ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○愛について書き綴る。

2010-06-12 09:57:18 | Weblog
○愛について書き綴る。
 「惜しみなく愛は奪う」と言い放ったのは、有島武郎だったと記憶しているが、有島の考えとはたぶんかなり異なる、僕なりの「惜しみなく奪う」愛の定義をしてみようと思う。
 僕は、愛というかぎりなく優しく、そして、かぎりなく人の心を揺さぶり、癒す側面だけをずっと見続けてきた、間の抜けた人間である。正直に告白しておく。繰り返すが、愛は人を救う。人に生きる力を与える。人に生きる勇気と意味を知らしめる。なによりも、人を愛することによって、歓びを感じることが、最も重要な愛の意味だ。そういう定義に間違いはなかろう。
 しかし、この世界のあらゆる現象に、光と影があるように、やはり愛という概念から生じる具体的な愛のかたちにも、深い、暗黒の影がつきまとう。ときとして、その陰影によって、愛し合う人間どうしが自滅することもあり得るのだろう。この場合の自滅とは、世の中のつまらない、男女の性愛の縺れから、落ち込んだだの、傷ついただのというがごとき次元のことを指しているのでは勿論ない。ある意味、そういう愛しか体得できないままにこの世界から去っていく人々は、根源的に不幸である。しかし、世間知とは便利なもので、知らぬが仏という概念性の中で閉じているかぎりは、安全に?そして、知らぬという安逸さの中で生じる表層的な幸福の只中で生を閉じることもできる。
 愛とは、たとえて云うならば、激震である。自己の存在の土台を揺すぶられる。場合によっては、土台そのものの崩壊さえも意味するだろう。自滅とはそういうことを云うのである。しかし、いまの僕の視野の中では、自己崩壊の危険性を伴わない愛などは、愛の名に値しないという強い確信が見え隠れしている。もっと正確に云うと、自分で隠ぺいしていた暗黒の、果てしなく続く絶望の果ての果てに視えてくる愛の存在に気づいた、ということなのだろう。たぶん、谷崎の偏愛という概念は、人間存在における愛の真実の姿をよく物語っている。谷崎作品の再評価が必要だろうと思う。また同時に、立原正秋の滅びの美学としての愛の概念についても、その深き意味を日常性の中に据え直す必要があると僕は思っている。
 それでは、愛とは、滅びゆくものたちの哀しい末路を暗示するものなのか?答えは断じて、否、である。その意味においても、愛は表層的であってはならない。愛の表層的現れとは、世に蔓延している性愛という享楽の一変種に過ぎないものだからである。そのような痴呆的な脳髄のドラマの底で喘いでいるような愛など、愛の理念に反する。それは愛ではなくて、敢えて定義するなら性愛という享楽である。
 愛を深めること。これこそが唯一意味のある行為である。愛の深化において、不可欠な要素とは、愛が本質的に内包する人間の心の暗黒の部分。それは愛と呼ぶにはあまりに酷薄な存在であるにせよ、他者を愛するという行為に深い洞察を加えれば、当然のごとくに視えてくる負の観念だ。が、この深き暗黒の、負の観念性を引き受ける覚悟のない愛は、どこかの時点でその深化がとまる。愛がさめた、という日常語は、鋭く愛の概念性に抵触する要素が現れ出た結果を言い現している。
 もし、人を愛することに、生の根源的な意味があるとするならば、そこに生の深化という意味が欠落していては、生そのものが単なるハリボテの、空虚な存在になり果てる。生きることにこだわるならば、愛の、軽やかで明るい側面だけを受容しているような、似非ら事に収斂するような性向では、その当事者たる人間は生きる死かばねと称しても言い過ぎではないだろう。愛に纏わる暗闇の心的要素を全て受容し切ること。ここに愛の深化の可能性が唯一残されているのであり、それこそが、生の充溢に繋がり得る、抜かし難い人間的営為である。愛を深化させようではないか。そしてこの世界を生き抜こうではないか。と僕は自己の内面に向かって叫ぶ。そこに生の真実が在るからだ。今日の観想としたい。

推薦図書:「砂の城」アイリス・マードック著。集英社文庫。不毛の日常性から、開かれた真実と自由な世界を希求しつつ苦悩する男女をとおして、人間存在の本質的な意味を問いかける良書です。生きる意味をいっときでも見失った方はぜひどうぞ。

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