ワニブックス、2014年発行
東日本大震災後、“こころの危機”にどこまで宗教(とくに仏教)が対応できるのか、興味を持ちました。
平安時代末期の末法思想に対応したのは、鎌倉仏教の担い手である法然の浄土宗であり、親鸞の浄土真宗だったという歴史があったからです。
しかし、現代では十分に対応できているとは言い難い、というのが率直な印象です。
人間は病気を抱えたときも“こころの危機”を抱えることになります。
不安という姿の見えないモンスターに翻弄される日々が続くのです。
この本の著者は、医師であり僧侶でもあります。
なんとなく、生きている間は医師の領域、死後は僧侶の領域というイメージがありますが、その両方の視点を持っている著者の言葉を聞きたいと思い、読んでみました。
結論から述べると、やはり十分には対応できないのではないか、と感じました。
仏教の基本的な考え方は「生きることは苦しいこと」(一切皆苦)。
病気の苦しみを仕方ないことと受け入れるべし、生に執着することなくあきらめて死を受け入れるべし、と説きますが、その発想の転換がなかなかできなくて苦しむわけですから。
この本の中で、苦しみを克服する修行方法として、
1.自らは我慢する
2.期待せずに諦める
などを挙げています。
つまり、悟り=諦め(諦観)であり、一番崇高な行いは「自己犠牲」である、と。
なるほどそうかもしれません。
ただ、1と2を実践できた場合にそれに見合う報酬が得られるのか、疑問に思います。
人間の心はバランスが崩れると悪い結果を生みがち。
1が過ぎると心のバランスが崩れてしまいそう、2が過ぎると向上心までも影を潜めて人類の発展が止まってしまいそう、と感じるのは私だけでしょうか。
小児科の診察室で子どもがじっとしていないと、しびれを切らした母親が「キチンとしなさい!いい子にしなさい!」と叱咤します。
仏教の教えには、それと共通するところがあるような気がします。
「自分の欲望は我慢して他人に奉仕しなさい(=いい子にしなさい)」
すると、魂の平安が待っている・・・。
□ 「三時」
仏法の行われる時期を三つに分けたもの。
1.正法(しょうぼう):教えや修行が保たれ、悟る人がいる時代
2.像法(ぞうほう):教えが形骸化する時代
3.末法:人も世も荒れ果て悟りを得る者がいない時代
□ 阿弥陀三尊像
阿弥陀如来の左右に控えるのは勢至(せいし)菩薩と観音菩薩で、それぞれ「智慧」と「慈悲」の象徴。つまり智慧と慈悲があって初めて人を救うことができる。
□ 病気を抱えるようになり毎日が不安で仕方ない人への対処法
1.病気そのものを知ること
2.病気からくる不安を、そっくりそのまま受け入れる
□ 「法印」(仏教の根本原理)
・諸行無常:この世に存在するすべてのものは同じ状態を保つことなく移ろいゆくもの。つまり、苦しみすら諸行無常で、いつまでも続くわけではない。
・諸法無我
・一切皆苦:人生は「苦」、もちろん楽しいことはある。でも苦しいこともかならずあるのが人生。
・涅槃寂静
□ 「四苦八苦」
人生には苦しみの元になる存在が4つ、または8つある。
・四苦:生・老・病・死
・八苦(+4):愛別離苦(愛する者と別れる)、怨憎会苦(憎い相手と出会う)、求不得苦(ぐふとくく、求めるものを得られない)、五蘊盛苦(ごうんじょうく、成熟していく肉体と精神がコントロールできない)
□ 死は別れの一つである(宗教学者:岸本英夫氏)
人は孤立した死を意識したときに、死ぬのが怖くなる。
人生において小さな別れは常にあり、死だけを特別に思うことなく、小さな別れの集大成である。
人生で小さな別れをいくつか経験しておけば「死」は特殊なことでなくなる。
□ 過去に「執着」せず、今に「気づき」、どう生きていくかを考える。
苦しんだ方が、その先の人生が豊かになる可能性がある。病気も大変な試練であるが、人生の見方が変わる。
病気を抱えて死に対する不安や恐怖を感じ、ひるがえって生への喜びを得て初めて命の大切さがわかる。
□ 「八正道」(はっしょうどう)・・・釈迦が最初の説法において説いた修行の基本
1.正見(しょうけん) ・・・正しく見ること
2.正思惟(しょうしゆい)・・・正しく思うこと
3.正語(しょうご) ・・・正しい言葉を使うこと
4.正業(しょうごう) ・・・正しい行いをすること
5.正命(しょうみょう) ・・・正しい生活をすること
6.正精進 ・・・正しい努力をすること
7.正念(しょうねん) ・・・正しく思索すること
8.正定(しょうじょう) ・・・正しく精神統一をはかること
□ 「六波羅蜜」(ろっぱらみつ)
菩薩(大乗仏教における修行者)が仏陀になるための6つの修行。
「波羅蜜」とはサンスクリット語で「彼岸に至る」の意味。「お彼岸」という言葉の彼岸は理想郷であり、彼岸に到達する修行が「波羅蜜」である。
1.布施(ふせ) ・・・分け与えること
2.持戒(じかい) ・・・決められたことを守ること、もしくは慎み深くすること
3.忍辱(にんにく)・・・耐え忍ぶこと
4.精進 ・・・励み、努力すること
5.禅定(ぜんじょう)・・・精神統一し、心身を安定させること
6.智慧
・・・六波羅蜜の布施と忍辱は八正道にはなく、この二つが大乗仏教の特徴、つまり他者救済の性格を強く表している。
□ 三毒:貧(とん)・瞋(しん)・癡(ち)
仏教では人間の諸悪・苦しみの根源を三毒と呼び、3つの煩悩に分類される。この3つの煩悩を克服するのが人生の修行である。
1.貧:貪り、必要以上に求める心
2.瞋:怒りの心
3.癡:真理に対する無知の心
(例)
・自分だけが辛い目に遭っていると感じるのは「癡」であり、たいへん愚かなこと。誰もが同じように苦しみを背負っているが、みな「こんなに苦しい」と口にしないだけで、他人も自分も同じように辛い目に遭い闘っている。
・「瞋」対策は「諦観」。期待せずに諦めるとたいへん楽になる。誰かに何かを期待するからこそ、それに裏切られたと怒りが湧いてしまう。
□ 人は孤独に生まれて孤独に死ぬ。
さびしさに襲われることはその予行練習と捉えよう。
□ 米国人の高齢者は孤立しているけれど、孤独ではない。
アメリカでは死と対峙したときの魂の救済(スピリチュアルケア)が確立しているが、日本は整備されていない。
タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアなどの仏教国では、看取り死のシステムとしてお坊さんがいる。
□ 「布施」(=「喜捨」)の種類
「他者のために無償で何かをさせていただく」ことは、仏道において大きな功徳である。
1.財施:金銭や衣服食料などの財を施す
2.法施:お坊さんが仏の教えを説く
3.無畏施(むいせ):災難に遭った者を慰め、恐怖心を取り除く
その他(無財の七施);
・和顔施(わがんせ):笑顔を見せて相手の気持ちを慰める
・言辞施(げんじせ):優しい言葉を使って相手を慰める
□ 因縁
自分だけで存在しているのではなく、かならず周囲との関係で自分というのは存在しているという仏教の教え。
□ 高齢者の延命治療は、家族愛なのか、それとも年金目当てなのか?
延命治療を希望する家族の中には、患者の年金目当ての例が存在する。入院・手術費用がすべて年金でまかなわれ、の乳児用ベッドお金は家族に入ってくるため、家族の都合で無理矢理「息をしているだけ」という状態で生かされている。その結果、延命のために医療機器や高価な医薬品が自動的に投入され、1日でも長く生かされているのが日本の医療の現状である。
□ 仏教は人生をネガティブに捉えている宗教
仏教では「生きることは本来『苦』である」と説く。『苦』とは苦しみというよりむしろ、思い通りにならないという意味。
『苦』は生・老・病・死、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦に分けられる。つまり、人は生まれてくる場所も時も選べず、病み老いて死に、愛するものとはいつかは別れ、嫌いなものとも付き合わねばならず、欲しいものはなかなか得られず、自分の体や心すら思い通りにならないということ。
その『苦』は行き過ぎた欲望や執着から生まれる。
その欲望を抑え、悟りを開き仏となるために勧められている生き方が「八正道」(上述)である。
□ 「四十九日」の本来の意味
人が亡くなった後は7日ごとに本人の人生が裁判にかけられ、7回目にその結果が出て次に何に生まれ変わるか決まる日、だから遺族は故人のために祈る、という習慣。
□ 「極楽」という概念
平安中期の僧の源信は、985年に著した『往生要集』に初めて極楽の概念を著した。
平安貴族たちは極楽往生を願い、阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに建立した(例:平等院)。当時は神社や寺院に金銭や物品を寄付したものだけが極楽浄土に行くことができ、人殺しや漁師や附子は地獄に落ちると言われていた。
しかし法然は、
「南無阿弥陀仏さえ唱えれば誰でも極楽浄土に行ける」
と唱え、それどころか
「自分が悪人だと自覚している人ほどもっとも助けられるべきだ」
と言い出した。法然の弟子の親鸞も、
「人は阿弥陀仏を信仰した瞬間に救われている。救われているのだから、南無阿弥陀仏というお念仏で感謝をしなさい」
と唱え、阿弥陀信仰の大衆化に努めた。
□ 極楽へ行く方法は仏教の宗派により異なる
地獄は悪行した者の魂が死後に罰を受ける世界で、鎌倉仏教以前は、悪いことをした人は地獄に行き、よいことをした人は極楽へ行くという単純明快な考え。
しかし浄土宗では、南無阿弥陀仏を唱えれば極楽に行けると主張した。
真言宗では、人間には誰しも生きたまま仏になる素質があるという考え方があり、それを仏性(ぶっしょう)ないし如来蔵と呼んだ(即身成仏)。
禅宗の場合は瞑想で成仏を目指す。煩悩を瞑想によってそぎ落としていくと、本来持っている仏性が目覚める。
禅宗の開祖である達磨大師は、無言のまま9年間も壁に面して座禅し悟りを開いたと言われているが、この9年に及ぶ只管打坐(ひたすら座禅すること)によって手足が腐ってしまったという伝説が生まれ、これが玩具のダルマの発祥となった。
□ ヴィパッサナー瞑想
アメリカではストレスの解消法として瞑想(メディテーション)が流行っており、「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれている。「ヴィパッサナー」とは「物事をあるがままに見ること」。精神統一し、今ここにいる自分を分析し、自分の本質に気づく瞑想法。
禅宗に似ているが、ただひたすら座禅をする只管打坐だけでは米国人には漠然としすぎているようである。
□ 平穏死・平常死・尊厳死・安楽死・・・
・平穏死/平常死:延命治療などを受けず、自宅や介護老人保健施設などで、ふだんの生活の延長線上にある死を選ぶ方法。
・尊厳死:傷病により不治かつ末期になったときに自分の意思で延命措置を拒否し、人間としての尊厳を保って死に臨むこと。
・安楽死:患者さんの苦痛を取り除くなどの目的で薬物の投与や治療行為の中断により死期を早めること(慈悲殺とも言う)。
※ 安楽死の条件(司法判断による)
1.患者さんが耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること。
2.患者さんは氏が避けられず、その死期が迫っていること。
3.患者さんの肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段が無いこと。
4.生命の短縮を承諾する患者さんの明示の意思表示があること。
以上が全て揃っている場合に限り、医師が積極的或いは消極的手段により死に導くことが許される。
東日本大震災後、“こころの危機”にどこまで宗教(とくに仏教)が対応できるのか、興味を持ちました。
平安時代末期の末法思想に対応したのは、鎌倉仏教の担い手である法然の浄土宗であり、親鸞の浄土真宗だったという歴史があったからです。
しかし、現代では十分に対応できているとは言い難い、というのが率直な印象です。
人間は病気を抱えたときも“こころの危機”を抱えることになります。
不安という姿の見えないモンスターに翻弄される日々が続くのです。
この本の著者は、医師であり僧侶でもあります。
なんとなく、生きている間は医師の領域、死後は僧侶の領域というイメージがありますが、その両方の視点を持っている著者の言葉を聞きたいと思い、読んでみました。
結論から述べると、やはり十分には対応できないのではないか、と感じました。
仏教の基本的な考え方は「生きることは苦しいこと」(一切皆苦)。
病気の苦しみを仕方ないことと受け入れるべし、生に執着することなくあきらめて死を受け入れるべし、と説きますが、その発想の転換がなかなかできなくて苦しむわけですから。
この本の中で、苦しみを克服する修行方法として、
1.自らは我慢する
2.期待せずに諦める
などを挙げています。
つまり、悟り=諦め(諦観)であり、一番崇高な行いは「自己犠牲」である、と。
なるほどそうかもしれません。
ただ、1と2を実践できた場合にそれに見合う報酬が得られるのか、疑問に思います。
人間の心はバランスが崩れると悪い結果を生みがち。
1が過ぎると心のバランスが崩れてしまいそう、2が過ぎると向上心までも影を潜めて人類の発展が止まってしまいそう、と感じるのは私だけでしょうか。
小児科の診察室で子どもがじっとしていないと、しびれを切らした母親が「キチンとしなさい!いい子にしなさい!」と叱咤します。
仏教の教えには、それと共通するところがあるような気がします。
「自分の欲望は我慢して他人に奉仕しなさい(=いい子にしなさい)」
すると、魂の平安が待っている・・・。
***************<備忘録>******************
□ 「三時」
仏法の行われる時期を三つに分けたもの。
1.正法(しょうぼう):教えや修行が保たれ、悟る人がいる時代
2.像法(ぞうほう):教えが形骸化する時代
3.末法:人も世も荒れ果て悟りを得る者がいない時代
□ 阿弥陀三尊像
阿弥陀如来の左右に控えるのは勢至(せいし)菩薩と観音菩薩で、それぞれ「智慧」と「慈悲」の象徴。つまり智慧と慈悲があって初めて人を救うことができる。
□ 病気を抱えるようになり毎日が不安で仕方ない人への対処法
1.病気そのものを知ること
2.病気からくる不安を、そっくりそのまま受け入れる
□ 「法印」(仏教の根本原理)
・諸行無常:この世に存在するすべてのものは同じ状態を保つことなく移ろいゆくもの。つまり、苦しみすら諸行無常で、いつまでも続くわけではない。
・諸法無我
・一切皆苦:人生は「苦」、もちろん楽しいことはある。でも苦しいこともかならずあるのが人生。
・涅槃寂静
□ 「四苦八苦」
人生には苦しみの元になる存在が4つ、または8つある。
・四苦:生・老・病・死
・八苦(+4):愛別離苦(愛する者と別れる)、怨憎会苦(憎い相手と出会う)、求不得苦(ぐふとくく、求めるものを得られない)、五蘊盛苦(ごうんじょうく、成熟していく肉体と精神がコントロールできない)
□ 死は別れの一つである(宗教学者:岸本英夫氏)
人は孤立した死を意識したときに、死ぬのが怖くなる。
人生において小さな別れは常にあり、死だけを特別に思うことなく、小さな別れの集大成である。
人生で小さな別れをいくつか経験しておけば「死」は特殊なことでなくなる。
□ 過去に「執着」せず、今に「気づき」、どう生きていくかを考える。
苦しんだ方が、その先の人生が豊かになる可能性がある。病気も大変な試練であるが、人生の見方が変わる。
病気を抱えて死に対する不安や恐怖を感じ、ひるがえって生への喜びを得て初めて命の大切さがわかる。
□ 「八正道」(はっしょうどう)・・・釈迦が最初の説法において説いた修行の基本
1.正見(しょうけん) ・・・正しく見ること
2.正思惟(しょうしゆい)・・・正しく思うこと
3.正語(しょうご) ・・・正しい言葉を使うこと
4.正業(しょうごう) ・・・正しい行いをすること
5.正命(しょうみょう) ・・・正しい生活をすること
6.正精進 ・・・正しい努力をすること
7.正念(しょうねん) ・・・正しく思索すること
8.正定(しょうじょう) ・・・正しく精神統一をはかること
□ 「六波羅蜜」(ろっぱらみつ)
菩薩(大乗仏教における修行者)が仏陀になるための6つの修行。
「波羅蜜」とはサンスクリット語で「彼岸に至る」の意味。「お彼岸」という言葉の彼岸は理想郷であり、彼岸に到達する修行が「波羅蜜」である。
1.布施(ふせ) ・・・分け与えること
2.持戒(じかい) ・・・決められたことを守ること、もしくは慎み深くすること
3.忍辱(にんにく)・・・耐え忍ぶこと
4.精進 ・・・励み、努力すること
5.禅定(ぜんじょう)・・・精神統一し、心身を安定させること
6.智慧
・・・六波羅蜜の布施と忍辱は八正道にはなく、この二つが大乗仏教の特徴、つまり他者救済の性格を強く表している。
□ 三毒:貧(とん)・瞋(しん)・癡(ち)
仏教では人間の諸悪・苦しみの根源を三毒と呼び、3つの煩悩に分類される。この3つの煩悩を克服するのが人生の修行である。
1.貧:貪り、必要以上に求める心
2.瞋:怒りの心
3.癡:真理に対する無知の心
(例)
・自分だけが辛い目に遭っていると感じるのは「癡」であり、たいへん愚かなこと。誰もが同じように苦しみを背負っているが、みな「こんなに苦しい」と口にしないだけで、他人も自分も同じように辛い目に遭い闘っている。
・「瞋」対策は「諦観」。期待せずに諦めるとたいへん楽になる。誰かに何かを期待するからこそ、それに裏切られたと怒りが湧いてしまう。
□ 人は孤独に生まれて孤独に死ぬ。
さびしさに襲われることはその予行練習と捉えよう。
□ 米国人の高齢者は孤立しているけれど、孤独ではない。
アメリカでは死と対峙したときの魂の救済(スピリチュアルケア)が確立しているが、日本は整備されていない。
タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアなどの仏教国では、看取り死のシステムとしてお坊さんがいる。
□ 「布施」(=「喜捨」)の種類
「他者のために無償で何かをさせていただく」ことは、仏道において大きな功徳である。
1.財施:金銭や衣服食料などの財を施す
2.法施:お坊さんが仏の教えを説く
3.無畏施(むいせ):災難に遭った者を慰め、恐怖心を取り除く
その他(無財の七施);
・和顔施(わがんせ):笑顔を見せて相手の気持ちを慰める
・言辞施(げんじせ):優しい言葉を使って相手を慰める
□ 因縁
自分だけで存在しているのではなく、かならず周囲との関係で自分というのは存在しているという仏教の教え。
□ 高齢者の延命治療は、家族愛なのか、それとも年金目当てなのか?
延命治療を希望する家族の中には、患者の年金目当ての例が存在する。入院・手術費用がすべて年金でまかなわれ、の乳児用ベッドお金は家族に入ってくるため、家族の都合で無理矢理「息をしているだけ」という状態で生かされている。その結果、延命のために医療機器や高価な医薬品が自動的に投入され、1日でも長く生かされているのが日本の医療の現状である。
□ 仏教は人生をネガティブに捉えている宗教
仏教では「生きることは本来『苦』である」と説く。『苦』とは苦しみというよりむしろ、思い通りにならないという意味。
『苦』は生・老・病・死、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦に分けられる。つまり、人は生まれてくる場所も時も選べず、病み老いて死に、愛するものとはいつかは別れ、嫌いなものとも付き合わねばならず、欲しいものはなかなか得られず、自分の体や心すら思い通りにならないということ。
その『苦』は行き過ぎた欲望や執着から生まれる。
その欲望を抑え、悟りを開き仏となるために勧められている生き方が「八正道」(上述)である。
□ 「四十九日」の本来の意味
人が亡くなった後は7日ごとに本人の人生が裁判にかけられ、7回目にその結果が出て次に何に生まれ変わるか決まる日、だから遺族は故人のために祈る、という習慣。
□ 「極楽」という概念
平安中期の僧の源信は、985年に著した『往生要集』に初めて極楽の概念を著した。
平安貴族たちは極楽往生を願い、阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに建立した(例:平等院)。当時は神社や寺院に金銭や物品を寄付したものだけが極楽浄土に行くことができ、人殺しや漁師や附子は地獄に落ちると言われていた。
しかし法然は、
「南無阿弥陀仏さえ唱えれば誰でも極楽浄土に行ける」
と唱え、それどころか
「自分が悪人だと自覚している人ほどもっとも助けられるべきだ」
と言い出した。法然の弟子の親鸞も、
「人は阿弥陀仏を信仰した瞬間に救われている。救われているのだから、南無阿弥陀仏というお念仏で感謝をしなさい」
と唱え、阿弥陀信仰の大衆化に努めた。
□ 極楽へ行く方法は仏教の宗派により異なる
地獄は悪行した者の魂が死後に罰を受ける世界で、鎌倉仏教以前は、悪いことをした人は地獄に行き、よいことをした人は極楽へ行くという単純明快な考え。
しかし浄土宗では、南無阿弥陀仏を唱えれば極楽に行けると主張した。
真言宗では、人間には誰しも生きたまま仏になる素質があるという考え方があり、それを仏性(ぶっしょう)ないし如来蔵と呼んだ(即身成仏)。
禅宗の場合は瞑想で成仏を目指す。煩悩を瞑想によってそぎ落としていくと、本来持っている仏性が目覚める。
禅宗の開祖である達磨大師は、無言のまま9年間も壁に面して座禅し悟りを開いたと言われているが、この9年に及ぶ只管打坐(ひたすら座禅すること)によって手足が腐ってしまったという伝説が生まれ、これが玩具のダルマの発祥となった。
□ ヴィパッサナー瞑想
アメリカではストレスの解消法として瞑想(メディテーション)が流行っており、「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれている。「ヴィパッサナー」とは「物事をあるがままに見ること」。精神統一し、今ここにいる自分を分析し、自分の本質に気づく瞑想法。
禅宗に似ているが、ただひたすら座禅をする只管打坐だけでは米国人には漠然としすぎているようである。
□ 平穏死・平常死・尊厳死・安楽死・・・
・平穏死/平常死:延命治療などを受けず、自宅や介護老人保健施設などで、ふだんの生活の延長線上にある死を選ぶ方法。
・尊厳死:傷病により不治かつ末期になったときに自分の意思で延命措置を拒否し、人間としての尊厳を保って死に臨むこと。
・安楽死:患者さんの苦痛を取り除くなどの目的で薬物の投与や治療行為の中断により死期を早めること(慈悲殺とも言う)。
※ 安楽死の条件(司法判断による)
1.患者さんが耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること。
2.患者さんは氏が避けられず、その死期が迫っていること。
3.患者さんの肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段が無いこと。
4.生命の短縮を承諾する患者さんの明示の意思表示があること。
以上が全て揃っている場合に限り、医師が積極的或いは消極的手段により死に導くことが許される。