またまた一週間後。
相変わらず暑い日差しが続く中、コスモタイガーは、正午ちょうどに前回のゴール地点、善師野駅に降り立った。(冒頭写真)
結局また上街道にしたんだよね。
57次も気になるけどさ、上街道の方が財布にやさしいし、近いし。
その気になれば、こうして毎週でも走れる魅力がある。
でも地下鉄ばかりじゃ面白くないからね。
それにルート的にもここまで来れば名鉄の方が便利。
今日は鳴海駅に自転車を置き、名古屋本線→犬山線→広見線、と名鉄だけを乗り継いできたのさ。
眩しいのと暑いのはどうしようもないけれど、無人駅、そして下車したのは自分だけ。
田畑が広がる駅前風景。
長閑だなぁ~。
駅前がわずかばかりの広場になっていて、そこには[善寺野宿案内図」と書かれた木製の看板が描かれている。
気になるのは、左隅に(中山道)、と書かれていること。
ここがなぜ中山道?
69次に善師野(善寺野)宿なんてないんだけど。
でもこの看板、決して間違っているわけじゃない。
その話は長くなるから後にするとして、とりあえずスタートしよう!
ってここで、記念のシャメだけをおさめ、トレーニング開始!
200mほど線路に沿って戻ったところが前回のコースアウト地点だ。
右折して踏切を横断。
緩やかに登りつつ、1本の細い道がこの先の山に向かって続いている。
善師野宿。
今でこそ静かな集落だけど、ここは上街道の宿場なのだ。
道沿いに古い常夜灯もあり、ここが昔からの集落であることは確実に理解できる。
300mほど進んだ先に、1本の石柱があって、「善師野一里塚跡」を示している。
藩道でありながら、一里塚もちゃんと整備されていたんだね。
道なりに進み、少しづつ高度を上げる。
突然目の前には貯水池!
山に向かってる最中だから、ちょっと面食らうけど、夏の日差しの中、涼しさを若干感じる光景ではある。
すでに足元は舗装路ではない。
2つの貯水池の間を縫うように走ると、十字路に出た。
そこに東海自然歩道の標識が建っている。
東海自然歩道とは、東京の高尾山と、大阪箕面山を結ぶ、環境省管轄のハイキングコースだ。
場所によっては、かなり上級者向きの本格的なコースもあるという。
この東海自然歩道も大好きで、子供の頃、よく父に付いて歩いたものだ。
愛知県内は9割方、歩いている気がする。
標識によれば、自然歩道は左の道からやってきて、ここからしばらくは上街道と一緒になるらしい。
ってことで、標識の「▲熊野神社」に向かって足を進める。
この辺りからは完全なクロカンコースの様相を呈してきた。
そりゃ、自然歩道だからね、当然だけど。
距離にすれば約600m。
山の中のクロカン道を走れば、再び十字路だ。
ここにも東海自然歩道の案内板が建つ。
実はここで東海自然歩道も分岐。
本コース(愛知県コース)と恵那コースに別れるんだけどね。
いずれまた合流するんだけど。
そしてここは今、愛知県犬山市と岐阜県可児市の境界線上、つまり県境ってことだ。
さて、上街道は、というと、「恵那コース」に従ってここを直進、岐阜県に入る。
ここからは下りだ。
クロカン道を気持ち良く下っていくと、いつしか足元は舗装路となった。
左右両側の視界が広がった。
ゴルフ場のようだ。
何だかゴルフ場の真っ只中、カート道を走っている錯覚に陥る。
Yの字分岐は左を選択、さらにゴルフ場が続く。
ちらほらと住宅が見えてきて、集落になったと思ったら、左手に「建速神社」。
こういうのがあると、ここが旧街道と確信できるから助かるよね。
道はそのまま左に折れ、静かな集落の中を走る。
車どころか、人の通行すらない。
集落を外れると、小さな川沿いを緩やかに下る。
折りきったところで県道349にぶつかる。
その真ん前の高架は、国道41号。
県道を走り、国41の高架下を潜る。
怪しげなホテルを過ぎると、「土田(どた)城址」の石碑。
右側の山が、その城跡らしい。
説明書きによれば、文明年間(1469~1487年)に土田氏により築かれたとある。
この土田氏についての詳細も調べてみると、奥深く、長くなってしまいそうなので省くけれど、織田信長の生母、その名も土田御前の実家とされている。
奇行の多かった長男の信長を「うつけ」と決め付けて嫌い、まじめな弟の信勝(または信行とも)を寵愛した。
だからのちに末森城(現在の名古屋市千種区の末森神社:身近な気になる古道たち⑥参照)で信勝と生活も共にしたんだね。
その所業が家督争いの原因となり、やがて信勝は、兄信長によって殺されることとなった。
これにより織田家家督は信長で1本化。
家中をまとめた信長は、かの有名な桶狭間合戦(旧東海道編5参照)で今川義元を撃ち、一気に全国区のスターへと駆け上がって行くことになる。
その先で道は追分のように二手に分岐。
「恵那コース」は右らしいけれど、上街道はこのまま左の県道349を選択。
恵那コースに従えば、最寄の名鉄「可児川」駅に導いてくれるらしい。
200m先を右折するのが正解らしく、次の十字路の右側に「冨春寺」がある。
ここでまた左折。
その先、道なりに、左・右と緩やかにカーブ。
もしかして升型なのか?
ってことは、そろそろ次の宿場町、「土田宿」が近いんだね。
再び県道349に突き当たり、ここで右折。
さぁ、資料によれば、この辺から土田宿らしい。
公民館が左手に見えてくると、その反対側(右手)斜め前ぐらいのところに、黒っぽい屋敷風の建物を発見!
これが土田宿本陣跡。
脇往還にしては随分と立派な本陣だったそうで、尾張藩初代藩主、徳川義直公が宿泊した際に、「止善殿」の別称を与えられたとされる。
さて、コスモタイガーは、上街道を走っているはずである。
当然ここも、上街道土田宿だ。
再度繰り返すが、上街道は尾張藩が整備した「藩道」であり、中山道の脇往還だ。
にも関わらず、この土田集落の歴史は相当に古く、東山道沿いの集落として古より存在していたとされている。
その東山道は、土田~犬山の経路を辿っていたとされている。
ん?
東山道?
そう、中山道の前身として存在していた、あの東山道だ。(詳細は旧中山道編3、他参照)
そして今日のトレーニングルートは、まさに東山道を辿っていることにもなるんだね。
織田信長は武田氏を滅ぼすために、東山道を駆け、途中に土田集落を通ったとの記録もあるとか。
その後、この道はそのまま中山道と呼ばれるようになった。
西暦1600(慶長5)年の関ヶ原合戦。
東軍(徳川方)は二手に分かれ、父の家康軍(33,000人)は東海道を、息子の2代将軍秀忠軍が38,000人を率いて中山道を進軍し、関ヶ原で現地集合♪
秀忠は「あんな小城、ちょろいもんだ!」とばかりに、中山道から少し外れた上田城にちょっかいを出す。
いわゆる第2次上田合戦というやつだ。
そう、上田城。
あの真田一族の拠点。
守るのは真田真幸と次男の信繁(のちの幸村)で、わずか3,000人あまりと、秀忠軍の10分の1にも満たない数。
結局上田城攻略はならず、それどころか真田親子の奇策に翻弄され、大量の死者を出した上、日時だけをいたずらに浪費し、慌てて中山道を西へ。
その途中、この土田宿に宿泊したとされている。
さぞかし、いたたまれない夜を過ごしたに違いない。
結局、集合時間には間に合わず、父家康は秀忠抜きで西軍(豊臣方)と大激突に。
家康にすれば、あてにしていた秀忠軍が来ないから焦っただろうね。
当然、数に勝る西軍が有利に進む中、小早川秀秋の裏切りによってかろうじて徳川方の逆転勝利に終わったものの。合戦終了後にのこのこと現れた秀忠に大いに激怒!
そりゃそうだ、息子に期待して自軍より多い兵を預けたのに、寄り道した上惨敗し、遅刻したんだもんね。
一説には切腹を命じたところ、家臣がやっとのことで諌めた、なんて話もあったような・・・。
おっとっと!
随分と話が脱線しちゃった。
大河ドラマや歴史ドラマでも何度も扱われている秀忠の進軍。
そう、そこに出てくる中山道は、この土田宿や善師野宿を通ってたんだ!
中山道は、度重なる災害の影響で、各所で何度も付替えを余儀なくされている。
特に1641(寛永18)年の付替え工事は大掛かりなもので、まさにこの辺りのルートを一変させたとか。(※旧中山道編11参照)
その後、最終的には1694(元禄7)年に、正式に伏見宿が認められ、伏見~太田~鵜沼の新ルートが正式なものとなった。
と同時に、この土田宿は廃宿となり、東山道から続く長い歴史に幕をを閉じた。
・・・と言いたいところだが、それじゃ、土田宿の人たちは困るよね。
黙っちゃ居られない。
本陣・脇本陣の維持管理他、宿場全体の沽券に関わる問題だもんね。
そのタイミングで、尾張藩が中山道から外れた部分を「上街道」に組み入れて再整備。
善師野宿・土田宿は、こうして上街道の宿場として、再出発をはかることとなった。
「国道」から「県道」に格下げにはなったけど、依然として御三家筆頭の尾張藩の藩都名古屋と中山道を結ぶ重要路線であることに変わりは無く、それなりの通行も見込まれ、悪い話じゃなかったんだろうね。
それに、新バイパス完成とともに、旧国道が県道になる話は、現代でもざらにある話で、昔も今も、道路行政はあまり変わらないってことかもしれない。
まさに今日のトレーニングルートは、上街道編というよりは、江戸初期の中山道ルートそのものなのだ。
「土田中町」で、今日初めての信号かな?
もちろんそのまま直進。
さて、土田宿もいつの間にか過ぎ去ったらしく、県道349を単調に走るのみ。
左側にに大きな工場が見えたら、もう上街道の終点は近い。
幹線道路として広くなっている県道84号に出た。
間違いなく街道はそのまま直進しているが、信号がないため、すぐ左の「今渡神明」の交差点に迂回して、横断。
100mほど進むとT字路で行き止り。
実はここを左折する道も、一時期中山道だったらしい。
あとで戻ってくるとして、まずは上街道を消化しようとと思い、右折。
左手に流れる大河は木曽川。
見覚えのある風景だ。
50mも進むと、その木曽川の岸に向かって降りていく小道がある。
うん、ここ、前来たよね。
中山道のときに寄り道したところだ。(※旧中山道編11参照)
折りきった先には弘法堂があり、その隣が「今渡の渡し跡」。
前回から2年以上経ってるかな~。
でもここから見上げる木曽川の風景は、本当に美しい。
思わずパチリ。
あの橋は、中山道runの際に渡った太田橋だ。
もう、ゴールは間近なんだね。
さて、降りてきた道を駆け上り、街道に戻ろう。
といっても、すぐに左から来た道と合流。
この道は中山道ね。
左手の先には、さっきシャメしたばかりの太田橋が、今日も木曽川に横たわっている。
はい、上街道はこれにて終了、完全走破!!
でもトレーニングとしては、ちょっと物足りないし、ここでは交通機関との接続も今1つ。
とりあえず、さっき気になった中山道の残存?を確認しに行こうか。
目の前にある富士浅間社に、無事完全走破の御礼として軽くお参りだけして、また来た道を戻る。
さっき走った上街道のT字路は、予定通りまっすぐね。
(上街道からだと左折ってことになる。)
木曽川に沿う形だけど、川自体は堤防の向こう側で全く見えない。
緩やかなくねくね道に、旧街道の確かな「匂い」を感じる。
右側、雑居ビルの駐車場には、目立たぬように「一里塚跡」の碑が建っている。
これが土田一里塚で、この道が一時期中山道だったことは間違いない。
八幡神社が正面に見えてくると、中山道は右へ方向転換。
約200mで、木曽川堤により行き止り。
この堤防の向こう側の川岸が、「土田の渡し」の跡とされている。
残念ながら、川岸への降り口が見つけられず、追跡はここまでで断念。
古くは東山道の時代から存在が確認され、江戸初期には正式な渡し場とされていた。
その後、中山道の変遷とともに、渡し場は今渡に移動していったんだね。
もっとも、非公式?には土田の渡し自体は継続し、何と昭和40年ごろまで、渡し舟が運行されていたらしい。
さて、効率悪いけど、またまた中山道を戻って、太田橋の袂まで戻ろう。
問題はゴールをどこにしようか、ってことなんだよね。
まだ決めてない(笑)
最寄ということなら、すぐの信号を右折してまもなく、「日本ライン今渡」駅があるけどね。
何だか物足りないなぁ。
そうだ、どうせ広見線に乗るなら、1つ先の主要駅、新可児駅を目指そう!
ここなら電車自体、絶対に始発だから気分的にキリがいいわ。(※旧上街道編2参照)
旧街道run自体は、実質ここで終了。
日本ライン今渡駅を素通りし、可児市内を適当に走り、新可児駅に到着し、本日のトレーニングも無事終了!
実走15kmぐらいで、ちょっと軽めのクロカン練習といった感じ。
なんだか上街道編というより、「中山道番外編」あるいは「中山道の落穂拾い」とでも表現した方がしっくりくる感じもするけれど、充分に楽しめたことだけは間違いない。
新可児駅。
ここんとこ何度もお世話になってる名鉄広見線の主要駅ね。
そして新可児駅のまん前には小さなロータリーを隔てて隣接する形で、JR太多線の「可児駅」がある。
太多線で多治見に出て、中央本線で名古屋方面に向かうのも有効な手段だけど、今日のコスモタイガーは、名鉄鳴海駅を拠点にしているし、太多線、何度も乗ってるからね。
初志貫徹!で名鉄を選択。
まだまだ陽は高いけど、駅周辺にはこれといった見どころもなさそうだし、さっさと帰るとしましょうか。