サンガ新書、2015年発行
近年よく耳にするようになった「マインドフルネス」。
テレビでも時々取りあげられ、かいつまんで見てきましたが、どうもイメージが沸きにくい。
医療で用いる精神療法のような、坐禅・瞑想につながる自己啓発系のような・・・。
現時点では、
・物事を客観視して、思い込みを捨てる技術
・すると、ゆがんだ思考がリセットされ、感情に振り回されることがなくなる
のように私は捉えています。
でも、客観視して感情を突き放すスキルを徹底すると、ストレスだけではなく喜びも突き放し、生活を味気なくするような気がしないでもない・・・はたからみるとただの「ボーッとして自分の意見も言わない無気力な人」にすぎなくなるのではないか。
そこでこのモヤモヤしたものを払拭すべく、入門編として精神科医の香山先生の本を読んでみました。
本の内容は、マインドフルネス初級者の香山先生が、4名の専門家と対談したもの。
各専門分野からマインドフルネスを俯瞰し、既存の精神療法、仏教の瞑想、脳科学との関係、医学の臨床現場の現状などが語られています。
その4人とは、
永井均氏:禅宗の座禅を入り口にヴィパッサナー瞑想を知り、独自のアプローチで瞑想を実践している哲学者。
アルボムッレ・スマナサーラ氏:初期仏教(スリランカ上座仏教=テーラワーダ仏教)長老。駒澤大学で道元の思想を研究。日本テーラワーダ仏教教会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事している。NHKカルチャーセンター講師。
永沢哲氏:瞑想と脳の関係を研究・分析している宗教人類学者。研究者であると同時にチベット密教の修行者でもある。
熊野宏昭氏:日本でいち早くマインドフルネスを臨床現場に取り入れてきた心療内科医&臨床心理士。2013年に発足した日本マインドフルネス学会の副理事長。
※ テーラワーダ仏教:初期仏教、上座仏教、原始仏教、南伝仏教、パーリ仏教などともいう。仏陀に時代のパーリ語経典をもとに実践され受け継がれてきた、仏陀の根本のお教えとされる。
※ マインドフルネス認知療法:MBCT(Mindfullness-Based Cognitinve Therapy)ジョン・カバット・ジン博士が仏教瞑想を元に開発したマインドフルネスストレス低減法(Mindfulness-Based Stress Reduction: MBSR)をもとにして開発された、うつの再発予防、治療のためのプログラム。
第一印象は、マインドフルネスはまったく新しい手法ではなく、原始仏教の瞑想法を現代的にアレンジし、「マインドフルネス」という響きのよい言葉を当てはめたことによりブームになっている、という感が否めませんでした。
原始脳と大脳皮質の関連についても繰り返し登場しますが、私的には整理できません。
人間はいろんな情報をあえてはしょって(省略して)います。
例えば、何かに集中しているとき、周りの音が聞こえない、とか。
自分の心臓の鼓動音や呼吸もふだんは意識していません。
その方が情報量におぼれず効率がよいからです。
でもマインドフルネスなどの精神療法は、それを逆に意識させる方向に誘導します。
不思議な手法ではありますが、私には「自分の呼吸を意識することにより外界の過多な情報をシャットアウトする」と読めました。
さらに、「音の意味づけを外して純粋な音として感じる」という文章も出てきました。
これは働きすぎて疲労している大脳皮質を休ませると読みました。
しかし、脳科学からは、「自分でコントロールできないような脳の奥深く、大脳辺縁系で起きた情動を、新皮質の前頭前野で客観視することで、クールダウンできる」(香山氏)という文章も登場し、こちらは大脳皮質をより働かせることになりますから、逆の発想ですねえ。
果たして「瞑想」は大脳皮質を休ませてるのか、大脳皮質を稼働されコントロールしている状態なのか、どうちらなんでしょう?
第四章の熊野氏は、大脳を休ませている状態に近いと言っていました。
この辺は、研究が現在進行中なのでしょう。
また、「瞑想をも含む高次の精神機能に関わる認知活動は、脳の広い範囲にまたがる大きなネットワークに関わっており、そういう大きなネットワークの活動が、その下位にある細胞群の活動をトップダウン的に制御していることがわかってきた」(永沢氏)という文章もありました。やはり原始脳を大脳皮質がうまく操るというシステムととらえるようです。
スマナサーラ氏が登場した第二章を読んで、何となくイメージが沸いてきました;
人間の脳は大きく旧皮質と新皮質(あるいは原始脳と大脳皮質)の二つに分けられる。
存在欲(生存願望)は原始脳が司る。
それをすべて出してしまうと動物と同じ弱肉強食の生存競争になってしまう。
本能を理性でコントロールするのが大脳皮質であり、人間たるゆえんである。
しかし理性(大脳皮質)をコントロールするスキルを人間は持ち合わせていない。
大脳皮質の働きがゆがむと、煩悩(スマナサーラ氏は捏造と呼んでいる)が発生する。
煩悩を如何に処理するか・・・そのために生みだされたのが、宗教であり哲学、倫理学である。
煩悩が病的に発達してしまった場合は、瞑想やマインドフルネスを含む心理療法が対応することになる。
ただ、“感情”は原始脳と大脳皮質のどちらに属するのか?
という疑問が残りました。
本能から生まれ、経験に左右される・・・
つまり、原始脳で発生し、大脳皮質でアレンジされる。
この問いは、スマナサーラ氏のコメントからは判断できませんでした。
第二印象は、わかりにくい。
まず、対話なので、主語が迷子になったり焦点がぼやけているうえ、概念論が続くので理解しにくい。
それから、あくまでも著者のスタンス「マインドフルネス初級者」の視線で話が進んでいる点。
私のような「初心者」にわかりやすくマインドフルネスの基本から説明してくれるステップがないのが残念。
なので、具体的なことを知らないまま概念論だけが先走ることになり、この本をわかりにくく、その価値を低くしてしまっていると感じました。
一番わかりやすいコメントが“あとがき”にありました。
・マインドフルネスでは、自分の中で起きていることや体に、丁寧に一つ一つ目を向けることによりその抑圧が解除され、その人に当たり前に備わっている能力が自由に外に出られるようになるのだろう。
・マインドフルネスはその人を変えるのではなく、自分を解放して本来の姿に戻すだけ。
・マインドフルネスは「あなたを変える」ものではなく「あなたは(本来の自分に)戻れる」とそっと囁くようなもの。
それから、香山先生がけっこう“哲学オタク”であることも知りました(^^)。
私のとらえ方はちょっと違います。
香山氏の言う“本来の自分”とは、無垢な子どものようなこころなのでしょうか。
いや、いろいろ経験を積んで社会的常識を身につけた大人だと思います。
そこで、自分の感情が揺さぶられる事象に遭遇した際、少し距離を取って自分のバックグラウンドに照らし合わせ、「たいしたことではない」とスルーできる能力を身につける手法ではないかと。
<備忘録>
・・・気になったところを書き出しました。
【著者のまえがきとつぶやき/コメント】
・近年、米国を中心に多数の“積極的な”精神療法が開発され、その主役は「認知行動療法」である。それは、ものごとや情報のとらえ方、受け取り方(つまり「認知」)に働きかけながら、実践的な行動に関与して変化を促す手法である。
・認知行動療法の中でも大きな注目を集めつつあるのが「マインドフルネス」というセラピーである(例:マインドフルネス認知行動療法、マインドフルネス心理療法など)。
・マインドフルネスは仏教の最も基本的な形であるテーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想に端を発している、あるいはその瞑想そのものを軸としている。そもそもヴィパッサナーを英訳したのがマインドフルネスである。
・マインドフルネスがユニークなのは、病気や問題を抱えた人を健康に持って行くだけではなくて、グーグルの社員研修プログラムのように、健康な人をより豊かにする、より健康度を上げるところ。
・近年、脳の画像診断装置の発展もあって、マインドフルネスあるいは瞑想で、脳の中で何が起きているかを科学的に追求できるようになった。瞑想により脳自体が一部大きくなっていることが観察されている。また、免疫系が大きく変化する。さらに効用の一つとして、慢性疼痛コントロールがある。
・「新型うつ」などと言われている、典型的ではないうつの人たちが診察室に来るが、そういう人には抗うつ薬を投与しても効かないし、逆にイライラを高めてしまうこともあり、問題が多い。そういう人たちは適応障害に近いというか、今の仕事とか生活に自分をうまくマッチさせられない。あるいは非常に自己愛的で「私はもっとできるはず」「なのになぜ認められないのか」という不本意な感情からうつになったような人たちもおり、薬を出してもしょうがない。
・「薬は必要ないけど、心理療法的なアプローチが必要」という人たちに対するマニュアル化されかつ有効な療法、アプローチとして注目されているのが認知行動療法である。これは、「情報をゆがめて認知し、そこから負の感情を発生させている」ということを基本に、プログラムに沿って自分で書いて認知のゆがみを確認し、集成していきながら進めるという療法であるが、ものを書くスキルや意欲がないとできない。
・精神分析は心の奥まで探求していくプロセスだが、マインドフルネスは「手放す」やり方。
・西田幾多郎の「純粋経験」とは、怒りというものが生じたら、怒りに没入して怒ってしまわずに、“怒りがある”と捉える。想念を取り払ってしまうのではなく、あくまでも「場所」的にとらえる、痰にそこに存在していることとして、その外から観るということ。
・「呼吸に気づく」「身体に気づく」というのは、たぶん、いろんな立場や手法で使われている。ヴィパッサナー瞑想が元になったマインドフルネス認知療法の「ボディスキャン」は古典的な自律訓練法とほとんど同じ。
・身体に注意を向けるというのは、日常的な意味関連から解き放たれるためのプロセスの一つということ。
・統合失調症、解離性同一性障害、多重人格のひとなどは「いつも自分の分身がそばにいて、たまに見る自分と見られる自分と入れ替わることもあるが、つねに1人が1人を見ている」という人がいる。そういう人たちは、その“実況中継状態”により苦痛から解放されているかというと、その正反対で、つねに耐えがたい苦痛を味わっている。自ら求めたのではなくて、症状として起きた実況中継が苦痛なのはなぜか。その病的な状態を自覚的に目指すというのはどういうことなのか。
→ (永井氏)放棄と解離では違う。“煩悩”から身を引き離すという意味では、それらを対象化して、単なる出来事として、あたかもただ起こっている身体感覚を見るかのようにみることが役立つ。でも、逆に、そちらになりきってしまったら、元も子もなくなる。
・近年の脳科学的研究では、自分でコントロールできないような脳の奥深く、大脳辺縁系で起きた情動を、新皮質の前頭前野で客観視することで、クールダウンできることがわかってきた。前頭前野は「自我」の主座であり「私であること」の本拠地である。瞑想で目指す「何物でもないものとしてただセンサーとして気づく」ということと逆のような気がする。
・評価や解釈なしにその瞬間、瞬間をただ実況中継し、意味関連から解放されて生きることが、その人自身にとってではなく、社会的にどんな意味を持つか、懸念する。為政者・権力者にとって「なんの評価、判断もなく、その時その時を生きるだけ」という人は、とても扱いやすい。
・これまでの心理療法、例えば精神分析は、あなたは何をしたいのか、どうしてこうなったのかということを内へ内へと心の中を掘り下げる、自分のことを徹底的に考えるスタンス。一方のマインドフルネスの心理療法は、考えないようにする、とこれまでとは逆の療法である。
【第一章:永井均】
・ヴィパッサナー瞑想で学んだこと:次々と起こってくる想念連鎖を、起こってくるままに、ただ気づいて、ただ観ていく。するとその働きを自ずと取り去ることができる。画期的なのは、日常生活でもそれと同じことができるようになるということ。
・坐禅とヴィパッサナー瞑想:いったん捉えて「手放す」(内山興正『坐禅の意味と実際』大法輪閣)という点については近い。実際にやってみると、少なくともポイントの置き所が違う感じがある。いろいろな雑念が起こってきたときに、それをどう捉えるか、どう対処するかというところが根本的に違うような気がする。
・呼吸に気づく:ヨガとか呼吸に意識を向けるメソッドはいろいろあるが、ポイントは「いつも実は存在しているけどふだんは決して気づかない、そういうものに気づく」ということ。そこから、意味のあるのものの意味の連関を取り外して、ただそれが存在していることだけにむき出しで気づく、ということもできるようになる。
・古代ギリシア起源の考え方では、理性が感性の暴走を(言い換えると、ロゴスがパトスの暴走を)制御、コントロールする。すると、ロゴスそのものを制御するものがない。ロゴスの暴走は、仏教では「放逸」、キリスト教では「原罪」、哲学的には「存在忘却」ということになる。宗教はこれをどうにかすると言う役割がある。キリスト教では贖罪(キリストに罪をあがなってもらい我々はそれを信じること)、古代インド宗教は瞑想という技法を開発した。とりわけ仏教は、そこにサティという画期的なテクニックを導入した。言語的な世界把握の作動素のものをその外から眺めることでその暴走を止めるという驚くべきテクニックで、簡単でしかも非常に高度な技法。キリスト教の贖罪を、いわば自分ひとりで、しかもその現場で瞬時に実現できるのである。
・自我とか無我とかいった問題を巡って仏教学者もいろいろなことを言っているが、意見の対立にもかかわらず、ほぼ一様に哲学的水準は低い。経典の解釈という次元を越えて、超越論哲学や分析哲学の知見も踏まえて、現代の哲学的水準に耐えうるような、素人だましではない本格的な哲学説をぜひ打ち立ててもらいたい。
・幼児はもともと仏陀である。一休の道歌に「そのままに生まれながらの心こそ願わずとても仏なるべし」とあるように、後から作られた余計なものを取り払って回帰してなった仏陀ではなく、直接的な仏陀である。だから幼児には瞑想は必要ない。
言語を習得する以前の人間は煩悩を持てない。ただの怒りや欲望なら赤ちゃんでもあるし、動物でもある。自分を他人と比較したり、自分を他の視点から見たり、別の可能性をあり得た現実としてとらえたり、といったような自我を実体化して、客体として操作できる方法を、言語に備わった装置によって習得して初めて、嫉妬や羞恥心や恨みや渇愛といったものが可能になる。
【第二章:アルボムッレ・スマナサーラ】
・私は瞑想をしているから精神的な病気にはならない。人格向上とか覚りを目指している人ならば精神的な病気にならない。
・マインドフルネスというのは、心を働かせる唯一の方法である。それを我々は専門用語で「sati(サティ)」と呼ぶ。日本語では「気づき」と訳している。
・脳の中には“捏造”というファンクションがある。“捏造”とは、眼耳鼻舌身意(仏教で六根という感覚の入り口)にデータが入ると、人間は彼自身の都合で捏造する。知識というのは都合である。まず人間は、捏造システムでものごとを間違ってとらえていることを知るべきだ。一方で、捏造システムは人間としての命をなんとか支えるためにできているカラクリでもある。結局、人間というのは自分が捏造する世界に自分が耐えられなくなってしまい、言葉をやたら吐いているだけ。
・“自我”とは脳の様々な機能の組み合わせで現れる emergent property(創発特性)である。「私」というものを司るモジュールは脳の中のどこにもない(『<わたし>はどこにあるのか』ガザニガ著より)。
・ヴィパッサナー瞑想では「眼耳鼻舌身意に入るデータを、入ったらそのままで受け取りなさい」という法則(principle)がある。見たら「見た」ところで止り、聞いたら「聞いた」ところで止る、という基本的なフォーマットがある。何か思考が生まれたらすぐに止れば、あなたは存在しないということ、どこにもいないということは苦しみの終了である。
「自分探し」はないもの探し、無い物ねだりでくだらないこと、病気と言ってもいい。私(スマナサーラ氏)は「自分探しをやりたければやってください、しかし、見つかりませんよ」と言っている。
・ヴィパッサナー瞑想とは、心を清浄にして煩悩をなくし、完全に苦しみを乗り越えるというスキルである。
・ヴィパッサナー瞑想とは、人の行動を指令する権利を原始脳から大脳に移行させることを目的としている。ありのままにものごとを見て、ありのままに物事を観察することで、原始脳を無理矢理ちょっと押さえておく、ロックする。理性のある、物事を客観的に判断する能力を大脳にあげて、原始脳に感情を引き起こすなよ、というふうに神経回路を配線するのである。
・原始脳には存在欲と恐怖感がある。恐怖感というのは、大脳からデータが入るとどんどん大きくなってしまう。大脳は「いつかは死ぬ」ことを知っているが、原始脳はそれを知らず「生き続ける」ことだけを考える。原始脳が大脳に不死を要求することは大きな矛盾であり、葛藤が始まる。それを回避するために大脳はいろいろなことを考える(身体はなくなっても魂は死なない、など)。
・マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想の違い;
(マインドフルネス)日常生活で気持ちよく生きるためのもの
(ヴィパッサナー瞑想)日常生活でなくて、人間が人間であることを乗り越える目的でやっていること。
日常的な問題のみを解決したいと思うならば、それは原始脳の指令でやっていることになる。ただ皆、俗世間的な目的を満たしたところで止めてしまい、人格向上までいかないのが残念である。
・ブッダの教えは宗教ではない、ブッダは科学者である。
・洗脳とマインドコントロールの違い:
(洗脳)自分で判断する能力を取りあげること。
(マインド・コントロール)自分で判断する能力を許容しつつ誘導する。
・世界が平和でないのは結局、脳的に見ると原始脳と大脳皮質のトラブルである。世界平和のためには、原始脳と大脳皮質の問題を解決すべし。心で言えば捏造ファンクションで起こるそれを治せば問題解決する。
【第三章:永沢哲】
・密教は瞑想を重視する;
密教の修行は、①前行(準備の修行)と、②正行(中心の修行)に分かれる。
①前行:五体投地や懺悔による心の浄化、マンダラの供養
②正行:本尊の修行(自分が観音菩薩や女神のヴァジュラヨーギニーといった本尊の姿になったと観想し、マントラ(真言)をたくさん称える)、それを土台として、次に呼吸法やヨーガを用いて猛烈な熱を発したり、身体の基底部に眠るチャンダリーと呼ばれる生命エネルギーを覚醒させ強烈な快感を体験する瞑想(変性意識状態)を行うこともある。変性意識状態の体験を通過することで「明知」や「心の本性」を発見することが大切だと考えられている。
そうした一時的な体験を越えたメタレベルの意識ー「明知」や「智慧」ーを発見することが、修行においてはとても重要だと考えられている。
さらにその先に、日常的な体験をはるかに超えた、光にあふれた体験に入る瞑想を行うこともある。
・脳科学は20世紀末から21世紀の初めにかけて大きく変わった。その変化は大きく2つあり、①神経可塑性、と②自己組織系としての脳、という観点である。脳は繰り返される思考、行為、経験により変化する。また、瞑想をも含む高次の精神機能に関わる認知活動は、脳の広い範囲にまたがる大きなネットワークに関わっており、そういう大きなネットワークの活動が、その下位にある細胞群の活動をトップダウン的に制御していることがわかってきた。
・R.J.デービッドソンの研究;慈悲の瞑想を行うことで、左右脳に、ガンマ波帯域で位相同期が起こることを明らかにした。それに加えて、前頭前野の左と右の部分が、幸福な状態と相関するような、ひじょうに得意な活動をすることが判明した。
・サラ・ラザーのヴィパッサナー瞑想についての研究;
・チベット仏教で一番大切なのは、教えられたとおりに瞑想や修行をしてみて、心が変化する体験が生じること。それによって、伝統や仏教の教えが真実を含んでいることが心の底から納得される、そこから本当の意味の信仰が生まれると考えられている。
・西欧の科学は数学を基礎にして発達してきた。すべての科学は公理への「信仰」を土台にしている。ヨーロッパにおける科学は、外部の自然の背後には神のロゴスが貫いているという、キリスト教の信仰を強力な推進力にして発達してきた。
・仏教は人間の内面的意識状態の精密な観察と、それをいかにして変化させるのかという技法を土台にしている。つまり、仏教は自らの内的体験を中心にしている。
・ブッダはキリスト教における神のような超越者ではない。ブッダというのは人間で、自分でいろいろ悩んで、修行して、「解脱した」と思ったひとりの「人」である。人間がどのように苦しむかということについて理解した上で、その苦しみから解き放たれるにはどうしたらいいかと考えて、実践して、「ちゃんと楽になりましたよ」と言った人である。だから我々はそのあとに従って修行していく。
・マインドフルネスとテロメア;毎日6時間ずつ3ヶ月間、マインドフルネス瞑想の隠棲を行った実験では、テロメアの修復酵素が出ることが判明した。人間がマクロのレベルでずっとやってきた文化的ないろいろな行為が、ミクロのレベルで、遺伝子スイッチのオン・オフに関係している。
・瞑想は記憶と感情に関わる回路を変える可能性がある。
・リラクゼーション・リスポンス:ハーバート・ベンソン(ハーバード大学心身医学研究所)が提唱する概念。祈りや冥想によりストレスフルな状況で「戦うか、逃げるか」という反応が持続しているとき、それが自然に治まっていってリラックスできること。これを10年くらいやっている人には遺伝子レベルで発現の変化が確認されている(数ヶ月では変化なし)。
・トラウマティックな記憶の処理方法;まだ確立していない(香山)
(EMDR)トラウマティックな記憶を眼球運動を伴いながら想起してもらうと、自分の中で処理が終わる治療法。
(タッピング)身体のどこかをタッピングしながら、通常は思い出して恐怖に陥ったりフラッシュバックしたりする場面でも、それがかなり防げる。
・(サラ・ラザーの2014年発表研究)ハタ・ヨーガをやったグループと、マインドフルネスをやったグループとで、基本的にはどちらも脳の構造として物理的ダメージに対して、レジリエンスが高くなる。
・うつ病の改善過程は、薬と認知行動療法で異なる;fMRI画像で検討したところ、投薬群では脳幹などの機能が軽度上昇、一方、マインドフルネス的認知行動療法群では新皮質の活動が軽度低下していた。
「いろいろなネガティブなことを考え始めて、落ち込んでそれから出られなくなる」ことを自覚し、観察して消えていくことを体験できるようになるので、そのプロセスが少し弱くなると思われる。
【第四章:熊野宏昭】
・心療内科は“心理療法内科”であり、心理療法が専門である。また、内科にも精神科にも収まらない、特殊なニーズのあるところを押さえてきた科であり、精神病圏(統合失調症や重度の躁鬱病など)は扱わない。主に心身症(発症や経過にストレス要因が深く関わっている身体疾患)、うつ、不安障害などを扱う。精神症状にではなく、身体症状に対するアプローチという点が、精神科との違い。しかし時と共にオーバーラップしてきている。
ただ、心療内科では、ふつうに話ができる方達が対象になる。コミュニケーションが十分取れない患者さんは対象にならない。
・心療内科で一番重視しているのはストレスである。心療内科が拠って立つ医学は心身医学であり、心身医学のはじまりは精神分析であり、もともとドイツをルーツとする心身医学を日本に導入したのも日本の精神分析の第一世代と言われる人たちであった。でも、その後は内科医が中心になり広がっていった。
・心身症の人には失感情症や失体感症といわれるパーソナリティ傾向があり、自分が感じていることを言葉にできない。だから精神分析ができる人は非常に少ない。語れないのであれば行動の方、身体を緩める方からアプローチしようと発展していった。認知行動療法的アプローチは、心療内科的なところから出てきた。
心身症患者は、自分のことをなかなか語れない人が多く、語れない人たちをどうやって治療の土俵にのせていくかを考えた結果、やはり生活面あるいは身体面からのアプローチだと効率がいい面が多い、逆にそこを扱わないと十分ではない。
・日本の心療内科の創始者である池見酉次郎氏(九州大学)が唱えた「三つの柱」
① 催眠とリラクゼーション ・・・今日の自律訓練法に続く流れ
② 精神分析〜交流分析 ・・・人間学的流れ
③ 行動療法 ・・・認知行動療法に発展していく流れ
・認知行動療法の二つの流れ:認知療法と行動療法
二つの異質なモノが「適用を広げて効果を上げていくために一緒にやりましょうか」となったのが認知行動療法、いろいろ出てきているが、それぞれが「おらが療法」という感じで、みんな自分がやっているモノが認知行動療法だと主張している。
もともと認知療法家が認知行動療法だと言っているモノ(認知療法的な認知行動療法)と、行動療法家が認知行動療法だと言っているモノ(行動療法的な認知行動療法)はかなり違う。
①認知療法の流れ
合理的に考えることができれば、合理的に行動もできるはずだというのが認知療法の前提。考え方を変える方法。
マインドフルネスが登場し、認知療法の専門家達がマインドフルネスを取り込んだマインドフルネス認知療法(MBCT)が2000年くらいに出てきた。
ディタッチト・マインドフルネス(距離を置いた注意深さ)という概念を提唱するメタ認知療法という方法も登場したが、当事者は「これはマインドフルネスではない」と言っている。
②行動療法の流れ
行動療法とは、外から見える行動を変えていくことを目標にする。行動であっても思考であっても「習慣・クセだ」と考えることが前提。考え方は簡単には変わらないからちょっと置いておいて、それはさておき行動してみよう、という感じ。人間は社会的な動物なので、自分が所属している社会の中で最も評価されるような生き方ができることこそ幸せだろう、そういう行動を増やしていこう、というのが目的。
1990年代に弁証法的行動療法(行動療法の専門家がマインドフルネスを取り込んで境界性パーソナリティ障害に対して効果があるというRCT論文が発表されて周知)というのが出てきた。
その後、行動療法の中から非常にうまくマインドフルネスのエッセンスを取り込んだACT(Acceptance & commitment thrapy)という治療法が出てきた。
・医療におけるマインドフルネスとは?
自分の思考や感情との関係のもち方を変えるスキル。
自分の思考や感情から距離を置いて、それを観察している自分が自覚できるようになると、平常心で現実を等身大にとらえられるようになるので、必要以上に不安になったり落ち込んだりしなくなる。
・ACT(Acceptance & commitment thrapy)とは?
行動療法の考え方は、行動の形ではなく、影響力や効果に注目するのでマニュアル化はできない。「こういう効果を増やしていきましょう」ということ。
トレーニング方法は規定していない。マインドフルネス瞑想というより、マインドフルネス的な見方とか考え方を取り入れる。マインドフルネスというのは、瞑想しているときだけではなくて、日常生活の中で、どんな風に自分が世界と関わっていくかがマインドフルネスである、ふだんの生活の方を主にしている。
一方のマインドフルネス認知療法のほうは、スタンダードな、フォーマルな瞑想法、練習の方を主に使っている、そこが違う。
不安障害とうつなら不安障害の方が得意で、月に1回ペースで5〜6回くらいでかなりよくなる。今までずっとやってきた生き方と違う生き方があることを患者さんに理解してもらう。
森田療法と非常に似ている。
・マインドフルネスは仏教的な考えのほんの一部である。アジアの医師達は「八正道(仏教の基本となる生き方で、正見、正視、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つからなる)をいかに生活の中に位置づけていくのかがアジアのマインドフルネスではないか」と、ヨーロッパや米国と違う感じ。茶道はまさにマインドフルネス。
・森田療法:「とらわれ」と「はからい」をやめる
(とらわれ)考えに飲み込まれてしまっている状態
(はからい)いろんな工夫をしてとらわれから抜け出そうとすること
※ ACTでは、とらわれを認知的フュージョン、はからいを体験の回避と呼ぶ。
マインドフルネスとの違いは、森田療法は問題に向き合うよりも行動本位であり行動を優先する。マインドフルネスは問題に気づき観察する、という点。
・体験の回避(気ぞらし)の功罪
従来の認知行動療法は、気ぞらしという手法を取ってきたが、うまくいかないケースが多く存在した。体験の回避をすると、とりあえずはうまくいくけれど、しばらく経つと倍返しになって返ってくる。
・摂食障害には、マインドフルネスはあまり役立たない。ある程度、言葉が使えるようになっていないとできないため。
・マインドフルネスはグリーフケアに向いている。
・災害時の心理的ケアの世界的ガイドライン(サイコロジカル・ファーストエイド)には「心理的介入を一切するな」と書いてある。
・マインドフルネスを3つのネットワークで解析する研究が盛んに行われている。
① セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク:ふつうの知的な活動をするときの実行機能ネットワーク
② デフォルトモード・ネットワーク:何もしていないときに働く、アイドリング状態
③ セイリエンス・ネットワーク:①と②が切り替わるときに活動する、目立つ刺激に気づきを向ける働きを持つ
この3つは、マインドフルネスのサマタ瞑想の部分と深く関わっている。
マインドフルネス瞑想(あるいはヴィパッサナー瞑想)を長年やってきた人は、迷走中にデフォルトモードの活動が落ちる・低下することが報告されている。禅で寂静といわれる、しーんとして静かな状態というのは、脳的にそういう状態であると思われる。瞑想の達人になると、脳を使わなくても同じような状態になれるということ(エフォートレス・アテンション)。
静まった状態がマインドフルネスではなく、ハッと気づいたときに働くセイリエンス・ネットワーク、これがまさにマインドフルネスが生じた瞬間である。
セイリエンス・ネットワークの中核は島(前頭葉後部と側頭葉前部の一部に覆われている大脳皮質の一部)と、前帯状回の背側部である。ファーブの研究によると、概念化された自己・自己イメージは背内側前頭前野でとらえられ、島は瞬間瞬間の自己と対応している。ラザールの論文では、マンドフル瞑想を繰り返すと背内側前頭前野と島が厚くなる。
・集中する瞑想と観察する瞑想
自己概念に巻き込まれずに距離を置いてみている自己と、瞬間瞬間の自己が働くとオープンモニタリングが実現し、自分が今まで考えたことがないようなことがフッと感じられ、患者さんが治っていく力みたいなものを引き出していくのではないか。集中するサマタ瞑想だけだとそこが起きないので、そこが集中する瞑想と観察する瞑想の、一番大きな違いである。
本当に「気づいている」ということは、いろいろなものとの結びつきに気づいていることであり、歴史も全部感じ取れているはず。
近年よく耳にするようになった「マインドフルネス」。
テレビでも時々取りあげられ、かいつまんで見てきましたが、どうもイメージが沸きにくい。
医療で用いる精神療法のような、坐禅・瞑想につながる自己啓発系のような・・・。
現時点では、
・物事を客観視して、思い込みを捨てる技術
・すると、ゆがんだ思考がリセットされ、感情に振り回されることがなくなる
のように私は捉えています。
でも、客観視して感情を突き放すスキルを徹底すると、ストレスだけではなく喜びも突き放し、生活を味気なくするような気がしないでもない・・・はたからみるとただの「ボーッとして自分の意見も言わない無気力な人」にすぎなくなるのではないか。
そこでこのモヤモヤしたものを払拭すべく、入門編として精神科医の香山先生の本を読んでみました。
本の内容は、マインドフルネス初級者の香山先生が、4名の専門家と対談したもの。
各専門分野からマインドフルネスを俯瞰し、既存の精神療法、仏教の瞑想、脳科学との関係、医学の臨床現場の現状などが語られています。
その4人とは、
永井均氏:禅宗の座禅を入り口にヴィパッサナー瞑想を知り、独自のアプローチで瞑想を実践している哲学者。
アルボムッレ・スマナサーラ氏:初期仏教(スリランカ上座仏教=テーラワーダ仏教)長老。駒澤大学で道元の思想を研究。日本テーラワーダ仏教教会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事している。NHKカルチャーセンター講師。
永沢哲氏:瞑想と脳の関係を研究・分析している宗教人類学者。研究者であると同時にチベット密教の修行者でもある。
熊野宏昭氏:日本でいち早くマインドフルネスを臨床現場に取り入れてきた心療内科医&臨床心理士。2013年に発足した日本マインドフルネス学会の副理事長。
※ テーラワーダ仏教:初期仏教、上座仏教、原始仏教、南伝仏教、パーリ仏教などともいう。仏陀に時代のパーリ語経典をもとに実践され受け継がれてきた、仏陀の根本のお教えとされる。
※ マインドフルネス認知療法:MBCT(Mindfullness-Based Cognitinve Therapy)ジョン・カバット・ジン博士が仏教瞑想を元に開発したマインドフルネスストレス低減法(Mindfulness-Based Stress Reduction: MBSR)をもとにして開発された、うつの再発予防、治療のためのプログラム。
第一印象は、マインドフルネスはまったく新しい手法ではなく、原始仏教の瞑想法を現代的にアレンジし、「マインドフルネス」という響きのよい言葉を当てはめたことによりブームになっている、という感が否めませんでした。
原始脳と大脳皮質の関連についても繰り返し登場しますが、私的には整理できません。
人間はいろんな情報をあえてはしょって(省略して)います。
例えば、何かに集中しているとき、周りの音が聞こえない、とか。
自分の心臓の鼓動音や呼吸もふだんは意識していません。
その方が情報量におぼれず効率がよいからです。
でもマインドフルネスなどの精神療法は、それを逆に意識させる方向に誘導します。
不思議な手法ではありますが、私には「自分の呼吸を意識することにより外界の過多な情報をシャットアウトする」と読めました。
さらに、「音の意味づけを外して純粋な音として感じる」という文章も出てきました。
これは働きすぎて疲労している大脳皮質を休ませると読みました。
しかし、脳科学からは、「自分でコントロールできないような脳の奥深く、大脳辺縁系で起きた情動を、新皮質の前頭前野で客観視することで、クールダウンできる」(香山氏)という文章も登場し、こちらは大脳皮質をより働かせることになりますから、逆の発想ですねえ。
果たして「瞑想」は大脳皮質を休ませてるのか、大脳皮質を稼働されコントロールしている状態なのか、どうちらなんでしょう?
第四章の熊野氏は、大脳を休ませている状態に近いと言っていました。
この辺は、研究が現在進行中なのでしょう。
また、「瞑想をも含む高次の精神機能に関わる認知活動は、脳の広い範囲にまたがる大きなネットワークに関わっており、そういう大きなネットワークの活動が、その下位にある細胞群の活動をトップダウン的に制御していることがわかってきた」(永沢氏)という文章もありました。やはり原始脳を大脳皮質がうまく操るというシステムととらえるようです。
スマナサーラ氏が登場した第二章を読んで、何となくイメージが沸いてきました;
人間の脳は大きく旧皮質と新皮質(あるいは原始脳と大脳皮質)の二つに分けられる。
存在欲(生存願望)は原始脳が司る。
それをすべて出してしまうと動物と同じ弱肉強食の生存競争になってしまう。
本能を理性でコントロールするのが大脳皮質であり、人間たるゆえんである。
しかし理性(大脳皮質)をコントロールするスキルを人間は持ち合わせていない。
大脳皮質の働きがゆがむと、煩悩(スマナサーラ氏は捏造と呼んでいる)が発生する。
煩悩を如何に処理するか・・・そのために生みだされたのが、宗教であり哲学、倫理学である。
煩悩が病的に発達してしまった場合は、瞑想やマインドフルネスを含む心理療法が対応することになる。
ただ、“感情”は原始脳と大脳皮質のどちらに属するのか?
という疑問が残りました。
本能から生まれ、経験に左右される・・・
つまり、原始脳で発生し、大脳皮質でアレンジされる。
この問いは、スマナサーラ氏のコメントからは判断できませんでした。
第二印象は、わかりにくい。
まず、対話なので、主語が迷子になったり焦点がぼやけているうえ、概念論が続くので理解しにくい。
それから、あくまでも著者のスタンス「マインドフルネス初級者」の視線で話が進んでいる点。
私のような「初心者」にわかりやすくマインドフルネスの基本から説明してくれるステップがないのが残念。
なので、具体的なことを知らないまま概念論だけが先走ることになり、この本をわかりにくく、その価値を低くしてしまっていると感じました。
一番わかりやすいコメントが“あとがき”にありました。
・マインドフルネスでは、自分の中で起きていることや体に、丁寧に一つ一つ目を向けることによりその抑圧が解除され、その人に当たり前に備わっている能力が自由に外に出られるようになるのだろう。
・マインドフルネスはその人を変えるのではなく、自分を解放して本来の姿に戻すだけ。
・マインドフルネスは「あなたを変える」ものではなく「あなたは(本来の自分に)戻れる」とそっと囁くようなもの。
それから、香山先生がけっこう“哲学オタク”であることも知りました(^^)。
私のとらえ方はちょっと違います。
香山氏の言う“本来の自分”とは、無垢な子どものようなこころなのでしょうか。
いや、いろいろ経験を積んで社会的常識を身につけた大人だと思います。
そこで、自分の感情が揺さぶられる事象に遭遇した際、少し距離を取って自分のバックグラウンドに照らし合わせ、「たいしたことではない」とスルーできる能力を身につける手法ではないかと。
<備忘録>
・・・気になったところを書き出しました。
【著者のまえがきとつぶやき/コメント】
・近年、米国を中心に多数の“積極的な”精神療法が開発され、その主役は「認知行動療法」である。それは、ものごとや情報のとらえ方、受け取り方(つまり「認知」)に働きかけながら、実践的な行動に関与して変化を促す手法である。
・認知行動療法の中でも大きな注目を集めつつあるのが「マインドフルネス」というセラピーである(例:マインドフルネス認知行動療法、マインドフルネス心理療法など)。
・マインドフルネスは仏教の最も基本的な形であるテーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想に端を発している、あるいはその瞑想そのものを軸としている。そもそもヴィパッサナーを英訳したのがマインドフルネスである。
・マインドフルネスがユニークなのは、病気や問題を抱えた人を健康に持って行くだけではなくて、グーグルの社員研修プログラムのように、健康な人をより豊かにする、より健康度を上げるところ。
・近年、脳の画像診断装置の発展もあって、マインドフルネスあるいは瞑想で、脳の中で何が起きているかを科学的に追求できるようになった。瞑想により脳自体が一部大きくなっていることが観察されている。また、免疫系が大きく変化する。さらに効用の一つとして、慢性疼痛コントロールがある。
・「新型うつ」などと言われている、典型的ではないうつの人たちが診察室に来るが、そういう人には抗うつ薬を投与しても効かないし、逆にイライラを高めてしまうこともあり、問題が多い。そういう人たちは適応障害に近いというか、今の仕事とか生活に自分をうまくマッチさせられない。あるいは非常に自己愛的で「私はもっとできるはず」「なのになぜ認められないのか」という不本意な感情からうつになったような人たちもおり、薬を出してもしょうがない。
・「薬は必要ないけど、心理療法的なアプローチが必要」という人たちに対するマニュアル化されかつ有効な療法、アプローチとして注目されているのが認知行動療法である。これは、「情報をゆがめて認知し、そこから負の感情を発生させている」ということを基本に、プログラムに沿って自分で書いて認知のゆがみを確認し、集成していきながら進めるという療法であるが、ものを書くスキルや意欲がないとできない。
・精神分析は心の奥まで探求していくプロセスだが、マインドフルネスは「手放す」やり方。
・西田幾多郎の「純粋経験」とは、怒りというものが生じたら、怒りに没入して怒ってしまわずに、“怒りがある”と捉える。想念を取り払ってしまうのではなく、あくまでも「場所」的にとらえる、痰にそこに存在していることとして、その外から観るということ。
・「呼吸に気づく」「身体に気づく」というのは、たぶん、いろんな立場や手法で使われている。ヴィパッサナー瞑想が元になったマインドフルネス認知療法の「ボディスキャン」は古典的な自律訓練法とほとんど同じ。
・身体に注意を向けるというのは、日常的な意味関連から解き放たれるためのプロセスの一つということ。
・統合失調症、解離性同一性障害、多重人格のひとなどは「いつも自分の分身がそばにいて、たまに見る自分と見られる自分と入れ替わることもあるが、つねに1人が1人を見ている」という人がいる。そういう人たちは、その“実況中継状態”により苦痛から解放されているかというと、その正反対で、つねに耐えがたい苦痛を味わっている。自ら求めたのではなくて、症状として起きた実況中継が苦痛なのはなぜか。その病的な状態を自覚的に目指すというのはどういうことなのか。
→ (永井氏)放棄と解離では違う。“煩悩”から身を引き離すという意味では、それらを対象化して、単なる出来事として、あたかもただ起こっている身体感覚を見るかのようにみることが役立つ。でも、逆に、そちらになりきってしまったら、元も子もなくなる。
・近年の脳科学的研究では、自分でコントロールできないような脳の奥深く、大脳辺縁系で起きた情動を、新皮質の前頭前野で客観視することで、クールダウンできることがわかってきた。前頭前野は「自我」の主座であり「私であること」の本拠地である。瞑想で目指す「何物でもないものとしてただセンサーとして気づく」ということと逆のような気がする。
・評価や解釈なしにその瞬間、瞬間をただ実況中継し、意味関連から解放されて生きることが、その人自身にとってではなく、社会的にどんな意味を持つか、懸念する。為政者・権力者にとって「なんの評価、判断もなく、その時その時を生きるだけ」という人は、とても扱いやすい。
・これまでの心理療法、例えば精神分析は、あなたは何をしたいのか、どうしてこうなったのかということを内へ内へと心の中を掘り下げる、自分のことを徹底的に考えるスタンス。一方のマインドフルネスの心理療法は、考えないようにする、とこれまでとは逆の療法である。
【第一章:永井均】
・ヴィパッサナー瞑想で学んだこと:次々と起こってくる想念連鎖を、起こってくるままに、ただ気づいて、ただ観ていく。するとその働きを自ずと取り去ることができる。画期的なのは、日常生活でもそれと同じことができるようになるということ。
・坐禅とヴィパッサナー瞑想:いったん捉えて「手放す」(内山興正『坐禅の意味と実際』大法輪閣)という点については近い。実際にやってみると、少なくともポイントの置き所が違う感じがある。いろいろな雑念が起こってきたときに、それをどう捉えるか、どう対処するかというところが根本的に違うような気がする。
・呼吸に気づく:ヨガとか呼吸に意識を向けるメソッドはいろいろあるが、ポイントは「いつも実は存在しているけどふだんは決して気づかない、そういうものに気づく」ということ。そこから、意味のあるのものの意味の連関を取り外して、ただそれが存在していることだけにむき出しで気づく、ということもできるようになる。
・古代ギリシア起源の考え方では、理性が感性の暴走を(言い換えると、ロゴスがパトスの暴走を)制御、コントロールする。すると、ロゴスそのものを制御するものがない。ロゴスの暴走は、仏教では「放逸」、キリスト教では「原罪」、哲学的には「存在忘却」ということになる。宗教はこれをどうにかすると言う役割がある。キリスト教では贖罪(キリストに罪をあがなってもらい我々はそれを信じること)、古代インド宗教は瞑想という技法を開発した。とりわけ仏教は、そこにサティという画期的なテクニックを導入した。言語的な世界把握の作動素のものをその外から眺めることでその暴走を止めるという驚くべきテクニックで、簡単でしかも非常に高度な技法。キリスト教の贖罪を、いわば自分ひとりで、しかもその現場で瞬時に実現できるのである。
・自我とか無我とかいった問題を巡って仏教学者もいろいろなことを言っているが、意見の対立にもかかわらず、ほぼ一様に哲学的水準は低い。経典の解釈という次元を越えて、超越論哲学や分析哲学の知見も踏まえて、現代の哲学的水準に耐えうるような、素人だましではない本格的な哲学説をぜひ打ち立ててもらいたい。
・幼児はもともと仏陀である。一休の道歌に「そのままに生まれながらの心こそ願わずとても仏なるべし」とあるように、後から作られた余計なものを取り払って回帰してなった仏陀ではなく、直接的な仏陀である。だから幼児には瞑想は必要ない。
言語を習得する以前の人間は煩悩を持てない。ただの怒りや欲望なら赤ちゃんでもあるし、動物でもある。自分を他人と比較したり、自分を他の視点から見たり、別の可能性をあり得た現実としてとらえたり、といったような自我を実体化して、客体として操作できる方法を、言語に備わった装置によって習得して初めて、嫉妬や羞恥心や恨みや渇愛といったものが可能になる。
【第二章:アルボムッレ・スマナサーラ】
・私は瞑想をしているから精神的な病気にはならない。人格向上とか覚りを目指している人ならば精神的な病気にならない。
・マインドフルネスというのは、心を働かせる唯一の方法である。それを我々は専門用語で「sati(サティ)」と呼ぶ。日本語では「気づき」と訳している。
・脳の中には“捏造”というファンクションがある。“捏造”とは、眼耳鼻舌身意(仏教で六根という感覚の入り口)にデータが入ると、人間は彼自身の都合で捏造する。知識というのは都合である。まず人間は、捏造システムでものごとを間違ってとらえていることを知るべきだ。一方で、捏造システムは人間としての命をなんとか支えるためにできているカラクリでもある。結局、人間というのは自分が捏造する世界に自分が耐えられなくなってしまい、言葉をやたら吐いているだけ。
・“自我”とは脳の様々な機能の組み合わせで現れる emergent property(創発特性)である。「私」というものを司るモジュールは脳の中のどこにもない(『<わたし>はどこにあるのか』ガザニガ著より)。
・ヴィパッサナー瞑想では「眼耳鼻舌身意に入るデータを、入ったらそのままで受け取りなさい」という法則(principle)がある。見たら「見た」ところで止り、聞いたら「聞いた」ところで止る、という基本的なフォーマットがある。何か思考が生まれたらすぐに止れば、あなたは存在しないということ、どこにもいないということは苦しみの終了である。
「自分探し」はないもの探し、無い物ねだりでくだらないこと、病気と言ってもいい。私(スマナサーラ氏)は「自分探しをやりたければやってください、しかし、見つかりませんよ」と言っている。
・ヴィパッサナー瞑想とは、心を清浄にして煩悩をなくし、完全に苦しみを乗り越えるというスキルである。
・ヴィパッサナー瞑想とは、人の行動を指令する権利を原始脳から大脳に移行させることを目的としている。ありのままにものごとを見て、ありのままに物事を観察することで、原始脳を無理矢理ちょっと押さえておく、ロックする。理性のある、物事を客観的に判断する能力を大脳にあげて、原始脳に感情を引き起こすなよ、というふうに神経回路を配線するのである。
・原始脳には存在欲と恐怖感がある。恐怖感というのは、大脳からデータが入るとどんどん大きくなってしまう。大脳は「いつかは死ぬ」ことを知っているが、原始脳はそれを知らず「生き続ける」ことだけを考える。原始脳が大脳に不死を要求することは大きな矛盾であり、葛藤が始まる。それを回避するために大脳はいろいろなことを考える(身体はなくなっても魂は死なない、など)。
・マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想の違い;
(マインドフルネス)日常生活で気持ちよく生きるためのもの
(ヴィパッサナー瞑想)日常生活でなくて、人間が人間であることを乗り越える目的でやっていること。
日常的な問題のみを解決したいと思うならば、それは原始脳の指令でやっていることになる。ただ皆、俗世間的な目的を満たしたところで止めてしまい、人格向上までいかないのが残念である。
・ブッダの教えは宗教ではない、ブッダは科学者である。
・洗脳とマインドコントロールの違い:
(洗脳)自分で判断する能力を取りあげること。
(マインド・コントロール)自分で判断する能力を許容しつつ誘導する。
・世界が平和でないのは結局、脳的に見ると原始脳と大脳皮質のトラブルである。世界平和のためには、原始脳と大脳皮質の問題を解決すべし。心で言えば捏造ファンクションで起こるそれを治せば問題解決する。
【第三章:永沢哲】
・密教は瞑想を重視する;
密教の修行は、①前行(準備の修行)と、②正行(中心の修行)に分かれる。
①前行:五体投地や懺悔による心の浄化、マンダラの供養
②正行:本尊の修行(自分が観音菩薩や女神のヴァジュラヨーギニーといった本尊の姿になったと観想し、マントラ(真言)をたくさん称える)、それを土台として、次に呼吸法やヨーガを用いて猛烈な熱を発したり、身体の基底部に眠るチャンダリーと呼ばれる生命エネルギーを覚醒させ強烈な快感を体験する瞑想(変性意識状態)を行うこともある。変性意識状態の体験を通過することで「明知」や「心の本性」を発見することが大切だと考えられている。
そうした一時的な体験を越えたメタレベルの意識ー「明知」や「智慧」ーを発見することが、修行においてはとても重要だと考えられている。
さらにその先に、日常的な体験をはるかに超えた、光にあふれた体験に入る瞑想を行うこともある。
・脳科学は20世紀末から21世紀の初めにかけて大きく変わった。その変化は大きく2つあり、①神経可塑性、と②自己組織系としての脳、という観点である。脳は繰り返される思考、行為、経験により変化する。また、瞑想をも含む高次の精神機能に関わる認知活動は、脳の広い範囲にまたがる大きなネットワークに関わっており、そういう大きなネットワークの活動が、その下位にある細胞群の活動をトップダウン的に制御していることがわかってきた。
・R.J.デービッドソンの研究;慈悲の瞑想を行うことで、左右脳に、ガンマ波帯域で位相同期が起こることを明らかにした。それに加えて、前頭前野の左と右の部分が、幸福な状態と相関するような、ひじょうに得意な活動をすることが判明した。
・サラ・ラザーのヴィパッサナー瞑想についての研究;
・チベット仏教で一番大切なのは、教えられたとおりに瞑想や修行をしてみて、心が変化する体験が生じること。それによって、伝統や仏教の教えが真実を含んでいることが心の底から納得される、そこから本当の意味の信仰が生まれると考えられている。
・西欧の科学は数学を基礎にして発達してきた。すべての科学は公理への「信仰」を土台にしている。ヨーロッパにおける科学は、外部の自然の背後には神のロゴスが貫いているという、キリスト教の信仰を強力な推進力にして発達してきた。
・仏教は人間の内面的意識状態の精密な観察と、それをいかにして変化させるのかという技法を土台にしている。つまり、仏教は自らの内的体験を中心にしている。
・ブッダはキリスト教における神のような超越者ではない。ブッダというのは人間で、自分でいろいろ悩んで、修行して、「解脱した」と思ったひとりの「人」である。人間がどのように苦しむかということについて理解した上で、その苦しみから解き放たれるにはどうしたらいいかと考えて、実践して、「ちゃんと楽になりましたよ」と言った人である。だから我々はそのあとに従って修行していく。
・マインドフルネスとテロメア;毎日6時間ずつ3ヶ月間、マインドフルネス瞑想の隠棲を行った実験では、テロメアの修復酵素が出ることが判明した。人間がマクロのレベルでずっとやってきた文化的ないろいろな行為が、ミクロのレベルで、遺伝子スイッチのオン・オフに関係している。
・瞑想は記憶と感情に関わる回路を変える可能性がある。
・リラクゼーション・リスポンス:ハーバート・ベンソン(ハーバード大学心身医学研究所)が提唱する概念。祈りや冥想によりストレスフルな状況で「戦うか、逃げるか」という反応が持続しているとき、それが自然に治まっていってリラックスできること。これを10年くらいやっている人には遺伝子レベルで発現の変化が確認されている(数ヶ月では変化なし)。
・トラウマティックな記憶の処理方法;まだ確立していない(香山)
(EMDR)トラウマティックな記憶を眼球運動を伴いながら想起してもらうと、自分の中で処理が終わる治療法。
(タッピング)身体のどこかをタッピングしながら、通常は思い出して恐怖に陥ったりフラッシュバックしたりする場面でも、それがかなり防げる。
・(サラ・ラザーの2014年発表研究)ハタ・ヨーガをやったグループと、マインドフルネスをやったグループとで、基本的にはどちらも脳の構造として物理的ダメージに対して、レジリエンスが高くなる。
・うつ病の改善過程は、薬と認知行動療法で異なる;fMRI画像で検討したところ、投薬群では脳幹などの機能が軽度上昇、一方、マインドフルネス的認知行動療法群では新皮質の活動が軽度低下していた。
「いろいろなネガティブなことを考え始めて、落ち込んでそれから出られなくなる」ことを自覚し、観察して消えていくことを体験できるようになるので、そのプロセスが少し弱くなると思われる。
【第四章:熊野宏昭】
・心療内科は“心理療法内科”であり、心理療法が専門である。また、内科にも精神科にも収まらない、特殊なニーズのあるところを押さえてきた科であり、精神病圏(統合失調症や重度の躁鬱病など)は扱わない。主に心身症(発症や経過にストレス要因が深く関わっている身体疾患)、うつ、不安障害などを扱う。精神症状にではなく、身体症状に対するアプローチという点が、精神科との違い。しかし時と共にオーバーラップしてきている。
ただ、心療内科では、ふつうに話ができる方達が対象になる。コミュニケーションが十分取れない患者さんは対象にならない。
・心療内科で一番重視しているのはストレスである。心療内科が拠って立つ医学は心身医学であり、心身医学のはじまりは精神分析であり、もともとドイツをルーツとする心身医学を日本に導入したのも日本の精神分析の第一世代と言われる人たちであった。でも、その後は内科医が中心になり広がっていった。
・心身症の人には失感情症や失体感症といわれるパーソナリティ傾向があり、自分が感じていることを言葉にできない。だから精神分析ができる人は非常に少ない。語れないのであれば行動の方、身体を緩める方からアプローチしようと発展していった。認知行動療法的アプローチは、心療内科的なところから出てきた。
心身症患者は、自分のことをなかなか語れない人が多く、語れない人たちをどうやって治療の土俵にのせていくかを考えた結果、やはり生活面あるいは身体面からのアプローチだと効率がいい面が多い、逆にそこを扱わないと十分ではない。
・日本の心療内科の創始者である池見酉次郎氏(九州大学)が唱えた「三つの柱」
① 催眠とリラクゼーション ・・・今日の自律訓練法に続く流れ
② 精神分析〜交流分析 ・・・人間学的流れ
③ 行動療法 ・・・認知行動療法に発展していく流れ
・認知行動療法の二つの流れ:認知療法と行動療法
二つの異質なモノが「適用を広げて効果を上げていくために一緒にやりましょうか」となったのが認知行動療法、いろいろ出てきているが、それぞれが「おらが療法」という感じで、みんな自分がやっているモノが認知行動療法だと主張している。
もともと認知療法家が認知行動療法だと言っているモノ(認知療法的な認知行動療法)と、行動療法家が認知行動療法だと言っているモノ(行動療法的な認知行動療法)はかなり違う。
①認知療法の流れ
合理的に考えることができれば、合理的に行動もできるはずだというのが認知療法の前提。考え方を変える方法。
マインドフルネスが登場し、認知療法の専門家達がマインドフルネスを取り込んだマインドフルネス認知療法(MBCT)が2000年くらいに出てきた。
ディタッチト・マインドフルネス(距離を置いた注意深さ)という概念を提唱するメタ認知療法という方法も登場したが、当事者は「これはマインドフルネスではない」と言っている。
②行動療法の流れ
行動療法とは、外から見える行動を変えていくことを目標にする。行動であっても思考であっても「習慣・クセだ」と考えることが前提。考え方は簡単には変わらないからちょっと置いておいて、それはさておき行動してみよう、という感じ。人間は社会的な動物なので、自分が所属している社会の中で最も評価されるような生き方ができることこそ幸せだろう、そういう行動を増やしていこう、というのが目的。
1990年代に弁証法的行動療法(行動療法の専門家がマインドフルネスを取り込んで境界性パーソナリティ障害に対して効果があるというRCT論文が発表されて周知)というのが出てきた。
その後、行動療法の中から非常にうまくマインドフルネスのエッセンスを取り込んだACT(Acceptance & commitment thrapy)という治療法が出てきた。
・医療におけるマインドフルネスとは?
自分の思考や感情との関係のもち方を変えるスキル。
自分の思考や感情から距離を置いて、それを観察している自分が自覚できるようになると、平常心で現実を等身大にとらえられるようになるので、必要以上に不安になったり落ち込んだりしなくなる。
・ACT(Acceptance & commitment thrapy)とは?
行動療法の考え方は、行動の形ではなく、影響力や効果に注目するのでマニュアル化はできない。「こういう効果を増やしていきましょう」ということ。
トレーニング方法は規定していない。マインドフルネス瞑想というより、マインドフルネス的な見方とか考え方を取り入れる。マインドフルネスというのは、瞑想しているときだけではなくて、日常生活の中で、どんな風に自分が世界と関わっていくかがマインドフルネスである、ふだんの生活の方を主にしている。
一方のマインドフルネス認知療法のほうは、スタンダードな、フォーマルな瞑想法、練習の方を主に使っている、そこが違う。
不安障害とうつなら不安障害の方が得意で、月に1回ペースで5〜6回くらいでかなりよくなる。今までずっとやってきた生き方と違う生き方があることを患者さんに理解してもらう。
森田療法と非常に似ている。
・マインドフルネスは仏教的な考えのほんの一部である。アジアの医師達は「八正道(仏教の基本となる生き方で、正見、正視、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つからなる)をいかに生活の中に位置づけていくのかがアジアのマインドフルネスではないか」と、ヨーロッパや米国と違う感じ。茶道はまさにマインドフルネス。
・森田療法:「とらわれ」と「はからい」をやめる
(とらわれ)考えに飲み込まれてしまっている状態
(はからい)いろんな工夫をしてとらわれから抜け出そうとすること
※ ACTでは、とらわれを認知的フュージョン、はからいを体験の回避と呼ぶ。
マインドフルネスとの違いは、森田療法は問題に向き合うよりも行動本位であり行動を優先する。マインドフルネスは問題に気づき観察する、という点。
・体験の回避(気ぞらし)の功罪
従来の認知行動療法は、気ぞらしという手法を取ってきたが、うまくいかないケースが多く存在した。体験の回避をすると、とりあえずはうまくいくけれど、しばらく経つと倍返しになって返ってくる。
・摂食障害には、マインドフルネスはあまり役立たない。ある程度、言葉が使えるようになっていないとできないため。
・マインドフルネスはグリーフケアに向いている。
・災害時の心理的ケアの世界的ガイドライン(サイコロジカル・ファーストエイド)には「心理的介入を一切するな」と書いてある。
・マインドフルネスを3つのネットワークで解析する研究が盛んに行われている。
① セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク:ふつうの知的な活動をするときの実行機能ネットワーク
② デフォルトモード・ネットワーク:何もしていないときに働く、アイドリング状態
③ セイリエンス・ネットワーク:①と②が切り替わるときに活動する、目立つ刺激に気づきを向ける働きを持つ
この3つは、マインドフルネスのサマタ瞑想の部分と深く関わっている。
マインドフルネス瞑想(あるいはヴィパッサナー瞑想)を長年やってきた人は、迷走中にデフォルトモードの活動が落ちる・低下することが報告されている。禅で寂静といわれる、しーんとして静かな状態というのは、脳的にそういう状態であると思われる。瞑想の達人になると、脳を使わなくても同じような状態になれるということ(エフォートレス・アテンション)。
静まった状態がマインドフルネスではなく、ハッと気づいたときに働くセイリエンス・ネットワーク、これがまさにマインドフルネスが生じた瞬間である。
セイリエンス・ネットワークの中核は島(前頭葉後部と側頭葉前部の一部に覆われている大脳皮質の一部)と、前帯状回の背側部である。ファーブの研究によると、概念化された自己・自己イメージは背内側前頭前野でとらえられ、島は瞬間瞬間の自己と対応している。ラザールの論文では、マンドフル瞑想を繰り返すと背内側前頭前野と島が厚くなる。
・集中する瞑想と観察する瞑想
自己概念に巻き込まれずに距離を置いてみている自己と、瞬間瞬間の自己が働くとオープンモニタリングが実現し、自分が今まで考えたことがないようなことがフッと感じられ、患者さんが治っていく力みたいなものを引き出していくのではないか。集中するサマタ瞑想だけだとそこが起きないので、そこが集中する瞑想と観察する瞑想の、一番大きな違いである。
本当に「気づいている」ということは、いろいろなものとの結びつきに気づいていることであり、歴史も全部感じ取れているはず。