○頭をよぎる風景(1)
だいぶまえの記憶の底に埋もれている風景だ。真夏の海。海岸線沿いの道路を車でひた走っている。海原は太陽の照り返しがきつく、ギラついて、サングラスをかける習慣がなかった僕は、運転しながらの表情は当然のことだが、しかめっ面だ。確かに眩しいからでもあるが、ほんとうのところは内面の憂鬱さが表情に素直に現れているのである。阪神淡路大震災に襲われるずっと、ずっと前の、須磨から朝霧駅の間の国道を、僕は重苦しい気分でハンドルを握っていた、と思う。行き先は、オヤジの妹夫婦、つまりは叔母夫婦の、安普請の建売住居だ。惰性になった、盆暮れの挨拶の夏の行事だ。
僕は当時40歳そこそこ。オヤジが鬼籍に入って間もなくの、夏の日のこと。祖母は健在。この日は叔母夫婦のもとに、近くに住んでいる祖母も出向いている。それが救いと云えば云えなくもない。緩衝剤としての祖母の存在は僕には大きかったからである。僕が38歳のときにオヤジが亡くなり、と同時に、叔母の態度が目に見えて変化し始めた。無論よろしくない方へ。あるいは正常な方向へ。幼い頃から叔母夫婦は僕たち三人家族と寄り添うように近くに住み続けていた。そうなったのは、偶然と必然とが重なり合った結果だったのだろう。
オフクロと叔母の不仲の間を泳いでいたのがオヤジの立ち位置であり、僕は、圧倒的に叔母の寵愛?を受けていた感がある。叔母には二人の実の子どもがいたが、彼らがヒガむほどに、叔母の僕に対する信頼は厚かった。居心地のいいものではなかったにせよ、僕は幼き頃から、叔母の自分に対する愛情の注ぎ方を自然なもののように感得していたのである。真実を知らないままに、目の眩むような長きに渡る年月が、エセものをエセものと見抜けないところに僕を転落させ続けた。
ひとつの真実を、過去の叔母との関わりに加えてみれば、そのおどろおどろしさの意味が諒解出来る。三人兄妹だった末っ子の叔母は、長男を忌み嫌い、次男のオヤジを溺愛したのである。たぶん、幼い頃から、叔母はオヤジを実の兄としてではなく、ひとりの男として愛したのだろうと推察する。精神的な近親相姦的関係性は永続する。オヤジを愛する気持ちは、一人息子の僕を寵愛?することによって、代理的に表現され続けたのである。
海岸線の風景を横目で眺めながら、胃からせり上がって来る不快感をなだめる手段もなく、自分の家族すら疎ましくなるくらいの落ち込みよう。これから、あの家に行って過ごす数時間が苦痛でならない。それでもその頃、まだ教師としての仕事は順調だった。叔母夫婦との薄っぺらな会話で関係性が維持されたのも、生活人としては、ヤクザだった(ほんもののヤクザにもなれなかったのに)オヤジを凌いでいたからに他ならない。
まっとうな生活というものが僕にはウサんくさい。家族を養える賃金をとり、一戸建ての家に(無論マンションが好きな人はそこに住むだろう)、女房、子どもたちと暮らしていることのいったいどこに生きる歓びなどというものがあるのだろうか?そもそも生きることに歓びなどあるのだろうか?幼い頃からずっと頭を離れぬ想念だ。死を甘受すべき歳になってすら、生の意味が解らぬままだ。たとえて云えば、生の側の崖っぷちに危うくぶら下がっていて、そろそろ両腕の力が尽きんとしているかのようだ。
退屈を紛らわせるためなら命をかける。いろんなことをやり抜いて、日本最大の宗教法人という悪玉に敗北し、教師という仕事を失った。見せかけの家庭などあっけないほどに崩壊する。でも、そんなことは百も承知の上だ。構いはしない。崩壊の過程で生じるちっぽけな火の粉を被ることから、叔母は逃げ、叔母の言いなりの、やさしくおとなしいだけの叔父が、「もううちには来るな。電話もするな!」とドスの効いた声で電話の向こうで叫ぶ。人間としての意識が芽生えて以来の叔母夫婦のイメージが、一瞬にして瓦解した。仕事を失って家庭が消失した。仕事上の同僚との付き合いなど、紙切れより薄っぺらいと認識した。しかし、なによりも堪えたのは、叔母夫婦を筆頭にした血縁という存在の無意味さだ。自分の裡の価値観の転倒と崩壊。47歳の気づき。笑わせる。
二度生死の境を彷徨って、それでもその後の年月を生き続けてきたのは、まったくの偶然の結果だと思う。困難をくぐり抜けた卓越感などは一切ない。敢えて云うなら、加齢によって、人生の何たるかの意味をつかめる、などというのは、エセラごとに過ぎないということだけは確信を持って言える。若さゆえの未熟、歳を重ねた人生経験の重み。こういうことはしばしば逆転する。賢明な若者がいて、生き延びるだけ無意味だというオトナもいる。言うまでもなく、僕は後者の側の人間だが、蘇ってくる瞬時の風景とそれに纏わる自意識の変化を整理し切りたい。そのためにもうちょっとだけ生きてみようか、と想う。特に、これを読んでウザイと思った人にはとりわけ平身低頭、懇願して許しを乞うばかり。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
だいぶまえの記憶の底に埋もれている風景だ。真夏の海。海岸線沿いの道路を車でひた走っている。海原は太陽の照り返しがきつく、ギラついて、サングラスをかける習慣がなかった僕は、運転しながらの表情は当然のことだが、しかめっ面だ。確かに眩しいからでもあるが、ほんとうのところは内面の憂鬱さが表情に素直に現れているのである。阪神淡路大震災に襲われるずっと、ずっと前の、須磨から朝霧駅の間の国道を、僕は重苦しい気分でハンドルを握っていた、と思う。行き先は、オヤジの妹夫婦、つまりは叔母夫婦の、安普請の建売住居だ。惰性になった、盆暮れの挨拶の夏の行事だ。
僕は当時40歳そこそこ。オヤジが鬼籍に入って間もなくの、夏の日のこと。祖母は健在。この日は叔母夫婦のもとに、近くに住んでいる祖母も出向いている。それが救いと云えば云えなくもない。緩衝剤としての祖母の存在は僕には大きかったからである。僕が38歳のときにオヤジが亡くなり、と同時に、叔母の態度が目に見えて変化し始めた。無論よろしくない方へ。あるいは正常な方向へ。幼い頃から叔母夫婦は僕たち三人家族と寄り添うように近くに住み続けていた。そうなったのは、偶然と必然とが重なり合った結果だったのだろう。
オフクロと叔母の不仲の間を泳いでいたのがオヤジの立ち位置であり、僕は、圧倒的に叔母の寵愛?を受けていた感がある。叔母には二人の実の子どもがいたが、彼らがヒガむほどに、叔母の僕に対する信頼は厚かった。居心地のいいものではなかったにせよ、僕は幼き頃から、叔母の自分に対する愛情の注ぎ方を自然なもののように感得していたのである。真実を知らないままに、目の眩むような長きに渡る年月が、エセものをエセものと見抜けないところに僕を転落させ続けた。
ひとつの真実を、過去の叔母との関わりに加えてみれば、そのおどろおどろしさの意味が諒解出来る。三人兄妹だった末っ子の叔母は、長男を忌み嫌い、次男のオヤジを溺愛したのである。たぶん、幼い頃から、叔母はオヤジを実の兄としてではなく、ひとりの男として愛したのだろうと推察する。精神的な近親相姦的関係性は永続する。オヤジを愛する気持ちは、一人息子の僕を寵愛?することによって、代理的に表現され続けたのである。
海岸線の風景を横目で眺めながら、胃からせり上がって来る不快感をなだめる手段もなく、自分の家族すら疎ましくなるくらいの落ち込みよう。これから、あの家に行って過ごす数時間が苦痛でならない。それでもその頃、まだ教師としての仕事は順調だった。叔母夫婦との薄っぺらな会話で関係性が維持されたのも、生活人としては、ヤクザだった(ほんもののヤクザにもなれなかったのに)オヤジを凌いでいたからに他ならない。
まっとうな生活というものが僕にはウサんくさい。家族を養える賃金をとり、一戸建ての家に(無論マンションが好きな人はそこに住むだろう)、女房、子どもたちと暮らしていることのいったいどこに生きる歓びなどというものがあるのだろうか?そもそも生きることに歓びなどあるのだろうか?幼い頃からずっと頭を離れぬ想念だ。死を甘受すべき歳になってすら、生の意味が解らぬままだ。たとえて云えば、生の側の崖っぷちに危うくぶら下がっていて、そろそろ両腕の力が尽きんとしているかのようだ。
退屈を紛らわせるためなら命をかける。いろんなことをやり抜いて、日本最大の宗教法人という悪玉に敗北し、教師という仕事を失った。見せかけの家庭などあっけないほどに崩壊する。でも、そんなことは百も承知の上だ。構いはしない。崩壊の過程で生じるちっぽけな火の粉を被ることから、叔母は逃げ、叔母の言いなりの、やさしくおとなしいだけの叔父が、「もううちには来るな。電話もするな!」とドスの効いた声で電話の向こうで叫ぶ。人間としての意識が芽生えて以来の叔母夫婦のイメージが、一瞬にして瓦解した。仕事を失って家庭が消失した。仕事上の同僚との付き合いなど、紙切れより薄っぺらいと認識した。しかし、なによりも堪えたのは、叔母夫婦を筆頭にした血縁という存在の無意味さだ。自分の裡の価値観の転倒と崩壊。47歳の気づき。笑わせる。
二度生死の境を彷徨って、それでもその後の年月を生き続けてきたのは、まったくの偶然の結果だと思う。困難をくぐり抜けた卓越感などは一切ない。敢えて云うなら、加齢によって、人生の何たるかの意味をつかめる、などというのは、エセラごとに過ぎないということだけは確信を持って言える。若さゆえの未熟、歳を重ねた人生経験の重み。こういうことはしばしば逆転する。賢明な若者がいて、生き延びるだけ無意味だというオトナもいる。言うまでもなく、僕は後者の側の人間だが、蘇ってくる瞬時の風景とそれに纏わる自意識の変化を整理し切りたい。そのためにもうちょっとだけ生きてみようか、と想う。特に、これを読んでウザイと思った人にはとりわけ平身低頭、懇願して許しを乞うばかり。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃