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時刻表検定1級
10km33:04、フルマラソン2:46:31

コスモタイガー漂走記~旧上街道編(3)

2016-10-07 | 旧上街道run!!

またまた一週間後。
相変わらず暑い日差しが続く中、コスモタイガーは、正午ちょうどに前回のゴール地点、善師野駅に降り立った。(冒頭写真)

結局また上街道にしたんだよね。
57次も気になるけどさ、上街道の方が財布にやさしいし、近いし。
その気になれば、こうして毎週でも走れる魅力がある。

でも地下鉄ばかりじゃ面白くないからね。
それにルート的にもここまで来れば名鉄の方が便利。
今日は鳴海駅に自転車を置き、名古屋本線→犬山線→広見線、と名鉄だけを乗り継いできたのさ。

眩しいのと暑いのはどうしようもないけれど、無人駅、そして下車したのは自分だけ。
田畑が広がる駅前風景。
長閑だなぁ~。

駅前がわずかばかりの広場になっていて、そこには[善寺野宿案内図」と書かれた木製の看板が描かれている。
気になるのは、左隅に(中山道)、と書かれていること。

ここがなぜ中山道?
69次に善師野(善寺野)宿なんてないんだけど。

でもこの看板、決して間違っているわけじゃない。
その話は長くなるから後にするとして、とりあえずスタートしよう!

ってここで、記念のシャメだけをおさめ、トレーニング開始!
200mほど線路に沿って戻ったところが前回のコースアウト地点だ。

右折して踏切を横断。
緩やかに登りつつ、1本の細い道がこの先の山に向かって続いている。

善師野宿。
今でこそ静かな集落だけど、ここは上街道の宿場なのだ。
道沿いに古い常夜灯もあり、ここが昔からの集落であることは確実に理解できる。

300mほど進んだ先に、1本の石柱があって、「善師野一里塚跡」を示している。
藩道でありながら、一里塚もちゃんと整備されていたんだね。

道なりに進み、少しづつ高度を上げる。
突然目の前には貯水池!

山に向かってる最中だから、ちょっと面食らうけど、夏の日差しの中、涼しさを若干感じる光景ではある。

すでに足元は舗装路ではない。
2つの貯水池の間を縫うように走ると、十字路に出た。

そこに東海自然歩道の標識が建っている。
東海自然歩道とは、東京の高尾山と、大阪箕面山を結ぶ、環境省管轄のハイキングコースだ。
場所によっては、かなり上級者向きの本格的なコースもあるという。

この東海自然歩道も大好きで、子供の頃、よく父に付いて歩いたものだ。
愛知県内は9割方、歩いている気がする。

標識によれば、自然歩道は左の道からやってきて、ここからしばらくは上街道と一緒になるらしい。
ってことで、標識の「▲熊野神社」に向かって足を進める。

この辺りからは完全なクロカンコースの様相を呈してきた。
そりゃ、自然歩道だからね、当然だけど。

距離にすれば約600m。
山の中のクロカン道を走れば、再び十字路だ。

ここにも東海自然歩道の案内板が建つ。
実はここで東海自然歩道も分岐。

本コース(愛知県コース)と恵那コースに別れるんだけどね。
いずれまた合流するんだけど。

そしてここは今、愛知県犬山市と岐阜県可児市の境界線上、つまり県境ってことだ。

さて、上街道は、というと、「恵那コース」に従ってここを直進、岐阜県に入る。
ここからは下りだ。
クロカン道を気持ち良く下っていくと、いつしか足元は舗装路となった。

左右両側の視界が広がった。
ゴルフ場のようだ。
何だかゴルフ場の真っ只中、カート道を走っている錯覚に陥る。

Yの字分岐は左を選択、さらにゴルフ場が続く。

ちらほらと住宅が見えてきて、集落になったと思ったら、左手に「建速神社」。
こういうのがあると、ここが旧街道と確信できるから助かるよね。

道はそのまま左に折れ、静かな集落の中を走る。
車どころか、人の通行すらない。

集落を外れると、小さな川沿いを緩やかに下る。
折りきったところで県道349にぶつかる。
その真ん前の高架は、国道41号。

県道を走り、国41の高架下を潜る。
怪しげなホテルを過ぎると、「土田(どた)城址」の石碑。

右側の山が、その城跡らしい。
説明書きによれば、文明年間(1469~1487年)に土田氏により築かれたとある。

この土田氏についての詳細も調べてみると、奥深く、長くなってしまいそうなので省くけれど、織田信長の生母、その名も土田御前の実家とされている。

奇行の多かった長男の信長を「うつけ」と決め付けて嫌い、まじめな弟の信勝(または信行とも)を寵愛した。
だからのちに末森城(現在の名古屋市千種区の末森神社:身近な気になる古道たち⑥参照)で信勝と生活も共にしたんだね。

その所業が家督争いの原因となり、やがて信勝は、兄信長によって殺されることとなった。

これにより織田家家督は信長で1本化。
家中をまとめた信長は、かの有名な桶狭間合戦(旧東海道編5参照)で今川義元を撃ち、一気に全国区のスターへと駆け上がって行くことになる。

その先で道は追分のように二手に分岐。
「恵那コース」は右らしいけれど、上街道はこのまま左の県道349を選択。
恵那コースに従えば、最寄の名鉄「可児川」駅に導いてくれるらしい。

200m先を右折するのが正解らしく、次の十字路の右側に「冨春寺」がある。
ここでまた左折。

その先、道なりに、左・右と緩やかにカーブ。
もしかして升型なのか?
ってことは、そろそろ次の宿場町、「土田宿」が近いんだね。

再び県道349に突き当たり、ここで右折。
さぁ、資料によれば、この辺から土田宿らしい。

公民館が左手に見えてくると、その反対側(右手)斜め前ぐらいのところに、黒っぽい屋敷風の建物を発見!
これが土田宿本陣跡。

脇往還にしては随分と立派な本陣だったそうで、尾張藩初代藩主、徳川義直公が宿泊した際に、「止善殿」の別称を与えられたとされる。

さて、コスモタイガーは、上街道を走っているはずである。
当然ここも、上街道土田宿だ。
再度繰り返すが、上街道は尾張藩が整備した「藩道」であり、中山道の脇往還だ。

にも関わらず、この土田集落の歴史は相当に古く、東山道沿いの集落として古より存在していたとされている。

その東山道は、土田~犬山の経路を辿っていたとされている。

ん?
東山道?

そう、中山道の前身として存在していた、あの東山道だ。(詳細は旧中山道編3、他参照)
そして今日のトレーニングルートは、まさに東山道を辿っていることにもなるんだね。

織田信長は武田氏を滅ぼすために、東山道を駆け、途中に土田集落を通ったとの記録もあるとか。
その後、この道はそのまま中山道と呼ばれるようになった。

西暦1600(慶長5)年の関ヶ原合戦。
東軍(徳川方)は二手に分かれ、父の家康軍(33,000人)は東海道を、息子の2代将軍秀忠軍が38,000人を率いて中山道を進軍し、関ヶ原で現地集合♪

秀忠は「あんな小城、ちょろいもんだ!」とばかりに、中山道から少し外れた上田城にちょっかいを出す。
いわゆる第2次上田合戦というやつだ。

そう、上田城。
あの真田一族の拠点。
守るのは真田真幸と次男の信繁(のちの幸村)で、わずか3,000人あまりと、秀忠軍の10分の1にも満たない数。

結局上田城攻略はならず、それどころか真田親子の奇策に翻弄され、大量の死者を出した上、日時だけをいたずらに浪費し、慌てて中山道を西へ。
その途中、この土田宿に宿泊したとされている。

さぞかし、いたたまれない夜を過ごしたに違いない。
結局、集合時間には間に合わず、父家康は秀忠抜きで西軍(豊臣方)と大激突に。

家康にすれば、あてにしていた秀忠軍が来ないから焦っただろうね。
当然、数に勝る西軍が有利に進む中、小早川秀秋の裏切りによってかろうじて徳川方の逆転勝利に終わったものの。合戦終了後にのこのこと現れた秀忠に大いに激怒!
そりゃそうだ、息子に期待して自軍より多い兵を預けたのに、寄り道した上惨敗し、遅刻したんだもんね。

一説には切腹を命じたところ、家臣がやっとのことで諌めた、なんて話もあったような・・・。

おっとっと!
随分と話が脱線しちゃった。

大河ドラマや歴史ドラマでも何度も扱われている秀忠の進軍。
そう、そこに出てくる中山道は、この土田宿や善師野宿を通ってたんだ!

中山道は、度重なる災害の影響で、各所で何度も付替えを余儀なくされている。
特に1641(寛永18)年の付替え工事は大掛かりなもので、まさにこの辺りのルートを一変させたとか。(※旧中山道編11参照)

その後、最終的には1694(元禄7)年に、正式に伏見宿が認められ、伏見~太田~鵜沼の新ルートが正式なものとなった。
と同時に、この土田宿は廃宿となり、東山道から続く長い歴史に幕をを閉じた。

・・・と言いたいところだが、それじゃ、土田宿の人たちは困るよね。
黙っちゃ居られない。
本陣・脇本陣の維持管理他、宿場全体の沽券に関わる問題だもんね。

そのタイミングで、尾張藩が中山道から外れた部分を「上街道」に組み入れて再整備。
善師野宿・土田宿は、こうして上街道の宿場として、再出発をはかることとなった。

「国道」から「県道」に格下げにはなったけど、依然として御三家筆頭の尾張藩の藩都名古屋と中山道を結ぶ重要路線であることに変わりは無く、それなりの通行も見込まれ、悪い話じゃなかったんだろうね。

それに、新バイパス完成とともに、旧国道が県道になる話は、現代でもざらにある話で、昔も今も、道路行政はあまり変わらないってことかもしれない。

まさに今日のトレーニングルートは、上街道編というよりは、江戸初期の中山道ルートそのものなのだ。

「土田中町」で、今日初めての信号かな?
もちろんそのまま直進。

さて、土田宿もいつの間にか過ぎ去ったらしく、県道349を単調に走るのみ。
左側にに大きな工場が見えたら、もう上街道の終点は近い。

幹線道路として広くなっている県道84号に出た。
間違いなく街道はそのまま直進しているが、信号がないため、すぐ左の「今渡神明」の交差点に迂回して、横断。

100mほど進むとT字路で行き止り。
実はここを左折する道も、一時期中山道だったらしい。
あとで戻ってくるとして、まずは上街道を消化しようとと思い、右折。

左手に流れる大河は木曽川。
見覚えのある風景だ。
50mも進むと、その木曽川の岸に向かって降りていく小道がある。

うん、ここ、前来たよね。
中山道のときに寄り道したところだ。(※旧中山道編11参照)

折りきった先には弘法堂があり、その隣が「今渡の渡し跡」。
前回から2年以上経ってるかな~。

でもここから見上げる木曽川の風景は、本当に美しい。
思わずパチリ。
あの橋は、中山道runの際に渡った太田橋だ。
もう、ゴールは間近なんだね。

さて、降りてきた道を駆け上り、街道に戻ろう。
といっても、すぐに左から来た道と合流。

この道は中山道ね。
左手の先には、さっきシャメしたばかりの太田橋が、今日も木曽川に横たわっている。
はい、上街道はこれにて終了、完全走破!!

でもトレーニングとしては、ちょっと物足りないし、ここでは交通機関との接続も今1つ。
とりあえず、さっき気になった中山道の残存?を確認しに行こうか。

目の前にある富士浅間社に、無事完全走破の御礼として軽くお参りだけして、また来た道を戻る。

さっき走った上街道のT字路は、予定通りまっすぐね。
(上街道からだと左折ってことになる。)

木曽川に沿う形だけど、川自体は堤防の向こう側で全く見えない。
緩やかなくねくね道に、旧街道の確かな「匂い」を感じる。

右側、雑居ビルの駐車場には、目立たぬように「一里塚跡」の碑が建っている。
これが土田一里塚で、この道が一時期中山道だったことは間違いない。

八幡神社が正面に見えてくると、中山道は右へ方向転換。
約200mで、木曽川堤により行き止り。

この堤防の向こう側の川岸が、「土田の渡し」の跡とされている。
残念ながら、川岸への降り口が見つけられず、追跡はここまでで断念。

古くは東山道の時代から存在が確認され、江戸初期には正式な渡し場とされていた。
その後、中山道の変遷とともに、渡し場は今渡に移動していったんだね。

もっとも、非公式?には土田の渡し自体は継続し、何と昭和40年ごろまで、渡し舟が運行されていたらしい。

さて、効率悪いけど、またまた中山道を戻って、太田橋の袂まで戻ろう。
問題はゴールをどこにしようか、ってことなんだよね。
まだ決めてない(笑)

最寄ということなら、すぐの信号を右折してまもなく、「日本ライン今渡」駅があるけどね。
何だか物足りないなぁ。

そうだ、どうせ広見線に乗るなら、1つ先の主要駅、新可児駅を目指そう!
ここなら電車自体、絶対に始発だから気分的にキリがいいわ。(※旧上街道編2参照)

旧街道run自体は、実質ここで終了。
日本ライン今渡駅を素通りし、可児市内を適当に走り、新可児駅に到着し、本日のトレーニングも無事終了!
実走15kmぐらいで、ちょっと軽めのクロカン練習といった感じ。

なんだか上街道編というより、「中山道番外編」あるいは「中山道の落穂拾い」とでも表現した方がしっくりくる感じもするけれど、充分に楽しめたことだけは間違いない。

新可児駅。
ここんとこ何度もお世話になってる名鉄広見線の主要駅ね。
そして新可児駅のまん前には小さなロータリーを隔てて隣接する形で、JR太多線の「可児駅」がある。

太多線で多治見に出て、中央本線で名古屋方面に向かうのも有効な手段だけど、今日のコスモタイガーは、名鉄鳴海駅を拠点にしているし、太多線、何度も乗ってるからね。

初志貫徹!で名鉄を選択。
まだまだ陽は高いけど、駅周辺にはこれといった見どころもなさそうだし、さっさと帰るとしましょうか。

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コスモタイガー漂走記~旧上街道編(2)

2016-08-13 | 旧上街道run!!

一週間後。
コスモタイガーは「ドニチエコ切符」利用で、上飯田を経由し、再び名鉄小牧線「牛山駅」に降り立った。(冒頭写真

まだ夏真っ盛りながら、空は白い雲に覆われ、暑さの方は小休止。
まさに街道runには好都合だ。

相変わらず近けりゃ近いでのんびりしてしまうズボラな性格で、すでに時計は正午過ぎ。
駅舎の記念撮影?だけを済ませ、さっそくトレーニング開始。

駅の南側の道を西へ50m先、十字路に出る。
ここから北上するのが上街道で、前回の続き。

のどかな住宅街の中を走る道。
楽しいけれど、特に見所はない。

800mぐらい進んだかな?
少し広い道に出て、顔を左に向けると交差点がある。

「南外山」。
その右角には「天神社」が鎮座している。

上街道は、ここでいったん県道に出て、天神社の裏から再び旧街道が復活。
と思ったのは束の間。
約100m先で「外山神社」にぶつかって、行き止まり。

再び左折し、県道を走る。
次の信号が「北外山」。

小休止、と言いながら、いざ走り出せばすぐに汗が噴出してくる。

どうもこの辺り、完全な形で街道を辿るのは難しいらしい。
手元の資料によれば、実際には県道の左右を、酔っ払いのように?くねくねと曲がりながら北上していたとされる。

「若草町」の信号を渡ったらすぐ右折。
最初の道を右へ曲がって北上。
「小牧南小学校」の手前から、旧街道が復活しているようだ。

県道とランデブーしつつ、小学校の東側をなぞるように緩やかに左へカーブし、道は続いている。

県道25号を横断すると、落ち着いた感じの街並みになってきた。
恐らくこの辺りからが、かつての「小牧宿」なんだろう。
くねくねと曲がった道が、確実に街道であることを伝えてくれる。

緩やかに右へカーブ。
大きなマンションが右に見える。

と、その向かい側!
随分と立派な木造のお屋敷を発見!

小牧市指定の有形文化財、「岸田家住宅」。
岸田家は小牧村の旧家で、小牧宿の脇本陣も勤めていたとされる。
平凡な街中にも関わらず、ポツンと残されているのが印象的だ。

リサーチに従い、ちょっと寄り道。

岸田家の角を左折すると、すぐあるのが、「小牧代官所跡」。
こちらは本陣も兼ねていたらしく、まさにここが小牧宿の中心だ。

そしてこの本陣跡は、さらに遡ると、尾張徳川家の「小牧御殿」の跡、要するに別荘だったんだね。

江戸時代になって、尾張藩が整備した上街道。
宿場を設置した際に、別荘を本陣にしたってことらしい。

街道に戻り、さらに北上。
県道197との交差点には古い道標があり、ここが清洲街道との追分であったことを教えてくれる。

さらに道なりに。
民宿らしきお宿もあったりして、何気に癒される。

広い幹線道路に出て行き止まりとなった。
正面には、「戒蔵院」という由緒ありげなお寺。

その前に古い道標が残る。
「南 名古屋、東 木曽海道 犬山」と読める。
道標に従い、東(右)へ向かう。

ちなみに西へ向かえば、約700mほどで、小牧城。
あの「小牧長久手の合戦」の舞台になった、小牧山なのだ。

名古屋の北にある、地味なベッドタウンのイメージの小牧市だけど、こうしてゆっくり走ってみると、随分と歴史が埋もれていることに感動する。

すぐの信号が「小牧3丁目西」で、ここを左折し、再び北上。
右側は「ラピオ」の名が付いた、大きなショッピングセンタ―になっている。

道なりに走る。
国道155号を横断。
宿場はこの辺りで終了なのかな?

約200mで、県道102に合流。
しばらくは見どころもなく、県道runが続く。

東名高速の下をくぐり、さらに走ると、またしても国道155号。
こちらはバイパスの方だ。
交差点には「小牧原」の名前が付してある。

周囲は人家よりも、大きな工場や物流センターが目立つようになってきた。
いかにも郊外の雰囲気だ。

「味岡口」の信号を渡ってすぐのところが藤岡一里塚跡ということらしいが、特に何もなかったのか、コスモタイガーが見落としたのか、素通りしてしまった。

右手に小牧線が近づいてきた、と思いきや、味岡駅前に出た。
ここで左へと分岐する細い道が目に入る。

間違いない!
これが上街道だ。

喜びは束の間で、約200mで、県道179にぶつかって終了。
本来はこの先も続いていたんだろうけど、現代では、右手すぐの「久保新町」の交差点に出るより他はなし。

ここで県道の番号が「27」に変わったけど、上街道としてはそのまま直進。

600mほど走る。
左側に大きな神社。
久しぶりのポイントらしいポイントだ。

田懸(たがた)神社。
男根を御輿に担ぐ奇祭が有名だとか。

ちなみに最寄の駅は「田県(たがた)神社前」。
この辺りの地名も「田県町」になってしまっているのが、少し残念だったりする。

約200m。
細々と左に分岐する道を発見!

あまりのひっそり感に不安になるけれど、資料によれば間違いなくこれが上街道。
「久保一色」の信号が目印だ。

いいねぇ、一気に古道らしい雰囲気になった。
スーパーとパチンコ屋の合間を縫うように古道が残っている。

残念ながら、パチンコ屋を過ぎるとまた行き止まり。
右折して、再度県道27に出るしかない。

わずか200mほどで、再び左斜めへ入っていく小道がある。
迷わず、この道を選択。

300mほど進んだ右手には、小さな石標が並ぶ一角があった。
「楽田城北の門石仏門」の跡との表記がある。

肝心の楽田(がくでん)城は、ここから300mほど東、名鉄の線路を越えた先に楽田小学校があり、ここがその城跡とされている。

14世紀初めに織田久長なる人物により築城され、小牧・長久手の合戦では、豊臣方の前線基地の役割を果たした。

ということは、今走ってるこの道は、江戸の泰平の時代になって尾張藩が整備した以前から、重要な道として機能していたというわけだね。

さらに進むと、道は右へと緩やかにカーブし、県道27と斜めに交わる。
ここは交わるだけで、旧街道が分かりやすく残っているから迷いようがない。
ここから上街道は、県道188号に指定されているらしい。

400mほど、静かな住宅街の中を縫うように走る。
するとYの字型の分岐点。
正面に可愛らしい教会があるのが印象的だ。

そう、ここが楽田追分ね。
ここまでは上街道と稲置街道の重複区間。(旧上街道編1参照)

稲置街道はここで左に分岐、上街道は右。
左の道も走ってみたい衝動に駆られるが、またの機会にするとして、今日はおとなしく?右を選択。

すぐに名鉄小牧線を横断。
くねくねした道が、明らかに旧街道であることを伝えてくれる。
そして周囲には、田園が広がり、眼前にはこれから分け入っていく山々が近づいている。
ここまで来ると、都会の喧騒から離れた気持ちになり、走っていて楽しい。

当分の間、この道に沿って走るだけで、落ち着いた気持ちで街道runを味わう。
右手に祠のような小さな神社があったりして、ほっこりする。

さらに進むと「朝日」の交差点で、県道16号と交差。
久しぶりの信号だ。

県道188から外れる形になるけれど、街道としては道なりに直進!
600mほどで正面に小さいながらも変電所がある。
周囲は何も無いから、目印としては好材料。

この手前を道なりに右へカーブする上街道。
やがて小さな川を渡る。
「合戦橋」の名前に興味をそそられる。

今度は左へカーブ。
いくつか分岐はあるものの、明らかに1本の道として続いており、この辺りはのどかな風景とともに楽しく走れる。
自動車もほとんど通らない。

「前原」の交差点に到着。
ここも直進。
再び県道188。

左に立派なお寺があって、久し振りのチェックポイント。
「福昌寺」というらしい。

小さな池を右に見て、そのまま進むと、県道188は広くなった。
その向こう側には大きな池があり、「新池」と名が付いているらしい。

道路の右側、少し離れて歩道になっていて、ここが本当の意味での旧街道かもしれない。
国道41号のバイパスのガード下をくぐる。

「城東橋西」の交差点を過ぎ、小学校の脇を通過。
約100m先を右斜めに。
まぁ、要するに県道188に従うだけで、ここは迷うところじゃないけどね。

田畑が多いため、ちらほらと溜池なのか調整池なのか、夏の最中にはありがたい涼しさを感じられる。

このまま県道を走りたいところだけど、その先、県道は左へ緩やかにカーブ。
直進する細い道があり、手元の資料の1つは、そっちへ行くよう指示している。

迷うところだけど、ここは直感を信じて直進!!
右手に用水路のような小川が寄り添う。

尾張パークウェイの下をくぐり、その先約100m。
左手のわずかな踏み跡を辿って民家の脇に下りる。
すると県道186に出る。

おそらくここは厳格な意味での上街道は消失しちゃってるんだろう。
地図をじっくり観察する限り、尾張パークウェイの潜った辺りから、この県道との交差地点までを斜めに通っていた感じがする。

そのまま県道を渡れば線路にぶつかる。
踏切の向こうに上街道は続いていて、とても魅力的な雰囲気が漂うけれど、今日はここでコースアウト。

ちなみにこの線路は、名鉄広見線。
犬山~御嵩間を結ぶローカル線だ。

途中の新可児駅がスイッチバックのような作りになっているけれど、すべての列車は新可児駅で乗換となっており、実質は犬山~新可児・新可児~御嵩間の2つの路線によって構成されている。

そうそう、御嵩駅ね。
中山道に出てきた名前だね。(旧中山道編11・12参照)

線路沿いに200mも走れば、無人駅の善師野駅に到着。
今日のところはここをゴールとする。

実走16~17kmといったところか?
標高としては少しづつ登っているはずだけど、感覚としてはほとんど平坦。
旧街道トレーニングとしては軽めだけど、交通の便を考えると妥当なところ。

まだ16時前。
夕暮れという雰囲気もないけれど、早々に帰宅して、のんびり晩酌にでも預かろうか。

広見線で犬山駅に出て、犬山線で上小田井駅。
ドニチエコ切符買ったからね、ここから地下鉄利用で、旅情色0。

さぁ、上街道、恐らく次回がクライマックスであり、かつ最終回ってことになりそうだ。
そういえば東海道57次(京街道)もリーチ状態だったな。
どっちを先に片付けよう、などと考えつつ、地下鉄でうたた寝してしまうコスモタイガーであった。
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コスモタイガー漂走記~旧上街道編(1)

2016-06-30 | 旧上街道run!!

名古屋市営地下鉄伏見駅から北へ徒歩約5分。
コスモタイガーは今、名古屋市中区のオフィス街の真っ只中、「日銀前」と称する大きな交差点の4辺を囲む歩道橋の上に立っている。

歩道橋の下、南北に通るのは、名古屋市民的には「伏見通」。
国道としては19号と22号の重複区間で、その起点は、美濃路編1にも登場した、熱田神宮南の交差点。
そう、ここまでの国道19号(22号)は、まさに旧美濃路のリメイク版。

「日銀前」は現代の追分ともいえる場所で、ここまで重複してきた2つの国道だけど、22号はそのまま直進(北上)、19号は右折して東へと向かう。

22号はそのまま旧美濃路を意識しつつ、一宮市・岐阜市へと向かう。
19号は、名古屋市民的には「桜通」となり、中山道で聞きなれた恵那・中津川を経由し、木曽の山中へと向かうけれど、途中の瑞浪までは、旧下街道を踏襲する経路となっている。

さて、なぜこんなところに居るのかって?
そう、新しい街道runを始めるのさ。
その名も「上街道」。
別名を木曽街道。

はい、上街道の自己紹介?ね。
中山道の脇往還と位置づけられ、名古屋市東区の「東片端(ひがしかたは)」の西側を起点とし、中山道大田宿を結ぶ、約40km(10里)の道のりだ。

中山道は名古屋を通らない。
そのため、中山道と名古屋を結ぼうと、尾張藩が独自に整備した主要道で、いわば「藩道」ということになる。
藩道とはいえ、こんな事情から、尾張藩にとってはきわめて重要な街道であったため、五街道に準じた扱いを受け、宿場も3ヶ所設けられた。(小牧・善師野・土田)

上街道の正確な起点は、地下鉄なら桜通線久屋大通駅と高岳駅の中間辺りになるのかな?
ビルや飲食店に囲まれた、平凡な十字路らしい。
他の街道との繋がりも少なく、いかにも唐突感があり、そこをスタートとするのはちょっと中途半端な感もある。
繋がりを重視し、ここ「日銀前」をスタートにしようと思ったのさ。

まぁ、たかだか?40kmだし。
大半は濃尾平野の中を走るだけ。
中山道を走り終えた身としては、随分と気軽な旧街道runなのだ。
それでいて、中山道の残り香も楽しめるという。

歩道橋といっても、ビル街の真ん中でたいして景色なんか良くないし、職場にも近いため、感慨なんか全くないけれど、一応トレーニングのスタート地点ということで敬意を表し、シャメだけ撮影し、南下。(冒頭写真)
すでに時計はお昼が近い。

すぐの道を左折。
あ、これは旧美濃路ね。(旧美濃路編2参照)
以前とは逆走だけどね。

名古屋宿札の辻到着。
美濃路は右折して南進。
直線は飯田街道だ。(気になる古道⑨参照)

そしてここを左折。
美濃路編の時は、目の前にコンビニがあった気もするけれど、今はない。

ちなみに左折したこの道は、現在では本町通。
かつての下街道だ。
美濃路名古屋宿札の辻と中山道槙ヶ根追分を結ぶ、幕府ご禁制の道であった。
「下街道」と、いかにもネガティブな名前がそれを示している。(旧中山道編13参照)
そして下街道とは、ここから短いお付き合い。

「錦三(キンサン)と呼ばれる繁華街の中を北上。
昼間は結構静かなんだよね。

さっき歩道橋の上から見た桜通をそのまま直進し、しばらくすると右手に「中日病院」。
左前方には「アイリス愛知」
洒落た感じの宿泊施設だ。

この交差点で下街道は右折。
交差点の南東、中日病院側には道標が建っている。

この東西に走る道には「京町通」の別称が付いている。
そして名古屋名物?100m道路の1つ、久屋大通を渡って、そのまままっすぐに進む。

すぐの十字路。ここが追分で、下街道は直進、左折が上街道。
そう、ここが上街道の正真正銘の起点なので。

さあ、もう一度気合を入れ直して、いざ、上街道!

通称外堀通を横断。
右手の大正ロマン風の建築物は、市政資料館ね。
戦前の名古屋地方裁判所で、現在は重要文化財にも指定され、名前の通りの資料館としても保存されている。
名古屋の真ん中にも、こんな立派な文化財が残っているのだ。

再び広い幹線道路に出た。
「出来町通」ね。
ここで右折し、しばし、出来町通を東へと走る。

他所から名古屋に来た人にとっては見慣れない光景が・・・。
何と!道路の中央部分に2本のバスレーンがある。

名古屋市民には当たり前の、名古屋・栄~引山(名東区)を結ぶ基幹バスやね。
正確には基幹バス新出来町線といい、名古屋市交通局と名鉄バスが共同で運行している。

路線バスの急行バージョン!
主要バス停のみの停車で、しかも道路中央に設けられた専用レーンを走るという、1985(昭和60)年発足当時は画期的(というより奇抜?)なシステムだった。

市営の方は、大半が引山終点で、一部は支線のような形で、途中から別方面に向かう。
名鉄バスは、引山から先も、普通の路線バスとして、尾張旭・瀬戸市内へと延びている。
いずれにせよ、「専用レーン」の範囲内は共同運行で、統一料金(200円:はい、だから2011年ね!)のため、本数も多く、しかもお値打ちな、すこぶる便利な市民の足となっている。

路線バスは道路の左端、いわゆる「走行車線」を走るものという先入観があるからね。
道路の中央部を堂々とバスが走り抜ける風景は、路面電車がそのままバスになったような感じで、その上「急行」だから、路面電車とは比べ物にならないほどスピード感もあり、知らない人が初めて見たら、少なからず違和感を感じるに違いない。

「清水口」の交差点に出た。
この辺りの地名は、古くから「清水」。
だから名古屋城の清水側の入口、という意味なのさ。
逆に言えば、ここまでが名古屋城の正式な敷地だったってことだね。

名古屋城には5つの「口」があったとされている。
清水口、大曽根口、駿河口、枇杷島口、熱田口。

いずれも名前を聞けば、名古屋城のどちら側から入るのか、地元人なら見当がつく。
そして、いかに名古屋城が巨大で堅固な城であったかも想像できる。
残念ながら現在、地名として残るのは「清水口」だけなのだ。

この交差点で左折(北上)。
もっともそのまま道なりに進めば、いわゆる空港線、国道41号だけど、そのすぐ左側に忘れられたような小道がある。
空港線に面したファミレスの裏を行く道だ。

これが上街道の名残。
清滝寺と、その系列であろう清滝保育園が隣り合ってるから、ますます街道の確信が持てる。

すぐに行き止まり、と思うなかれ。
地図を見ると、空港線の反対車線から右斜めに延びる道がある。
間違いない!

でも戻る術がなく、仕方なくもう一度清水口の交差点まで戻り、今度は反対車線を走って右へ分岐。
300mも走れば、名鉄瀬戸線清水駅(高架駅)の下に出る。

普段何気なく通っているところも、実は由緒ある古道だったりする。
とくにこの上街道は、名古屋市東区という中心街にに奇跡的に残る旧街道で、その気になって眺めてみれば、街道らしき「うねり」をそこかしこに残している。

300mほど道なりに。
小さな信号のある交差点に出る。
左右両側には、市バスの停留所、「清水2丁目」。

ここから右へ約100m寄り道。
「天長山久国(きゅうこく)寺」。
慶長年間に送検された名刹だけど、それよりも岡本太郎製作の梵鐘、ということで有名だ。

すぐに引き返し、再び北上すること、約100m。
右手後方からの生活道路と合流する地点に、小さな芝生園。
というより花壇?

ここに「稲置街道」の石柱が建てられている。
稲置街道は、犬山へ向かう街道のはずだけど…。
実は上街道、途中の楽田追分までは、稲置街道との重複区間。
よってここは、稲置街道と表示されても間違いではない。

ここを過ぎれば、上街道は北へまっすぐ伸びている。
両側は普通の住宅街で、リサーチしてなければ、ここが旧街道とは気付かない。

左に大きなパチンコ屋が見えてきて、緩い坂を上がると橋になっていて、「堀川」を渡る。
この辺では「黒川」と称されることも多く、そのまま地名にもなっている。

明治初期に、黒川治愿(はるよし)技師によって整備されたことで、今もこう呼ばれているんだね。

街道は間違いなくこのまま直進であることは目視でわかるけど、目の前の幹線道路(県道102)の中央分離帯に遮られ、横断不可。
右手の「志賀橋」の変則交差点に迂回するしかない。

たった30mぐらいで、また次の幹線道路。
これは環状線で、ここでは志賀本通の名が付いているけれど、これまた同じく横断不可。
馬鹿馬鹿しいけど、また「志賀橋」に迂回して、2回目の横断。

ここから北区に入った。
そしてまた、街道に復帰し、そのまま北を目指す。

200mほどで立派なお寺に遭遇。
「安栄寺」。
境内には、室町末期の六地蔵が安置されているとかで、名古屋市指定の文化財になっている。

その手前には「児子社」という神社が隣り合わせで控えており、この一角だけが別世界のようだ。

残念ながら、すぐ先の「志賀町2」の信号で、上街道は消失。
むしろここまで残ってたことの方が奇跡なきがしないでもない。

しばらくは団地の多い住宅街を走りぬけ、左に「東志賀小学校」を目印に、すぐ右折。
すると50mほど左に分岐する、くねった道が…。
ここから旧街道が復活ってことね。

かつてお隣の西区民だったので、当時はこの辺りも生活圏&マイランニングコース。
土地勘も少なからずあるけどね。
相変わらず団地が多いなぁ、という仮想を持ちながら走る。

ややがて大きな病院風の建物。
というより、昨年(2010年ね!)までここに「名古屋市立城北病院」があった。
個人的にも思い入れのある病院だったけど。
現在は、北区の別の場所へと移転し、「西部医療センター」として再出発している。
(※2016年現在、城北病院跡地は、大きな更地になっているようです)

ずいぶんとこじんまりとした「お福稲荷」の存在に街道であることを確認し、そのまま直進。
見えてきた学校風の建物は、県立名古屋高等技術専門学校。

もっと進んで、大きな堤防に遮られて行き止まり。
その左手にあるのが「成願寺」。
この辺りの町名にもなっている、歴史あるお寺のようだけど、建物は随分と新しい。

ここで旧街道はいったん途絶える。
堤防沿いに右へ走ること約100m。
堤防に駆け上がる階段があり、それを登ると目の前に人道橋。

2つの河川を一気に渡る。
手前が支流の矢田川で、次が本流の庄内川。

渡り終わったら、右。
堤防道路を走り、約200mで、下の道へ駆け下りる。

「専光寺」。
残念ながら道筋は残ってないけれど、恐らくこの寺が、街道の名残かな?

すぐ右折。
約300m先を左折なんだけど、何も目印なし。

しいて言うなら、アパートが角にあること。
どうせ何も残ってないんだから、もう少し堤防道路を走り、次の階段を下りた方が良かったのかもしれない。

でも無事リサーチ通りに走ると、すぐに街道らしさが復活。
車1台がやっとの狭い道がくねくねと続く。

その先、これまた小さなT字路で、上街道はここを右折らしい。
道の右手に小さな公園があり、その奥は「護国院」なるお寺、というシチュエーションになったら正解だ。

200m先、T字路で突き当たり。
今度は左折。

ある程度は「カン」もあるけれど、何とか迷わず、現代の難所をクリアー。
そしてまた、街道の面影残す、狭路をくねくねと走る。

新地蔵川という水路のような小川を過ぎる。
春日井市に入った。

そのまま進むとしばらくしてまたしてもポツンと行き止まり。
変則5叉路になっている。

仕方ないから右折して「中新町」の信号に出る。
目の前は県道102号。

寄り道していこう。
そのまま県道を渡り、約200m。

小山のようなものが見え、周囲が公園として整備されている。

「二子山古墳」。
相撲部屋を連想するような名前だけど、れっきとした前方後円墳で、歴史的価値は高い。

1967(昭和42)には、この古墳に自衛隊機が墜落。
一部が破損したほか、その復旧に際し、周囲の堀の水がなくなってしまった、などという、何とも罪な話も残ってたりする。

さぁ、旧街道に復帰。
「中新町」に戻る。

ここからは県道runで北上。
左手に大垣共立銀行。
地図で確認する限り、先ほど途絶えた旧街道は、恐らくこの辺りに出たんだろうね。

世間はお盆。
そんな中、炎天下の県道を走る人はそんなにいない。
でも当分はこの県道runが続くことを知っているから、テンション落ち気味。

その上、残念なことにこれといった見どころもない。
ただ、この道が上街道だから走っている。
それだけのことだ。

国道302号を横断。
上を走るのは、ある意味、マニアには好まれるであろう「東海交通事業城北線」で、左側にはその味美(あじよし)駅がある。
併走する高架は、名古屋第2環状自動車道。

「西本町1」の交差点。
資料によれば、この辺りに一里塚があったらしいけれど、コスモタイガーは厚さが気になり、素通り。

右に折れ、少し進んだところにこじんまりとしたロータリーと駅舎。
こちらは明哲小牧線の味美駅。

おっとっと、また無駄な?寄り道しちゃったよ。
再び県道に戻り、北上。

もう、旧街道としては本当に見るべきものはなく、トレーニングと割り切って、炎天下の県道=上街道run。
左側、少し離れたところに馬鹿でかい敷地を要する建物が見える。

小牧空港やね。
兼営名古屋空港、というべきかな。

セントレア(中部国際空港)が開港したのが2007年。
それまではここが「名古屋空港」と呼ばれ、文字通り名古屋市及び東海地区の空の玄関口だった。(旧岩倉街道編1参照)

現在は、一部の国内線のみが就航する、地味な空港となった。
敷地内にある、映画館併設のショッピングセンターの方が集客力が高かったりする。

単調だなぁ。
暑い!
そんなに走ったとは思えないけど、やたらに疲れた。

空港に沿う形で県道、もとい、上街道を走る。

春日井町の交差点。
右に入ると、名鉄の春日井駅。

春日井駅というと、中央本線の駅を真っ先に連想してしまう。
この名鉄駅とは、6km近く離れており、同一名の駅としては珍しい。

あちらは「春日井市」の玄関口。
こちらは春日井市「春日井町」にあるから春日井駅。
コンセプトが違うってことなんだね。

ここから県道の番号が102、に変わるけど、まっすぐ進むことに変わりはない。
左手にやっと街道らしき古いお寺が目に入った。

「正念寺」。
ここに芭蕉の句碑も建てられ、解説板も設置されている。
かつてここを芭蕉さん一行が通り、近くの農家に一泊したということだ。

再び県道run。
左は空港、右は工場がいくつか並んでいる。

やがて行政区域は小牧市へ。
「春日寺」の信号を過ぎ、右側に郵便局、が目印。

200mほど走ると、左側は自衛隊小牧基地の入場門。
そう、県営名古屋空港は、自衛隊小牧基地と併用なのだ。
右手には、少し奥まった感じで、さっきの交差点の名前の通り、「春日寺」がある。

資料的には、また実際現地に来た感覚的にも、この少し手前から旧街道は右にカーブし、春日寺の前を通っていたんだろうね。
現在は跡形もない。

仕方ないから、基地入場門前で右折。
春日寺の前を通り、行止まりを左折。

名鉄小牧線「牛山」駅の前に出た。
いかにも都市近郊の郊外駅、という感じで、ところどころに田畑も見られる。

暑い!
まだ15時前だけど、喉も渇いたし、今日はここで終了!

トレーニングとしては短めで、約15kmぐらいかな?
でも近いからまぁいいや。

帰りも中山道を思えば、物足りないぐらい、簡単。
小牧線で終点の「上飯田」まで。
といっても電車はそのまま、名古屋市営地下鉄上飯田専「平安通」まで相互乗り入れ。

上飯田線。
開業は2003年3月と比較的新しく、上飯田~平安通間のわずか1駅、0.8km。
乗車時間約2分。
全国で最も営業キロの短い地下鉄路線として知られる。

乗入車両は、名鉄の300系。
おかげでロングシートが当たり前の地下鉄で、一部転換クロスシートに座れるという、とっても得した気分になれる路線なのだ。

もっともそんなことを気にしているのは一部のマニアだけで、大半は普通に通勤通学等で利用しているだけなんだろうけど。
でもコスモタイガーの知人にもいたけれど、この0.8kmを、毎日てくてくと歩いて通勤通学する人たちも少なからずいたわけで、2003年開業は、遅すぎた感がある。

平安通に着いた。
さぁ、ここで遠足気分は終了。
あとは地下鉄を乗り継いでいくだけ。

このまま帰るのももったいない。
嫁は仕事だし、途中で夕食のネタでも買って帰ろうかな。
コメント (4)
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