっそり教えてくれているようだ。

 

しばらくして左右に分岐。

ここは左の方が正解らしい。

もっともどっちを行っても150mほどで一緒になるんだけどね。

 

御幸辻なんて地名がいかにも旧街道らしい。

辻は十字路のことであり、その名前の交差点が、左手やや離れたところを走る国道にある。

右手離れたところには、その名の南海電鉄の駅もある。

 

「御幸辻南」の信号で、旧高野街道は国道371に合流。

国道を横断した先の、私道のような道が旧街道らしい。

でもすぐに右へ折れ、また国道に引き戻される。

 

200mほど走れば左手にひっそりと常夜灯。

そしてここで国道の反対側、左折する道があって、どうやらここを行くのが正解のようだ。

しばらくは古いお屋敷の間を縫うように走る。

 

再び国道に吸収され、そのまま走り続ける。

右側には橋本川が寄り添う。

 

しばらくして右手に「下小原田」というバス停がある。

資料ではこのまま国道を案内しているが、恐らくこのバス停から出ている小道が正解だろうな。

で、小道を少し先で左へ分岐していたものと思われるが、現代は消失しているんだろうと推測される。

 

というわけで、国道をそのまま走るが、この辺りは歩道もないから別の意味でちょっとした難所ではある。

50mほどで左へカーブするのが旧街道ね。

そのままさっきから視界に入っている高架(京奈和)自動車道)を潜り、そのまま道なりに。

 

しばらくはこのゆるやかな曲線道路に従って走るのみ。

こういう道は飽きないからなぁ、快調に足は進む。

 

少しづつ高度を下げ、家並みも増えてきた。

橋本市街地に入ってきたらしい。

 

久しぶりに信号を見たな。

その先、左斜めに分岐する狭路が高野街道であることは容易に想像できるが、そこに古い道標が建つ。

どうやらさっきの信号のところが追分になっていて(東屋四辻というらしい)、交わる道はこの辺りでは伊勢街道と呼ばれているようだ。

 

当時の慣例で、街道の名前は、ゴール地点を指す。

伊勢に向かう道はみな伊勢街道だから、同じ名前の街道が複数あっても不思議ではない。

今のように全国規模でその日のうちに移動できたり、情報が瞬時に入る時代ではなかったから、それでも問題がなかったんだろうね。


そして同時にここが交通の要衝でもあったことの証左でもある。

そのまま足を進め、いよいよ橋本の街の中心だ。
国道24号の渡った先にあるのが、四里道標石と立派な常夜灯。


 目の前は紀ノ川のため、現代では道が大きく右に折れ、川沿いに進んでいる。

高野街道はここからは対岸まで舟渡しだったようだ。

背後には歯痛地蔵尊。
甘党でビール好きのコスモタイガー、虫歯も多いからね。
神妙に手を合わせておく。

現代ではここから舟は出ていない。
いったん国24に戻り、東へ向かえば、視野に入っていた橋本橋の北側のたもと。

ここに丁寧な観光案内板。
黒河(くろこ)道の紹介のようだ。

ここ橋本の街は、高野街道にとって重要な拠点の1つであり、ここから高野山へ向かう道は主だったところで7つあったらしい。
高野七口と呼ばれ、黒河道・町石道・京大坂道・相ノ浦道・小辺道・有田龍神道・大峰道の7つの道を指す。
そのうちのいくつかは、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部にもなっている。

まぁさすがに7つすべての道を走るのは難しい。
とりあえず今回は、江戸時代もっとも利用されたとする京大坂道を走ることを予定しているんだけどね。

たもとの反対側(東側)を見ると、大きな垂れ幕が掲げてあった。
前畑がんばれ!!
そう、あの前畑秀子さんね。

ベルリンオリンピック平泳ぎの金メダリスト、そして日本女子初の金メダリストとして、その業績は今も輝き続けている。
彼女はここ橋本市の出身。
幼いころから紀ノ川で泳いでいたなんて逸話をどこかで拝見した記憶がある。

その才能を見出したのが、名古屋の椙山女学園の初代理事長、椙山正弌氏。
いまでいうスポーツ推薦で椙山女学園(中学・高校)に入学させ、彼女を世界のトップスイマーへ押し上げていったのさ。(もちろん前畑さん本人の相当な努力があったことは言うまでもない)

橋本市民にとっても名古屋市民にとっても誇らしい人物であり、確かに垂れ幕通り、朝ドラの主人公になってもらいたいな♪
(※朝ドラに先んじて?翌2019年、大河ドラマ「韋駄天」で前畑さん扱われました♪上白石萌歌さんが好演しました。)

さて、この橋を渡らずそのまま国道を進めば橋本駅に向かうことになるけれど、さすがにトレーニングとしては距離的に短すぎる。
橋本橋を渡ってこのまま旧街道を進むことに迷いはない。
そしていよいよここから、高野街道は再び少しづつ登っていくことになりそうだ。
時計はまだ12時半を過ぎたばかりだ。

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コスモタイガー漂走記~旧紀州街道編①~後編

2024-06-05 | 旧紀州街道run/更新中
空腹もそれほど感じることなく、道なりに足を進める。
くねくねと緩やかなカーブが街道らしさを伝えてくれてはいるが、これといったシャメポイントはない。
 
3kmぐらい走ったかな?
右手やや奥まったところに神社らしき森が見える。
久々のシャメポイントを期待して、立ち寄ってみる。
 
「石津太神社」
 
わが国最初の戎様、ということらしく、相当の由緒があるそうだ。
かつては広大な社領を持ち、太閤秀吉の手厚い保護もあったそうだけれど、今は住宅地の中にひっそりと存在している。
 
手だけ合わせて街道に戻る。
すぐに石津川を渡る。
 
その渡り終えたところにあるのが、北畠顕家戦死の地。..
南北朝時代の悲運の名将として、歴史ファンなら知っている。
最後は足利尊氏の右腕、高師直(※旧西国街道編4参照)との戦い(石津の戦い)に敗れ、ここで討たれてしまったんだね。
 
さぁ、ここもそのまま道なりに進む。
右手少し離れて南海本線「諏訪の森」駅がある。
 
しばらくするとあれれ、その南海本線の線路に遮られ、行止まりになってしまった。
 
でも地図で確認すると、線路の向こう側に明らかにそれとわかる形跡が残る。
いうまでもなく、南海本線によって旧街道は寸断されているわけね。
 
仕方なく少し戻って踏切で線路の反対側に廻り、広い幹線道路(府道204)にいったん出る。
 
斜め前方に何やら大きな公園があるが、とりあえず視線を左に移せば、旧街道の残骸ともいうべき脇道が100mほど残っている。
 
 
さて、右前方の大きな公園は、浜寺公園だ。
1873(明治6)年に完成という歴史ある公園で、「名松100選」といわれる松林と広大なバラ園も有している。
 
などという説明不要なぐらい、関西地区の人はおそらく誰でも知っているスポットではなかろうか。
そしてコスモタイガーも大好きなレースの一つ、毎年2月開催の「泉州国際市民マラソン」のスタート地点でもある。
(※残念なことに、2023年2月を最後に開催休止となりました)
 
なのでこの公園自体はコスモタイガーはすでに5~6回目になるのさ。
でも走る前の緊張感ある風景しか知らないからさ。
 
せっかくだからちょっと散策run。
こんなにのんびりした浜寺公園は初めてさ。
 
 
何せ広大な公園で、このままずーっと公園内走ってても飽きないぐらいの場所ではあるけれど、それじゃ紀州街道runにならないからね。
 
ちなみに最寄駅の南海浜寺公園駅は、私鉄最古の駅舎として保存されている。
しかも初代東京駅舎と同じ、辰野金吾氏デザインのものであって、鉄チャンとしては外せない場所ではあるものの、これまた泉州マラソンで何度も利用してるからね。
旧街道runの趣旨からは外れるからスルーしておく。
 
厳密にいえば府道204に戻るところだけれど、旧街道らしいところは何もなく、しかも泉州国際市民マラソンのコースとして何度も走っている幹線道路を走るだけのシチュエーションだから、ここはそのまま公園内を南に走る。
道沿いには古い消火栓も残され、公園としての歴史を伝えている。
2つある野球場と交通遊園を後にして、ボチボチ公園を脱出。
すでにここは高石市に変わっている。
 
すぐに左折して、まずは旧街道(府道204)に復帰。
そのまま府道runすれば、線路下を潜る。
南海電鉄高師浜線だ!
ここも鉄チャンとして、特にローカル私鉄大好き人間としてはぜひ乗りつぶしておきたい路線ではあるが、今日のところは鉄オタの衝動を抑えてこのまま走る。
 
その先すぐに、高師神社前という信号で、左斜めに分岐するのが旧街道。
 
そしてこれだけあちこち旧街道走ってくると、地名には一定の「くせ」みたいなものがあって、「高石」は「高師」の転訛したものだろうという見当が付いてくるよね。
 
ここから再び街道らしさをわずかに残すうねり道となる。
1.5kmほどで再度府道に合流し、今度は右に分岐。
 
堺泉北有料道路をアンダークロスしてしばらく。
右手にいかにも歴史ゆかしき大きな屋敷が!
 
登録有形文化財「助松本陣田中家住宅」。
 
ここ助松は宿場では正規の宿場ではないから、いわゆる御休処としての本陣だね。
なんて知識も、元々は旧東海道の岩淵地区を走ったりしてるうちに身に着けた知識だ。
まぁそれでもお殿様用の建物には違いなく、荘厳な佇まいである。
残念ながら内部見学は不可らしいので、未練たらしく?周囲をウロウロ。
別アングルでシャメしてみたりする。
 
 
ここから先、まだまだうねるように街道が続く風景に思わずパチリ。
 
迷うこともなく、うねる道を走る。
さぁ、そろそろ今日は終わりにしたい。
 
300mほど走った先にあるのが、助松村境石造物群として、隣接の延命地蔵尊とともに今も大切に保存されている。
府道38号をアンダークロスして少し走れば、右手に松ノ浜温泉。
といっても、要するに昔ながらの銭湯ね。
 
時計は15時を過ぎた。
銭湯すぎると街道は府道204に吸収されたから4、ここを本日のゴールとしよう。
南海本線松ノ浜駅はこのまま府道を渡って直進すれば徒歩でも3分とかからない。
 
ホッと気を抜きつつ歩いていたら!!
とある商店のウインドーケースに目が惹きつけられた。
 
ヤマト!
ヤマトがいるぞ!
戦艦大和じゃなくて、頭に「宇宙」が付く方のヤマト♪ (冒頭写真)
 
その隣には、ヤマトの艦載機、コスモゼロとブラックタイガー。
またの名を「コスモタイガー」
 
なぜこんなところに置かれているのか全く不明ではあるが、思わず足を止めて立ち尽くす。
ご本家?の「コスモタイガー」に出会えてテンション爆上がり。
 
艦載機のように縦横無尽に飛びまくりたい(走り回りたい)と思って名乗りだしたのがハンドルネームの由来なんだけどね、もはや年齢的に縦横無尽とは言い難い状況ではある。
 
なにはともあれ、心地よい疲労感の中、そろそろ帰りたい。
 
松ノ浜駅到着。
 
鈍行しか停車しない目立たぬ駅ではあるが、本線だからね。
運転間隔は心配なく、途中で急行に乗り換える。
寄り道もせず、いったん社宅へ戻ろうかな、と。
洗濯物、ベランダに干したままなのさ。
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